南心

森長可の初出仕-森家年譜編纂作業から-

2008年04月30日 23時18分29秒 Theme: 森家(津山・赤穂藩)

 徳川幕府が最初に編纂した武家系譜集『寛永諸家系図伝』には、森長可が織田信長に初出仕したのは元亀4年(1573)のこととされている。『寛永諸家系図伝』は織豊期の人物についてはその出典として比較的よく利用される史料である。成立年が織豊期から近いというだけでなく、後に幕府によって再び編纂された『寛政重修諸家譜』よりもその記述がシンプルなこともあり、比較的信頼できる史料とされている。

 しかし、森長可の初出仕は果たして元亀4年なのか。答えは否である。なぜならば元亀3年(1574)12月6日付けの連署奉書にその名が連ねてあるからだ。この奉書は後の伊藤松坂屋の祖である伊藤惣十郎に宛てた物と考えられるもので、他国の商人が2カ国で商売するならば届け出るようにという信長朱印状写に付随すると思われる連署奉書で丹羽長秀・木下秀吉・塙直政・金盛長近等の署名もある。

 この時長可は15歳。果たして蒼々たるメンバーと連署しているのには幼すぎるのではとも思うが、父可成の死後に家督を継いだこと(元亀元年)を思えば、早くからその才能を認められていたのだろうか。

 ともかくも長可の信長への初出仕は遅くとも元亀元年から3年の間に限定されるべきであろう。

 長可は「鬼武蔵」という異名があるように武勇のイメージがある。現に数々の武勇談は多いし、赤穂藩森家編纂の『森家先代実録』では、むしろ蛮勇とも思うようなエピソードが記されている。しかし、歴史学の一級史料とされる文書を繙くと、そこには意外にも吏僚としての長可の姿も見え隠れしているのである。


 そのため今回、森家史料調査会の「森家年譜№2」の元亀4年(天正元年)の項目にある

 ☆是歳 長可、織田信長へ初出仕〔寛永〕。

という記載は、削除することにした。



 

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しばしのお別れ

2008年04月12日 18時54分03秒 Theme: 森家(津山・赤穂藩)

 田村正和さん主演「古畑任三郎」のあるシリーズの最終回に「しばしの別れ」なるタイトルがあった。犯人役のフラワーアレンジメントの代表役の山口智子さんが、かつて所属していた華道の家元を殺すという内容だ。つるぴかの今泉巡査が、山口さん扮するフラワーアレンジメントの会に所属していて、そこの発表会で「今夜はとってもヒヤシンス」とか、「明日の雪はフリージア」などとだじゃれを披露して皆の失笑を買っていた。


 ここでの話は「しばしの別れ」ではあるが、勿論古畑さん関連ではない。先日来、ここで述べている「人間無骨」の槍を保存の事を考えて白鞘を新調しようと、東京のとある刀剣商に依頼したのだ。以前、前所有者さんにここでも見て貰った方が良いと紹介したことがある。そのため、お店に入って来旨を告げると、見たことがあるという。そしてその方から譲り受けて、このたび保存のために白鞘を新調したいということで見て貰った。

 先日、ここの本店に電話してみて大凡の値段を聞いてみた。十文字槍は特種で通常の槍より高い。10万~12万くらいするという。

 ところが、本日出して見て貰ったところ、

いや、こんなに大きくて立派なのは、もうちょっとかかるかも知れません

 という、我が家の財政を圧迫するような回答。何でも普通の十文字槍でも「人間無骨」のような大きいのは、あまりないということだった。

 それだけ立派な槍というお褒めの言葉でもある。ちょっと高いが、本を我慢することにすれば何とか…、というところである。

 とにかく1~2ヶ月かかるという。梅雨の頃には当家に戻ってくる予定だ。今日この日のために持ち運びようの槍を入れる袋を母公に作ってもらい、準備は万端だったが、いざ持ち運ぶとなると結構しんどい。これも保存のための一苦労と思い、本日の仕儀となった。

「人間無骨」、我が家へ来たる

2008年02月17日 21時05分06秒 Theme: 森家(津山・赤穂藩)

