心に青雲

心に青雲とは青雲の志を抱くこと。弁証法、認識論を踏まえ、空手、科学、芸術、時事問題などを論じます。

戒名の付け方 カラクリ講座(22)

2009年10月03日 | 戒名批判
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    戒名 爆笑カラクリ講座(22)
     第3章 戒名の基礎知識

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《5》下につける尊称(敬称)について
 敬称は厳密な意味の戒名の下につける。これもみごとに序列等級が決まっている。
 つまりは、仏教がいかに人を差別する宗教か、を露骨に物語っている。表立ってはきれいごとをしゃべりながら、裏ではこんなに悪辣だという話である。

 まず大人の男の場合は、最上級から最下級へ以下のようになる。
 大居士
 居士
 大禅定門
 禅定門
 清信士(清浄士)
 信士(清士、善士)

 大人の女の場合は以下のごとくである。
 清大姉
 大姉
 大禅定尼
 禅定尼
 清信女(清浄女)
 信女(清女、善女)

 ( )内は同格を意味する。

 再三述べるように、夫婦の霊牌は同じ階級にする決まりになっている。夫が居士なら妻は大姉、夫が信士なら妻は信女となる。
 ただし何ごとにも例外はあるもので、まったくイーヴンではない場合もあるようである。一般人には半知半解の人がいて、そういう夫婦イーヴンでない夫婦の戒名を刻んだ墓石を評して、「夫婦仲が悪かったのかもしれない」とか「生前、浮気をした報復だろう」とか「後で死んだほうが布施をケチったにちがいない」とか「妾だったのかも」などと憶測しかねない。

 気にしなければいいのだが、日本人ほど他人に対する神経を研ぎ澄ます民族はないようだから、どうしても体裁をととのえたくなる。そこがまた坊主どもの思う壺。

 一般的にはこうしたランク分けになっていると言っても、地方によっては多少異なる。禅定門、禅定尼が居士、大姉よりも上位である場合があるのでやっかいである。こだわりたいのであれば、自分の故郷の習慣をさぐりだして、どういう序列でやっているか知っておいたほうがよいかもしれない。

 その土地の墓場に行って、傾向と対策をつかむことである。
 しかし、自分で戒名をつける場合は、ウソも方便なのだから、これは二十年前に本山の高僧から直々に頂戴したんだと言い張れば済むことである。
 これでウソつきと指弾される筋合いはない。坊主のほうがはるかに手のこんだウソやごまかしをやっているのだから、その対抗上許されることと考えよう。

 この序列というのは、さらに時代によって変遷はなはだしく、信士、信女が大名の敬称となって上級に位置したこともあれば、禅定門、禅定尼が最下位に置かれた時代もあったということである。だから、例えば江戸時代初期の大名の墓を見て、その戒名が今日の平民レベルのものに見えたとしても、決してバカにしてはいけない。

 逆から言えば、今日、いくら高額の布施を積んで院殿や大居士をつけても、うっかりすると百年後には最下級の戒名になっていることだってあり得るのである。約束がちがうじゃないかと、あの世であわてても、誰も訂正はしてくれない。しょうがないから改めて怨霊になって地上に舞いもどり、心霊写真に写ってみても、百年後に陰陽師やイタコが存在しているかどうか。

 まさにこの世は弁証法性であって、すべてが変化発展、運動のなかにあるのである。仏教用語にだってあるじゃないですか、諸行無常、生者必滅。水も滴る玉のごとき処女の顔容(かんばせ)も、いずれは渋紙にまだらのシミとなりぬ。「ゆく河の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず…」。

 だから、虚栄に目がくらんで、高い布施を坊主に払って少しでも上級の戒名をほしがるような目食耳視の愚劣なことはお止めなさい、というんですよ。(目食耳視(もくしょくじし)とは見栄をはり、うわべを飾ること)

 信士、信女とか禅定とかの字義の由来というものはあるのだが、仏教研究者でもなし、坊主でもないわれわれにとっては、どうでもよい知識であるから省略する。
 経を聞かされるよりも退屈ですよ。

 ただし、禅宗以外の宗派でも禅定門、禅定尼などという言葉が使われている。これは何故かと言うならば、禅とは禅宗というブランドの名ではなくて、本来的には仏道に帰依して心身ともに静寂の境地に達したことを言うのである。だから禅定という戒名は、禅宗の専売特許ではない。
 さはさりながら、禅宗で最も好んで用いられた戒名となっている。
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生前戒名の付け方 カラクリ講座(21)

2009年10月02日 | 戒名批判
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    戒名 爆笑カラクリ講座(21)
     第3章 戒名の基礎知識

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《4》上につける尊称について
 戒名四字(聖号)の上や下につくのが尊称(敬称)。聖号の上には、御存知のように、鎮西院とか真清院などというのがつく場合がある。日蓮宗ではこれをつけるのが好きである。

 禅宗や浄土宗ではあまりつけない傾向にあるそうだが、そんな原則も俗人のほうから「院号」をつけてくれ、カネは惜しまないと言われれば、固執するようなものではないようである。
 釣りはキャッチ・アンド・リリースがマナーだと言われても、「おっ、いいクロダイが釣れたねぇ、これを刺し身にして一杯やったらこたえられないぜ」と脇から言われると、「じゃ、持って帰るか」となるようなものである。

 上につける尊称は、一般的には「院」か「院殿」が用いられるが、実はさらに下のランクがある。一番上級が「院殿」、次が「院」、さら「斎」、最下級が「軒」である。あるにはあるが、あまり見かけないのは、「斎」では一刀斎とか雲龍斎などと剣道師範か漢方医のようである。「軒」では、桃中軒とか崎陽軒とか、中華食堂の屋号のようにも見えるせいだろうか。

 このほかに、昔は「房」「庵」「寺殿」などがあったが、今はほとんど用いられないそうである。「面倒臭いよ」と横着に呟く坊主の声が聞こえるようである。
 歴史上の人物の名にこういう漢字を用いた人がいることに気づくだろう。

 軍隊組織ではあるまいに、よくもこうまで細かく人を差別区分けするものだ。キリスト教やイスラムでもこういう死人に対する階級制度はあるのだろうか。
 人類の歴史は階級闘争の歴史だと宣言した人がいたくらいだから、人が集団を形成すればこうなるのは必然なのかもしれませんな。

 世間では、布施の多寡によってそれが決まるというのは常識である。布施の額に応じて、院か院殿のどちらかを付与するか、または院も院殿もつけないかを本山からの指示で決めているようである。
 そういう制度をこしらえておいて、末寺から本山への納付金をより多く召し挙げるシステムである。

 宗派の本山と呼ばれる寺院に行ってみられるとよい。広大な敷地に、まるで城砦のような、威容を誇る建物を仰ぎみることになる。のしかかるほどの圧迫感に思わず顔をそむけたくなる。いかに末端から巨額の資金を吸い取っているかをまざまざと思い知らされる。しかも、税金を払わなくてもいいのだ。
 有名タレントや政治家などがいくら巨額脱税であげられたにせよ、宗教法人に比べたらかわいいものだ。

 良心的な仏教徒はこれに反感を抱いているようであるが、現実はそうなっている。後で説明するが、戒名の下につける敬称の「居士」や「信士」にもそういう露骨なランクづけがある。道号をつけるか省略するかも、かかるランクづけの一環である。

 仏教界に言わせると、そういうランクづけは、布施の額によって左右されるものではなく、俗世間の身分家柄、社会的貢献度などにふさわしいものをという親切心でつけているのだ。単に「分をわきまえた」戒名の付与にすぎない。だから布施の額で左右するのは異端であり、嘆かわしい風潮であると建前上はのたまうのだが、誰もそういうきれい事を信じてはいない。

 こういうのを、綿裏包針(めんりほうしん)と言う。口先だけはうまいことを言うが、内心では綿の裏に危険な針を忍ばせるような悪いことを考えているという意味である。

 例えば十年前に死んだ亭主は、当時は事業も盛大で金も潤沢であったため、錦衣玉食の果てに「院殿」をつけ、下につける敬称も上級の「大居士」をつけた。それで今度亡くなった夫人の場合は、事業が縮小してぜいたくはできない。院殿どころか院もつける余裕がない。夫とのつりあいで言えば、敬称も同格の「清大姉」をつけなければならないが、最下級の「信女」になる。

 墓石には夫と並んで妻の戒名を刻まなければならないが、こうまで格差がある戒名を並べると、妻があたかも妾だったかのような扱いになるのである。親戚一同で大騒動となる。少ない遺産を取り崩してでも、布施をはずんでランクの高い戒名をつけてもらうかどうか。
 煩悩から解脱…どころの話ではない。

 または、親に院殿がついているのに、息子の代になったら院はおろか道号もなく、二字の戒名に信士の敬称がついているだけ。こうなると、いかにも息子の代で落ちぶれたサマが露呈しているように親類縁者にはみえる。息子だってバカバカしいと思いつつも、死んだあとまで家族にみじめな思いをさせては…というので、なけなしの貯蓄をはたいて布施をはずまなければならなくなる。

 本家がこのランクなら分家はどのランクがいいか?
 養子だから、その場合は?
 村会議員までやったのだから、上のランクでないと…でも収賄で逮捕されたことがあるから、あまりランクが上ではまずいか?

 故人は高校の教師だったのだから、このランクがいいのか…でも校長はランクが下の戒名がついているから、その上になってはおかしい…?
 このおばあさんは後妻に来たのだから、最初の奥さんよりランクが上になっていいのかどうか?
 妻の兄弟はみな嫁いだ先で「大姉」を付けてもらったのに、この家に嫁いだ妻だけが最下級の「信女」にさせられてはかわいそうではないか?

