この本は、2007年に米下院でも証言した元日本軍「慰安婦」・李容洙(イ・ヨンス)さんからの聴き取りである。彼女は1928年12月13日、韓国・大邱(テグ)の農家に兄1人、弟5人の中に一人娘として生まれた。
著者:李容洙、高柳美知子
出版社:新日本出版社
発行:2009年8月25日
定価:1300円+税
15歳の8月くらいだった、自宅から日本兵に騙され連れ去られ、他の4人の女性とともに汽車に乗せられ、平壌を経由し大連で海軍兵と共に船に乗せられ、上海に立ち寄り空爆に遭いながら着いた先は台湾だった。
港からトラックで着いた三角屋根の家にはお姉さんたちがいて、「あまりにも若い、お前はこんな事をしてはいけない」と匿ってくれたが、彼女は何も解らなかった。しかし、お姉さんから「拒めば殺されるから行きなさい」と言われ、怖くて軍人の腕に噛みついたら、鍵の付いた部屋に監禁され暴行を受け気絶し、ふとももを刀でえぐられた傷跡は今でも残っている。
16歳になり一日に3〜5人、休日には10人くらいがやってきて、拒めば暴力を受け、半ば諦めと開き直りで相手をし、梅毒や淋病、マラリアにも感染して地獄の日々を送った。
その後、1人の特攻兵士が彼女を救い出し、「お前はぼくの初恋だよ」と大事にしてくれたが、間もなく出撃して逝った。
戦後帰国した彼女を、母は3年前に死んだと思い、最初は信じなかった。その後は過去を隠し続け結婚もせず「老処女」と言われ肩身の狭い思いをし、母が亡くなった後はソウルに出て、保険勧誘員などをして独り暮らしを続けた。
彼女が証言をするキッカケは、同じ様な体験をした金学順(キム・ハクスン)さんが91年8月に名乗りをあげ、同年12月に日本政府に対し賠償を提訴し、また、文玉珠(ムン・オクジュ)さんも同12月に名乗りをあげたことだ。そして、金福善(キム・ボクソン)さん(故人)もビルマ(現ミャンマー)まで連れ去られたと証言した。彼女は「被害者」が自分だけではないことを知り、そして、悩みながらも「この3人に続こう」と決意したのである。
李容洙さんは何度も日本に来て訴え、埼玉県平和資料館が、年表表記の「従軍慰安婦」表記を「慰安婦」に書き換えたことに対しても、東松山市の同資料館に行き、館長などに直接抗議している。
終章の「李容洙さんへの手紙」には共著者である高柳美知子さんの思いや、李容洙さん取材の経緯などが書かれている。また「おわりに」で著者が、独のワイツゼッカー元大統領の「過去を忘れるものは、結局のところ現在にも盲目もなる」の言葉を紹介しているが、周恩来も「前事不忘 後事之師」(前の事を忘れず、後の事の教訓とせよ)と全く同じ発言をしている。正にこれらの言葉は日本への警鐘である。
先の米下院に限らず、オランダ、ドイツ、カナダなどの各国議会から「公式謝罪決議」がなされているが、日本では保障処か「河野談話」に止まり、それさえ否定する人たちがいる。
この態度は強制連行・労働などに対しても同様で、朝鮮に派兵した秀吉や、韓国併合した伊藤博文を日本では英雄扱いし、その後、日清、日露、日中、太平洋戦争と侵略戦争が続いた。この情況に日本人の誇り処か、情けなく恥ずかしく思う。多くの人に悲劇の加害を知って欲しい。
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