森忠政の室-中川家関係史料から-

2008年01月19日 23時09分23秒 Theme: 森家(津山・赤穂藩)

 森忠政の室は賤ヶ岳の合戦で戦死した中川瀬兵衛清秀の女「チボ」である。この室の名は知られていないので、「森家史料調査会」のサイトや以前校訂して出版した『森家大系図』の註でも述べておいた。私の本を読んでいただいていないのであろうか、最近、名前が判明したとて狂喜乱舞する森家マニアが居ることを聞いた。呆れるばかりだ。この方はもう既に何十年も前に発見されている木下家文書にある忠政の血判を見ては最近、騒いでいたらしいともいうが、何とも情けない。忠政の血判があるのは良いことだが、では何故血判したのか。その文書の意味するところは考えずに驚喜する。研究家を自認していてなんたることであろうか。嬉しいのは解る。しかし既に知られている物を新発見のように書かれるのは、研究をしている人たちとっては苦々しく感じる。

 で、話を戻そう。

 チボの母は熊野田隠岐守資利の女で、天正16年に忠政の許に嫁ぐ。忠政との間には天正19年に「松」という女子を設けている。松は後に池田備中守長幸の最初の正室となる。

 忠政は3年後の文禄3年に豊臣秀長の養女「岩」と婚姻する。チボの消息は天正19年の女子誕生でプッツリと途切れてしまうのだ。

 中川氏の後に豊後岡城主となる。その中川氏が編纂した家史に『中川氏御年譜』というのがある。このブログでも先に紹介した。この家史編纂の過程で文化年間に岡藩士細野七郎右衛門尚寛が赤穂藩森家へチボのことについて問い合わせをした。森家でも天正16年の婚姻以外には死去年・葬地等一切不明との回答があったという。いずれにしても中川・森両家には彼女の記録が全くないのだ。

 チボはどうなったのか。結局は天正19年以後文禄3年以前に死去したと考えるのが今のところ妥当のようである。もし何らかの理由で離縁していたならば、近世を通じて森家と中川家は通路(付き合う)することはない。通路していればこそ、彼女のことを問い合わせできたわけだ。それに赤穂6代城主森忠賛の室も中川久貞女「巻」なのだ。こうした関係からも離縁であったとは思えないのである。

 竹田市の『中川氏御年譜』の発刊で岡藩の研究が進むであろうことを考えるととても有り難いことである。

森家家臣録 2

2007年12月28日 23時56分48秒 Theme: 森家(津山・赤穂藩)

 森家家臣録のうち、津山藩の寛永10年と元禄10年の分限帳のデータが完成した。幕末のデータを最初に入れていたので、新たに作った項目がある。恐らく津山藩改易時に浪人になった家が多いためであろう。

 問題は各家が同一の家なのか、どういう系統か。それが相変わらず解らない。

 筆者の知人のご先祖はこれだろう。とか、寛永と元禄で同じ名前は同じ家であろう。など、パズルを組み合わせるようである。

 重臣である森可政系は文化初年までのデータがわかっているが、それ以後は解らない。菩提寺の墓碑銘で当主の名のみはわかるが、結局は系譜上のつながりがいまいち解らない。

 とはいえ、まだまだ未完のデータである。追補は徐々にしていこう。

森家家臣録

2007年12月26日 00時02分32秒 Theme: 森家(津山・赤穂藩)

 今、森家の家臣録を作っている。分限帳などのデータを苗字ごとに羅列している。しかし、親子関係が不明な者もあれば、通称から子孫だろうと推定できる者、更には同一人と思われる者もいる。

 重臣にあった者の家は比較的記録もあって容易だが、身分の低い藩士達になるとやはり「先祖書」みたいなものがなければ到底難しい。とはいえ、今のデータはどの時代に誰が居たか。こういう苗字の藩士はいるか?くらいの質問には答えられそうである。

 赤穂藩・三日月・新見各藩でもそうした家臣達の記録を作っているはずで、現に三日月藩のものは残っているが、虫損が著しい。残念ながら公刊はされていない。赤穂ではこうしたまとまったものはない。