 などなど、世間には実に複雑な人間模様がある。みんなドライになりきれずにヒリヒリと悩むことになり、解決するにはとどのつまりカネ、ということになる。第一章で述べたように、「和」を乱すことをもっとも忌避するからである。

 そこで坊主と結託した葬儀社が声を低くしてそれとなく(親切に教えて差し上げるというふうに)、「ご夫婦は比翼連理とか偕老洞穴と申します。夫婦同格の戒名はシキタリでございますので…」とか「お宅様のような家柄では、上級のランクがやはりふさわしいかと…」遺族の耳に吹き込む。このダメ押しで、遺族は陥落する。
 まさに労せずして何とやら…。デフレ、インフレなんのその。仏の慈悲を説く坊主がこういうシステムをつくっている。

 しかし坊主はいうだろう、私たちが強制しているわけではありません、と。縁なき衆生(仏門に縁のない大衆)が勝手に人付き合いに神経をすり減らし、世のしがらみにのたうち回った挙げ句に、お恵みをくださるだけ、という主張であろう。

 「功徳、功徳、すべて功徳でございますよ」と言いつつ手をあわせて、布施をふところに入れて逃げてしまう。
 アラ、エッサッサー。
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戒名の付け方 カラクリ講座(20)

2009年10月01日 | 戒名批判
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    戒名 爆笑カラクリ講座(20)
     第3章 戒名の基礎知識

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《3》道号と法名をつける
 専門的な話になってきて、退屈かと思うが、敵の手のうちを知るためなので、ご辛抱を。

 すでに述べたように、戒名(法名)はたいてい四文字で構成される。戒名の上につける「院」とか「院殿」、あるいは戒名四字の下につける敬称「信士」「居士」などを含めて全体で戒名と呼び習わしているのは、厳密に言うと俗人の誤解であって、正式には中心の四字が戒名である(と言われたって、どうでもいいんだ、そんなことは)。

 さらに専門的には、戒名の四字のうち上の二字が道号(道名)、下の二字が法名である。浄土真宗ではこの道号二字が、「釈」の一字となる。

 鎌倉五山文学の詩人たちは禅宗の坊主であったが、代表的な詩人の、絶海中津や義堂周信、明極楚俊などはいずれも戒名である。この場合、絶海、義堂、明極が道号に相当し、中津、周信、楚俊が法名に相当するのである。

 宗派によっては道号を省略する場合もあるが、今日ではたいてい四字と考えてさしつかえない。道号を省略すると、単に「義良信士」とか「明美童女」とかの簡単な戒名となり、いわゆる格が低い戒名ととられかねない。世間では字数が多いほうが、格の高い戒名だと思われているので、これでは「きっとお布施をケチったのよ」などと周囲から陰口を叩かれる。

 人間に貴賤貧富の差をつけない、などと仏教では主張するが、それは建前で、露骨に身分に差をつけようとする。仏教界では、戒名にランクづけはしないと弁解しながらも、でもやっぱり高貴な方にはそれなりの格式を与えなければいけないので…などと矛盾したことを言う。

 法名は仏門に入った者の名、道号は仏法を悟った者の名という違いが本来はあった。単に学校に入学したというのがいわば「法名」で、資格をとった、免許皆伝だという者が「道号」を称することができたのである。

 道号とは、本来的には仏門に入ってその道を会得した者の尊称であった。だから、もちろん自分勝手につけることはできないし、平僧侶では名乗れないのである。師たるにふさわしい僧となってはじめていただける尊称であったのが、いつの間にか死んでそこそこの布施を収めれば誰でもいただけることと相なった次第である。
 まるで、柔道の本さえ読みおわったら、柔道着を着たことがなくても柔道初段の免状をくださるというような大甘の処置である。
 いや、それより甘い。テレビで柔道を試合をみたことがある、というだけで初段の免状をくれるようなものか。

 とはいいながら、子どものときに死んだ場合でも可愛さのあまり道号をつけると、いくらなんでも仏門に縁がないうちに夭折したのだから、悟った人という意味の尊称をつけるのはいかがなものか、と坊主が言う。
 それで、嬰児や幼児の場合は、「何々童女」と、道号をつけない戒名となる場合もある。

 それで、厳密に言えば、四字の戒名のうち下の二字が本当の戒名、上は道号なので、この四字(道号と戒名)を合わせて「聖号(しょうごう)」というのが正しいらしい。

 またしても悪口を言って申し訳ないが、坊主は暇なものだからこういうシメチンドウなことをああでもない、こうでもないと言いくさる。あざとい理屈はなんとでも付けられようが、われわれ俗世界の人間からは、これは布施の額をつりあげるための方策としか思えない。

 坊主の世界では、道号を使うのは目上の者に対してと、目下の者(弟子)に自称する場合である。法名は目上の人に自らを称する場合と、目上の者が目下を呼ぶ場合に使う。そういう決まりがあるそうである。これは会社の例でたとえれば社長と平社員の呼び方のちがいに相当する。平社員は社長には「鈴木さん」と姓名で呼ばずに「社長」と呼ぶし、社長は平社員を「佐藤くん」などと姓名で呼ぶ。

 道号は、芭蕉の幻住庵の説明で述べたように、高僧の住まいたる寺の名や山号をそのまま呼称する習わしであった。とくに禅宗では必ず道号のなかの一字は、寺の名とか国名、山名、地名などを入れる。この場合の漢字は、実字すなわち具体的なモノにそくした文字を選ぶことになっている。

 道号とは逆に、法名は実字は避ける。つまり観念的な、抽象的な意味の漢字を選ぶのである。とはいえ、道号と法名は関係があるようなものを用いる。
 美空ひばりの戒名「慈唄院美空日和大姉」を例にとれば、道号に「空」という実字が入っているし、法名の「日和」は、晴れておだやかな空模様のことだから、「空」と関係のある漢字であることが了解されるだろう。
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戒名の付け方 カラクリ講座(19)

2009年09月30日 | 戒名批判
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    戒名 爆笑カラクリ講座(19)
     第3章 戒名の基礎知識

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第3章は7回にわたって掲載します。

《1》戒名と法名のちがい
 すでに説明したように、戒名と法名は意味は一応同じである。ただ、浄土真宗では戒律がないため、法名と称している。つまり戒名とは、戒律を授かった者がつけてもらう仏門のなかでの名前であるから、浄土真宗では戒律を授けることがないゆえに、戒名とは言わない。

 どうして浄土真宗では戒律を授けないかと言えば、彼らは出家せずとも、在家のままでもよしとするから、戒律がどうのこうのと問わないのである。
 他の仏教、とくに禅宗系統は出家して寺にこもることを要する仏教であり、当然に戒律にはうるさいから、仏門に入るときに戒律を守るように厳しく伝えられるのである。

 つまり学校に入るなら集団生活をするための規律が必要になるが、自宅で一人で勉強しているなら規律はいらないよ、ということなのである。

 しかしながら仏教界ではもう少し踏み込んだ解釈がある。戒名は師から戒律を授かるのと直接に与えられるものだから、彼らの理屈に従えば自分でつけるなどもってのほか! になるが、法名のほうは、師から戒律を授かると直接にいただく名ではないことから、自分で名乗っても差し支えないことになる。

 どういうことかと言えば、師をいただかずに独自に悟りを開いたのであれば、「われは何坊なり」と名乗っても構わないという理屈なのである。
 ただし、悟れれば、の話ではあるが、わたしは悟ったんだと言い張れば、この世界はそれだけのことである。大学センター試験ではないのだから、それでいいのだ。

 例えば従業員が一人もいなくても、自分は何々会社の代表取締役だと、「名刺」を持つことは構わないのと同じである。その名刺をバーなどで配る分には、実害はない。その詐称した名刺で、人をだまくらかして金品を巻き上げたとなれば、罪に問われるのは当然である。

 色香落ちて、唇は古梅干しのようになった遠い昔の美女が、唇に紅をさし鼻筋に白粉をつけて暗がりにてうつむき加減にしていれば、「今美女」に見えたとしても、なんら咎めるには及ばないのと同様である。

 しかし仏教のほうでは、詐称、詐欺という概念はないのだろうか。ときに新興宗教の場合、多額の寄進をさせられた信者が、あとになって「だまされた」と訴えでる例はあるのだが、伝統仏教ではほとんどない。
 にもかかわらず新聞雑誌には、「掌サイズの白檀製の千手観音菩薩、三万円より。肌身はなさずお持ちになれば、観音菩薩の無限の法力で、あなたに永遠のご利益が」などといった広告が載る。

 仮に「ご利益がないじゃないか」と文句を言えば、「それはあなたの信心がたりない」と跳ね返されかねない。
 釈迦が聞いたらびっくりするような話が、堂々とまかりとおっている。それでも罪に問われないのは何故なのだろうか。外国産牛肉を国産牛と偽って不当表示したと騒ぐ人々が、「観音菩薩の無限の法力」は不当表示ではないと認めているのだから、世の中は不可思議である。

 それはさておき、法名のほうが仏門に入ったときの名という意味になり、戒名のほうは同じ仏門に入るのでも戒律を授かってのそれである点が異なる。だから、法名のほうが広い意味であり、各宗派に共通する呼称と言えるが、浄土真宗では戒名とは言わない、そういうちがいがある。
 そんなことは俗人にとっては知らなくてもよい知識なのであるが、家が浄土真宗だという方は、戒名という言い方はしないと承知しておかれるだけでよい。


《2》宗派の特徴
 日蓮宗では、戒名のなかに「日」の字を入れる。創始者の日蓮に由来するのは言うまでもない。美空ひばりの戒名「慈唄院美空日和大姉」には「日」の字が入っているので、日蓮宗で葬儀を行った、あるいは彼女の宗旨が日蓮宗だった、と知れるのである。
 また、「蓮」とか「華」「妙」の字が好きである。日蓮宗が妙法蓮華経を正しいよりどころとしているところから、と言われる。

 浄土真宗は「釈」の字を入れる。釈迦牟尼仏の「釈」である。浄土真宗は本尊を阿弥陀仏としており、釈迦(釈尊)さえ拝まない。釈迦を拝むのは釈迦の教えにない、と言い切っている宗派である。阿弥陀仏だけを拝むのが釈迦の教えなのだと信じており、それが釈迦からの正統の教えだとの自負から、「釈」の字をとって誇っているのである。

 浄土宗は、「誉」の字をつけるのが特徴である。浄土宗の戒名には、四字ある名の必ず上から2つめが「誉」となる。この習わしにも由来はあるのだが、わずらわしいから省略する。

 時宗には「阿」つける。阿弥陀仏の「阿」をとったものである。昔は浄土宗でつけられたようだが、現在はもっぱら時宗がつける。

 禅宗では、とくに決まりはないようであるが、禅宗独自の経論や祖録のなかからとられる。その経論や祖録には『碧巖録』『無門関』『信心銘』などがある。つまり先輩の著作や言葉のなかから縁のある漢字をちょうだいしたいということである。

 しかし禅宗系の寺の墓地に入って、子細に墓誌に書いてある戒名を調べてみると、だいたい似たような文字があちらでもこちらでも散見できる。坊主に聞いたわけではないが、とても漢籍・祖録をていねいに読みこみ、あふれる教養で彫琢したとは思えない。よくある、品のよい漢字をあたりさわりなく配置しているだけに思えるのはヒガメか。

 自分で戒名をつけようとするときには、禅の宗派は(まじめにやるとなると)ちょっとやっかいであるが、手頃なところでは岩波文庫に『臨済録』とか『盤珪禅師語録』などがあるから、そのあたりから字を拾うとよい。
 あるいは鎌倉五山文学の漢詩から拾う手もあるだろう。図書館に行けば置いてあるだろう。
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朝鮮総連施設非課税問題

2009年09月29日 | 支那人・朝鮮人
 北朝鮮の菌正日が日本人拉致を認め、軽い謝罪をしたのが平成14年9月14日。
 それ以来、拉致被害者を救済しろとの国民世論は大いに高まりを見せた。このたびの自公政権崩壊は、そのことと無関係ではなかったと思われる。

 北朝鮮による拉致事件のおかげで、日本人がやや大げさな言い方にはなるが、団結へ向かうキッカケになったと、私は考えている。だからもう自公政権を変えねばならないという機運が高まったのだと。
 横田早紀江さんはあのころ、拉致被害者救出運動は世直しだと訴えたはずで、そのとおりになってきたとも思える。

