恐縮です2009-07-30 Thu 23:09
未だに今年の結果を見届けたいという気持ちがあって、このブログも閉められずにいました。たまたま、まだ拙ブログをご覧頂いている方がいらっしゃって、法教演習の使用法についてお尋ねのコメントを頂きました。まともに更新もしておりませんのに、恐縮です。
私は現在、学部試験の監督補助の業務をやっています。それなりに名の通った国立大学の一角なのですが、やはり学部生は十分に学習しないまま、半ば博打的に試験に臨んだりもするようです。この学校でも、古い時代からの国大によくみられた「放棄」制度があったようですが、GPAの導入によって放棄制度は廃止され、現在は試験前の一定期間、履修取消しの手続を用意しています。早い話が、(私が学部を過ごした国大もそうでしたが)問題をみてからなかったことにする、という制度はそういった制度を持たない大学と公平なGPAの算定ができないので、やめてしまったということです。 しかし、試験会場にきて試験時間中に手を挙げて、「放棄ってできないんですか?」とぼそぼそ訊く学生がいることには正直戸惑いを覚えます。自分は明らかに勉強が足りていないことを一定程度自覚しつつ(そうでなければ「放棄」の文字が浮かぶとも思えません)、その場まで来てしまうという安易な選択が、依然として学部にはまかり通っているというのは、疑問を禁じ得ません。 現状が厳しさを増しているのでそのような選択肢はないのかもしれませんが、仮にこのタイプの学生が「なんとなく」ローへ進学した場合は、きつい2年ないし3年と受験時代を迎えることは想像に難くありません。陰口をたたいているような後ろめたさを感じもしますが、教員サイドとしては、「勉強していないことは自慢にならない」と断ぜざるを得ない気がしています。落ちるべき者は落とすという毅然とした態度(いわゆる鬼教員)が、少なくともマスプロ講義においては必要だという気がしています。 試験は結果がすべてである以上、その射倖性は問題内容如何です。その意味では、学部の試験は本当に教員の性格がよく出るという印象を持ちます。盛りだくさんなもの、学生のレベルを推し量るに相当厳しいレベルのもの、博打的要素がきわめて高いもの、様々です。しかし、条文を見つつも正誤問題の解答に相当時間を要するというのは、明らかに準備不足との感を否めません。 皆さんは、もちろんそんな抗弁はできませんよ。念のため。 テーマ:ロースクール(法科大学院) - ジャンル:学校・教育 |
ほっぽり気味でスミマセソ2009-07-20 Mon 20:53
なんとなく仕事があって、かといって過重勤務ではないことはもちろんなのですが、忙しさにかまけて更新が途切れがちです(--;巡回していた受験生の皆さんのブログも、閉まったり更新を停止されたりと、少し静かになっているので、その影響かもしれません。
私は、担当していた半期の学部ゼミが明日で終了になり、とりあえず法学部の授業負担はこれで一段落します。実際には後期、学内非常勤という形態でより重いビジネススクールの双方向授業が待っていますが……。これからは学期末試験の監督補助がしばらく続きます。 私が現在世の中に(通貨を給付して頂いている)フィードバックとして可能なことは、細々と行うプライベートなゼミのレクチャーを除けば、論文を書くことくらいしかありません。幸い、重判解や商事法務本誌でも拙稿を引用・参照等して頂いていますし、研究や判批の報告機会もぽつぽつと頂いています。研究ペースもさほどトロい訳でもありません。今は研究ノート1本を校正に回し、判批を1本執筆中で、うまくいけばもう1本ほど、ここ2-3日で書いた小稿を公表する機会があるかもしれません。 こうなってくると、いよいよ受験界とも縁遠くなってきて、自分にとって新司法試験は何だったのだろうか、と思うこともあります。しかし、今も脈々と役立つことがいくつかあります。 1. 就業規則等で労働条件を確認する際に、労働法の知識はきわめて有用です。なぜ自分に裁量労働制の適用はないか、賞与の支給日在籍要件の重要性といった基礎知識から、基本的に降りてくるだろうお金の試算まで、一通りのチェックが自力で可能です。 2. 一見会社法プロパーのように見える裁判例でも、民法の一般理論が重要な隠れた論点となっていて、同業者がきわめてそれに疎い場合などは有利です。「実務に対する理論的統制」をキーフレーズにしている私にとって、「理論」の縦割り構造は、打破しなければならないと思うことが常々です。これをネタに小稿を1本編んでいます。 3. 政治にかかるニュースを憲法(主として統治機構論)からチェックすることができます。党内民主主義の観点は、特に与党Lの少数派活動の観点からは十分にチェックすべき視点だと思います。下手をすれば、自由民主党は「民主」的でないかもしれませんから。 現在の新司法試験の運営をみていると、きわめて絶望的な気持ちにさせられることもしばしばだと思います。でも、まだ音を上げるには早すぎます。受かっても修習+二回試験が待っているんですから。夏は暑くだるい季節ですが、めげずに自分のやるべきことをお互いやっていきましょう。 テーマ:ロースクール(法科大学院) - ジャンル:学校・教育 |