 今後、サイト「森家史料調査会」でも少しずつUPの予定であるが、御子孫等、関係者があればご連絡を頂きたいものである。

「人間無骨」の槍

2007年12月17日 00時23分51秒 Theme: 森家(津山・赤穂藩)




 

 森蘭丸の兄で、天正12年(1584)の長久手の合戦で戦死した武将で森武蔵守長可という武者が居た。「鬼武蔵」と呼ばれる猛将ではあったが、長久手合戦では眉間を鉄砲で撃ち抜かれ、あえなく戦死してしまう。

 この長可の槍に「人間無骨」の槍というのがある。室町期の美濃の刀工和泉守兼定の作である。この槍は森家に代々伝えられ、赤穂藩森家の参勤交代では表道具として名物的存在であった。

 さて、この槍、森家先祖を祀る赤穂の大石神社に1本ある。表の塩首付近に「人間」、裏塩首付近に「無骨」の文字が彫られている。ただし、大石神社のものは副、所謂レプリカと言われているのだ。

 最近、この槍を所持されておられる東京在住の方からご連絡をいただき、友人のSK氏ともども16日(日)に拝見した。それが上記の写真である。

 まさしく「人間無骨」の槍である。その刃紋といい、彫りつけの文字といい、その槍の凄まじさには驚愕するばかりである。茎の銘も「和泉守兼定」とある。

 大石神社のとこれと2本の「人間無骨」を見た者は天下広しといえども私とSK氏のみであろう。

 では、いずれが正で、いずれが副か。今のところ断定し得ない。追々調べ行くが、取りあえず拝見報告である。

 こうした立派な槍はなかなかない。松浦静山が『甲子夜話』でいっているようにまさに長可の霊が宿っているかのようであった。


※写真は所蔵者の許諾により掲載しています。お申し出の有無にかかわらず使用・転載を禁止します。

 

人間無骨

2007年10月31日 20時56分17秒 Theme: 森家(津山・赤穂藩)

 森家の祖で勇猛な武将として知られる、森武蔵守長可愛用の槍で「人間無骨」の槍というものがある。これは「のさだ」、所謂和泉守兼定の作で、十文字槍である。

 赤穂藩森家では参勤交代の道中で掲げていたし、殿様在府の森家の江戸藩邸の門前にも掲げられていたという名物である。

 このレプリカが、赤穂大石神社にある。槍の表裏の塩首に「人間」「無骨」と彫られた見事な物である。

 最近、この槍を所持しておられるという方からご連絡を頂いた。聞けばまったく同じ物ではないか。驚きとともに歓喜極まりなかったことは言うまでもない。


 このり槍はやれ暖を取るために燃やしてしまっただの、戦災で焼失しただの。更には靖国神社などに展示してあったが、いつの間にか行方不明になったなどと書いている森家マニアのサイトも見かけるが、こうした調査は際限ない。

 しかし、まじめなサイトを作っていたおかげで、こうした朗報が飛んでくる。「森家史料調査会」で知り合った赤穂藩士の末裔や、こうした人達の伝来品を具に拝見させていただく機会を頂くことはとても嬉しい。研究者冥利に尽きる。

 でも、一部のマニアによって勝手に真贋をきめられてしまったり、翻刻されて適当な解説を付けられたりする事もある。こうした素人の研究まがい、の探索は止めて欲しいものだ。少なからずこうしたことで研究者が史料閲覧の機会を閉ざされるという被害を被っている例があることも忘れてはならない。より以上に研究者に求められるのは物の扱い方、見方である。

『大日本古記録 梅津政景日記』の傍注

2006年09月18日 21時21分57秒 Theme: 森家(津山・赤穂藩)

 東京大学史料編纂所で長年編纂を続けている史料集の一つに『大日本古記録』というのがある。我が国の国史に於いて最も重要な日記(古記録)を翻刻したものである。中世のものが多いが、筆者も学生の頃には萬里小路時房の『建内記』というのを輪読して判らない和製漢文に四苦八苦したものである。

