永浦古墳と鹿部・田渕遺跡は、古賀市のなかでは大きな歴史的遺産である。
発見された当時はかなりマスコミにも採り上げられたが、最近は忘れられている。 永浦古墳は初期の甲兜が発掘された古墳であり、田渕遺跡は磐井の乱のあとに九州で最初にできた粕屋屯倉の跡だろうと推定された大形建物群のあった場所である。 先日の歴史講座では、一応石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代の埋蔵物の総覧紹介があり、いろんな観点から、永浦古墳と田渕遺跡の特徴や発掘当時の資料が紹介された。 そして来年には歴史公園としてこの遺跡の復元が計画されていることが報告された。 写真1は、大形建物群の基礎穴の空中写真、写真2は古代の花鶴川河口と入り江の想像図と永浦古墳の場所、写真3は永浦古墳の甲兜の出土品の状況。 既に新JRししぶ駅には、鹿部山から発掘された経筒などのモニュメントが出来ているらしい。一度でかけてみよう。
志摩町の来目皇子遺跡を訪ねた足で、すこし東側にある桜井神社にたちよった。2~3kmくらいの距離であろう。
桜井神社の外山宮司の弟さんとは昔からの知り合いで、神社の由来などはよく知っていた。 海岸の桜井二見ヶ浦の景勝は以前に眺めたことがあるが、本殿に参拝したのは今回がはじめてである。 境内は広く鬱蒼としている。楠木や杉の古木の大きさには圧倒される。 江戸時代に黒田が福岡入りして、福岡の西の守護神として建設した神社で、建物は当時のままであるから、400年の歴史の重みを感じさせる。 今でも正月には周辺の住民のお参りで結構にぎやからしい。また清掃や備品の整備もじもとの協力で充実しているようだ。 近くに九州大学が移転してきたから、次第に人口も増えて、参拝客でにぎやかになるであろう。
安川電機時代に黒崎には20年以上居住していた。
最近もと職場のOB会が黒崎の料亭で開かれ、その会場の壁には、写真のような江戸時代の黒崎宿古地図が描かれていた。 遠景に帆柱山、右手に岡田宮があるので、スケッチ点は黒崎城山あたりである。 右の岡田宮は有名であるが、中央の丘に黒田社がえがかれているが、具体的な神社は思いあたらない。 同僚も何処だろうとくびをかしげていた。 左下の浄蓮寺は知っているから、位置関係からは鳴水町から紅梅町の間くらいらしい。しかし現在の地図情報で探しても見当たらない。 春日神社や鳥野神社などの名前はあるが、黒田神社はない。 自宅に帰り、福岡県史を読むと、そのなかに遠賀郡黒崎の黒田宮の記事があり、安政二年に御供米10俵が3割減らされたため、もとに戻すよう陳情したことが記載されている。 たしかに存在していたようだが、明治維新後に取り潰されたのだろうか? も少し時間をかけて調べてみようと、ネットサーヒィンでしばらく探していたら次のウエブを発見した。 黒崎宿周辺の歴史が詳しく紹介されている。 http://www.geocities.jp/hitosht/06nagasaki1/03kurosaki.html このホームページによると、春日神社のことを黒田宮ともいうそうだ。黒田長政が入国したので、長政の霊も祀られたようだ。 黒崎祇園の本拠となる神社なので、いろんな名前をもっているようだ。 地形的には浄蓮寺のすぐちかくなのだが、この地図では少し離れた丘の上になっているので、勘違いをしてしまった。地図の書き方が少し誇張されているが、昔は住宅も少なく、丘の上にはっきりと見えていたのであろう。
米多比出身の村山武先生がなくなられて3年目になる。
先生の顕彰碑ができたことをきいたので、先月でかけてみた。 地元の中学校校長を退職後、古賀町時代の文化協会などの会長などを永年勤められ、生涯教育時代のリーダーとして活躍された。 社会教育功労者として文部大臣表彰をうけられている。 経歴書から推測すると、福岡男子師範在学時代に私はその付属小学校生だったので、ある学期には教生の先生として教えをうけたような気もするが明確な記憶はない。 はっきり記憶しているのは、相の島の歴史見学にご一緒したときで、足場の悪い海岸で少し怪我をされたときのことである。少し出血があったので家内が心配して声をかけたが、戦場での経験からこんなのは怪我ではないと、豪快に笑いとばされた姿は忘れられない。 顕彰碑を建てる習慣は戦前には多かったが、戦後にはすっかり少なくなっている。米多比の人々の地域意識の高さが、この顕彰碑となったのであろう。
去年の秋から今年の春にかけて、いろいろ新聞で報道された宗像市の田熊石畑遺跡。
地元での説明会なども行われたが、都合がわるくて出席できずに、資料蒐集にとどまっていた。 今日現地だけは見ておこうと思い、一人ででかけた。 宗像高校の敷地の西側近くで旧3号線とJRの間にある場所で、周辺はかなり新しい集合住宅ができている。 調査中なので、防護壁の隙間からのぞき見することになることも予想したが、立ち入り禁止の立て札とロープだけで壁などは皆無で、ゆっくりと眺められた。 Jの字形の広い地形で一面に青いビニールシートが敷き詰められている。 調査中の場所でよくみれれる風景である。 古賀の田淵遺跡より面積は広いだろう。 すでにいくつかのホームページで紹介されているが、弥生時代の墓域から15本の武器型青銅器、古墳時代の掘立柱建物多数が発掘され、いま保存運動が展開されている。 どんな結果になるか楽しみである。 http://munakatakouko.web.fc2.com/tagumaisihataiseki.html
厩戸皇子(聖徳太子)の時代の遺跡としては、九州にあるのは来目皇子の遺跡が唯一であろう。
西暦602年に厩戸皇子の弟である来目皇子が、新羅征伐のための二万五千の軍団を率いて志摩町野北港まで西下してきた。 しかし来目皇子がこの地で発病し亡くなったので、新羅への出兵は中止された。 この歴史をしのんで、志摩町野北にある久米集落の里山に、「来目皇子遺跡」が作られていることは、以前から知っていた。 事前調査で、前原市在住の友人にきいたが知らなかったし、現地の畑で作業中の婦人にきいてもわからなかった。一般にはあまり知られていない遺跡である。 YahooやGoogleの地図をたよりに、久米バス停をみつけて、そこでたずねてやっと概略の方向がわかり、そこから久米集落の方にはいって、登り口の案内板をみつけた。 約300m小山を登ると、写真のような大小の石碑と説明板が円墳上の平地に建てられている。 小さい自然石は高さ90cmで、来目皇子遺跡と刻まれている。昭和34年に西久米氏子により建てられた記念碑である。 大きな新しい石碑は「今古俯仰之碑」と、玄洋社社長、福岡市長の進藤一馬の文字できざまれており、彼が中心になって昭和59年に建てられたものである。 説明板には詳しい歴史的経緯が記されているが、これは日本書紀の内容の解説である。考古学的な証拠となる出土品は何も見つかっていないようだ。 近くに小さな久米神社もあるはずだが、農家の軒先を通っていく路らしく、鳥居や社を発見できなかった。村の鎮守の神と来目皇子の御霊を祭っているという。近くの植安神社は鳥居がすぐ見える場所なので、こちらにはお参りした。 来目皇子の御陵は大阪府羽曳野市にあるそうだ。 わが家から50km位の距離に飛鳥時代に深い縁のある遺跡があるとは、日本も狭いものだ。 背振山の南には、当時軍団に参加していた物部氏の社があるらしい。 つぎの機会にでかけてみたい。 最後に久米神社の地図をしめす。来目皇子の遺跡はこの右下の岡の上(赤丸の位置)にある。