 さて、朝鮮総連施設(固定資産税)非課税問題について。
 今年2月、福岡高裁は朝鮮総連について、「北朝鮮の指導のもとに北朝鮮と一体の関係で、在日朝鮮人の指摘利益を擁護するために活動をしており、わが国社会一般の利益のために活動をしていない」と指摘。「総連の会館使用は『公益のため』とは言えず、税減免には理由がなく、違法」との判決をした。

 そのとおり。正しい判決だ。
 もっと正確にいえば、総連は反日活動の拠点である。スパイ工作機関であり、パチンコや売春、覚醒剤などの収益を吸い上げて北朝鮮に運ぶ機関でもある。

 すでに水戸、和歌山、松山の各市が税減免を取りやめているが、 全国で百三十自治体にある総連施設の中で、いまだ減免している自治体は、名古屋市など全国では三十二市町村になる。
 いったい何を考えているのか、この市町村のバカ役人と議員どもは。

 その減免理由が、拉致被害者を救う会の活動によって明らかになったと、ある人がメールで知らせてくれた。以下は愛知県岡崎市の例である。
 
 (総連施設非課税の)論拠は公民館としての減免でなく、条例に基づく経済団体として民団を非課税としており、北朝鮮もそれに準拠させているとの苦渋の説明。
 韓国の消費者協働組合と同じ働きをしているならば税の公平性の原則から減免すべきだというのだ。
 「国の方針・要請通達に何故こたえないのか」「市民の総意は北に対しての核実験の非難意見陳述で明らかではないか」と、問いつめても、

 「国が全面禁止と打ち出してくれないと難しい」
 「確かに北朝鮮というのは無法な国であることは認めるが、拉致問題とは分けて考えるべきであり同意できない」
 「商業活動など色々な分野で真面目に、誠実に活動をしている方もたくさんみえると思われる」
「拉致・核実験とイコールの問題とはいえない」
 と、木っ端役人どもは責任回避発言をする。

 公僕のくせに一般市民の要望を「同意できない」の一言で突き放す。そんな権利がどこにある。
 北朝鮮と韓国を同列に扱っているが、北朝鮮とわが国は国交ないのだから、そんな厚遇をする必要はない。国交がない以上、本来的には、北朝鮮籍の野郎はいかに「商業活動など色々な分野で真面目に、誠実に活動をして」いようとも、不法入国者だ。
 固定資産税を減免してやるなど、盗人に追い銭である。
 
 この情報を教えてくれた救う会関連の人は、こう言う。

 「ここまで日本の危機が迫っていると言うのに、市が固定資産税減免という拉致公認、核実験公認と映る対応をしていることに怒りを覚える。ヒロシマ原爆はアメリカへの批判だけであってはならない。むしろ北朝鮮中国の悪しき核にこそ、批判の刃を向けなくてはならない。日本への脅威は現実にここなのだから。」

 北朝鮮に制裁するのも、総連関連施設に課税しろというのも、賛成であるが、この発言には私は同意できない。
 北朝鮮の核開発はけしからんと、わが国は言えるのだろうか。核開発はその国の勝手である。アメリカ、ロシア、中国、イギリスなどは良くて、北朝鮮やパキスタンがやってはいけない、という理屈は成り立たない。

 だから北朝鮮の核開発をめぐる「6か国協議」は実におかしい。茶番である。協議するような問題ではない。
 勝手にどうぞ、の問題である。
 それに対抗するには、ただ日本も核を持てばいいだけのことだ。遠慮はいらない。

 日本が核を持たずに北の核に対抗するには、強烈な制裁を行なうか、であろう。全面輸出入禁止、総連や朝鮮学校の解体や資産没収、それに朝鮮人の国外追放などを行なえばいい。

 むろん、菌正日が国民を飢餓に追い込んででも己の安全保身のために核を持とうとするのは、むちゃくちゃな政治とは言えるが、そんなことは朝鮮人自身が解決すべき話で、日本やアメリカが批判する必要はない。

 「ここまで日本の危機が迫っていると言うのに」とはいうけれど、核での危機なんかありはしない。
 危機を煽っているのは、アメリカである。在日を日本に居させて、日本社会を混乱させている元はアメリカであった。

 そもそも米ソ冷戦構造の中で日米安全保障条約が締結され、アメリカが、日本を共産主義から守るとか言って、アメリカは日本を占領しつづけ、莫大なカネを食う軍隊を維持するカネを日本からふんだくってきたのだ。
 しかし、その対決しているはずのソ連はとっくの昔に崩壊し、米軍が日本に駐留しつづける大義名分はなくなっている。

 冷戦構造が崩壊した今、在日米軍の存在意義はほとんどない。あるとすれば中国の脅威だけで、北朝鮮なんかどうでもいいような存在である。

 在日米軍の存在意義は、単に日本のカネでアメリカの東アジアにおける軍事活動を支えているだけだ。
 それをアメリカや自民党は、ソ連に代わって北朝鮮が仮想敵国と言いふらして、危機を煽ってきた。

 単純な話、戦争には莫大な金が掛かる。軍隊にはアブラや食料・物資を供給する必要があるが、北朝鮮にそんな力があるわけがない。軍事訓練すらまともに出来はすまい。
 わずかばかりのミサイルは新品かもしれないが、武器弾薬、戦闘機、戦車、軍艦などはみんな旧式。
 大規模な戦争はできるわけがない。

 仮にミサイルの何発かを日本に打ち込んだとて、それでお仕舞いなのだ。核兵器でも同じ事だ。持ったところで使えない。
 問題はあり得ない戦争ではなく、総連が行なって来ている反日活動であり、いまだに拉致被害者を返さない不埒な行為なのだ。銃弾やミサイルは飛んでこないが、それとは次元の違う戦争を北は仕掛けてきている。
 だから完璧な敵を利するこのような総連を厚遇するのは、利敵行為であり、本来は銃殺刑に相当する、という話である。
 
 「(減免措置廃止は)拉致問題とは分けて考えるべきであり同意できない」と抜かす木っ端役人は、さっさとスパイ防止法を制定して、銃殺刑に処せばよい。
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日本の自主独立は夢物語

2009年09月28日 | 政治問題
 報道によると、民主、社民、国民新3党は連立政権樹立へ向けた協議で焦点となっている外交・安全保障の基本政策に関し、インド洋で給油活動を行っている海上自衛隊の来年1月撤退と、アフガニスタン本土での人道復興支援の重点実施などの方針で一致したという。

 しかし、民主党政権になっても、はたしてアメリカ側の意向(命令)を拒めるかどうか。

 民主党は、外交・安保政策について「核廃絶の先頭に立つ」「緊密で対等な日米関係をつくる」「東アジア共同体の構築をめざす」などとマニフェストを掲げてきた。

 ところが吹けば飛ぶような泡沫政党でしかない社民党なのに、連立政権入りが目捷に迫ると、「海自のインド洋補給活動からの即時撤退」「ソマリア沖で海賊対策を行う海自の撤退と海上保安庁への切り替え」「米軍普天間飛行場の撤去と沖縄県名護市辺野古への移転阻止」「日米地位協定の抜本改定」などを民主党に求めている。

 この社民党の主張をそのまま民主党が飲めば、アメリカの逆鱗に
触れる。その覚悟が民主党にあるのかどうか。

 その民主党の身内である土屋敬之都議は最近のメルマガで、「町内会費を納めないでいいのか」と称して、民主党の左傾化に警鐘を鳴らしている。

 日米の協定を「町内会費」に譬えるのはいささか情けないが…。

 土屋都議は、インド洋での給油活動、ソマリア沖での海賊対策などで、海賊が跳梁跋扈して、日本を含む世界中の船舶が被害を受けている。にもかかわらず、これを「撤収する」「海上保安庁」に任せる議論が、民主、社民のあいだでは主流となっている事態を憂慮している。

 「じゃあ、日本船が海賊に襲われた時どうするのか。アメリカに頼む、イギリスに頼む。到底、独立国とは言えないし、世界の笑いものになる。自分の身は、自分で守らなくてどうする。更に、インド洋の給油。金額がどうと言う議論があるが、安保体制の中で日本の安全が守られていると言う「現実」からすれば、町内会の会費程度。インド洋から、アラビアから自衛隊を引き上げて、アメリカはどう思うか。」

 彼もまた、あのいい加減な新聞記事をもとにしか考えられないようだ。
 インド洋での給油活動も、ソマリア沖での海賊対策も、八百長であることはすでにブログで書いた。
 一つは、米英などの海軍の縮小や将兵の失業を阻止するために、どちらも海の上を遊弋している。各国海軍のリストラ対策である。
 インド洋での給油活動はアフガン戦争に関連しているのだが、テロリストなんてものはいない。いるとしても、それはユダヤの陰謀であって、その配下の米英の諜報機関がやっている。
 
 ソマリア沖の海賊は、海賊の基地となっているソマリアの港湾をミサイルで破壊してしまえば、一気に片付く問題なのに、愚劣にも商船やタンカーを護衛すると称して、各国海軍が“仕事”をつくっている。
 それをまじめに信じて、海自を行かせ、あるいは海軍でなく海上保安庁が行けという論調もアホ丸出し。

 しかも、おそらくはどちらも、裏でユダヤが現地の「テロリスト」とか「反政府軍」などに武器援助をして、戦争を長引かせているのだ。
 だから、主旨としては社民党の言うとおり、バカバカしいから撤退するのが良い。しかし、社民党は世のからくりがわかっておらず、相も変わらず「アメリカ帝国主義」だけが敵だと言うばかり。またはどんな事情があろうが、武器使用はいけませんわよ、というバカ。
 本当はユダヤの陰謀を阻止するために、戦うべきが、誰もそれを理解しない。

 アメリカは当然のことながら、民主党と社民党がつるんで、インド洋での給油活動撤退や、米軍普天間飛行場の県外移設の二つの政策に対して、不満を表明している。日本からカネをふんだくれなくなったら、アフガンもソマリア沖も、イカサマ芝居が破綻する。

 こうした事態に関して、ブログ「国際情勢の分析と予測」(9月5日付け)では、こう説いておられる。

 「私の想像する答えは、民主党の政策は米国の弱体化に対応するものであるという仮説だ。つまり、来年一月までに米国政府が破綻し、イラクやアフガンでの戦争が終わって米国軍が本土に引き上げることになる。インド洋での給油活動も当然不要になるのだ。また、米国政府と日本政府の間で、いわゆる「思いやり予算」による第七艦隊の維持を含めた在日米軍の規模についての交渉が実行されることになり、その中で普天間飛行場の廃止など(場合によっては、石原都知事が強く主張している横田基地の日本返還も?)決定されることになるのではないかと想像する。」

 これは良い線を突いていると私は思う。
 アメリカの衰退は、すでに「終わりの始まり」を迎えている。ただし、本当の滅亡までは早くても20年はかかるのではないか。なんといっても、まだ強大な軍事力を保持し、いくらでもドルを刷りちらかす実力があるからだ。

 そうは言っても、民主党は「米国の弱体化」に対応する責務を担って政権交代がなされたのだと思われる。政権交代を誰がしかけたのかまだわからないところがあるが、絶妙のタイミングでアメリカの言いなりだった自民党と霞ヶ関の官僚どもが衰退することになった(らしい)。

