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戒名 爆笑カラクリ講座(22)
第3章 戒名の基礎知識
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《5》下につける尊称(敬称)について
敬称は厳密な意味の戒名の下につける。これもみごとに序列等級が決まっている。
つまりは、仏教がいかに人を差別する宗教か、を露骨に物語っている。表立ってはきれいごとをしゃべりながら、裏ではこんなに悪辣だという話である。
まず大人の男の場合は、最上級から最下級へ以下のようになる。
大居士
居士
大禅定門
禅定門
清信士(清浄士)
信士(清士、善士)
大人の女の場合は以下のごとくである。
清大姉
大姉
大禅定尼
禅定尼
清信女(清浄女)
信女(清女、善女)
( )内は同格を意味する。
再三述べるように、夫婦の霊牌は同じ階級にする決まりになっている。夫が居士なら妻は大姉、夫が信士なら妻は信女となる。
ただし何ごとにも例外はあるもので、まったくイーヴンではない場合もあるようである。一般人には半知半解の人がいて、そういう夫婦イーヴンでない夫婦の戒名を刻んだ墓石を評して、「夫婦仲が悪かったのかもしれない」とか「生前、浮気をした報復だろう」とか「後で死んだほうが布施をケチったにちがいない」とか「妾だったのかも」などと憶測しかねない。
気にしなければいいのだが、日本人ほど他人に対する神経を研ぎ澄ます民族はないようだから、どうしても体裁をととのえたくなる。そこがまた坊主どもの思う壺。
一般的にはこうしたランク分けになっていると言っても、地方によっては多少異なる。禅定門、禅定尼が居士、大姉よりも上位である場合があるのでやっかいである。こだわりたいのであれば、自分の故郷の習慣をさぐりだして、どういう序列でやっているか知っておいたほうがよいかもしれない。
その土地の墓場に行って、傾向と対策をつかむことである。
しかし、自分で戒名をつける場合は、ウソも方便なのだから、これは二十年前に本山の高僧から直々に頂戴したんだと言い張れば済むことである。
これでウソつきと指弾される筋合いはない。坊主のほうがはるかに手のこんだウソやごまかしをやっているのだから、その対抗上許されることと考えよう。
この序列というのは、さらに時代によって変遷はなはだしく、信士、信女が大名の敬称となって上級に位置したこともあれば、禅定門、禅定尼が最下位に置かれた時代もあったということである。だから、例えば江戸時代初期の大名の墓を見て、その戒名が今日の平民レベルのものに見えたとしても、決してバカにしてはいけない。
逆から言えば、今日、いくら高額の布施を積んで院殿や大居士をつけても、うっかりすると百年後には最下級の戒名になっていることだってあり得るのである。約束がちがうじゃないかと、あの世であわてても、誰も訂正はしてくれない。しょうがないから改めて怨霊になって地上に舞いもどり、心霊写真に写ってみても、百年後に陰陽師やイタコが存在しているかどうか。
まさにこの世は弁証法性であって、すべてが変化発展、運動のなかにあるのである。仏教用語にだってあるじゃないですか、諸行無常、生者必滅。水も滴る玉のごとき処女の顔容(かんばせ)も、いずれは渋紙にまだらのシミとなりぬ。「ゆく河の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず…」。
だから、虚栄に目がくらんで、高い布施を坊主に払って少しでも上級の戒名をほしがるような目食耳視の愚劣なことはお止めなさい、というんですよ。(目食耳視(もくしょくじし)とは見栄をはり、うわべを飾ること)
信士、信女とか禅定とかの字義の由来というものはあるのだが、仏教研究者でもなし、坊主でもないわれわれにとっては、どうでもよい知識であるから省略する。
経を聞かされるよりも退屈ですよ。
ただし、禅宗以外の宗派でも禅定門、禅定尼などという言葉が使われている。これは何故かと言うならば、禅とは禅宗というブランドの名ではなくて、本来的には仏道に帰依して心身ともに静寂の境地に達したことを言うのである。だから禅定という戒名は、禅宗の専売特許ではない。