古代は「那の津」の名前からはじまり、中世からは博多の名前で栄えた都市。
飛鳥よりも古い歴史をもち、たびたび戦火には見舞われたが、飛鳥のように荒廃してしまったことは一度もない長寿の都市でもある。 近年の福岡市の地下鉄工事にともなって、多くの発掘調査が行われ、古代の砂浜の地層や、中世の元寇防塁や博多商人の貿易遺品などが大量に発掘された。 「博多を掘る」という資料は200巻になり、積み上げると2mに達するそうだ。まさに汗牛充棟である。 そのリーダー格の九州大佐伯教授がまとめられた調査地図がつぎの図である。 (以下の地図はクリックすると拡大される。) 中世からの博多の地域は那珂川と石堂川(比恵川)の間の地帯がそのメインであり、この地図の赤い部分が最近20年間に発掘調査の行われた場所である。 同時に昔の砂地層も計測され、点線のような瓢箪形の等高線の地形が明らかになってきた。 これは平安、鎌倉時代の地形であり、南端部には戦国時代の房州堀の跡も描かれている。 鎌倉時代の推定地形と現在の海岸線を重ねて示した図がこの図である。 13世紀の頃の博多はこの図のように瓢箪形の二つの島にわかれており、北側が息の浜(沖の浜)とよばれ、南側が博多浜とよばれている。息をオキと呼んでいるが壱岐にも通じるようだ。 息の浜はもとの奈良屋小あたりで、神屋宗湛の屋敷などがあった。大友宗麟の時代には近くにキリシタンのため教会が建てられた場所でもある。 さらに遡れば平清盛の時代に湊として整備された場所である。 バテレンの文書によると、ベニスのように豊かで、綺麗な都市であったと書かれているそうだ。 上の地図はその後の15世紀頃の地図で川添昭二(著者代表)「福岡県の歴史」光文館1990 に掲載のものである。 貝原益軒の「筑前国続風土記(1709)」によると、かって博多は箱崎と陸続きであったものを、立花城を拠点にして博多を支配していた大友氏は、家臣臼杵鎮続安房守に命じて、それまで博多南部を流れていた三笠川(比恵川)をつけかえて、まっすぐ海にむけて人工の川(石堂川)をとおし、南側の川の跡を防御のための堀(房州堀)として設けたと記載されている。 安房の名前をとり房州堀と名づけたのだろうか? 洪水対策でもあったようで、万行寺や櫛田神社の西側の入り江地帯(合流点)はすり鉢の底のような沼地だったようだ。今のキャナルシティや下照姫神社付近に鉢底川の名前が残っている。 地下鉄工事のさいにも、幅6mをこえる東西方向の堀が発見され、大友時代の博多が東西の川と南の堀に囲まれた要塞都市であったことが明確になった。 堺とならぶ代表的な自治都市で、大博通あたりの中央道路は瓦敷きの舗装道路がはしっていた。 堺の町の環濠は秀吉により埋められたが、博多の堀は明治初期まで残っていた。 秀吉は1586年に九州統一をし、博多の復興町割りを行った。石田三成と景轍玄蘇の案をもとに博多10町四方の焼け跡の整地と復興を黒田管兵衛が実行した。その頃の地図を今年「はかた部ランド協議会」で作成したのが次の図である。 中央部には博多大水道が整備され、南の水路は房州堀と宗也堀と太屋堀の3つの堀名にわけられている。元比恵川もあり、町名と神社・寺院、商人や豪商の屋敷が詳しく記載されている。 南部の堀は1880年の福博詳見全図にも記載されているが、最近の詳しい復元図が次の図である。九州大の木島先生達により調査されたもので、黒田時代に大幅な修復工事がされたことが明確になったようだ。 http://www.chiikishi.jp/hp/tayori/tayori87.html 南部の房州堀の区画の大半は、初期の博多駅建設に利用され、勿論現在はすべて暗渠になり、見ることは出来ない。 房州堀の水の流れは、もとの地形を考えると、比恵川から那珂川へながれているはずであるが、古老の話では東西に流れていたという伝承がある。 これを裏づけるのが次の古図である。その後の地形の変化で、那珂川と比恵川の中間に小金川と呼ばれる小川ができて、房州堀に流れ込んでいたようだ。その西側部分を鉢底川とよんび、東側部分を緑川とよんだらしい。比恵川には緑橋の名前がのこっている。 これによく似た三宅所蔵図もあるが、少し流れの位置が東寄りになっている。 大正末期の旧博多駅周辺の地図では、駅の南側に鉢底川の流れが記載されている。 この川の流れ方向は降水状況や川底の変化で複雑に変化したであろう。 さらに詳しい昭和13年の地図をつけくわえておく。青色をつけたのが鉢底川である。この頃までは市民に親しまれた川であった。その後上流の工場や住宅開発でかなり汚染され、昭和42年には完全に暗渠化(管渠化)され,今はみれない。 しかも那珂川の川底が高くなったので、ポンプアップして流しているそうだ。 房州堀の南は郡部で犬飼村である。 南の郡部から博多への入り口は辻の堂ひとつで、明和(1770)頃は、上が23軒、下が18軒のさびしい所であった。 この付近の辻の堂作出町の風景図が残っている。河や橋があり、明治22年の福岡市制時でも、97戸、502人だったようだ。 作出町はのち出来町となり、現在は承天寺のちかくに出来町公園として地名が残っている。 その後の鉄道開通工事で辻の堂の大部分が博多駅構内となり、承天寺の境内もだいぶ狭くなった。 現在の航空レーザー測量写真によっても、博多の息の浜や博多浜の地帯は、濃い緑色(2~3m高い)部分で浮かび上がっているのが下の写真でわかる。 博多駅周辺にたびたび水害がおきるのは、昔の地形を思い出させるためであろうか? 参考文献 白水晴雄著「博多湾と福岡の歴史」梓書房2000 (著者は学生時代のヨット部仲間:九州大名誉教授、地質学) 井上精三著「福岡町名散歩」葦書房1983
