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■スペースneoでの東京上映には、各日、作品が上映される作家が来場し、ユニークなゲストとのトークショーを行います。PLANET+1での大阪上映には、作家の中島崇が来場し、自作と他の作家の作品についてトークを行います。 |
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[主な作品] 『猥雑』(1969年)、『美しい日々』(1970年)、『儀式』『HANA』(1971年)、『風車の夢』『風車の散歩』(1972年)、『アステリオーンへ伝言』『ギムサギム』(1974年)、『句読点』(1975年)、『Another
Life』『ROOM』(1976年)、『Spring hascome』(1977年)、『奇病』『A quiet day』(1977年)、『Summer
is gone』『記念写真』(1978年)、『北京の秋』(1979年)、『パラドクス』『ホリディ』『隠喩』(1980年)、『スネークスープ』(1981年)、『迷宮』(1982年)、『厳格な風』(1983年)、『原景の配当』(1984年)、『空き部屋』(1985年)、『PREVIEW』(1986年)、『Resolution』『兆』(1987年)、『自動ピアノ』(1988年)、『蒐集』『飛画』『生き埋めにされるフィルムたちに』(1989年)、『SO
HARD FEELINGS』(1991年)、『どこかにある場所』『形』(1992年)、『わたしにみぢかなくうきょ』(1994年)、『わたしにひろがるくうきょ』(1995年)、『WATER
SIDE』(1996年)、『記憶の亡霊』(1997年) |
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中村雅信(なかむら・まさのぶ)
1949年10月31日/静岡県富士市
[略歴]都立大泉高校から武蔵大学社会学部へと進む。71年、同大学を中退。大学紛争で演劇研究会が事実上活動できなくなっていた時に、ひとりでもできるという理由で8ミリ・カメラを手にした。学生時代は演劇、映画と多彩な創作活動を展開。学園祭のために撮った『猥雑』(69)が処女作で、今日でいう学生自主映画のはしりと位置付けることもできるが、女学生のスカートの中ばかりを盗み撮りしたこの映画はどこかアングラ的な雰囲気をもっていた。当初から作風は一貫してエロティックな“チラリズム”であり、70年に制作した『儀式』あたりからこの“チラリズム”は映画の時間軸に直接関連をもたせた独特なカッティングをあみ出す結果となった。73年に友人とともに上映グループ“青き豪奢”を結成。盛んに制作・上映活動をすすめるようになる。この頃から物語性よりも現実とは別次元の空間を描くことに意図が集中し、『AnotherLife』『Summer
is gone』『パラドクス』などでは、執拗な繰り返しのリズムのなかで悪夢や白日夢的幻想世界を知覚させることに成功している。80年代に入ってからの作品は、それまでほとんどフィックスだった単純な構成から早いパンとティルトを繰り返し、モチーフも現在と過去を並行して見せていくなど複雑化している。『空き部屋』や『Resolution』ではカメラが回転する動きが中心となり、抽象的映像の表出に傾いている。77年、『Another
Life』の上映をきっかけにイメージフォーラムで個展を開く。以後、イメージフォーラムフェスティバルに年1本のペースで作品を出品している。ビデオ作品に『SO
HARD FEELINGS』(91)、『わたしにひろがるくうきょ』(95)、『WATER SIDE』(96)、『記憶の亡霊』(97)がある。 |
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[主な作品] 『南岸沿』(1971年)、『サンセット』『致死量』(1972年)、『諸国』『セスナ』(1974年)、『WEEネットワーク』『DESネットワーク』『DETネットワーク』『DEUネットワーク』(1975年)、『テレビの中』『UP-STAIRS』『7つのサイン』(1979年)、『チャンネル18』(1982年)、『捜査』『発火点』(1984年)、『フィールド』(1987年)、『頭上の話』(1996年)、『埋もれた話』『FIVE
DAYS』(2003年)、『公園に来る人々』(2004年)、『レベル1』(2006年) |
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中島崇(なかじま・たかし)
1951年9月16日/東京都渋谷区
