全日本空手道連盟の組織と松涛同門会
突然時代が一足飛びに飛んで、全日本空手道連盟(以後、全空連)の事となるのは、いささか唐突ではあるが、松涛同門会が出来、
船越先生の記念碑を鎌倉円覚寺に建立したことを書く筋みちとしてこれも空手の歴史のひとこまとして残して置くべきと思う。
昭和41年春伊藤(俊)、高木(房)さんに呼び出されて私がパレスホテルに行くと「松涛一門の会を作りたい」とのお話しだった。
「それぞれの団体には話しをしておくから後は望月が連絡窓口となってまとめるように」とのことであった。
その時の話しを要約すると、既に昭和39年に設立されていた全日本空手道連盟は、その当時の組織は現在と同様日本全国を都、道、府、県の連盟として全空連の統率のもと各自、
地区連盟で運営してゆくものであったが、当時の構成団体は全日本学生空手道連盟、全日本実業団空手道連盟、全国自衛隊空手道連盟(後に実業団連盟と合体)とそれに4大流派、
即ち松涛館、剛柔流、糸東流、和道流をそれぞれ代表する各1団体の合わせて7団体によるものであったと記憶している。更に後に佐々木氏の主宰する全国空手道連合会が加わったのではなかったかと思う。
そして松涛館を代表する上記の1団体が、昭和32年4月10日文部省が認可した社団法人日本空手協会(以後、協会)であつた。
(その後、協会は昭和50年11月全空連を脱退、6年後の昭和56年全空連に再び復帰し、全空連組織変更後の松涛館代表として全空連各流派後援団体の一つとなる。
又、これとは別に平成2年、協会の一部が協会を割って出て、社団法人登記簿謄本事件をおこし、裁判となり東京地裁、東京高裁における協会の全面勝訴を経て平成11年6月最高裁に於て却下されたことにより
協会が全面勝訴で終結している。)
さて、慶應は昭和32年の空手協会設立と同時に小幡、伊藤、高木さんは勿論重要な立場で、又、高木、望月、鈴木(博)が技術指導員として登録され、
岩本さんも稽古に参加していたが、33か34年に慶應は全面的に手を引くこととなり、その結果として、即ち慶應が協会から離れたことにより上記の全空連の組織には直接の関係を絶たれることとなっていた。
それ故に上記の伊藤、高木両先輩のお考えは、松涛同門会を設立してこれを全空連に日本空手協会以外のもう一つの松涛館を代表する団体として認可させ、
それによって慶應、早稲田、法政その他が全空連に正式に加わってゆこうとする将来を見据えた計画であった。
そして結局これは全空連が、もし松涛館に2団体を認めることとなれば、今まで1流派1団体で整理されていたものが他流派からも複数団体の全空連加盟の希望が殺到して乱立する結果を招き
運営上収集がつかなくなるとして強く拒否し実現にいたらなかった。之に対し更に伊藤さんとしては、
空手に他の武道種目を加えて団体を造り全空連に加わろうと考えられたか或はその検討を試みたか今となっては分からないが、少ししてパレスホテルに塩田剛三氏を食事に招き、
拓大OBの福井さんも同席され私もご一緒することとなった。塩田師に武道の連合会を創立することを申し入れその場で塩田氏の基本合意があったようであったが、結局その後の進展に至らなかった。
それに止どまった理由を私はうかがっていない。 現在の全空連の組織は、日本全国にわたる都、道、府、県空手道連盟各自の運営を全空連が統括しておこなわれているが、
競技団体として全日本学生空手道連盟、全日本実業団空手道連盟、全国高等学校体育連盟空手道部、全国中学校空手道連盟。
協力団体として全日本空手道連盟剛柔会、全日本空手道連盟糸東会、社団法人日本空手協会、全日本空手道連合会、 全日本空手道連盟錬武会、全日本空手道連盟和道会から成っている。
後に、松涛同門会が世界の門下一同の募金による浄財で鎌倉円覚寺に建立した船越先生の記念碑に昭和43年以来30余年、門下各校並びに日本空手協会が毎年4月29日に円覚寺に集いお参りを続けている。
又、上記和道流四校も当初はご長老が寄付にも加わり出席していた。
尚当時、円覚寺の管長は朝比奈宗源師であり、慶應OBとのご縁があり、山本(孝)さんと記念碑建立のお願いにうかがったところふたつ返事で無償で土地をご提供くださった。
記念碑には最も教育的内容を今尚我々に残す「空手に先手なし」の琉球時代からの戒めを朝比奈管長の筆で見事に蹟していただいた。又、大先生の人となりについて、
早稲田大学の大浜信泉元総長より船越先生の碑文を頂戴した。
大浜先生は沖縄県のご出身で、早稲田大学教授として初代空手部長にご就任され戦後も永く部長にあられ早大空手の精神的、知的、支柱として育てあげられた。
そして初代全日本学生空手道連盟、並びに初代全空連の共に会長として空手界の基礎を固め、社会的信頼を築かれた。その功績は極めて大であった。
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