今年の博多山笠の飾り山には、源氏物語の人形が3箇所にも登場した。
源氏物語に登場する人物で九州までやってきた人物は「玉鬘」ただ一人というのに、千年紀に協賛しての話であろう。 玉鬘は大宰府でうまれたという人までいたが、それはあやまりで、母の夕顔の死後、乳母につれられて筑紫にくだってきたのだ。 千年前には著作権もないし、出版社もないし、日付の入った文書もない。一番古い写本で1258年に写したと記載されているものがあるだけだ。 厳密には源氏物語の存在が記録された別の文書があり、千年前に宮中に流布していたと判断されて、千年紀になったという。 それは紫式部日記「寛弘5年11月1日:敦成親王五十祝」の記事からで、写真の絵巻に描かれた宴会の場面の会話に若紫や源氏の君の話が出てくるから間接的に判断しただけで、直接的な日時の表現は全くないままである。 その会話とは、左衛門の督「あなかしこ。このわたりに、わかむらさきやさぶらふ」と、うかがひたまふ。源氏に似るべき人も見えたまはぬに、・・・というくだりである。 写真の絵では、一番右の蚊帳のなかの人物で、右の小手をかざしてなにやらものいう風情の男性が藤原公任(カネトウ):左衛門である。 さらに11月1日を古典の日にしようという提案まででているそうだから驚きである。 (以上は源氏物語研究者の九産大:田村隆先生から今日きいた話) 日中関係の正史は遣隋使や遣唐使からはじまるが、その研究者は案外少ないらしい。 10月18日に奈良大学の東野治之先生の話をきいた。岩波新書「遣唐使」の著者である。 http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn0711/sin_k386.html 遣隋使は600年から4回、遣唐使は630年から19回派遣されており、20回目の894年の計画は菅原道真の意見で停止されている。 その菅原道真が九州大宰府に配流されたのも一つの縁である。 約300年続いたこの制度は中央で計画・人選・実行されたが、最終的な出発地は九州であった。 航路には北路(新羅道)と南路があり、それぞれ対馬と五島から出発した。 第2次、4次には百済舶、呉唐路も試みられたが成功しなかった。 その出発前の停泊地は風待ちのための大きな入り江で、周囲に切り立った断崖のある場所が選ばれた。 文献にある川原、青方、相河、福浦などの地名の場所を調査した資料を示された。地形的には適した入り江であるが、どこも発掘調査などされたこともない場所で、確実な証拠は不明のままである。 遣唐使の全容については明確な講演であったが、古代九州との関連では ちょっとさびしい調査結果であった。せめて留学生で客死した井真成が九州出身の裏づけでも出ればもりあがったと思う。 関西では藤井寺出身の説がもりあがっているが、九州では、井氏が圧倒的に多い熊本県産山村出身説がもりあがっている。 さらに追加するならば、遣唐使の要望をうけて鑑真和上は沖縄経由で、大宰府に入国した。 江蘇省と福岡県は友好協定を結んでいるそうで、その文化交流ウイークがアクロスでひらかれ、10月24日には鑑真和上講演会がおこなわれた。 奈良の唐招提寺執事の西山明彦氏、早稲田大学木下俊彦氏、鑑真の出身地の大明寺方丈の能修氏の3人で、パネル討議をふくむ多様な話がきけた。 和尚、和上、法師、方丈など僧侶の呼び名はいろいろだが、大和上の称号をもらった鑑真は最高位である。 鑑真大和上を鑑真大和に上るとよんだ中学生がいたそうだ。 中国では玄奘が仏教を輸入し、鑑真が仏教を輸出した。 松尾芭蕉が鑑真の生誕1000年紀の1688年4月8日に唐招提寺をおとずれ 「若葉して 御目の雫 ぬぐはばや」 と 詠んだ。 鄧小平が唐招提寺をおとずれたとき鑑真和上の像をみて、1200年も大事に保存されているのに感激した。 大明寺に2年前、唐招提寺と同じ金堂ができた。 早稲田大学生グループが今年「鑑真記念逆渡航の交流事業」(日中青年交流プロジェクト)で鑑真の故郷訪問を行った。 等等。 遣唐使の時代は現代につながっていることを実感した。
わが人生で、太平洋戦争中の大きな事件に関わったのは、長崎の原爆であった。
しかしその真実の詳細な内容を当時は知らずに60年を過ぎた最近になって,いろいろの本や多くのネット情報などで詳しい経緯を知ることができるようになった。その幾つかをここにまとめてみる。(情報源は多数なので省略する) 1)広島の次の原爆目標地は小倉市であった。 広島には原爆を投下するまえに何度も偵察機を飛ばしている。市民が慣れて警戒を忘れる頃に投下したという。 8月6日の広島原爆投下作戦で観測機B-29「グレート・アーティスト」を操縦したチャールズ・スウィーニー少佐は、テニアン島へ帰還した夜、次の原爆目標は第一目標が福岡県小倉市(現:北九州市)、第二目標が長崎市であること、そしてその指揮をとることを告げられた。 その時の指示では、1機の気象偵察機の飛来後に、3機のB-29で都市上空に侵入するという、広島市への原爆投下の際と同じものであった。 スウィーニーの搭乗機は通常はグレート・アーティストであったが、この機体には広島原爆投下作戦の際に観測用機材が搭載されていた。これをわざわざ降ろして別の機体に搭載し直すという手間を省くため、ボック大尉の搭乗機と交換する形で、爆弾投下機はボックスカーとなった。 ボックスカーには、スウィーニーをはじめとする乗務員10名の他、レーダーモニター要員のジェイク・ビーザー中尉、原子爆弾を担当するフレデリック・アッシュワース海軍中佐、フィリップ・バーンズ中尉の3名が搭乗した。 先行していた気象観測機のエノラ・ゲイからは小倉市は朝靄がかかっているがすぐに快晴が期待できる、ラッギン・ドラゴンからは長崎市は朝靄がかかっており曇っているが、雲は10分の2であるとの報告があった。 硫黄島上空を経て、午前7時45分に屋久島上空の合流地点に達し、計測機のグレート・アーティストとは会合できたが、誤って高度12,000mまで上昇していた写真撮影機のビッグ・スティンクとは会合できなかった。40分間経過後、スウィーニーはやむなく2機編隊で作戦を続行する事にした。 午前9時40分、大分県姫島方面から小倉市の投下目標上空へ爆撃航程を開始し、9時44分投下目標である小倉陸軍造兵廠上空へ到達。 しかし爆撃手カーミット・ビーハン陸軍大尉が目視による投下目標確認に失敗する。 前日の8日に八幡市を別部隊が空爆していたため、その焼煙が小倉市の上空までたなびき、視界が悪くなっていたからである。