 だから、民主党は社民党を引き込んで(利用して)、日米の距離を徐々に開けたいのだろう。
 郵政民営化に反対の国民新党も引き連れて。
 郵政民営化に反対し、元に戻すことは、小泉・竹中・飯島がアメリカに言われて仕組んだ、日本国民の財産を全部アメリカに差し上げる陰謀を阻止することだ。

 その政策が実現すれば、アメリカの衰退は一気に進む。それは大歓迎ではあるが、代わりに日本が支那の属国に近づくことを思うと、これまた悲惨な未来像しか描けない…。

 日本はアメリカからも、支那からも独立自尊でやっていけるだけの実力ある政治家がいないと思う。だから民主党政権が、アメリカの衰退に「抱きつかれ心中」で日本が没落するのを阻止できるとすれば、結構であるが、日本は日本で主体的な外交をやれる実力がない。外務官僚も経済官僚も全部、いわばマザコンの東大出であって、支那かアメリカにすがって生きることばかりである。

 だから、民主党が政権をとっても、ユダヤの陰謀が本当にわかっている政治家や官僚がいない以上、日本の自主独立は夢物語だ。
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高齢者の万引き増加

2009年09月26日 | 社会問題
 高齢者の万引きが増加しているそうな。
 警視庁の調査によると。08年の東京都内の検挙・補導者数は1万2695人で99年度に比べて2.3倍に増加し、65歳以上の高齢者が占める割合も60.%から22.6%に上昇して、少年の25.8%に迫る勢いだという。
 これは全国的にも同様の傾向がみられる。(毎日新聞9月19日付け夕刊より)

 これを受けて、警視庁では万引き者の動機や生活状況を分析する専従チーム(「万引き調査・分析専従班」)を新たに設けることを検討していると、新聞記事は伝える。

 あ〜あ、またしても役人が無駄な、いらざるお節介をして、「専従チーム」をつくって検討するとは。こうやって木っ端役人は仕事を増やしていく。やがては警察が独立行政法人を作って、「高齢者万引き撲滅・支援調査研究機構」なんていう長ったらしい名称の機関をつくり、警官OBを天下りさせるのだろう。
 
 警視庁幹部は「以前は万引きは少年犯罪とみられていたが、高齢化社会が進む中で対策を急がなければならない」と話しているとか。
 毎日新聞はこの夕刊のコラム「近事片々」で、「増える高齢者万引きに孤独の影が濃くにじむ。警視庁に調査チーム。分析を生かして、速やかに「救い」の手を。」と書く。

 この警視庁と新聞記者の考えは間違いである。まったくいらざるお節介だ。
 高齢者だろうが何だろうが、びしびし取り締まって、常習者は検挙すればいいだけのことだ。町内の清掃を半年間させるとか、駅前に「私は万引きをしました」というプラカードを持たせて1日立たせるとか、何かペナルティを課せばいいのだ。

 それを見た少年や高齢者が、あんな目にあうなら万引きはやめようと思えばいい。万引きは割に合わないと誰もが思えば、やらなくなる。
 それを弁償とか反省させるだけで家に返すから、再犯に至る。温情がアダなのだ。

 よくテレビのニュース番組でも、スーパーマーケットの「万引きGメン」とか監視係の活動に密着して、万引きした人間をどう捕まえて、どう説教するかみたいなものをドキュメント的に放送している。ああいうことをやるから、高齢者が「捕まってもたいしたことはないな」と舐めてかかるようになっているのではないか。

 万引きが店の人に捕まると、店の奥の事務所に連れていかれるようだが、レジの前で衆人環視の中で大恥をかかせるべきである。盗人が泣き崩れて「二度としません」「許してください」などと泣訴するのを、買い物客が冷笑し、罵声を浴びせればいい。
 その程度のきつい制裁は必要だ。「出来心」なんて言い訳を許すな。

 店はどんなに苦労して売上げをあげようとしているかを考えたら、万引きは軽いなどと言えないはずだ。世間が軽犯罪だとするから、これだけ万引きがあとをたたない。
 店の被害より、万引きの人権が優先か?

 万引きの動機を高齢者万引きにアンケートすると、「孤独」が最も多いとか。だから毎日新聞がコラムで「高齢者万引きに孤独の影が濃くにじむ」などと間抜けな感想をしたためる。
 そんなことが動機かよ。

 万引きした高齢者の4割が一人暮らしで、9割が友達が「いない」「少ない」と答え、約半数が「相談できる相手がいない」「生きがいがない」と答えている。
 
 これを読んだ新聞読者は、万引きしたお年寄りが気の毒だと思う人が多いだろう。警察も新聞記者も、そういう世論へ誘導しようとしている。
 万引きをされる店に言わせれば、きっと「そんなの関係ねえ」と言うだろう。孤独だろうが、一人暮らしだろうが、店が被害を受けていいわけがない。万引きするのは寂しいからだ、とは、アタマにくる話だ。寂しければ万引きしていいのかよ、と店の経営者はいうだろう。そのとおりだ。

 新聞記事は、要するに高齢者を孤独にさせる社会に問題がある、友達がいないのはかわいそうだから地域で手をさしのべろ、寂しいのだから同情してもいい、と、そう言いたいのだ。
 そんなバカな。

 高齢者を甘やかすのもいい加減にしろ。
 実際、万引きされる商品は「食料品」が最も多いそうだ。それみろ、ただで商品をせしめようというイギタナイ根性じゃないか。孤独と何の関係がある? 孤独だ、寂しいんだというなら、スーパーの前で踊りでも踊ってろ、歌でも歌え、そうすればかまってくれる人もあらわれるだろう。
 最寄りの駅の清掃をしてもいいし、公園の便所を清掃したっていい。なんだってやりようはある。
 なにが孤独だ! 自分勝手がいいというだけのくせに。

 こんな高齢者の勝手な言い分を真面目に聞く必要はない。突き離して、自活させればいいじゃないか。手を差し伸べればそういうヤツは増長するのだ。ちっともかわいそうじゃない。自分が悪いのだ。

 社会に出てから、まあ働きはしたんだろうが、いささかも勉強することなく、テレビの白痴番組ばかり見て怠けてきたツケが高齢者になっての孤独なのだ。「アリとキリギリス」のキリギリスだったというだけの話である。自業自得だ。
 そんなザマに対して「分析を生かして、速やかに『救い』の手を」なんて書く記者は、底抜けのお人好しである。

 万引き者の動機を分析するのに、またしても多額の税金と時間をかけたってしょうがいないんだよ。そんなことは一瞬で分析できる話だ。孤独なんて自分で解決しろ、でいい。万引きには厳罰を持ってのぞめば再犯は減る。それだけの話である。

 また、この統計には出てこないが、高齢者万引きの相当数はやはり在日のはずなのだ。在日を本国に返せば、こんな問題は、調査チームをつくるまでもなく解決するだろう。

 …さはさりながら。
 政治の責任はある。
 万引き高齢者の63.7%が「収入なし」だそうだが、たしかに高齢者になって食っていけない社会になっているのはいけない。ささやかながらも老人が食っていける社会でなくしたのは、直近では小泉・竹中・飯嶋の歪んだ政治のせいである。自民党が崩壊したのは国民の怒りである。
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性同一性障害のいかがわしさ

2009年09月25日 | 医療問題
 「性同一性障害の人の性別変更を認める法施行から5年。現在の課題は。」とする記事が毎日新聞09年9月3日付けに掲載された。見出しには「知識不足 根強い偏見」「少ない病院、手術費も高額」などの障害者に同情的な気持ち悪い文言が並ぶ。

 本ブログでは性同一性障害(GID)は一種の精神病であると述べてきている。決して生まれつきの、体は男なのに心は女などという障害ではないと述べてきた。以下の項で説いてきている。
 「性同一性障害の就職内定取り消し“事件”は言いがかり」08年02月15日
 「弁証法で説く男らしさ女らしさ(4)」08年12月18日
 「社会保障費増大は弱者の甘やかし(上)」08年11月28日

 浜の真砂は尽きるとも 世に「性同一性障害は心の性と体の性の不一致は生まれつき」と勘違いするアホの 種は尽きまじ…である。(これは、大泥棒・石川五右衛門の辞世の句とされる「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」のもじり)

 毎日新聞の記事は、最近開催された「性同一性障害特例法」に関して当事者、医師、法律家らが集まって、その課題を話しあうシンポジウムを開いたことを取材したものだ。
 当事者(ということは自分がGIDなのだろう)の和光大学講師・野宮亜紀氏は「教育現場で正確な知識が与えられていない。メディアが偏ったイメージを発信していることも偏見につながっている」と指摘したそうだ。

 タレントの椿姫彩菜は「『みんなと同じようにコンプレックスや悩みを抱えた一人の人間だということが理解されていない。人と違うことが悪であるかのような風潮がある』と述べ、周囲からあざ笑いの対象にされたGIDの友人が自殺してしまったことなどを語った」と記事にある。
 まったく…、偏見はそちらのほうじゃないか。それを図々しく、自分らの妄想を振りかざして、(GIDの)正確な知識を持たないみんなが悪い、いまだに偏見を根強く持つ大衆が悪いといわんばかり。

 「人と違うことが悪であるかのような風潮」とは、話を広げ過ぎで、そういう一般性でGIDの人を見ているのではなく、あくまで「生まれつき心の性と体の性が不一致」などと、世迷いごとを抜かす連中を、世間は見抜いているのだろう。
 男に生まれたくせに、自分の気持ちは女だなどと、言うほうが狂っているのだ。

 医者どもは、世間の常識にならって90年代くらいまでは、性同一性障害なんてものは認めていなかったのだ。それが埼玉医科大のアホ医師が「性別適合手術」を申請し、それが認められて手術を強行してしまったところから、話が歪んだ。
 それ以降、医者どももハレンチにも、これは儲かるビジネスだとばかりに飛びついて、珍妙きわまる「性同一性障害」なる病気(?)をデッチあげたのだ。

 だから自称GIDどもが、一般の常識ある世間の人を「偏見だ」と罵ることのほうが、間違いである。なのに、保険を適用してくれないから手術が高額になるなどと、不平不満。ふざけるな。

 私は以前のブログで、不摂生して病気になったような場合は、ペナルティがあってもしかるべきだと言った。
 例えば医者が「酒はやめてください」「禁煙ですよ」と指示しているのに、患者が好き勝手に大酒やヘビースモーカーをやり続けて病状が悪化したら、当然罰則があってもいいのではないか。
 だから性転換手術なんかは保険が効かなくて当たり前だ。性の不一致なんか病気じゃないんだから。むしろ自分でなった「病気」なのだから。

 これは南郷継正先生が、思春期の認識と実体の論理構造として説いておられることである。
 どういうことかを端的に述べれば以下になる。

 脳細胞は体の統括器官である。本来的には脳細胞がほんとうに統括できていれば、実体も認識も歪まないのだ。
 ところが人間には統括がままならない時期がある。それが2〜3歳、中学生、そしてわずかに高校生だと、南郷先生は説かれる。
 親や教師がよってたかって個性大事に育てると、個性が社会性をなくして歪んでくる。