 このシリーズの中に『梅津政景日記』というのがある。秋田藩家老梅津政景の日記で、索引を含めて9冊の構成である。初版は昭和31年(1956)だが、筆者は恩師より復刊することを聞き、且つ恩師の口利きで多少割引で入手したのは平成8年(1996)の版である。

 ここには近世初期の出羽国秋田県地方の様子のわかる貴重な史料であるが、政景の主人たる佐竹義宣の動静についても詳しく書かれている。幕府や諸侯とのやりとり、行事など…。興味つきない内容である。

 勿論、森忠政も出てくる。

 このうちの元和10年(寛永元年)正月2日条に次のような記載がある。

一、西丸へ御出仕、ほひ(布衣)ニ而致御供候、如毎年呉服一重御拝領、太しじら(縬)段白綾、御座次第之事、政宗様(伊達)・植杉弾正様(定勝)・森甲斐守様(毛利秀元)・丹和五郎左衛門様(丹羽長重)・太澤少将様(大澤基宿)・小田野兵部様(織田信良)・森右近様、留御引渡、すわり、上段ニ而御めし出之由、

 江戸城西丸の将軍家光に諸侯が伺候し、その席次第が書き連ねてあるわけだが、ここに「森右近」という人物が登場する。この森右近を『大日本古記録』では「(忠政、美作津山城主)」とある。『梅津政景日記』には何度か忠政が出ているがそれは「森美作様」である。たまに当字で「森酒作様」ともでる。であるのにここだけ「森右近」であるのはおかしい。


 森忠政が「右近」を称する下限は慶長20年(1615)とされている。これは大坂の陣に際して近江の多賀大社に戦勝無事帰還を祈願した願文にある(森家先代実録)。忠政の嫡子忠広が右近大夫となるのはやはり同年以降である(森家大系図)。そのことから、上記日記の条に出てくる「森右近」とは忠政の嫡子忠広ということになるのである。

人名の読み-森家一族を例に-

2006年08月03日 01時22分42秒 Theme: 森家(津山・赤穂藩)

 人名の読みは難しい。例えば室町幕府の管領として知られる斯波義将だが、従来は「よしまさ」と呼ばれていたものが、最近の研究者は「よしゆき」と読まれているし、応仁の乱を引き起こした一人である畠山義就は「よしなり」が一般的であるが、私の大学院の恩師は東寺文書を根拠に「よしひろ」と仰っていたのを思い出す。

 森家でも織豊期の人物は諱の不明な者がいるだけでなく、人名の読みも難しい。

 例えば森蘭丸、系図では「長定」が諱となっているが、現存する書状をみると「成利」である。「長定」は死後に贈られたものだろうという見解があるが、私もこの考え方にはどちらかというと同意ではある。成利の読みは「なりとし」と「しげとし」というのがあるそうだ。

 次に蘭丸の父である可成。一般には「よしなり」で通っている。が、「よししげ」という人もいる。私は『寛永諸家系図伝』のルビに従って「よしなり」説である。が、「よししげ」説の人は江戸期の記録に「よししげ」というルビが振ってあるのを根拠に「よししげ」と主張する。

 私は史料的な見地からいうと「よしなり」とルビを振っている『寛永諸家系図伝』の説に従っておきたい。森家が江戸幕府に寛永諸家系図伝の為の系譜を上程したときには忠政やその父、可成を知る人達がまだ生きていた。そう考えると「寛永諸家系図伝」のルビは否定できないのである。

 では、「よししげ」説の根拠となっているものは何か。私は未見だが、どうやら「寛永諸家系図伝」編纂の頃を更に下った時代の由緒の記録という。そんな時代の下ったもので、「よししげ」などと読むのはどうか…という気がする。

 そういうわけで、私は森可成を「もりよしなり」と読む。そんなわけで蘭丸は可成の子で「成利」の成は可成の一字であろうから自ずと「なりとし」となるであろう。「よししげ」・「しげとし」は彼らを英雄視する森家マニアの戯言に過ぎない。

 

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