八幡地区の工場から「めかくし噴煙」を流したという説もあるが、確証はない。 その後、別ルートで爆撃航程を少し短縮して進入を繰り返したが再び失敗、再度3度目となる爆撃航程を行うがこれも失敗。この間およそ45分。 2)長崎に原爆投下の目標を変更した。 この小倉上空での3回もの爆撃航程失敗のため残燃料に余裕がなくなり、その上ボックスカーは燃料系統に異常が発生したので予備燃料に切り替えた。 日本軍は今までB29の1~2機飛来は気象観測と考えて応戦しなかったが、広島原爆のあとはただちに攻撃指令をだすように切り替えていた。 北九州には皿倉山、皇ヶ崎、割子川に10門、若松総牟田、小倉日明にに6門の新形高射砲が設置されており、下関と六連島には口径の大きなものもあった。最大射高は9000m程度で、どうにかB29の高度にとどく程度であった。前日の八幡爆撃のさいは1機を撃墜しており、この日も飛行高度に8発前後がとどいたと報告されている。 五式戦闘機 その間に天候が悪化、日本軍高射砲隊からの対空攻撃が激しくなり、また、陸軍芦屋基地から飛行第59戦隊の五式戦闘機、海軍築城基地から第203航空隊の零式艦上戦闘機(零戦)10機が緊急発進してきた事も確認された。 零式艦上戦闘機 そこで、爆撃目標を小倉市から第二目標である長崎県長崎市に変更し、午前10時30分頃、小倉市上空を離脱した。 ちょうどこの時間帯、私は九州大学本館2階の講義室で、電磁気理論の講義をうけていた。(3年間の内容を2年間に短縮のため夏休み無しのカリキュラムであった。) 校内放送でB-29が2機小倉方面から福岡上空を通過中ということで空襲警報がでたが、宮崎教授は「日本の高射砲弾がとどかぬ上空をとんでいるのだから、天体の移動と同じだよ」といいながら講義を続けられた。 B29が2機だったのは、1機がはぐれたためだったことを最近初めて知った。また小倉が第一目標だったことは、戦後しばらくして新聞報道された。 九大工学部本館(当時は黒いコールタールで塗られていた。) 長崎天候観測機ラッギン・ドラゴンは「長崎上空好天。しかし徐々に雲量増加しつつあり」と報告していたが、それからかなりの時間が経過しておりその間に長崎市上空も厚い雲に覆い隠された。 ボックスカーは小倉を離れて約20分後、長崎県上空へ侵入、午前10時50分頃、ボックスカーが長崎上空に接近した際には、高度1800mから2400mの間が、80~90%の積雲で覆われていた。 補助的にAN/APQ-7“イーグル”レーダーを用い、北西方向から照準点である長崎市街中心部上空へ接近を試みた。 原爆投下の前 スウィーニーは目視爆撃が不可能な場合は太平洋に原爆を投棄せねばならなかったが、兵器担当のアッシュワース海軍中佐が「レーダー爆撃でやるぞ」とスウィーニーに促した。命令違反のレーダー爆撃を行おうとした瞬間、本来の投下予定地点より北寄りの地点であったが、雲の切れ間から一瞬だけ眼下に広がる長崎市街が覗いた。ビーハンは大声で叫んだ。「街が見える!」 3)長崎に原爆投下 スウィーニーは直ちに自動操縦に切り替えてビーハンに操縦を渡した。工業地帯を臨機目標として、高度9,000mからMk-3核爆弾ファットマンを手動投下した。ファットマンは放物線を描きながら落下、約1分後の午前11時2分、長崎市街中心部から約3kmもそれた別荘のテニスコート上空、高度503mプラスマイナス10mで炸裂した(長崎市松山町171番地)。 これは爆発の効果を最大にするための高度で、VT管によるレーダー設定、タイマー設定、気圧高度計設定の3重計測で達成された。 原爆投下の後 ボックスカーは爆弾を投下後、衝撃波を避けるため北東に向けて155度の旋回と急降下を行った。爆弾投下後から爆発までの間には後方の計測機グレートアーティストから爆発の圧力、気温等を計測する3個のラジオゾンデが落下傘をつけて投下された。これらのラジオゾンデは、原爆の爆発後、長崎市の東側に流れ、正午頃に戸石村(爆心地から11.6km)、田結村(12.5km)、江の浦村(13.3km)に落下した。 私達はこのラジオゾンデをあとで分解調査することになるが、1個だけと思っていたのが3個もあったことは最近初めて知った。 下の写真は現在気象観測に使われるヘリウムガス気球のゾンデであるが、この時は落下傘をつけて投下された。だから当時は落下傘爆弾とよばれていた。 ボックスカーとグレート・アーティストはしばらく長崎市上空を旋回し被害状況を確認し、テニアン基地に攻撃報告を送信した。戦闘機の迎撃も、対空砲火もなかった。 この頃には写真撮影機のビッグ・スティンクも追いついていて、この時の原爆爆発の様子を撮影し、16mmのカラーフィルムに3分50秒の映像として記録された。この映像には爆発時の火の玉からキノコ雲までがはっきりと写っているという。 4)沖縄経由の帰還 ボックスカーは長崎市上空を離脱する際には残燃料約1000ℓであり、計算では沖縄の手前120kmから80kmまでしか飛べないと考えられた。スウィーニーはエンジン回転を落とし降下しながら燃料を節約する方法で午後2時に沖縄県の読谷飛行場に緊急着陸した。残燃料は僅か26ℓであったという。 このことも最近初めて知った。 着陸後、スウィーニーはドーリットル空襲で名を馳せたアメリカ第8航空軍司令官ジミー・ドーリットル陸軍中将と会談した。燃料補給と整備が終了したボックスカーとグレート・アーティストは午後5時過ぎに離陸、午後11時6分にテニアン島に帰還した。 5)原爆の威力 原子爆弾の可能性については、当時の理系学生であれば大半のものが知っていた。しかしその実現にはかなりの困難な問題があり、当時では10年先の夢と思われていた。アメリカで予想以上に急ピッチで開発されたので、日本側ではただ新形爆弾と称していた。 また広島と長崎に投下された原爆は同じものだとと当時は思っていた。しかし広島にはウラン235、長崎にはプルトニウム239の方式で、後者が量産しやすい本命であったらしい。 広島の原爆 当時さる物理専攻の教授は、まだ原爆の可能性は低く、「酸素ガス爆弾」だろうという推論を新聞に発表し、原爆とわかったあと丸坊主頭であらわれた。この程度の知識だったから、ウラン235やプルトニウム239方式についての知識は日本の専門家ににもなかっただろう。 プルトニウム原爆はインプロージョン方式起爆する。 長崎原爆「ファットマン」はTNT火薬換算で22,000t(22kt)相当の規模にのぼる。この規模は、広島に投下されたウラン235の原爆「リトルボーイ」(TNT火薬15,000t相当)の1.5倍の威力であった。 