[略歴]70年、都立大泉高校卒業。高校時代からノーマン・マクラレンやクルト・クレンらの実験映画の影響を受けて、8ミリによる映画制作を始める。卒業してすぐアンダーグラウンド・センターに入り、それ以後、実験映画、個人映画の制作と上映運動に献身的に活動する。77年、イメージフォーラム設立と同時に設立メンバーとして参加し、プログラムディレクターとして内外の個人映画、実験映画の幅広い上映活動を行っている。85年以後、毎年ヨーロッパ、アメリカ等に出かけて、日本の作家を紹介して各国の映画・ビデオ作家たちと接触し、86年の第1回イメージフォーラムフェスティバルから各国の先鋭的な映画・ビデオ作品の上映を図っている。彼自身の作品は初期の代表作『セスナ』(74)に見られるように、フレームという限定された空間内に、窓外の風景、室内の事物、写真の映像等の異なった次元のものを等価的に取り入れることによって、独特の映像空間を作り出すという方法が追求されている。しかし、単に方法の実験に終わるのではなく、映像の対象に選ぶものの中に自らの感性が息づいていて、『発火点』(85)などは抒情味豊かな映像となっている。ビデオ作品として、『オランバートル』(73)、『虫の声を聞く』(85)を発表。87年から東京造形大学非常勤講師、93年から多摩美術大学非常勤講師として教壇に立つ。89〜92年、「月刊イメージフォーラム」の編集長をつとめた。 |
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[主な作品] 『Far from the explosive
form of fruit』『マリリン・マグダリーン』(1972年)、『微風』(1974年)、『気流』(1975年)、『オランダ人の写真』(1976年)、『プレパラート』『子午線通過』『ハンマー』(1977年)、『満潮』(1981年)、『エコー』(1982年)、『回路計』『影踏み』(1983年)、『地球の石』(1986年)、『星の巣』(1987年)、『大きな石小さな夜』(1991年) |
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居田伊佐雄(こた・いさお)
1953年/新潟県新井市
[略歴]新潟県立新井高校を卒業後に上京。個人制作による映画の存在を知り、ただちに8ミリ映画機材一式を手に入れて制作を始めるようになる。数コマ単位の編集で見よう見まねで制作した初めての実験映画『Far
from the explosive form of fruit』を、アンデパンダン形式の上映会に出品したところ、独自の視覚性が高い評価を受け、翌年に早くも天井桟敷館で個展を開いた。一コマ一コマを蓄積して新しい“視覚言語”を創造する一貫した姿勢で、『オランダ人の写真』『プレパラート』などの代表作をはじめとして70年代に25本を超える作品を発表。自身で製作した特殊撮影機械などを使った丹念な仕事は、映像の錬金術師の異名をとっていた。82年に制作した『エコー』をきっかけに“動き”から風景の“静止的映像”へとモチーフは一変する。東京近郊の一地域で撮影された『影踏み』は、人影や水面に映った空など自然の風景のなかに存在する投影物や反射物にカメラの焦点を置き、シュールリアリスティックな画像で構成されていた。その後、3年の間にたびたび富士の裾野に出向いて撮影した風景映画の大作『地球の石』と『星の巣』を完成、自然界をマクロとミクロの対比した視点からとらえた傑作である。 |
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[トークゲスト/映画監督]女池充(めいけ・みつる)
11/23(木)17:00〜 Bプロ〈中村雅信と対談〉
[略歴]1969年横浜生まれ。大学在学中からピンク映画の現場に足を踏み入れ、サトウトシキ監督に師事。1996年Vシネマの『監禁』で監督デビュー。2002年には『ハレンチ・ファミリー 寝ワザで一発』、他1本でピンク大賞の監督賞を受賞。現役のピンク映画監督としては初めて、文化庁の新進芸術海外留学制度の芸術家在外研究員として、ニューヨークに留学する。銃弾を額に受けて天才となったイメクラ嬢が〈ブッシュ大統領の指〉を巡る政治的陰謀に立ち向かうコメディー『花井さちこの華麗な生涯』は一般劇場でも公開され大きな話題となった。 |
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[トークゲスト/現代美術家]岡田裕子(おかだ・ひろこ)
11/24(金)19:30〜 Dプロ〈中島崇と対談〉
[略歴]1970年東京生まれ。1993年多摩美術大学卒。ミヅマアートギャラリーなどで個展。「〈私〉美術のすすめ」(1997年
板橋区立美術館)、「VOCA」展(1998年 上野の森美術館)、「ラヴズ・ボディ〜ヌード写真の近現代」(1998年 東京都写真美術館)など、最近はグループショウへの出品も多い。 |
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[トークゲスト/映画監督]いまおかしんじ
11/25(土)17:00〜 Fプロ〈居田伊佐雄と対談〉
[略歴]1965年大阪府堺市生まれ。横浜市立大学中退後、映画制作会社「獅子プロ」に入社。佐藤寿保、渡辺元嗣、瀬々敬久らの監督によるピンク映画で助監督を勤めるなど修行を積む。1995年『獣たちの性宴 イクときいっしょ』で監督としてデビュー。たちまち高い評価を得る。斬新ながらも最後は観ている者を安堵させるようなストーリー展開と俳優の魅力を十分に引き出す演出手法で、名作と言える作品を次々と発表している。改題の上一般映画として流通する作品も多く『たまもの』『かえるのうた』などがビデオ・DVD化されている。 |
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