Release Heart〜子持ちナースの日常

自分の生い立ちに関すことから日常のこと、または社会的なことまで何でもござれの日記。

幸せ自慢大会

2008年12月06日 23時07分15秒 | 信仰
今日は近所の学会員さんのお誘いで、小グループの会合に行ってきた。
会合といっても、ざっくばらんなお茶会。

今日は初めて会う婦人部幹部。
元看護師らしい。
いい人そうだったけど、これといって何かを感じる人でもなかった。

私に対する前情報は得てるだろうね。
今や、学会の書籍も機関紙も何も取らず、活動もほとんどしないで、学会や公明のやり口に批判的な私。
気を遣いながら話しているのはわかる。

いつもなら、私もハッキリ物を言うのだけど、今日は80過ぎの草創の壮年もいたからね。
ちょっと話を聞きながら様子見て、あれこれ言うのを止めた。

昭和44年に入信した人らしい。
本当に温厚な笑顔の柔らかい人だった。
病気がちの奥さんのために、小まめによく動く人。

今日はその壮年の方の自宅で会合。
そこそこ大きな一軒家。
ひ孫もいて大家族で、仲良くて幸せいっぱいという話をされていた。

苦労話といえば、昔の学会活動は大変だったという話ばかり。
そりゃ〜今ほど恵まれた環境ではなかったでしょう。
今は本当に恵まれているのに、学会のことをあれこれ悪く言う人がいる、それもどうかと思う、私はこんなにも幸せだという話。

まぁ〜それが本当に本音なら、実際に恵まれた環境で過ごされているわけだし、結構な話でしょう。
これ以上、何も言うことはないよ。

他の婦人部幹部たちも、そうそう昔の学会は本当に病人と貧乏人の集まりだったのよね〜
本当にいろいろ守られて、こうして幸せになって、本当に良かったわぁ〜
と幸せ自慢大会が始まる。

別にそれはそれで構わないよ。
でもね、そこには社会の目はないよ。
軽くTVニュースの話も出るけどね。
ケラケラと笑って、自分は守られてるという話が延々と続く。

ああ〜面白くない。
やっかみや妬みじゃないよ。
私も残念ながら、その人たちと同じく、恵まれた環境でぬくぬくと過ごしていて、人並みの幸せを満喫している。
確かに、それは失いたくないという気持ちがある。

だけどね、同苦の気持ちを忘れ、ガラスケースに入れられて、綺麗に着飾ったお人形さんにはなりたくないと思ったね。
このまま、ここにいたら、私はこの人たちと同じになっちゃう、ああ〜やだやだ、そんな感情を抱いた。
学びも何もなく、心打つものもなく、甘ったるい砂糖菓子のまま腐ってゆくのは嫌だ!

私にとっての幸せは、いかにも幸せ満喫してますという、そういう世界じゃない。
かといって、戦火に飛び込んで行くほどの勇気もないわけだけど、だけどね…
でもまだまだ、甘ちゃんな私。
どうにかしたいね。

先月は、下の子の5歳の七五三だったけど、学会の会館には行かなかった。
これを最後にと思ったけど、行かなかった。
かといって、神社や寺にも行かなかったけど。
今年でもう学会納めをしましょうかね。

コメント (4) | トラックバック (0) | goo

”純粋”という言葉

2008年10月10日 13時24分22秒 | 信仰
学会員は何かと”純粋”という言葉で片付けますが、本当にそれでいいんでしょうか?

狂信・妄信的に信仰活動をしている人。
それだけではなく、家族や周囲の人を傷つけ、犠牲にしてまでなされる信仰活動。
自己中心的に捉えた思想・哲学の押し付け。

純粋の意味を辞書で調べてみると
1、混じりけがないこと。
2、邪念がなく清らかなこと。

*純粋理性
<ドイツのカント哲学の用語>
経験から独立した先天的理性の能力。

純粋という言葉の意味を考えても、狂信者に当てはまる言葉ではないと思えます。
その言葉が免罪符になって、組織内では許されている現実があるのではないか?
そんなものは、一般世間には通用しない話です。

純粋という言葉で、自分を納得させたり、周囲を納得させたり、それは横暴というものでしょう。
長く組織の中に身を置き、その中で使われる言葉をずっと聞いていくうちに、それが常識のように思ってしまう。
あたかも道理に適った正しいことのように感じてしまう。
そこに何の疑問も感じなくなってしまう。

そうやって、組織内で自分の考えや意見を持ち、行動していくという責任から知らず知らず逃れ、漠然とした幸福感に浸っていくのか…
そして、何の疑いもなく、組織の奴隷となっていくのか…

言葉一つとっても、私はしっかり考えていけるような人間になりたいです。

コメント (0) | トラックバック (0) | goo