長崎の原爆 長崎市は周りが山で囲まれた特徴を持つ地形であったため、熱線や爆風が山によって遮断された結果、広島よりも被害は軽減されたが、周りが平坦な土地であった場合の被害想定は、広島のそれを超えたとも言われている。 もし最初の標的であった小倉に投下されていたならば、小倉市だけでなく隣接する戸畑市、若松市、八幡市、門司市、即ち現在の北九州市一帯と山口県の下関まで被害は広がり、死傷者は広島よりも多くなっていたのではないかと推測されている 。 長崎原爆は浦上地区の中央で爆発し、この地区を壊滅させた。なお長崎の中心地は爆心地から3kmと離れていること、金比羅山など多くの山による遮蔽があり、遮蔽の利かなかった湾岸地域を除いて被害は軽微であったといわれる。 しかし浦上地区の被爆の惨状は広島市と同じく悲惨な物であった。 浦上天主堂でミサを行っていた神父・信者は爆発に伴う熱線あるいは崩れてきた瓦礫の下敷きになり全員が即死、長崎医科大学でも大勢の入院・通院患者や職員が犠牲となった。 長崎市内には捕虜を収容する施設もあり、連合軍兵士(主に英軍・蘭軍兵士)の死傷者も大勢出たと云われている。 私の従兄が一人、学友が二人も原爆の犠牲者となった。 6)ラジオゾンデの調査 これからが私たちの出番である。 9日の長崎原爆の翌日に、B29が落とした前述のラジオゾンデ(当時日本では「落下傘爆弾」といっていた。)を憲兵隊が大学に持ち込んできた。 新型爆弾の不発弾らしいということで、その分解調査をすることになり、そのグループに参加した。 持ち込まれたのは1個であったが、前にのべたように落とされたのは3個であった。 日本軍は不発弾と勘違いしていたようで、関東軍の幹部はこの不発弾をソ連との和平交渉に使う話をしたという。だがこれは実はラジオゾンデで、随伴機はこのゾンデからの電波で、爆発の温度や圧力を計測して帰ったのである。 当時私はじめてこの中の電気部品で、ビニール電線、積層電池、小型多極管、電解コンデンサーなどをみた。これらの電気部品はすべて石綿で厚くつつまれていて、周囲は直径50cm、長さ1mくらいのジュラルミン製の円筒ケースの中にはいっていた。 積層電池(150V) 小型多極管 電解コンデンサー 当時はまだトランジスターは無い時代だが、日本の電気部品にくらべて、みな小型軽量で高性能の部品ばかりで、教授陣も技術の格差に驚いた。 敗戦後これらの部品はアメリカ軍のMPが大学にあらわれて、すべてを持ち去った。円筒形のジュラルミンのケースだけは、I教授の部屋で傘立てとして永らく使われていた。 7)戦後のアメリカ:スミソニアン博物館展示騒動 エノラ・ゲイは戦後退役し解体保存されていた。 1990年代半ば、スミソニアン航空宇宙博物館側が原爆被害や歴史的背景も含めてレストア中のエノラ・ゲイの展示を計画した。 この情報が伝わると米退役軍人団体などから抗議の強い圧力がかけられ、その結果、展示は原爆被害や歴史的背景を省くこととなり規模が縮小された。この一連の騒動の責任を取り、館長は辞任したようだ。 その後スミソニアン航空宇宙博物館の別館となるスティーブン・F・ウドヴァーヘイジー・センター(ワシントン・ダレス国際空港近郊に位置)が完成したことにより現在はその中で公開されているそうだ。 前述したような事態が繰り返されるのを避ける目的で原爆被害や歴史的背景は一切説明されていないために、その展示方法には批判的な意見も存在している。 学友のY君は、当時の小型多極真空管をこっそり保管していたようで、その後アメリカの友人からスミソニアン博物館に売れば大金持ちになれるぞといわれ大喜びしていた。結局現物は彼のいたS大学に保管されているようだ。 8)小倉市の照準点は? 第一目標だった小倉市の照準点に向かって、目標方向への侵入自体は目視により可能だった事から、後の長崎と比べればかなり好都合な投下条件だったことは明らかだ。 もしも爆撃手が、照準点辺りに適当に見当をつけて投下ボタンを押していたら、小倉が想像を絶する被害を受けたことは確実である。ただ小倉造兵廠内のどの地点が、その「照準点」だったのか現在では確認できていない。一部には風船爆弾の製造工場だったのではという説もある。 その跡地に安川電機小倉工場が建設されているので私にもなじみが深い場所だが、このあたりが目標点だったかもしれない。 すぐ近くに北九州市の勝山公園や中央図書館があり、この付近も当時は造兵廠本部が建っていた場所である。 いま図書館敷地内には、この経緯を記念する平和希求の碑が建てられており、「長崎の鐘」と同じ鐘が吊るされていて、この碑と鐘の前で毎年8月9日の長崎原爆記念日に、投下時間に合わせて慰霊祭が取り行われている。 長崎に原爆が投下された日、ソ連軍が満州に侵入し,原爆とソ連侵攻が引き金になり、日本はポツダム宣言を受諾、8月15日に降伏した。 その後復興を急いだ八幡製鉄所の公害に苦しめられた北九州市であったが、いま環境対策技術のモデル都市としてよみがえっているのが、せめてものすくいである。 9)模擬原爆 パンプキン 日本に対する超高度(約9千メートル)からの原爆投下を成功させるための投下訓練と、爆発後の放射線から逃げるための急旋回(急転、退避)の訓練を目的として、第509混成群団は、1945(昭和20)年7月20日頃から連日のように、東京、富山、長岡(新潟県)、敦賀(福井県)、福島、島田(静岡県)、焼津(静岡県)、浜松(静岡県)、名古屋、春日井(愛知県)、豊田(愛知県)、大垣(岐阜県)、四日市(三重県)、大阪、和歌山、宇部(山口県)、新居浜(愛媛県)などの44目標に模擬原爆49発を投下した。(計18任務、延べ50機) この結果約400人以上が死亡、約1200人以上が負傷したという。終戦直前の8月14日には性能テストのための投下もおこなっている。 しかもこれが日本で模擬原爆と判明したのは、終戦後46年もたった1991年だった。 模擬原爆は原爆と同じ形状の爆弾で、カボチャの形だったことからパンプキンとよばれていたという。 一般市民は3月から東京をはじめとする大都市の絨毯爆撃、6月からの中小都市の絨毯爆撃に翻弄られて、このような模擬爆弾のことなど知らぬは仏のはかない身であった。 私は6月17日の福岡空襲、家内は7月2日の下関空襲を体験し、本土がどこまで焼土となるのかを恐れていた。 また本土決戦の最初の地は九州であり、戦車の大部隊の国道行進の姿をみていよいよ最後の決戦が近まったと感じていた。 広島と長崎の原爆被害とソ連の参戦という急展開で、ついに無条件降伏の決定を知ったときは、残念な気持ちよりも、技術力と経済力の格差の大きさにうちのめされ、当然の結末だと思えた。 そして北九州の市民には、長崎市民に対する「申し訳ない」という気持ちがが多分にあって、めくらまし作戦などの関係者は長い間くちを閉ざしていたようだ。
