東アジア比較建築文化史
発掘と復元
第1シリーズ:原寸大復元

■バックナンバー■

2008年9月18日
第1回:中筋遺跡(古墳時代)の竪穴住居
No.1: Nakasuji site in Gunma Prefecture, Pit-dwellings of Kofun period

 竪穴住居というと教科書にものっている静岡県登呂遺跡の弥生時代の復元住居がよく知られています。たたら(高殿)という砂鉄精錬法の作業場建物の形が発掘遺構とよく似ていることからそれを参考に復元されたものですが、茅葺きできれいに葺かれた屋根は、近世民家そっくりで、本当にあんな形であったのだろうかと疑問を持つ人もいました。
 そのような疑問に答えたのが6世紀初頭の榛名山二ッ岳の大噴火で埋まっていた群馬県渋川市の中筋遺跡です。垣根に囲まれた中に竪穴住居4棟と平地住居3棟、そして祭祀遺構が確認されています。その中の竪穴住居が従来の常識を覆す構造のものでした。勾配の緩い屋根はかなり低く、茅葺きの屋根には土がのせられていました。実際に復元してみると、低い屋根は作業を行うのに有利であり、土を葺くことで断熱効果も高いことがわかりました。竪穴住居の復元案としては登呂よりもずっと説得力があるようです。
実は今でも中国東北地方で、土をのせた緩い勾配の竪穴住居が使われています。日本の竪穴住居を復元する参考になると思います。

国立歴史民俗博物館教授 玉井哲雄
(共同研究:東アジア比較建築文化史 共同研究代表)


群馬県渋川市/中筋遺跡(群馬県指定)の復元竪穴住居
写真1(左)ー外観   写真2(右)ー内部


写真3 中国黒竜江省ホジェン族の住居


2008年9月6日
特別編:「えさし藤原の郷」と「チャングムテーマパーク」
Column: "Esashi Fujiwara Park" in Iwate Prefecture and "Dae Jang Geum Theme Park" in Korea

 突然今回は全くの番外編で、発掘遺構とは関係のない建物復元の例です。
「えさし藤原の郷」は1993年放映のNHK大河ドラマ『炎立つ』のためのオープンセットを整備開放したもので、その後もたびたびドラマなどのロケに使われています。政庁や義経屋敷、清衡館、経清館など多数の建物が復元されてます。一方の「チャングムテーマパーク」は韓国MBCで2003年放映され、日本でも2004年以降、NHKで何回も放映されたドラマ『大長今(宮廷女官チャングムの誓い)』のオープンセットを公開したもので、こちらもその後もロケに使われているようです。
 「藤原」は建築考証が行われている部分もあるようですが、この時代の、京都からみれば片田舎であった奥州にどのような建物が建っていたのかは本当のところよくわかっていないはずです。「チャングム」の考証はわかりませんが、時代は朝鮮王朝時代16世紀ですので、現存建物はもちろん、建物に関する情報もほとんど無いはずです。にもかかわらずいずれも建物が建てられ、しかもなかなかの人気を博しています。われわれ建築史研究者も学ぶべきことがありそうです。

国立歴史民俗博物館教授 玉井哲雄
(共同研究:東アジア比較建築文化史 共同研究代表)

「藤原の郷」
写真1(左)柱を赤く塗った政庁と白木の館が造られています
写真2(中)左右対称中国風の政庁です
写真3(右)寝殿造風の館です

「チャングムテーマパーク」
写真4(左)瓦葺きの宮殿の一角ではさまざまなイベントが試みられています。
写真5(中)スラッカン(台所)です。ドラマではチャングム活躍の舞台でした。
写真6(右)あずまや ドラマではいろいろ秘密因縁のあった場所でした。


2008年10月16日
第2回:吉野ヶ里遺跡の復元建物(弥生時代)
No.2: Yoshinogari site in Saga Prefecture, remodeled buildings of Yayoi period

