『滝口入道』の武士観 |
佐 伯 真 一 |
高山樗牛『滝口入道』の描く斎藤滝口時頼は,「身の丈六尺に近く筋骨飽くまで また,『滝口入道』には,『平家物語』の与三兵衛重景に名を借りた,足助二郎重景なる人物が登場する.重盛に仕え,時頼とは同僚という設定だが,維盛と共に青海波を舞う軟弱な武士として,武骨な時頼とは対照的に描かれる.重景は時頼の恋のライバルだが,老女冷泉に手引きを求めるなどの策を弄して横笛に嫌われるという,典型的な悪役の役回りである.さらに,維盛も軟弱な武士として否定的に描かれる.重盛は,「詩歌数寄」や「管絃舞楽」にうつつをぬかす我が子維盛を憂えると同時に,その維盛を支えるには,「華奢風流に荒める重景が如き,物の用に立つべくもあらず」と,重景では役に立たないと述べて,時頼を頼ろうとする.だが,こうした描き方も,『平家物語』からは遠いものだといえよう.『平家物語』の世界では,女たちと恋をするのは維盛に代表される優美な男たちであって,弓馬のわざしか知らない野蛮な武士が恋の対象となるなど,あり得ないことである.また,維盛は物語の骨格をなす平家嫡流であり,維盛への共感・同情は作品の本質的な要素である. しかし,樗牛は,『平家物語』的な価値観を理解していなかったわけではない.いや,
と述べた樗牛自身は,「武」に徹して勝利した坂東武士よりも,むしろ,「文」を守りつつ滅びていった平家の美しさを愛していたはずである.そんな樗牛が,なぜ時頼を武骨一辺倒の武士として描いたのだろうか. この問題を考えるときには,後藤丹治が,『中世国文学研究』(磯部甲陽堂,一九四三年),及び「国文学叢考」(『学大国文』六号,一九六三年二月)において展開している典拠論に,まず注意する必要があろう.後藤は,樗牛が『平家物語』にのみ基づいて『滝口入道』を書いたのではなく,『太平記』や『南総里見八犬伝』などさまざまの作品を参照していると指摘するのだが,とりわけ興味深いのは,樗牛に少し先行して,いわゆる「撥鬢小説」を書いていた村上浪六の諸作品との関係である.後藤によれば,『滝口入道』には浪六の『奴の小万』『深見笠』『井筒女之助』などの影響が顕著であり,「「武骨者が美人を見て,初恋をする」という特異な構想」は,『滝口入道』の起稿直前,明治二十六年(一八九三)八月に発表された『深見笠』の,深見重左衛門貞国が友人宅の女中綾江を見て恋に陥ったという筋立てに影響を受けているというのである.筆者は村上浪六について無知なので(高山樗牛についてもだが),その正しさについて論ずる資格がないが,後藤の論証は精細をきわめ,首肯すべきものに見える. だが,問題はその先にあるだろう.問題は時頼の形象だけではなく重景や維盛などにも関わる.つまりは武士そのものをめぐる価値観の問題なのである.武骨な時頼の形象が村上浪六の趣向を借りたものであるとしても,その借用は,武士は武に徹するべきだという価値観において,樗牛(『滝口入道』の作者としての樗牛)と浪六が共通した基盤を持つことによって,はじめて可能だったといえよう.そして,その基盤はそのまま江戸時代の『平家物語』享受にも地続きなのである.妻子への思いに煩悶して屋島を離脱する維盛への共感は,江戸時代の『平家物語』享受においては影をひそめてゆく.武士が妻子への思いによって戦陣から離脱するなど,論外だというわけである.たとえば,『平家物語抄』(作者不明.江戸前期成立か)が,「小松の三位中将惟盛,一門の中を忍び出,高野山にまいれりし事,侍の塵芥たり」と,維盛の屋島脱出を全否定する姿勢は,基本的に『滝口入道』に共通するものである.そして,そうした武士観は浄瑠璃・歌舞伎など,『平家物語』に取材した多くの近世文芸に共通するのではないか.