九重高原からの帰路、豊後中村駅の南にある伐株山にのぼった。
といっても車で頂上の展望台までいける。 古代の山城のあった場所で、伐株城または玖珠城とよばれていた。 北側の角牟礼城とともに、南北朝時代から、大友・島津時代まで、何回も大きな戦のあった場所である。 具体的には、熊本の菊池軍側が足利軍を撃退したり、大分の大友軍側が北上してきた島津の大軍を食止めた場所でもある。 しかし伐株城は最後に火災で落城したが、北側の角牟礼城は、秀吉軍の九州征伐により島津軍が撤退するまで、守備を貫遂したという。 ここは周辺の展望が300度ちかく開けていて、敵軍の動きが手に取るように観測できるので、戦略上の重要なポイントだったことは推測できる。 先方の山には日田の風力発電設備の白い塔が見える。 中央部に角牟礼山城がみえる。ここには昨年でかけて、次のページに紹介している。 今回こちらの伐株山から眺めて、両方の位置関係がよく理解できた。 http://gfujino1.exblog.jp/9197163/ 江戸時代になると、北側の角牟礼山麓に久留島一族が館を構えたので、伐株山は廃城となってしまった。
関が原の戦では、徳川軍の正面突破をして鹿児島に逃げ帰った島津家であるが、徳川幕府時代では、加賀・仙台藩につぐ大藩としてなんとか生き残った。
その島津藩が、篤姫を将軍の継室として送り込むまでになった経緯は何処にあったのだろうかと調べてみた。 13代将軍家定の継室篤姫の場合はNHK大河ドラマで放送中のとおり、島津斉彬藩主が主導役で養女篤姫を近衛家の養女として、家定の継室に送りこんでいる。 (写真:島津斉彬、天璋院(篤姫)、13将軍家定) それ以前に、11代将軍家斉の正室に、島津家から寧姫が迎えられている。(写真:家斉) ただこの場合はまだ幼少時代に、将軍とは無関係な一橋家と島津家との婚約であった。 しかし10代将軍家治の嫡男家基が18歳で急逝したため、家治の後継将軍をめぐり、田安家と一橋家の間で一波乱があり、結局一橋家の家斉に将軍職が決まり、島津家出身御台所ができた。 この時も近衛家の養女という身分であり、8代将軍吉宗の養女浄岸院(竹姫)の遺言での婚約だったことで、反対意見が抑えられた。 さらに遡れば、5代将軍綱吉の養女・竹姫が婚期がおくれて、8代将軍吉宗の時代に、近衛家出身の天英院の斡旋で、島津継豊の後妻として嫁いできた経緯もある。 外様大名でありながら、将軍家の養女を妻に迎えたり、将軍家御台所を2人も輩出したことは異例であり、幕府との友好的な関係が成立したのは何故だろうか? これらの縁組の背景には、すべて島津家と近衛家の深い関係があり、近衛家の斡旋によるものだったようだ。 そこで島津家と近衛家の関係を遡ってみると、歴史は古く鎌倉時代までとどりつく。 島津氏は秦の始皇帝の末裔と称する渡来人の秦氏の子孫で、惟宗氏の流れを汲む惟宗広言が、主筋である藤原摂関家筆頭の近衛家の日向国島津庄(現宮崎県都城市)の荘官(下司)として九州に下った。即ち近衛家の部下だったのである。 その子の惟宗忠久が、源頼朝から同地の地頭に任じられ島津を称したのがはじまりとされ、のちに薩摩国出水平野に城を築き、拠点を移している。 その後室町時代・南北朝時代を通じて、近衛家とは親交があり、島津・近衛両家の縁組もいくつかあった。 だから主に九州にありながら天下の情報を得て島津家は戦国時代を乗り切り、さらに江戸時代となっても、徳川幕府と友好的に渡れたのであろう。 しかし、幕末時代の世界情勢をしってからは、ついに討幕の方向に転じたのは衆知の通りである。 <<前の日記へ 絵暦の日記
九州の横断道路は日田街道であり、要所要所には中世から山城があった。
豊後の玖珠町には、角牟礼山の山頂に角牟礼城(角埋:つのむれ)城とよばれる山城が昔からあり、戦国末期の豊臣時代に、この城は毛利高政により土塁から穴太(あのう)積の石垣に改造された。 瀬戸内海の来島海賊は関が原の戦のとき、はじめは西軍についていたが最後に東軍に寝返った。しかし徳川家康により伊予の来島から、豊後森の毛利高政のあとに移封(1万5千石)され、名前も久留島とかえた。(毛利高政は佐伯に移封) この時久留島一族は山城にははいらずに、麓の平地に館(森陣屋)をかまえて、農地開発や森林造成にはげんだという。小藩で城を持てぬ国主だったからであろう。 さらに造船技術はもっていたので、船舶用の材木をあつめ、大分湾日出の飛び地の港で、造船をしたといわれる。 本拠地としての城はないけれど、8代藩主通喜のときに、末広神社(三島公園)の改修と称して、立派な石垣をつくり、いざという時の城の代わりにしていたようだ。 この石垣は豊後の竹田の岡城ほどではないが、かなりの石垣である。 子孫には、童話作家の来島武彦がおり、記念碑や文学館などがたてられている。 さらに遡れば、南北朝の時代や島津軍北上の時代に、この角牟礼城と南の玖珠城(伐株城)では、足利や島津の大軍が攻撃したが、両城の連携プレイが効果をだして難攻不落であったと伝えられている。 伐株山については次のページに紹介している。 http://gfujino1.exblog.jp/9287014/
大河ドラマ「篤姫」で小松帯刀が話題になっている。今まであまり知られていなかったが、身分的には西郷隆盛の上司で、薩長同盟などにも活躍した人物である。