さはさりながら、禅宗で最も好んで用いられた戒名となっている。
戒名 爆笑カラクリ講座(22)
第3章 戒名の基礎知識
★☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━☆★
《5》下につける尊称(敬称)について
敬称は厳密な意味の戒名の下につける。これもみごとに序列等級が決まっている。
つまりは、仏教がいかに人を差別する宗教か、を露骨に物語っている。表立ってはきれいごとをしゃべりながら、裏ではこんなに悪辣だという話である。
まず大人の男の場合は、最上級から最下級へ以下のようになる。
大居士
居士
大禅定門
禅定門
清信士(清浄士)
信士(清士、善士)
大人の女の場合は以下のごとくである。
清大姉
大姉
大禅定尼
禅定尼
清信女(清浄女)
信女(清女、善女)
( )内は同格を意味する。
再三述べるように、夫婦の霊牌は同じ階級にする決まりになっている。夫が居士なら妻は大姉、夫が信士なら妻は信女となる。
ただし何ごとにも例外はあるもので、まったくイーヴンではない場合もあるようである。一般人には半知半解の人がいて、そういう夫婦イーヴンでない夫婦の戒名を刻んだ墓石を評して、「夫婦仲が悪かったのかもしれない」とか「生前、浮気をした報復だろう」とか「後で死んだほうが布施をケチったにちがいない」とか「妾だったのかも」などと憶測しかねない。
気にしなければいいのだが、日本人ほど他人に対する神経を研ぎ澄ます民族はないようだから、どうしても体裁をととのえたくなる。そこがまた坊主どもの思う壺。
一般的にはこうしたランク分けになっていると言っても、地方によっては多少異なる。禅定門、禅定尼が居士、大姉よりも上位である場合があるのでやっかいである。こだわりたいのであれば、自分の故郷の習慣をさぐりだして、どういう序列でやっているか知っておいたほうがよいかもしれない。
その土地の墓場に行って、傾向と対策をつかむことである。
しかし、自分で戒名をつける場合は、ウソも方便なのだから、これは二十年前に本山の高僧から直々に頂戴したんだと言い張れば済むことである。
これでウソつきと指弾される筋合いはない。坊主のほうがはるかに手のこんだウソやごまかしをやっているのだから、その対抗上許されることと考えよう。
この序列というのは、さらに時代によって変遷はなはだしく、信士、信女が大名の敬称となって上級に位置したこともあれば、禅定門、禅定尼が最下位に置かれた時代もあったということである。だから、例えば江戸時代初期の大名の墓を見て、その戒名が今日の平民レベルのものに見えたとしても、決してバカにしてはいけない。
逆から言えば、今日、いくら高額の布施を積んで院殿や大居士をつけても、うっかりすると百年後には最下級の戒名になっていることだってあり得るのである。約束がちがうじゃないかと、あの世であわてても、誰も訂正はしてくれない。しょうがないから改めて怨霊になって地上に舞いもどり、心霊写真に写ってみても、百年後に陰陽師やイタコが存在しているかどうか。
まさにこの世は弁証法性であって、すべてが変化発展、運動のなかにあるのである。仏教用語にだってあるじゃないですか、諸行無常、生者必滅。水も滴る玉のごとき処女の顔容(かんばせ)も、いずれは渋紙にまだらのシミとなりぬ。「ゆく河の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず…」。
だから、虚栄に目がくらんで、高い布施を坊主に払って少しでも上級の戒名をほしがるような目食耳視の愚劣なことはお止めなさい、というんですよ。(目食耳視(もくしょくじし)とは見栄をはり、うわべを飾ること)
信士、信女とか禅定とかの字義の由来というものはあるのだが、仏教研究者でもなし、坊主でもないわれわれにとっては、どうでもよい知識であるから省略する。
経を聞かされるよりも退屈ですよ。
ただし、禅宗以外の宗派でも禅定門、禅定尼などという言葉が使われている。これは何故かと言うならば、禅とは禅宗というブランドの名ではなくて、本来的には仏道に帰依して心身ともに静寂の境地に達したことを言うのである。だから禅定という戒名は、禅宗の専売特許ではない。
さはさりながら、禅宗で最も好んで用いられた戒名となっている。