 中学生(思春期)までは、子供は人間一般として体は統括されているが、中学生になると男になって大人になるか、女になって大人になるかが決まってくる。つまり中学生までは「人間の子」である。

 中学生のときの脳細胞はどうなるかといえば、同じ脳細胞が異質なものになる。これを南郷先生は「大人になりにいく」とすばらしい表現をされたのだ。中学生のころは、「俺が俺じゃない」となる。
 この「大人へ」のところだけがおかしくなったら大変で、本来正常に大人へと変化するところの、その性として変化するところだけがイビツになる可能性が、この時期には生じる。

 その中学生ころ(思春期)が分かれ目で、この時期に男のくせに女に妙に憧れると、ホモになるのだ。これはずばり認識の歪みである。完全な精神病だ。
 通常は社会関係で成長するから、イビツにはならないのに、社会関係が少なく個性的に育てられると、「体は女なのに心は男」だなどと勝手に思い込む。

 しかも日本は90年代以降、それを認めてしまう歪んだ社会になってきている。テレビの白痴番組では、何を好き好んでか、ホモやレズばかりが登場する。「おすぎとぴーこ」とか、美輪明宏とか…。
 新聞でも先の記事のように、「性同一性障害」が大手を振って正当性を主張し、それを認めない大人を「偏見だ」と罵る、そういう歪んだ社会になっている。
 だから「体は女なのに心は男」でいいのだ、これは生まれつきなんだと堂々思うようになってしまった。

 また南郷先生は、子供のころから男の子でも「かわいい、かわいい」と言って育てることが、歪みを生むとおっしゃったこともある。男の子をたくましい、わんぱくでいい、強い子にと躾け、それで褒めて育てるよりも、まるで女の子のようにチヤホヤ育てるバカな親が、子供が正常に男の子は男の子の脳細胞として育つ過程を歪めていくのだ。

 親は昔は特段の注意をしなくても、社会がまともで、親もまともだったから、男は厳しくしつけたのだ。だから男の子が中学生くらいになって、女の認識を持つなんてことにはならなかったのだ。
 ところが今は個性が大事で、社会もオカマやレズを認めて面白がる、あるいは普通に扱わないと差別主義者だなどと言われるような歪んだ社会だから、子供がその影響も受けてしまう。

 こういうと、先の世界陸上選手権の女子800m走で優勝した南アフリカのキャスター・セメンヤ選手は両性具有だそうじゃないか、と言う人が出てくるだろう。だから生まれつきってことはあるんだ、と。

 気の毒ではあるが、それが本当だとしても、セメンヤ選手の場合は親がちゃんとした生活過程を送っていなかったのではないかと思われる。胎児の大事な時期に、例えば麻薬をやったとか、タバコをやったとか、そういう何かがあったはずである。
 だから、「体は男なのに、心は女」などという現象(?)の証明にもなにもならない。

 男であっても心が女だというのだから、むずかしいことを言わないで、本人がしたいようにさせたら? という向きもあろうが、それを許すと社会が歪んでいく。それに子供が生まれなくなる社会が容認されていまい、人類が滅びる。だから性転換手術をやる行為は犯罪だ。
 間違いは正させるべきだ。精神科医がちゃんと男は男の心を持てる様に治療すればいいだけのことだ。
 これを偏見だと罵ることなく、正しい意見、知識にすればいい。
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酒井法子が立ち直るには(シャッター処理(4/4))

2009年09月24日 | 認識論
《4》反省より変革
 酒井法子については、反省することが大事なのではなく、きちんとした反映をするようなアタマに変革することである。反省だけならそれこそ「猿でもできる」。覚醒剤に仮にも手をだしたくなっても手を出せないアタマにすることである。

 変な言い方だと思われるだろうが、こういう例を考えてほしい。銭湯かプールから出てきたあなたの目の前に、ロッカーがあって、となりの見知らぬ人のロッカーが開いていたとする。周囲には誰もいない。財布がむき出しで置かれている。盗もうと思えば簡単に出来そうだ、とする。経済評論家・高橋洋一氏の場合だ。
 こういうときに、えい、盗んじゃえとなるか、一瞬盗めるじゃないかと思っても自制できるかどうか、その違いなのである。
 
 盗める絶好のチャンス(?)であろうとも、盗まない(盗めない)アタマになることだ。教育とはそこまでやらなければならない。

 さらに、こういう例でわかっていただきたい。
 山之口獏という詩人がいた。彼の詩に、雨の日にタバコを吸いながら歩いていて、吸い殻を道路に捨てた瞬間、靴でいつものように踏んでいた、という作品があった。「おかしな靴なのだ、ボクの靴は」というような愉快な詩であった。

 雨の日で道は濡れているのだから、タバコの火はすぐ消える。靴で踏む必要はない。それを自分の意志と独立的に靴が勝手に行動したと表現している面白さであった。
 でもつい踏んでしまった、というのである。
 これが、脳細胞の働きがそのように技化してしまった、例である。
 平俗な言い方をすれば癖になった、ということだ。

 だから酒井法子はそういう教育を自身にこれから施さなければならない。そうしないで、反省しているだけなら、あるいは反省しているのにいつまでも世間が許してくれない、と苦しむだけなら、立ち直ることはできないだろう。

 そこがわかっていないカウンセラーがいくら酒井法子を反省させても、ダメであろう。

 まずは裸足で地面の上をランニングすることから始めるといい。これは冗談ではない。外界をきちんと反映する能力を再構築しなければならない。
 
 ボケた認識は、機能が歪むうちはまだよい。「ひねくれ」などは機能の歪みレベルだ。
 だが量質転化して脳細胞という認識を統括している実体までもが本格的にボケてしまったら大変である。
 そうなると、脳細胞は認識を司ると直接に、生理機能をも統括しているので、たばこの害がニコチンやアヘンが体に悪影響を及ぼすのとは別の問題でもって、生理機能までもおかしくしていく。

 例えば「無気力」が認識だけでなく、体の統括までもが無気力になっていくのである。生理機能の瑞々しさや躍動感はこうして失われる。まさに「病は気から」は、ここでも真実である。
 
 それで結局、「シャッター処理」が脳細胞に“実体化”する。
 役人がこれをもっとも得意としている。国民、住民の切実な訴えを無視する、「それが前例がない」とか「法で決まっていますから」とか言って、門前払いするのは、ある意味反映の拒絶である。
 先にも言ったが、「しらばっくれる」ことがこれだ。

 自分たち木っ端役人の利益はそれで守られても、オツムのほうはボケへの一歩一歩を進む。

 だから。
 人間とは本来、いかに辛くとも、面倒でも「シャッター処理」して反映を拒絶するようなことをしてはいけない。もともとこれには関心がない、というならいいのである。たとえばクラシック音楽には関心も興味もあって、たくさん良い反映をしたが、野球には関心がないから、見ませんというのは、別に反映の拒絶ではない。

 社会関係としてみなければいけない対象を反映させたくない、拒絶したい、という姿勢がいけない。
 会社や学校でも、嫌いな人物はいるだろう。嫌っていけないことはない。嫌うことがシャッター処理なのではない。そんな嫌な相手でも、会社の仕事や、学校での授業や文化祭などでも嫌いなヤツと共同作業をしなければならないのだ。それでこそ社会関係での正常な認識が形成される。

 嫌いなヤツとも仕事や共同作業をするのが、まっとうな反映のありかたなのだから、そうあるべきが人間社会なのだ。
 それを嫌いついでに共同しない、避ける、見ない、と、こうなるのが「シャッター処理」である。社会関係で認識を、アタマを創るとはそういうことだ。

 冒頭の高校の文化祭に戻れば、だからこそ、まじめに高校の文化祭は教育の一環として取り組みなさい、ということだ。嫌いなヤツとも、気の合う仲間ともワッシャワッシャとケンカしながらもまれるのが良い。好き勝手な文化祭で、ただ面白く焼きそばを食っていれば良いのではないのだ。

 酒井法子がそういう生活過程を送りそこない、十代のうちから「うれピー」などとはしゃいでしまったからこそ、今回の自制の効かない事件を起こしたのだとわかることである。
 そういう本質的なことをわかっていないマスゴミが寄ってたかって、酒井法子とその息子(間接的に)を血祭りにあげた。血祭りにあげることだけを目的に…。
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酒井法子が立ち直るには(シャッター処理(3/4))

2009年09月23日 | 社会問題
《3》酒井法子が立ち直るには
 このたびの女優・酒井法子の覚醒剤所持・使用容疑の事件に関しても、彼女のこれまでの人生で、まともな認識形成が欠如した結果であることがみえる。

 酒井法子は若い頃からチヤホヤされ、芸能界といういわゆる世間離れした世界で育ってしまったために、正常な社会関係で認識を創りそこなった。
 女優だから当たり前とはいいながら、個性尊重で生きてきた。

 だから社会関係でものごとが考えられない。個性で考え、感じていいのだというアタマになっている。
 それで覚醒剤に染まるのは悪いことだと、知識では知っていながら、その知識でしかない世間の常識を冷静に反映することをスルーしてしまった。覚醒剤はダメという反映を拒絶して、手を染めた。
 これが「シャッター処理」である。

 覚醒剤に手を出したら地獄だと「わかって」いる、その分かっているレベルが、知識にしかなっていない。普通の人は、知識でとどまらずに深い社会関係の感情になっているから抑制が効く。それが彼女の場合は虚飾の芸能界で育ったがために感情になり損なった。「社会の規範」が感情レベルになっていない。

 酒井法子の謝罪会見をニュースで見た。かわいそうでもあった。二度と覚醒剤に手を出さないと誓っていはしたし、そうあってほしいものだけれど、自分の弱さをどう治せばいいかが分かっていないようだから、再犯の可能性は高いと私は思う。

 芸能界から退いて、普通の生活をし、普通の会社にでも勤めれば、辛酸を舐めるだろうが正常な社会関係で認識が創られて、立ち直れるかもしれない。だが一度華やかな虚飾の世界に身を置いた彼女が、そんなことができるとは思えない。
 早くも芸能界復帰はいつか、みたいな噂がとびかっているらしい。

 実際、何億円とも計算されるであろう損害賠償に追われているのに、普通の仕事では返済の目処が立つまい。
 仕事もしないプータローの男と結婚したのも、まともな社会常識が反映するのを拒むアタマを創ってしまったからである。

 かわいそうなのは子供だ。10歳にして人生メチャクチャにされた。深い心の傷を負わされた。

 酒井法子の覚醒剤事件を見て、私はこれは彼女の場合、一種のボケだと思った。まともな社会という対象を「シャッター処理」して、反映しないようにしたからこそ、覚醒剤を吸えたのである。
 愛煙家が周囲の冷たい視線を避けようと、「シャッター処理」して、反映を拒絶してタバコを吸うのと同じことであろう。

 一度、「覚醒剤は悪い」という世間の規範を見ないようにして、手を染めれば、実際それで気分よくなれるらしいので、いっそう対象たる世間の目を見ないようにする行為が連続していき、やがて量質転化して、覚醒剤が習慣化してやめられなくなるばかりか、アタマが反映を拒絶するようになってしまうのだ。