(小松帯刀の写真) 彼は坂本竜馬と同じ年の生まれで、討幕の活動でも深い交流があった。 坂本竜馬と妻のおりょうが、霧島温泉に「日本人最初」の新婚旅行をした」ことになっている。 (霧島温泉の銅像・竜馬と龍) しかし、これは小松がその数年前に霧島に新婚旅行した経験から、坂本に旅行をすすめて小松家に泊まらせて、あと霧島に案内したものだ。竜馬が最初ではなかったことはたしかだ。 この話から、「おりょう」について興味をもち、調べて見ると、波乱万丈の人生のようで、俗説や誤伝も入れ混じって面白い。 1)おりょうの写真 研究者やファンの間で坂本竜馬の妻 「おりょう(龍)」かどうか論争になっていた若い女性の写真(上)を、警察庁の科学警察研究所が、おりょう本人と確認されている晩年の写真(下)と比較して、この5月に 「同一人物の可能性が高い」との鑑定結果を発表した。鑑定を依頼した高知県立坂本竜馬記念館では、森健志郎館長が「科学的な鑑定で、あいまいな推測から一歩進んだ。おりょうの可能性が高まった貴重な結果だ」と喜んでいる。 2)おりょうの家族 おりょうは天保12年(1841)京都西陣で生まれる。嘉永6年(1853)13才の時父、母が続いて亡くなり、医師楢崎将作の養女となったという説と、楢崎家の実子で龍を含め女3人、男2人の5人兄弟で、裕福であったという説がある。後の説が本当のようだ。 將作は京都東山の門跡寺院・青蓮院の侍医であり、勤王家 頼三樹三郎 梁川星巌 池内大学らと親交があり、数多くの志士たちを援助した。 そのため 安政大獄で投獄されたが 出獄後の文久2年6月20日に病死した。 享年50歳。 (楢崎将作邸跡) 将作の死により次第に家族は困窮生活となり、長女の龍は奉公に出て家計を支えるが、悪党が来て13歳の妹を島原遊郭へ舞妓に売り、母親をだまして16歳の妹も大坂へ女郎として売り飛ばした。 龍は妹が大坂の遊郭に売り飛ばされると、着物を売り旅費を工面して単身大坂にのりこみ妹をだまして連れ去った悪党相手に大喧嘩をした。 悪党も腕をまくり刺青を見せて脅したが、龍も懐に短刀を忍ばせ死ぬ覚悟で来ているので一歩も引き下がらなかった。 悪党も女を殺すわけにもいかず、とうとう根負けし、龍は妹を取り戻し京都へ連れ帰った。 この妹とは、晩年まで深い因縁の生活が続いている。 (姉妹の像) この頃竜馬がおりょうと知り合いとなり、龍馬のはからいで、母親は杉坂の尼寺へ、二男は粟田口の金蔵寺へ、三女と長男は神戸にいる勝海舟に預かってもらい、龍は寺田屋の女将・登勢に預けられた。 寺田屋の登勢は、龍を養女扱いで引き受け、捕吏の目をごまかすために龍の眉を剃り、名を春と改めた。 (寺田屋の外観) 3)竜馬の見たおりょうの評価 島田まげを結い小ざっぱりした小袖を着ている。 きらっとした眼口元あごが引き締まり 美しい。 まことおもしろき女(才女)にて 月琴をひき申し候。 一向かしぎ奉行(炊事針仕事)などすることはできず。 などなど。 寺田屋遭難(慶応2年1月24日)のとき、入浴中のおりょうが裸のまま二階にかけあがり、襲撃をしらせたはからいで、竜馬は無事難をのがれたことは有名だが、 遭難以降、一生足手まといの嫁を貰うつもり無かったが、おりょうならどんな修羅場でも平気じゃろうと判断して結婚、 そして九州への新婚旅行で束の間の幸せ味わった。 4)竜馬の死後のおりょう 慶応3年(1867年)11月15日夜、河原町四条の醤油商近江屋にて、海援隊長の坂本竜馬(33歳)と、陸援隊長の中岡慎太郎(30歳)が何者かによって暗殺された。坂本は頭と背を斬られて現場で死亡し、中岡も重傷を負って二日後の17日に死去した。 (霊山護国神社の坂本・中岡の銅像) おりょうは龍馬が暗殺された後、、高知や京都、東京を流転。1875年に旧知の商人の西村松兵衛と明治8年に再婚して横須賀に住んだ。 一旦高知の坂本家にひきとられたおりょうが、高知をでた理由は、坂本家との金銭トラブルであった。竜馬が海援隊のために残していた1000両の金の配分をめぐって、坂本家の当主が全てをとりあげようとしたため、金などいらぬと言って高知の坂本家を飛び出したという。 西村松兵衛は京都の呉服屋の若だんなで、おりょうが働いていた寺田屋にも泊まっていたので、旧知のなかであった。 その後商いが傾き、明治に入り、知人を頼って横須賀へでて、造船所の資材運搬で東京へも出かけた。 おりょうも土佐や京都を転々とし、、嫁いだ妹を頼って東京へでて、旧知の松兵衛と出会い、横須賀で暮らし始めた。 その後に、妹の息子を養子にし、大阪にいた母を迎えた。 養子と母の死後は、妹を呼び寄せて3人で暮らしたが、松兵衛と妹がともに家を出て独り暮らしとなった。1906年(明治39年)に66歳で死去し、墓は横須賀市内の信楽寺にある。 龍馬の妻として3年余り、松兵衛とは30年余りだが、信楽寺(横須賀市大津町)の墓には「龍馬の妻龍子之墓」と刻まれている。 住職の新原千春さんは 「龍馬とのよい思い出が語り継がれることが供養になる」と解釈している。 俗説では、松兵衛と妹が一緒になったため、竜馬の妻と刻んだのだという。 明治37年昭憲皇太后の夢で、おりょうの存在が世に知られる事になる。 霊山護国神社に坂本龍馬の君忠魂碑 、寺田屋には恩賜記念碑が建立された 。 そしておりょうには御下賜品が届くが その1月15日死去 台座には『桔梗の紋』がある。 5)お墓の由来 龍馬の妻おりょうの墓は前述のように横須賀の信楽寺にある(写真)。 このお墓の建造者は鈴木清治郎という人物である。このお墓ができた時(大正3年)、当時の新聞などで大きく報道され、人々ははじめて龍馬の妻おりょうのことを知った。 その後、清冶郎は何度かマスコミ関係者から取材を受けている。 同氏が語るには、おりょうの死ぬ2年ほど前(明治37年ごろ)横須賀の町の露店で、おりょうの夫・西村松兵衛と知り合う。 清治郎は大道易者であり、松兵衛も露天商を営んでいた。二人は親しくなり松兵衛の家に泊めてもらうほどになった。 横須賀の裏長屋のその家に松兵衛の妻おりょうがいたのである(その時は西村ツルであった)。そのツル本人が「自分は坂本龍馬の妻・おりょうだ」と言っていたのである。 同氏の印象では酒好きの鉄火婆さんだったとのこと。 その後、しばらくして坂本龍馬のことが新聞に載った。それは日露戦争のとき、龍馬の姿が明治天皇の皇后の夢枕に立ったとの記事のことであった。 清冶郎は松兵衛の家を訪ねたが、そこで「おりょう」が死んだことを知る(明治39年)。 しかし、夫・松兵衛は零落しており、墓もないとのことなので、自分がおりょうのためお墓を建ててやろうと思いたち、龍馬ゆかりの元勲香川敬三(水戸藩出身)とか当時の横須賀鎮守府長官などからお金を集めて建てたのが、現在の横須賀・信楽寺に残る「おりょうの墓」なのである。 (香川敬三) 墓の銘には 「 贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓 」とある。(阪の文字は間違い) 「龍子」は「たつこ」と読むべきだろう。 はじめに載せた新発見の写真の裏書から「おりょう」の本名は「たつ」であり、夫・龍馬が「おりょう」と愛称で呼び、その周辺の人は通称として「おりよう」と認識していた。 「龍子」とは夫が正四位の官位を持っているので、当然、公家風に「龍子」とするのが当時のならいであった。 (木戸孝允の妻は幾松という名の芸者だったが、明治以後は松子を名乗っている。下の写真) おりょうの死期がせまった頃は、夫の松兵衛が別居からもどって、最後の介護をしていたのだろう。 少なくともおりょうの晩年は幾松のような幸福な生活とは縁遠いものであったようだ。 追記 坂本竜馬は明智光秀の血筋をひく子孫であり、その一族は現在も健在である。