法務の勘を養うこと2009-07-14 Tue 22:45
現在、既修3年生の一部の方の希望で、法教演習をネタに(こっそり)ゼミをしています。
その際、(皆様は思い出したくもないかもしれませんが)今年の問題に関して、モリテックス東京地判の話を少ししました。かなり多くのロー修了生は重判を一度は目通ししているはずですが、予想外にこの東京地判についてはノーマークだったようです。しかし、これは下級審ながら実務上は重要な判決だということを説明すると、その見極めはどうするのか、という質問を受けました。 正直、なかなか一言で説明することは難しい気もします。ただし、モリテックスに限ってみれば、以下のような特徴があったといえます。 1. 下級審ながら、東京地裁民事第8部(商事部)判決で、実務上の注目は熱い。 2. 事案は単純ではないが、上場企業の株主総会決議が取り消されたもので影響も甚大である。 3. 委任状勧誘戦(proxy fight)という、企業買収と並ぶ企業コントロール権争奪の局面であり、実務上きわめてホットなテーマである。 そもそも、『重要判例解説』と銘打っている以上、下級審であっても何らかの重要性があるからこそ、掲載されているともいえます。重判や百選を読むときは、もちろん皆様の場合は「最判」「最決」がもっとも重要であることは否定しませんが、その判決が「法律学的な論点」についての新判断なのか、「法務として重要な争点」についての新判断なのか、「事例判決」なのかを冷静に見極めることで、少しずつこの類の力はついてくるのではないかと思います。 テーマ:ロースクール(法科大学院) - ジャンル:学校・教育 |
法律マターとしてのハイブリッド車2009-07-03 Fri 12:40
例年通り、最高裁のウェブに司法修習選考応募要綱が掲載されました。私は今年も行かずじまいですが、結構細かい書類が必要になりますし、修習希望地を「以下一任」にすると本当に地方に飛ばされるそうですので、熟慮された方がよいかと思います。
今日は巷で人気のエコカー、ハイブリッド車にまつわる法律問題のお話です。 プリウスを代表格とするハイブリッド車は、低速走行時のガソリン消費を抑えるため、高速走行時に充電し、停止時・発進時などには電気でスタートする方法を採っています。ところが、この電気スタートが思わぬ効果をもたらします。 電気で動いている場合の車は、エンジン音がないためほとんど無音です。そのため、特に視覚障害者の方にとっては、接近しても気付かない場合が多いようです。海外では意図的に音を発するような装置の開発も進んでいるようですが、実は問題はそう単純ではありません。 まず、視覚障害者へかかる「配慮」を行ったとしても、実は聴覚障害者の方や一般人に比して不合理な差別(一種のアファーマティブ・アクション)を行っていると評価することも可能です。聴覚障害者の方や一般人には車の移動は可視的であり、かかる立場の人たち(特に一般人)から視覚障害者を「保護」するための手当てをしても、それは視覚障害者の方々からすればいらぬお節介である可能性を否定できませんし、差別の固定化につながるおそれもあります。 他方で、実際に事故が起こった場合にも、損害賠償法上様々な問題が起こる可能性を否定できません。例えば、エコカー減税で普及を促進する立場の政府に対して、事故被害者たる視覚障害者の方は国賠訴訟を提起できるでしょうか?おそらく点字ブロック不設置国賠訴訟同様の判断が示されることになると思いますが(このように、類似したケースを引きつけて異同を厳密にチェックする手法が新試験に必要なことは、皆さん重々ご承知のことだと思います)、どこか納得できないものを感じます。 また、将来的に電気自動車が本格普及した場合、かなりの道路交通は「無音化」してしまう可能性があります。かかる状況においては、歩車分離信号の設置や、歩道と車道の完全分離という作為を行う必要が生じてくるかもしれません。 実はこの類の問題は、現在でも伏在しているとはいえます。大音量でi-Podを聴いている人間や、私のようにノイズキャンセリング・イヤホン(カナル型)を使っている人間は、意図的に騒音を排除している訳です。このような場合には「自己責任」となる訳ですが、上記の問題は、視覚障害者の方々の取扱いという、法律的には困難な問題を包含している点に特徴があるといえるでしょう。 私たちは、騒音公害の時代から無音公害の時代への転換点にさしかかっているようです。 テーマ:ロースクール(法科大学院) - ジャンル:学校・教育 |