つまり,樗牛は裸の『平家物語』に基づいているのではなく,近世文芸的な武士観のフィルターを通して見た『平家物語』に基づいていると言えるのではなかろうか. いや,それもまだ正確な表現ではない.先にも引いた「平家雑感」を読めば,樗牛がそうした近世文芸的武士観のみによって『平家物語』を読んでいたわけでもないことが明らかである.しかし,「平家雑感」に見られる樗牛の平家への愛情は,「古今の大丈夫」としての清盛への讃美や,誇りを捨てずに潔く滅びる一門の姿への哀惜などであって,維盛的な「文弱」「優惰」への共感ではない.平家の滅びを哀惜する樗牛は,ニーチェや日蓮にあこがれる人でもあった.樗牛が描きたいのは,強固な意志やあふれ出るような感情を持った,自我を確立した人間であっただろう.そうした志向には,維盛的な公達の像はどうにもなじまない.強烈な自我を持つ個人を盛り込むための器は,公達ではなく,武士らしい武士でなければならなかっただろう.そして,そうした武士を肯定する価値観を,作品全体の基調に据えねばならなかっただろう.つまり,樗牛は意識的にか無意識的にか,中世的な物語の中に生きる武士に近世文芸的な加工を施した上で,近代的な生命を吹き込んだのである.『滝口入道』に破綻が目立つことは,その中に中世・近世・近代の層を二重三重に抱え込んだことと無関係ではあるまい. ちなみに,坪内逍遙「歴史小説に就きて」(一八九五年)は,おそらく『滝口入道』を指して,「眼中君父あつて我が身無かりし我が中古の武士魂も自意識のおそろしく鋭き主我的明治男と化し去る也」と評したが,これは,ここでいう近世文芸的な武士観に立った批評というべきだろう.「主我的明治男」の創造の前提として,中世的な物語を「武士魂」によって加工する工程については,逍遙は意識しなかったようである. 『滝口入道』のできばえの評価は別として,「武」に徹する武士と近代的自我を結合させた想像力は,近代の日本人にとって受け入れやすいものであったと思う.新渡戸稲造『Bushido, the Soul of Japan』(一八九九年.後に『武士道』として邦訳)なども,そうした文脈で捉えることができそうに思うが,ここでは,その典型の一つとして,歴史学者(京都帝国大学教授)の原勝郎について見ておきたい.原は,西洋史の「中世」という概念を日本史に持ち込んだ名著である『日本中世史』(冨山房,一九〇六年)の後,遺稿「日本中世史続篇」(平凡社東洋文庫『日本中世史』一九六九年所収)を残して,一九二四年に没した.その「日本中世史続篇」は,「東国武人」の像を次のように描き出す.
心にもない恋の歌を巧みに詠む貴族たちよりも,素朴で口下手な東国の武士たちこそ,真の恋を知っていたのだ――と,原は空想の翼を広げる.詩的想像力に満ちた華麗な文章は,歴史学の研究書にはふさわしくないようにも見えるが,客観的な歴史叙述はこうしたロマンに支えられているのである.ここで想像されている東国武士の相貌は,『滝口入道』の時頼に重なるものに相違ない.それはもちろん,原が『滝口入道』を読んだかどうか,などという問題ではない.西洋のロマン主義の味わいを知った明治の日本人が,自国の歴史の中にそれを投影する対象として武士を選ぶ,その共通性を見ておきたいのである.近世の武士観を継承しつつも,そこに近代的な自我を盛り込んだ,純粋で愛すべき武士像は,こうして広がってゆく.それは,おそらく,現代の通俗的な歴史ドラマの世界にも,一方では歴史や文学に関する学問研究の世界にも,根強く生き延びているものと思われる.そうした武士像の典型をいち早く創り出したという意味で,『滝口入道』は名作の名に値しよう. |
(さえき しんいち・青山学院大学教授) |