ジャーナリスト長井健司さんがミャンマーを取材中に銃撃を受け殺害されてから9月27日でちょうど1年だ。至近距離から銃撃を受けたと見られているが、誰が撃ったのか、それは故意だったのか、未だに多くの謎が残されている。
我々は、長井さんの死の真相を解明する糸口になる、ある文書を入手した。あの日、ミャンマーで長井さんの身に何が起きたのだろうか?
9月25日、長井健司さんの一周忌を目前に控え、ミャンマー大使館(東京・品川区)前に集まった人々がいた。押収されたと見られる長井さんのビデオカメラとテープの返還を求め、署名を続けてきた友人らだ。
この1年間で集まった署名は12万人に上った。
○署名を持ってきた友人
「もしもし…長井健司さんの死に抗議する十万人の署名を持ってきたんですけど、応対してください。誰かいませんか。長井さんの死に抗議する十万人の署名を持ってきましたが、応対してください。」
担当者は現れなかった。ポストに投函しようとしたが、入りきらない。結局、門の下から押し込んだ。
署名の提出は今回で3回目となる。しかし大使館側は一度も対応していない。
○署名活動をする知人夫婦 インタビュー
「きょう提出した署名には気持ちがこもっています。」(妻)
「何ら進展が見られないという状況なので、このまま活動を終わるわけにはいかない。」(夫)
長井さん殺害から1年。事件の真相は、いまだ明らかになっていない。あの日、ミャンマーで何が起きていたのか。
2007年9月27日、軍事政権下にあるミャンマーで最大の都市・ヤンゴン。この日、市民の生活安定などを求め、僧侶らが大規模なデモを行った。
○治安部隊「10分間の猶予を与える。」
治安部隊とデモ隊は一触即発の状態にあった。
デモに参加した人物が撮影しミャンマーの民主化運動団体FDBが密かにDVDにまとめた映像には、射殺される直前の長井さんと思われる人物が映っていた。
デモ隊の後ろからカメラで撮影している男性は、服装や髪型から長井さんと思われる。
しばらくするとデモ隊から離れ、一人で治安部隊の方向に近づいていく長井さんらしき姿があった。
別の方向から撮影した映像には、撃たれた直後の長井さんが…。青い服を着た人物が、仰向けに倒れた長井さんの右手を引っ張って起こそうとしていた。
そして路上にはビデオカメラらしきものが落ちていた。この直後に、長井さんのビデオカメラは持ち去られた可能性が高い。
○デモに参加した僧侶 インタビュー
「私たちデモ隊が鎮圧されてバラバラになったとき、長井さんは私たちの後ろで撮影していました。」
この僧侶は、2007年9月のデモに参加していた。長井さんが撃たれる瞬間を目撃したという。
○デモに参加した僧侶 インタビュー
「取材している長井さんから3〜4メートル離れたところに私はいました。軍事政権は『わざと狙って撃ったわけではない。撃った弾がたまたま当たったんだ』と言ってましたが、そうではないのです。本当に狙って撃ったのです。私は目撃しました。断言します。」
ミャンマー政府は日本政府に対し、十数メートル離れた場所にいた治安警察が、誤って長井さんを撃った」という説明を繰り返している。
我々は長井さんの死に関して改めてミャンマー政府の見解を求め、大使館に質問状を送った。
しかし大使館からの返答はない(9月27日現在)。
長井さんは誤って撃たれたのか、それとも狙われたのか?
我々はミャンマー語で書かれた2枚の文書を入手した。“機密”と書かれている。そして"ヤンゴン管区・暴動鎮圧組織"と記されていた。
これは2007年のデモの際、軍事政権が出した命令書だという。そこには現場の部隊に向けた細かい指示が書かれていた。
○(文書の記述より)
「この暴動に参加している者の中で、ビデオカメラ、テープレコーダーなどを所持しているものに対しては以下のように対処すること。カメラ、ビデオカメラ、録音機を使って記録している者は"最重要射撃対象"である。」
カメラを持って取材する者を”最重要射撃対象”だとする命令だ。文書はさらに続く。
○(文書の記述より)
「そのような人物をその場で捕らえるよう努めること。逮捕できない場合には撃つこと。」
銃撃の前、長井さんを携帯電話のカメラで撮影している男の姿が映っている。ビデオカメラで取材を続けていた長井さんは"最重要射撃対象"としてマークされていたのだろうか?
○(文書の記述より)
「カメラ、ビデオカメラ、録音機などは押収すること。」
ビデオカメラはこの命令書に基づいて奪われたのだろうか。文書には、こんなことも書かれていた。
○(文書の記述より)
「捕らえた者らを護送する際、護送車を使用しないこと。バスなどの路線車両を使用すること。」
確かに、逮捕者が乗せられた車は軍用車両には見えない。目立たぬよう護送するため、バスなどを使用したのだろうか。
長井さん殺害に軍事政権が関与していたことを伺わせるこの命令書は、2008年5月、アジアで活動するあるジャーナリストがミャンマーとタイとの国境近くで、現役の軍幹部から直接受け取ったものだ。
軍幹部は文書について、こう話したという。
○(軍幹部が話したという内容より)
“去年9月下旬、デモを鎮圧するために軍や警察などが集まり、臨時の組織が作られた。これはその時、数十人の幹部に配られた命令書だ。”
なぜ軍幹部は文書を渡したのか?