 だから何度「二度と覚醒剤はやらない」と決意してもダメなのだ。そんな人ばかりでしょう。三田佳子の息子とか、多くのアホな芸能人がそれで自滅していった。それは何度も言うが、覚醒剤の習慣性だけではないのだ。

 反映を拒絶するアタマになってしまい、ボケるからなのだ。覚醒剤の再犯率は90%ほどだというではないか。

 人はなぜ薬物から抜け出せないかを扱った小説が大沢在昌の『心では重すぎる』(文春文庫)である。この小説は南郷継続先生の、認識論の勉強のためのお勧めでもある。

 反映を拒絶して自分だけボケていくなら知ったことではないが、こういう仕打ちをされた喫煙者は、人を恨むようになる。「吸って、嫌煙主義者を困らせてやる」という報復の感情すら芽生えかねない。心が荒む。
 学校教育の場であれば、嫌いなヤツはとことん苛めて学校に来られなくしてやるとか、先公の言うことなんか聞けるか、となる。好きでない反映を拒絶してもいいと思うようになった結果だ。

 あるいは東大を出た官僚なんかが、「俺は勉強が出来たんだ、秀才なんだ。だから大衆なんか虫けら扱いでいいんだ」と苛めるようになるのも、心が荒れたためである。
 世間の常識というか、世の中に尽くす本来的な人間のありかたを反映しないように処理して、自分の利益だけを大事にするのが官僚だ。

 だから学校で、苛めで自殺した子がでると、校長が全校生徒を集めて「命の大切さを訴える」という茶番をやるようだが、見当違いも甚だしい。生徒の反映のあり方を正してやればいいことである。

 「命の大切さ」などという実態のないお題目を唱えることではなく、全員でジャリ道を歩かせるとか、バーチャルでない現実の社会や自然に触れさせることが、反映を正常に戻す方法なのである。本稿の冒頭で紹介したように、みんなでワッシャワッシャと文化祭や体育祭を盛り上げるのもいい。
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シャッター処理(2/4)

2009年09月22日 | 認識論
《2》シャッター処理の技化
 「シャッター処理」は反映を拒絶することだ。
 反映を嫌がって逃げるか、拒絶すればボケることを今日は取り上げたい。

 開高健のベトナム戦争のルポに書いてあった「シャッター処理」は、すなわち対応の拒絶ではなく反映の拒絶である。ヴェトナムの兵士や市民の教養レベルがそれらしいと、開高はルポしてきた。
 昨日書いたことだが、彼らヴェトナム人は長い間フランスの植民地にされ、日本のようなまともな教育をうけてこなかった。

 よくいわれることだが、植民地にしてその地の民衆に教育を施したのは日本だけだった。他の欧米諸国は、やらずぶったくりで現地人に教育を授ける気などさらさらない。家畜扱いである。日本だけが朝鮮や台湾、南洋諸島で教育を実施し、同じアジア人として蒙昧から救おうとした。

 で、ヴェトナムでも民はろくに教育を受けなかった。ということは、国家にとって肝心要の、国民教育すなわち一国の社会がまともに機能する素地が創れなかった。
 譬えて言うと、小学校のラジオ体操は、日本人がなべてある水準の運動ができるようにするため、である。変な譬えかもしれないが、日本人が社会をまともに創って、動かしていくために、前屈や後屈ができる体になっていなければならないから、ラジオ体操を教え、しっかり体ができるようにするためである。

 人間は集団力を利用しなければ、人間になれない。集団力が発揮されるために、子供のときから「なべて」体が動き、「なべて」考えられる人間に育てる、

 つまり国家は国民をある水準にして、働けること、おカネの計算ができること、文字が読めること、自動車だって運転でき、交通規則が守れること、というような能力を「なべて」可能にするために、学校教育がなされる。 
 ところが植民地はそういう国民教育ができなかった。欧米のハゲタカ植民地主義者がさせなかったのだ。一部の特権階級や、宗教者だけにかろうじて文字が読めて書ける教育が許されただけ。
 したがって、社会関係で教育されることがなかった。

 それが開高健が見たヴェトナムの民衆である。ヴェトナムも第二次世界大戦後、曲がりなりにも独立して初等教育は施されるようになっていただろうが、日本のような高等教育があまねく広まっている状態までは、当時のヴェトナムでは行っていなかっただろう。
 だから、開高健が民衆に質問すると、「シャッター処理」現象が生じる。ヴェトナム人の通訳を介して問いかけるから、民衆としては緊張して答えられない、ということもあっただろうが、これは一般大衆が、社会関係で反映の正しいありかたを学習させられていないからであったと思う(伝統的な農民(労働力)としては教育されても)。

 現今の学校教育、すなわちアメリカの言いなりの、文科省と日教組が押し進めた個性尊重教育が、社会関係で反映できる技化を妨げてきたのだ。当時のヴェトナム人の場合も、あれは植民地政策で、いうなれば「個性尊重教育」で育っているはずである。

 日常会話なら話せても、ちょっと自分の知的レベル(教育レベル)より上のことを問われると、呆然自失しつつ、その難しい、面倒な反映を受け付けまいとする。

 これは06年7月24日に「弁証法で説く『たばこの害について』」で説いたことであるが、対象を反映したくないから反映しないと、どうなるか、であった。
 愛煙家は気分よくたばこを吸いたいのだろうが、昨今は喫煙者に対する周囲の冷たい目がある。それを気分よくたばこを嗜むためには、周囲の視線を気にしない必要がある。たばこに火をつける→周囲の冷たい視線が突きささる→周囲の目をシャッターを降ろすように見ないことにする→それで落ち着いておいしくたばこがのめる、と、こういう処理を心のなかでしなければならない。

 たばこを嫌う人の視線を感じるか、それを一瞬心のなかで気にしたとたんに、ただちにその反映を打ち消そうとすることになる。これが今回説いている「シャッター処理」である。
 やや汚い言葉だが、「しらばっくれる」というやつだ。
 冒頭の高校の文化祭で、廊下も階段もゴミだらけと言ったけれど、あれもまさしくゴミは見たくないと「シャッター処理」しているのだ。

 このシャッター処理が技化するのだ。本来、社会関係では嫌なことだけ見たくない(反映したくない)という“ぜいたく”は許されない。個性尊重教育の害とは、嫌いな反映、対応が面倒な反映をすべて打ち消そうとする傾向が強くなってしまう。
 たばこは体に悪い、という事実や医者の忠告にも目をつぶろう、気にしないようにしよう、という認識を形成していく。

 山寺にこもって修行する坊主のような、反映の拒否、像形成の鈍さを招く。
 だから坊主の悟りとは、ボケであると説いたわが流派の最高指導者の言葉を紹介した。反映の拒絶はボケへの道である。「しらばっくれる」ということである。

 逆から言えば、普通に娑婆の社会関係で認識が創られる人間が多いのだから、意図的に反映を断って(シャッター処理して)ボケる(悟る)ことは大変である。反映を断とうとしても断てなくなっている。それを強引に断とうするのが坊主の修行だから(本来ならだが)、巷の喧噪が届かない山奥で、それまでに創った社会関係での認識を捨て、世間からの反映をできるだけ長期間断たねばならない。
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シャッター処理(1/4)

2009年09月21日 | 教育
《1》学校教育の無惨
 近所の都立高校で文化祭(学園祭?)をやっていると、町内会の掲示板にポスターが貼ってあったので、今時の高校生に認識をいくらか知りたいと思って、ぶらりと訪問した。

 一言で言って、見るも無惨な文化祭であった。「文化祭」という名前はとうてい使いたくない代物である。
 高校生なりの文化祭が多少はあるかと期待したが、まるでなし。
 文化の香りを多少感じてもいいかなという部屋(教室)は、書道部と美術部だけで、あとは(きっとあるだろうと思っていた)定番の焼きそば屋とか、アイスキャンデー売りのテントがある。
 その他はお化け屋敷、ロックバンド、「死なんとか」という表題の不気味な劇…。他校の高校生や父母がうろうろしている。

 ただの下品な祭でしかない。学校を使った、遊びの場だ。これを教育に携わる教師どもはよく許可をしたものだ。文化祭といえども学びの一貫だろうに、そんなものはカケラもない。
 階段や廊下はゴミだらけだった。

 そぞろ哀れをもよおす。

 私の高校時代の文化祭は、今から思えば幼稚なものでしかなかったとは思うけれど、これほどな〜んにもないものではなかった。
 クラブ活動は結構さかんだったし、クラブに属さなくても、一人ないし数人のグループで研究したことを一部屋使って発表することもあった。
 
 私の高校では、国際問題、政治問題、社会問題などを調べて、展示していた。ロックバンドの演奏も、へたな劇もあるにはあったが、高校生なりに意味をまじめに見出そうと言う姿勢はあったと思う。「ボクが取り組んでいる写真の傑作を見てくれ」というのもあった。また、一体感もあったはずだ。あれが幼いながらも集団力の学習であった(参照「集団力について」08年5月20日)
 校舎のすべての部屋が、何かの催し物や展示でいっぱいになっていたが、私が訪問した高校はスカスカ。教室はあるのに、何もやっていない。

 これは端的には、敗戦以降64年間、アメリカ(ユダヤ)の支配によって、私たち(子供も)は、自分自身の頭で考え、自分たち社会の行く末を自分たちで決めてゆく教育も、その能力も奪われてきた、その結果である。
 恥ずかしく、悔しく、悲しいことであった。何に対してかと言えば、立派な日本文化を築いて来た先祖に対してでもあり、文化の高みそのものへ、でもある。

 未来を担うべき若者が、こんなひどいざまになっている…。何人かの生徒に声をかけて、ちょっと話をしてみたが、会話が成り立たない。目の前でシャッターを降ろされたような感じになる。
 例えば美術部の教室で。
「この絵は君が描いたの?」
「はい、そうです」
「あっちのピーマンの置物(?)は君たち美術部がつくったの?」
「いえ、あれは1年2組の生徒の作品です」
「え? 美術部の君たちが自分の絵を飾って、教室をいっぱいにしてあるのではないの?」
「部員が少ないから、しょうがないんです」
「でも文化祭なんだから、自分たちのクラブの主張をそれなりに、たとえ、絵が数点しかないとしても、なにかテーマを掲げて発表するとかするものじゃないの、高校生なら」

 と、こう言うと高校生は、もう相手(私)に「シャッター処理」なのである。憮然としている子もいれば、ボケーとしている子もいる。しかたなく早々に退散した。何も考えていないらしい。
 どういうことですか、と向かってくる生徒もいない。

 私の高校時代であれば、美術部であれば文化祭に向けて何かテーマ決める。「愛」でもいいし「夏」でもいいし、「自然」でもいい。それを部員みんながそれぞれ描いて、展示、飾り付けを工夫しただろう。
 私が訪問した高校では、美術室が展示場になっていたが、イーゼルやら絵の具やらが部屋の隅にむき出しで置いてあって、美術展示の雰囲気すら創られていなかった。どう見せるかに関心がないらしい。驚くべきことだと思う。