企業のゴーイング・コンサーン・ヴァリュー、その他2009-06-26 Fri 22:42
明日・明後日は所用で留守にします。
どうもおさまりがつかない話なので、エントリを起こします。関心をお持ちの方もいらっしゃるかもしれませんが、「かんぽの宿」売却問題です。 一連の問題は、特定企業に早い段階での一括売却が行われようとしたため、当時の総務相が認可をせず、業務改善命令を出し、社長の再任議案にも同意しない旨表明したため、事実上首相が罷免を行い、社長の続投を支持した、という風にまとめられるかと思います。 世の中では、罷免された前総務相の行動がわかりよいこともあって、(現在の)野党を中心に社長の辞任を求める動きが少なくなく、また相当数の国民の支持を得ているように思います。 しかし、ここでこそ法律学からの冷静な判断が必要だと思います。 キーポイントとなる要素は、会社法(および関連する経済学の基礎)、労働法、倒産法の3法分野です。 世間一般の方からみれば、数千億の建築費を支出して建てたいくつもの施設を、その経費の数十分の一で売却すること自体が解せない話だということは、素人感覚としてはよくわかるところです。 しかし、「かんぽの宿」は慢性的な赤字体質です。倒産法選択の方はよくおわかりのように、企業が実際に倒産した場合、債権者の大幅な債権カットと、従業員の大幅削減(最悪の場合全員解雇)は避けられないところです。他方で、「かんぽの宿」従業員は完全に民間会社の従業員と同様に扱える訳ではないので、それなりの身分保障が必要になります。 一般企業に「かんぽの宿」を一括売却することは、事実上の私的整理に等しい処理だといえますが、同譲渡に関しては従業員の雇用保障が一定程度盛り込まれていました。確かに一部論者の指摘するように、他の入札企業に比して、譲受予定企業の雇用保障は厚いものではなかったようです。その点を問題とするのであれば、十分ありうる考え方(問題の建て方)です。 しかし、このまま「かんぽの宿」を継続して日本郵政グループが保有すれば、赤字の垂れ流しが続くことは明らかです。これはすべて結果として国費支出になります。この点に、通常の私企業の私的整理とは大きく異なる性質があります。赤字を垂れ流すというのが「国民の総意」であるならば、いくらでも垂れ流せるのです。破産の概念がないのですから。あるとすれば、国家自体の破産です。 従業員の将来的な雇用保障・慢性的な赤字体質を織り込んで企業を現在維持する場合の価値(going-concern value)は、明らかに簿価の数十分の一です。下手をすれば、ほとんど資産価値はないかもしれません。それを、簿価を大幅に割り込むことの一事をもって切り捨てるのは、まさに企業経営のイロハを知らない輩の言説と言わざるを得ません。大政治家のボンボンだけはある、というのが正直な感想です(これは兄弟いずれにもいえるでしょう。彼らの言説は、この件に関しては一致しています)。 現在の総理が取り巻きの言うことをよく聴くため、ころころと言説が変わることはよく指摘されることですが、この点に関しては、前総務相の意見を結論として排除したことは正当であったといえます。 もう少し話を大きくして、憲法(統治機構ですが)的発想をしてみましょうか。二大政党制の最大の特徴は、一定の政策パッケージのうちどちらを選択するか、という「究極の二択」を国民が迫られることを意味します。政党LのパッケージもDのパッケージも気にくわない、という場合には、選択肢がないというのが特徴なのです。多数の政党が併存する状態というのは、このような二大政党制の問題点を一定程度止揚する特徴を有しているということです。また、パッケージの組み合わせが重要な争点になるので、manifest(o)の重要性が増すことも必定です。この点で、野党Dのマニフェスト運動には、十分な合理性があったということです。 法律家は、多数の市民の支持するものを支持するための職業ではありません。無辜の処罰は断じて許す訳にはいきませんし、少数派の人権も、通説によれば精神的自由権であればなおさら、あるいは有力説によれば「切り札としての人権」であれば絶対に、守り通さなければなりません。 そのためには、確固たる信念もさることながら、実際に世の中で起こっている問題を正確に認識することもきわめて重要です。政治家だけでこの国を動かせる訳ではない。この一文は、「政治家」を「日弁連」に置き換えてもなお真なる命題であるように思います。 テーマ:ロースクール(法科大学院) - ジャンル:学校・教育 |