○(軍幹部が話したという内容より)
“特に僧侶に対して銃を向けたことが、私はミャンマー軍人として許せなかった。この事実を世界に知ってもらいたい。”
僧侶の地位が非常に高いミャンマーでは、軍事政権側の人間でも、僧侶に銃を向けたことを許せないとするものが少なくないという。
本来は尊敬すべき僧侶の弾圧を正当化するためなのか?文書にこんな記述があった。
○(文書の記述より)
「デモに加わっている僧侶は本物ではなく、偽の僧侶である。その裏には、武装組織や海外でうごめく組織があり、強力な外国勢力や国内の政党組織が意図的に仕組s$G$$$k$N$G$"$k!#!W
偽物の僧侶だから、弾圧してもよい…。これは本当に軍事政権が出した命令書なのだろうか?
4年前まで、ヤンゴンにあるミャンマー軍本部に勤務していたという元・士官にこの文書を見てもらった。
○質問「これを本物だと思いますか?」
○元・士官 インタビュー
「確かに命令文は、このような文書で出されます。命令の内容を見ても、本物であると言える内容です。」
元・士官は、本物に見えると答えた。そして…
○元・士官 インタビュー
「この文書のように、デモなどは国外の勢力や組織が国民をそそのかしてやっているものである、と現場の兵士たちに信じ込ませるような言葉や文書を使って、命令を下すことがよくあります。私も経験しました。」
ミャンマーの国内事情に詳しい、上智大学の根本敬教授にも文書を見てもらった。
○根本敬教授(上智大学外国語学部)インタビュー
「この紙質はビルマ国内で使われている上質紙です。ビルマの軍はいちはやくIT化を進めましたので、今はこういう風にコンピューターで打ち出すことはありうるだろうと思います。」
軍の機密文書などを数多く見てきた根本教授も、書式や文体は軍の出す命令書と同じだと話す。
○根本敬教授 インタビュー
「(文書が本物かどうか)私は判断はしかねます。ただ、状況証拠としてはたいへん興味深い資料ですし、こういう命令が出回ったからこそ昨年9月のああいう悲劇が起きたんだろうというふうにも考えられます。」
現状では、この文書が軍事政権が配った本物かどうか、判断はできないとする根本教授。一方で、こういった命令が出された可能性は十分あり得るという。
これまでも軍事政権は民主化運動を力でねじ伏せてきた。
ミャンマー国家平和開発評議会のタン・シュエ議長は軍事政権の最高指導者だ。2008年5月、ミャンマーを襲ったサイクロン「ナルギス」で13万人を超える死者・行方不明者が出た(ミャンマー政府発表)にもかかわらず、タン・シュエ議長率いる軍事政権は当初、海外からの人道支援を拒否し、十分な救済措置を取らなかったとして非難を受けた。
テイン・セイン首相が、被災者に「生き残っているだけで、幸運だと思いなさい」という言葉をかける映像も残されている。
根本教授は現在の軍事政権についてこう話す。
○根本敬教授 インタビュー
「現段階ではタン・シュエ議長の強力な権力が下まで貫かれていますから、短期的、中期的に軍政(軍事政権)が衰えていくというふうには私は見ていません。」
軍事政権による強力な支配は今なお続いている。
2008年9月17日 東京・池袋駅前で長井健司さんの写真を掲げながら道行く人に声をかけているのは、日本で暮らすミャンマーの人たちだ。
○署名活動を行う人々
「ビルマ民主化のため、取材してきました長井健司さんが殺されて1年になりました。ご署名活動、よろしくお願いします。」
彼らも、軍事政権に押収されたと見られる長井さんのビデオカメラとテープの返還を求め、署名活動を続けている。
トーマス・ゴン・アウンさんも署名活動を支える一人だ。
トーマスさんは、20年前の1988年に起きた大規模な民主化運動に学生運動家として参加した。その直後、軍事政権の弾圧から逃れるためミャンマーを脱出し、それ以来、日本を拠点に民主化運動を続けている。
2007年10月8日、東京・港区で営まれた長井さんの葬儀にもトーマスさんは参列していた。
○トーマスさん
「長井さんが命をかけてビルマ(ミャンマー)の軍事政権が悪くなっているということを世界に見せてくれて、本当にビルマ人たちは感謝しています。」
自宅に戻ったトーマスさんが、大切にしている写真を見せてくれた。
20年前、日本へ脱出する寸前に、父親と撮った写真だ。まだ若かかりし頃の母親の写真もあった。しかし、トーマスさんが持っている家族の写真はこれしかない。
○トーマスさん インタビュー
「(20年前に脱出した時は)1〜2年くらいで国が変わるかなと思ったんですよ。それで帰れるかなと思って(家族の写真を)あまり持ってこなかったんです。」
結局この20年、民主化は実現せず、トーマスさんは一度もミャンマーに帰れなかった。父の死に目にもあえなかった。
○質問「(脱出当時と)結局、状況はあんまり変わってない?」
○トーマスさん「全然変わってないと言うよりも、もっともっと悪くなりました。」
長井さんの事件以降も、軍事政権の姿勢に変わりはない、と話す。9月半ばには、こんなことも…
○トーマスさん インタビュー
「ビルマ(ミャンマー)にある私の家に住んでいる親族に対して、この家から何人が外国へ行っているのか?何をしているのか、など詳細な取り調べがありました。今、同じように、他のビルマ人にもこうした取り調べが行われている、と聞いています。」