 ただ好き勝手にやっているだけに見える。何の目的意識性も感じられない。見学者がどう感じるか、そういう「外界」の反映に関心が払われない。
 つまりは、小学校のときから高校生まで、社会関係で物事を学んでこなかったからである。まさに「教えられたこと」だけしかなく、「教えられたことを自分で捉え返す」ことの能力が育てられていない。
 見事にアメリカの狙いどおりのアホな日本人ばかりになっている。

 先に書いた「シャッター処理」すなわち、こちらからの問いかけにまるでシャッターを降ろされるかのような、無反応になってしまう。シャッターとはカメラのではなく、商店のシャッターに譬えている。
 この言葉は、以前、開高健のエッセイで知った表現である。

 開高健がヴェトナム戦争に取材に行き、現地のヴェトナム人にいろいろ尋ねてみると、往々にしてこの「シャッター処理」をされると書いていた。例えばヴェトナム軍の兵士に、この戦争をどう思うかとか、アメリカ軍をどう思うか、などと質問すると、無表情のままプイと向こうへ行ってしまう。
 昔読んだものなので、それを開高がどう捉えたかは忘れたが、「シャッター処理」という彼の着眼だけは感心していた。そして私はなんとなく、返事もできないヴェトナム人とは、日本人は違うなあと思ったものだ。
 
 すなわち、ずばり言えばベトナムは後進国だなというものであり、長く植民地にされた国の下層の国民はこうなるのか、でもあった。それがなぜかは、明日のブログで考えてみたい。
 当時のヴェトナムでも、知識階級はそんな「シャッター処理」をするようなことはなく、開高健の取材に応じているふうであったが。

 ヴェトナムの悪口で言っているのではないが、そんな無惨な国民にアメリカの属国にされた日本人もされたのである。

 そう気づいて周囲を見渡せば、こういう「シャッター処理」をする人間があちこちで見かけられる。例えば世間の常識が通用しなくなった。それはこうすべきだろうと常識レベルで言っても、若い人に言っても、話が通じなくなった。何を言われているのかと、ぼけーっとしている。

 トラックバックをされてきた「しあわせのストーリー」というブログに訪問して、数回コメントの書き込みをした。几帳面に返事はくださるのだが、私が言いたかった肝心の点に関しては「シャッター処理」なのである。
 トンカチとクギの話を書いてあげた(09年9月08日付)が、それに関しては「面白い話をありがとう」とは書いてくるけれど、あとはノーコメントになる。私のふった話題とは関係ない「トンカチで釘を打つときの、カンカンっていう音は、元気を出してくます」と、こうなのだ。

 これは一種の「シャッター処理」である。相手の肝心な話には焦点を当てずに、まるで関係ない返事が返ってくる。
 つまりは、相手を正面から見つめたくないらしい。
 自分の関心がないことには、反応したくない。ちょっと難しい話だと、無視する。でも無視するのは失礼だと思うらしく、全然あさってのほうの話題で返事をする。

 これもまた「捉え返す」という学習(「『捉え返す』の弁証法的意味9月9日」参照)を蔑ろにした天罰というべきか。
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Re

2009年09月19日 | 認識論
 私は原則としてメールで返事を出すときに、自動的にメールのタイトルの頭部分に付く(Returnの意味の)「RE」や「Re」をそのままにしない。「RE」を削除してから、タイトルをつけて返信する。

 そのタイトルも、先方のつけたタイトルのままではなく、自分のメールの内容に即したものに変えて送る。
 例えば、先方が「昨夜はごちそうさまでした」というタイトルでメールをくれた場合、「返信」をクリックすると「RE:昨夜はごちそうさまでした」という表題が、自動的に現れる。
 たいていの人はタイトルは(面倒なのか)そのままにして、本文を書いて返信するようだ。

 そうすると、最初にメールを送った人のところへ戻って来たメールのタイトルは当然、「RE:昨夜はごちそうさまでした」になっている。
 返事を書いた人のメールの内容は、きっと「どういたしまして」「また食事しましょう」みたいなもののはずなのに、タイトルは「ごちそうさま」になっている。嫌味か? みたいな仕打ちだ。
 私はこういう無神経さ、横着なやり方が嫌いである。

 先方が「昨夜はごちそうさまでした」というタイトルでメールをくれたなら、返信するほうは「どういたしまして」とか「こちらこそ楽しかったです」とか「ご丁寧に恐縮です」のタイトルを付けて返信すべきではなかろうか。

 ビジネスのメールでは「発注書の件」と送ってきたメールに、そのまま「RE:発注書の件」というタイトルで返信するのは許されると思う。お互い忙しいのを承知しているし、「〜の件」と言っているのだから、ことさらほかのタイトル文言を付け替えることもないだろう。

 しかし、私信ではどうだろうか。
 私はしょっちゅうこれでイライラさせられる。私が例えば「感想文はまだか?」とタイトルをつけて弟子にメールを送ったとする。それに対して弟子が「RE:感想文はまだか?」と、そのままのタイトルが付いた返事が戻ってくる。
 これは無礼である。先生をおちょくっているのか、と怒鳴りたくなる。いったいどういう教育を受けてきたのだ?

 ところが、そう思わない人のほうが多いのには驚かされる。
 ほんのわずかな手間じゃないか。「感想文はまだか?」に対する返信なら「遅れてすみません」とか「もう送りました」とか、簡単なタイトルでいいのだ。そうすべきではないのか。

 先方のメールタイトルのままとは、もういかにもゾンザイで、適当で、心がこもっていないという送り主の態度が透けて見える。ときには横柄にさえ思えてくる。あるいは傲慢か…。
 みなさんはそう思いませんか?

 手紙なら、先生が「拝啓」と書いてきたのに、弟子が「前略」で返事をするようなもの、といっても、わかる人はもういないか…。

 メールの返信には、先方のタイトルに自動的に「RE」がついたのを送るのが礼儀、とでもいう決まりでもあるのか? あるまいに。
 
 それに加えて、先方からのメールに、「返信」をクリックして自動的に返信画面が出てくるわけだが、私のパソコンだと先方の文章が下のほうに色が変わって表示されている。
 これも私は原則的に削除してから、私の書いたメールの本文だけを返信する。
 なぜなら、先様のメール文は色が変わっているとはいえ、それがそのまま戻されれば、気分は良くなかろう。いかにも雑な感じがするではないか。
 つまりは、お前なんかは気を遣う相手じゃないんだぜ、という態度なのだ。

 以前、本ブログを読んでくださったある女性からメールをもらって、返事を送ったことがある。
 その女性もメールをもらった始めのころは、私のつけたタイトルへの返信に、ただ「RE」がくっついたものを送ってきたので、一言ここまで述べてきたような内容で注意をした。

 すると、その女性が謝って来ながら、以下のような話を書いて来た。
 以前、友達の女性が、「素敵だなと思った男性がいて、メールしてみたら、その男性は、私が送ったメールのタイトルをREで返事しないの。そういう感覚がいいなぁと思った」と言っていて、しばらくしてその友達は、その男性と結婚しました、と。
 だから私もそれを心掛けてはいたのですが、うっかりしました。「心は細部にこそ現れる」心掛けなければと思います。

 と、そういう返事だった。それ以後、その女性はきちんと、返事にも自分なりのタイトルをつけて返事をするようになったが、しばらくすると面倒になったらしく、私の名前に「様」をつけてタイトルにしたり、「○○より」と自分の名前を書いてくるようになった。
 手抜きというか、どうでもいいという姿勢に変わってしまった。
 私はもう注意しても無駄だと思うようになった。

 私は、この「素敵だなと思った男性」も、それを「そういう感覚がいいなぁと思った」という女性も、人を大事にする感性に優れていると思う。きっととてもお似合いのカップルなのだろう。人間は、こうでなければならないと、私は信条として持っている。
 ちょっとのことだが、その細部が重要なのだ。

 メールにタイトルをつけるのは、忙しいなか確かに面倒ではあろうが、自分の書いた文書を、端的に要約したタイトル(表題)を付けるのは、それだけ頭を使うことである。
 頭が良くなる訓練である。
 そういうことに手を抜き始めれば、それはボケへの道である。

 「RE」だけでは、人間関係に周到な配慮がない。相手がもらって気分を害さないようにするのが当然ではないか。
 面倒だからと、メールを送ってきた相手がつけたタイトルのまま返信するとは、相手の認識を反映しないようにしているのだ。面倒だからとか、自分の好きなように(相手の気持ちなど斟酌しない)とするのは、大事な社会関係に自分を置きたくない処置になる。
 それこそがボケへの道である。
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戒名 爆笑カラクリ講座(18)

2009年09月18日 | 戒名批判
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    戒名 爆笑カラクリ講座(18)
   第2章 「規制撤廃」への道

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《11》宗教法人をつぶそう
 政治家も官僚も、宗教法人にはやらせ放題だ。なぜ?
 政権交代した民主党も、それにメスを入れる気配すらない。放って置くつもりらしい。なにせ「友愛」だから…。
 
 政治家が宗教に甘いのは、政教分離? 信仰の自由? いやいやどうして、そんな理由ではあるまい。
 もしあなたが国政選挙にうって出ようと考えたとしよう。当選するには何が必要か?

 票でしょ。あなたは一票でも多く獲得するために、いろいろな手をうつのではないか。むろん買収したりしたら、自分の手が後ろに回るから、それはなしだ。街頭に出て、辻説法? 駅前でビラを配り? 車で走りながら名前を連呼しつづける? でも、そんな手法だけでは不安だろう。浮動票ってやつは、どうころぶかわからない。

 確かな票が見込めるのは、まず組織票である。候補者が当選の暁に、その組織になんらかのメリットがもたらされると認定されれば、組織票がほぼ確実に入ってくる。右も左も、与党も野党もみな、そういう手法を血眼になってとろうとする。

 かつて日教組全盛期には、選挙となると、教師が父母にビラを配って左翼政党に投票するよう働きかけていた。父母は教師に子どもを人質にとられているようなものだった。だから教師は、平然と選挙運動を展開できた。

 宗教法人は、宗教法人法で非課税特権を保障されているのだから(いわばそれが「人質」だから)、協力しないわけにはいかない。逆に宗教法人の組織票をチラつかせれば政治家を動かすこともできようというものである。

 よって、わがテーマである戒名は、公益法人の付随的な非営利活動とされて、膨大な金額が国税庁からお目こぼしになる。庶民が畏れながら、と訴えようにも、寺院は国に手厚く庇護されてご安泰であると、昨日書いたとおり。

 話は飛ぶようだが、長年、サラリーマンは国税庁に背広代は必要経費として認めろと主張してきた。裁判も起こした人もいた。しかし、国税庁は絶対に認めない。基礎控除以外にはビタ一文、必要経費なんかあろうはずがないというのが、国税庁の認識である。もちろん政治家も動かない。裁判所はサラリーマンの味方ではない。