 佐賀県の吉野ヶ里丘陵に広がる吉野ヶ里遺跡は、弥生時代の大規模な集落遺構として知られています。1986年からの発掘調査では、その規模や遺構だけではなく邪馬台国との関連も話題になりました。二重の環濠を巡らせた防御的な集落で、物見櫓は、〈貫〉という柱の穴を貫通して横につなぐ建築部材を用いた復元が試みられています。
 この貫は従来の建築史の常識では、鎌倉時代になって初めて中国から伝わったもので、それ以前の日本にはなかったということでしたが、遺構そのものや、発掘された建築部材の検討によって使われていたはずだということになりました。貫を使った高層の物見櫓は大変評判になりました。
 ただ建築史の世界では貫の存在を認めない人も多く、少し後の唐子・鍵遺跡から出土した土器片に描かれた絵画による復元では貫は使わずに、貫が伝来する以前の長押を使っています。



写真1(左)南内郭物見櫓 6本の柱で支えられた物見櫓 貫を使った構造です
写真2(中)北内郭主祭殿 16本の柱で支えられた高床3層の建物です。
写真3(右)唐子・鍵遺跡の復元建物(出土絵画による復元)


2008年11月27日
第3回:三内丸山遺跡(縄文時代)
No.3: San'nai-maruyama site in Aomori Prefecture, hemlet of Jomon period

 青森市郊外の三内丸山遺跡は縄文時代前期中頃〜中期末葉(約5500年前〜4000年前)の大規模集落跡です。1992年から始まった発掘で、通常の竪穴住居群、高床建物群の他に大型竪穴建物が10棟以上、祭祀用の大型掘立柱建物などが確認されており、墓地や道路なども計画的に配置されているようです。出土した栗材のDNA鑑定から栽培の可能性が指摘され、他にも栽培食物があることや、その規模や全体の計画性からも縄文文化の先進性を見直すきっかけになりました。
 1994年に発見されて話題を集め、遺跡保存のきっかけともなった直径約1メートルの栗柱6本を計画的に配置した遺構は、高度な建築技術による高層建物が想定され、屋根のない3層の床のある構築物として復元展示されています。他にも一般的な竪穴住居の他に、幅10メートル長さ32メートルにも及ぶ大型竪穴建物、掘立柱群から想定される高床式クラなどが復元されています。

写真1 6本の柱列から復元された構築物 山内丸山のシンボルです 
写真2 高床式建物 貫をつかわない校倉式のクラとして復元されています。
写真3 大規模竪穴建物 100人以上の人間が楽に入れます


2008年11月27日 ■最新記事■
第4回:桜町遺跡(縄文時代)
No.4: Sakura-machi site in Toyama Prefecture, timber shows evidence of work

. 富山県小矢部市の桜町遺跡は1986年からの試掘調査で、縄文草創期から晩期(約12000年前〜2300年前)までの遺跡であることがわかりました。1988年からの発掘調査でトチノミやクルミなどの各種食材、調理道具、土器や石器、装身具、土偶、カゴやザル、そして漆器など縄文人のかなり高度な生活を窺わせる多彩な遺物が出土しています。中でも、建築史の立場からみて重要なのは、高床式建物の柱材と考えられる貫穴(ぬきあな)や、桟穴(えつりあな)などの加工が確認できる木材が出土していることです。現場の状況から年代の確定がむづかしいようですが、従来は米作りの技術とともに弥生時代に鉄器とともに日本にもたらされたと考えられていた高床建物が、縄文時代に既にあった可能性がありそうです。
 ここで建築途中の写真で示した復元建物は、1999年7月の「縄文フェスティバル」の際のもので、出土材から復元された石製の木工具を使って加工した木材が一部用いられています。実験の結果、能率はともかく、石器でかなり高度な木材加工はできたようです。

写真1 加工痕跡のある出土柱根 かなり太い材です。
写真2 仕口加工痕跡のある出土木材です。 
写真3 復元建物。床まで組み立てたところです。
写真4 木材加工に使用された復元石斧です。


第2シリーズは復元模型を予定しています。

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(c)Tamai, Tetsuo 2008
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