 どうして国はサラリーマンの言うことを無視するのか、と言えば、それはサラリーマンやOLが政治家に献金しないから、なのである。「ひいきの政党にカンパしてます」という人は多少はいるかもしれないが、カンパと献金はケタがちがう。これはもう自明のことなのだ。

 宗教団体はどうか? それは選挙のみならず、政治家に献金しているに決まっている。なんらかの見返りが見込めるからである。サラリーマンやOLは政治家に献金して、なにか優遇措置を求めることはない。サラリーマンは組織ではない。政治家にとっては組織票たりえないし、献金もない。だから放っておかれる。

 建前では市民のためとか、国民の皆様にご奉仕するのが政治家です、と言うが、誰も信じてはいない。
 政治家は国の方針として、宗教法人には非課税とする。だから、宗教法人である寺院は好き勝手に、領収書を発行することなく、布施をとることができる。いったい幾ら「付随的」な収入があるのかは、闇の中である。

 その布施の一部は、坊主のベンツを乗り回す贅沢費に消え、遊興費に消え、一部はこのシステム維持のために政治献金に消える。
 だからもし布施を、坊主の営利活動を「付随的」なものとしてではなく、きちんとした営利と認定して税金をとりたてたなら、政治献金はいかほどのものに減るかは、中学生でも推理できる。これが、宗教団体が宗教法人になりたがる裏の事情であるし、政治家が、そして国家が宗教を庇護する裏の事情でもある。

 だが、信仰の自由なる錦の御旗がひるがえっている以上、宗教法人の付随的な活動は一切規制を受けることはない。アンタッチャブルである。

 こうしてみてくると、今や与党の一角をなしている政党が、宗教団体の後ろ楯で進出してきたわけも薄々読み取れようというものである。

 宗教法人が国から手厚く庇護されている現状は、日本の政治のためにもよくないし、日本宗教のためにもよくない。不公平であるし、利権、汚職の温床になる。宗教には本来の形に戻っていただこうではないか。修行したければしなさい。ただし自力自努力でやることだ。人からカネをふんだくるな。

 そのための方策はきわめて簡単である。自由化、これである。自由化により、競争原理を導入する。規制緩和、と言ってもよい。
 公益法人の付随的な活動なる抜け道は廃し、きちんと営利として認定すればよい。戒名をつけたい人には、きちんと料金を示して徴収し、領収書を発行する。そして、誰でもこのビジネスに参入してよいことにするのである。宗教法人だけの特権にはしない。

 そうすれば、あの戒名の、おざなりな美辞麗句の羅列もなくなるのではないか。不透明な料金の徴収方法も消えるのではないか。

 教育界も国公立を廃しして全部私立にすれば、競争原理が働いて、左翼日教組の跋扈はなくなるだろう。まともな日本の文化を大事にする教科書が使われるだろうし、国家百年の計に基づいた教育が実施されるであろうと予測される。戒名もそういう緊張感のなかで、本当に必要なものならそれなりの発展をしつつ生き残るであろう。

 今日の宗教の堕落は、宗教法人法による庇護を隠れ蓑に、うまい汁を吸おうとしているところにもその要因の一端がある。死者は好況不況に関わりなく発生するし、法事も定期的に行われるから、「付随的な活動」は減少することがない、そういう安閑とした環境が、宗教を堕落させたのである。

 だが、宗教法人法を見直すとなれば、宗教団体はもちろんのこと、大票田やら献金やらを失うことになる政治家や、骨の髄まで事なかれ主義で、仕事や権限がなくなることを恐れる小役人たちが抵抗勢力となるだろう。
 「わが国の伝統文化にそぐわない」とか「信仰の自由は憲法で保障された普遍的な権利である」とかなんとか屁理屈をつけて、自由化は阻止されてしまうだろう。

 この抵抗勢力の壁を突破するには、結局のところ、情けない話だが、外圧しかなかろう。
 アメリカが、そこにビジネス・チャンスありと思えば、日本政府に規制緩和を求めてくるだろう。あるいはそれがアメリカのビジネス参入を阻害していると思えば、積極的に介入してくるにちがいない。大統領がアメリカの宗教界の大物を引き連れて、日本にやってきて、門戸開放を迫るのかもしれない。かつて自動車部品などの貿易摩擦が起きたときのように。

 その作戦が効を奏すれば、もしかすると日本はアメリカ式キリスト教に席巻されてしまうかもしれない。わざわざハワイやカリフェルニアに行って、キリスト教会で結婚式をあげようという物好きな日本人が増えている昨今、あり得ない話ではないのではないか。
 そうなると、死者には仏教がつける戒名ではなくて、牧師がおしつける洗礼名となり、そこでもやはりネーム代が徴収され、円がごっそりアメリカにもっていかれることになる。

 自由化にはこういうリスクはつきまとうが…。
 そういう暗い予測はさて置いて、当面は、個人レベルで自由化を実施してしまおうというのが、自分で戒名をつける作戦なのである。

(第2章終わり)

※第3章は1週間か10日後くらいに掲載します。
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戒名 爆笑カラクリ講座(17)

2009年09月17日 | 戒名批判
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    戒名 爆笑カラクリ講座(17)
   第2章 「規制撤廃」への道

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《10》宗教法人とは何か
 宗教法人とは宗教法人法によって法人格を取得した宗教団体のことである。

 法人には大きくわけて、営利法人と公益法人がある。営利法人は、営利を目的に設立、活動する法人で、端的にはふつうの企業がこれにあたる。
 公益法人は、営利を目的としないで、宗教活動、慈善活動、学術研究活動、技芸といった不特定多数の利益を目的に活動する。

 公益法人のうち、宗教法人、学校法人、医療法人、社会福祉法人など重要な法人については、それぞれ特別法が定められている。

 宗教法人はだから、公益法人として営利を目的に活動してはならないのである。が、ただし書きがつく。宗教法人が、その事業経営の資金を確保するために付随的に収益のための活動を行っても、公益を目的とする本質には矛盾しない、とされる。

 もしあなたが、新興宗教を立ち上げたいと思った場合、必ず宗教法人に登録しなければならないかかというと、そんなことはない。宗教活動にあたっては、法人、非法人のいずれを選択するかは自由である。
 宗教法人になるには、所轄の都道府県知事か文部科学省に届けて認証を得なければならず、以後、多少は監督されることにはなるが、なんといっても税法上一定の非課税規定の適用を得られるメリットが大きい。そのほか、団体として財産を保有・運用でき、訴訟などの法律面での活動ができるようになる。

 …というのは、表向きの顔である。裏の顔は別にあるが、それは後述する。

 宗教法人になる資格は、目的として信者に教義を教えひろめ、儀式行事を行うことである。さらに礼拝の施設を備えた寺院や教会や神社があること。また宗教団体を包括する宗派、教団などがあればよいのである。

 宗教法人に対しては、日本国憲法が信仰の自由を保障しているので、所轄庁が宗教上の教義や布教形態について干渉することはできない。認証申請さえ適法なら、どんな非科学的なことを唱えようと、行政が待ったをかけることはならないのである。だから例のオウム真理教を取り締まることが困難だったのである。

 どうです、坊主が戒名をつけるにあたって、定価を表示しない理由の一端がわかりましたか。公益法人だから、建前では営利を目的に活動してはならないことになっている。
 だが、「その事業経営の資金を確保するために付随的に収益のための活動を行っても、公益を目的とする本質には矛盾しない」とのお墨つきがある。
 おみくじを売るとか、厄払いしてお札料をとるとか、戒名をつけるとか、賽銭箱をおくとか、それらはみんな営利目的の活動ではなく、「付随的」な活動になっちゃう。

 したがって、死人に対して葬儀を行い、特殊な車で搬送し、火葬場で荼毘に付しお骨にする。これは営利目的に営利法人が行なう事業である。その過程で、坊主があらわれて、経を唱え、数珠をまさぐり、鐘を鳴らし、戒名をつける、これは公益活動のなかの付随的な活動なのである。法律上はそうなるが、これを瞞着といわずして何というか。

 例えば正月の初詣、神社仏閣の本殿の前にしつらえられた賽銭箱のなかに、いったいどれほどのカネが投げいれられるのか。神社仏閣がその総額を公表したことはないはずである。あのカネは、明らかに神社仏閣の収入である。賽銭を投げて願い事をすれば神や仏がかなえてくれる、なんておためごかしを信じる善男善女の群れが、ろくに宣伝費もかけないのに押し寄せて、巨額のカネを置いていってくださる。それが非課税なのだから、不思議としかいいようがない。

 賽銭を非課税のまま懐に入れてもいいようにしてくれるのが、国である。その国を動かしているのは、政治家なのだから、神社仏閣は政治家をことのほか大切にする。政治家のほうは、非課税を保障してやるかわりに、あの巨額な賽銭の一部でもご相伴にあずかりたいと願って当然の流れではないか。

 今度の総選挙でも、例えば霊友会とか立正佼成会とかの宗教団体がこぞって自民党を支持し、信者に自民党に投票するよう働きかけている。つまりはそれだけ宗教団体に大きなメリットが自民党からプレゼントされる仕組みになっているからにほかならない。

 だから自民党は長年。政権の座を守ってあぐらをかき、利権まみれに堕落、腐敗したのだ。それゆえ、本当に必要な政治が行われず、宗教団体や、あるいは大企業に利益になる政治が幅を利かせて来た。
 宗教団体、そのうち創価だけは自前の政党を持って、自分たちに有利なことをやり放題である。政党をもたない宗教団体は自民党に頼ったのだ。

 宗教の「宗」とは、根本という意味である。根本の教え。それなのに、かくも堕落するのである。根本から腐っている連中である。自民党は票をくれるなら非課税を維持しますよと言い、宗教団体は票をあげるから非課税にしてね、と互に持ちつ持たれつ、脅しつ脅されつだ。根本から腐っている連中である。
 せっかく自公政権が崩壊したのだ、民主党にはぜひ宗教団体への非課税を廃止し、苛烈に税金をとりたてて、例の「財源」不足問題(?)に応えてほしいものだ。

 当然に、寺が受け取る布施や戒名代にも、きっちり領収書を発行させなければならぬ。

 憲法で信仰の自由は保障されている。公益法人法でも宗教団体は保障されている。税法上の非課税特権がある。だから、戒名が不当に高い、暴利じゃないかと、新聞社に訴えようと、裁判所に訴えようと、聴いてはもらえない仕組みになっている。

 しかし、現に付随的であれなんであれ、あれは立派な営利活動ではないか。おみくじなんて、あんなデタラメなものでも、幾ばくかの料金をとる。だったら税金くらいきちんと取り立てたらどうか、と、日ごろ税務署に多大な貢献をしている庶民の感覚では思う。そう、それなら多少は腹の虫も収まるだろう。

 ところが、誰も宗教法人のありようにメスを入れる政治家はいない。憲法で決められてしまっているもの、宗教法人法で決められてしまっているもの、だから「触らぬ神に祟りなし」なのか。
 日本国憲法第9条の件では国論を二分する大論争になるのに、特殊法人を潰すだけでも国論を二分する大論争になるのに、こと宗教法人の税務体系については、無言のままである。


※第2章 「規制撤廃」への道は明日までです。
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