和白病院に入院して、周辺の風景をしっかり眺めたので、自宅に帰ってから和白の郷土史を読み直してみた。
和白村は、上和白と下和白の二つの村に分かれていた。その境界線あたりに和白病院がある。地図をクリックすれば、拡大される。(赤印が和白病院の場所) 大神神社が両方にあり、上和白の方は高美台団地のなか、下和白の方はJR福工大駅の近くにある。 神功皇后の船つなぎ松の石碑が西鉄電車路線の近くにあり、昔はこのあたりまで、入り江だったようだ。 江戸時代の郡奉行蒲池重広は有能な開拓者だったらしく、大蔵池の構築や和白海岸の入り江干拓(水田2町4反)などを発案し、地元の庄屋安河内九郎左衛門らに実行させたようだ。 今の西鉄和白駅も、最初は駅がなかったので、庄屋の安河内氏の私有地を提供して駅の新設をして貰ったという。 今の和白病院の医療法人「池友会」会長の蒲池真澄氏は、郡奉行の子孫かどうか知らないが、この地を先端医療地に発展させた功績は大きい。 PET検査やドクターへりをいちはやく実現させた。(九州大学ではやっとH.20.7.15よりヘリをはじめるそうだ。) その子息の一人が、もと民主党の永田議員で、今は病院の管理事務者ということだ。 宮崎の日南海岸では一番有名な観光地が鵜戸神宮である。 家族旅行、会社の慰安旅行、学生との研修旅行などで数回おとずれている。ただ大形バスの駐車場から神社までの上り下りは、老人になった今ではかなり難儀であったた。 戦後間もない頃はまだ古くて荒れ果てた社だったような記憶があるが、近年は朱ぬりの立派な社に改築されていて、道路や階段も手すり付きの安全な構造になっている。 洞窟内から外の空を見上げる 洞窟前の階段にて 洞窟前の海岸の岩 洞窟内の本殿 洞窟内の分殿 出口の社
九州の小京都とよばれる飫肥城の樹下町にはじめてでかけた。
歴史的には伊東家と島図家の争いの地であり、建築学的には江戸時代の藩主の御殿(屋敷)が現存する希少価値のある場所である。おの御殿は豫章館という武家屋敷として公開されている。動画はこの御殿の縁側から広い庭園と借景をながめた風景である。 中世から伊東家と島津家の覇権争いが繰りかえされたが、秀吉の九州統一以後は伊東家の居城として明治初期まで280年あまり続き、14代にわたり伊東家は五万石の飫肥藩を治めた。 天守閣は残っていないが、藩主の屋敷が残っているのは全国でも希少である。 飫肥杉で有名なところで、屋敷の柱はすべて無節のみごとな杉である。 屋敷の玄関 屋敷の床の間 屋敷の庭側の縁 庭の風景 本来は城内の天守閣跡のちかくに松尾の丸という御殿があり、藩主はこちらに住んでいたが、 地震などの災害で住めなくなり、大手門の外にあった家老の屋敷を住居としたらしい。江戸後期の飫肥藩は財政事情が苦しかったようだ。 松尾の丸御殿は昭和54年に再建されているが、こちらは節の多い柱ばかりで形ばかりの安普請である。 城主の関連資料がここと資料館に多数展示されている。 豫章館の北側に城の大手門があり、壮大な門構えである。 大手門前からながめた武家屋敷の町並みは整然としている。 飫肥藩士は明治維新後の西南戦争では西郷軍を支援して、数百名の犠牲者をだしている。 その後日露戦争の講和条約で活躍した小村寿太郎の生家や記念館が武家屋敷跡のなかにある。 新宮町の桜の名所人丸神社の境内は、花吹雪が舞い降りて一面に花びらの絨毯が敷かれていた。 人丸の由来が旭姫の旭の文字を、日と丸に分け、日を人にしたことから出来たことを はじめて知った。 鎌倉幕府にわからぬような名前にしたのだろう。 平家の敗戦悲話の一つで、箱崎の米一丸と同じような話である。 昨日は鹿部公園にでかけたが、3月一杯は工事中で閉鎖されていた。 そこで行き先を変更して、日吉神社にいくことにした。 地図をたよりにちかくまで車でいったが、標識や鳥居などが見当たらない。ちかくの駐車場に車をとめて、あとは勘で周辺をまわった。 日吉公園からいけるかと思ったがフェンスで塞がれている。公民館への階段をのぼってその先 にやっと鳥居をみつけた。 昔は岡の上にできた神社だったのだろうが、南側にJRの線路がとおり、東、北、西の周辺が住宅に囲まれてしまい、遠方からわ全く望めない地形になってしまっている。 登ってしまうと大きな木に囲まれた神社で、南側には鹿部山や建設中の美明団地や立花山が一望できる。 JR線路沿いに車でのぼれる道路が一本あるが、道路標識や祭神・由来の説明板など全くないので、お参りするひとも少ないだろう。周辺のあとから出来た日吉団地の住人とはあまり縁がないのであろう。 丁度JRの電車が神社の真下を勢いよく通過していった。昔と現代が密着しすぎる環境である。
新聞によると古賀市の馬渡・束ヶ浦遺跡の出土品が今年度、県の有形文化財に指定されたそうだ。
銅剣、銅矛、まが玉、管玉などの出土品を一括して指定されたのは、弥生時代前期から中期の有力者の拠点あったことがうかがわられるし、クニの成立過程や埋葬状況を知る上で貴重な資料と評価されたからだ。 グリーンパークのなかにある遺跡が、あらためて脚光をあびることになる。 http://www.lib-citykoga.org/museum/muse_hakutu.html#b 上記の市のホームページにも、現場の掲示板にも、まだ文化財指定のことは記載されていない。 お役所仕事だから、4月すぎて夏ごろになるのだろう。
1587年に秀吉が九州平定をして、送り込んだ大名は中津の黒田、筑前の小早川、肥後の佐々などである。
黒田の領国は豊前6郡16万石で中津に城を築く。 (下の写真は戦後再建された中津城天守閣) 小早川の領国は筑前一国と筑後・肥前の一部37万石で、一旦立花城に入るがすぐに博多湾岸に名島城を築く。 (下の絵は名島城の平面図) 佐々の領国は肥後一国54万石で既存の隈本城に入る。しかし肥後一揆がおこりその失政の責任で切腹させられ肥後は二分割されて、加藤が隈本城、小西が宇土城に入る。 1600年関が原の戦で小西は敗死し、加藤が肥後一国の領主となり城の大改修をして、熊本城と名前を変更する。 (下の写真は戦後再建された熊本城天守閣) 関が原のあと黒田は筑前52万石に移封され一旦名島城に入るが、すぐに福岡城の建築にかかる。 この時代の築城は、山城から平城にかわり、複雑な堀と石垣に守られた天守閣がシンボルとなる形態が主流であった。 熊本城だけは西南戦争のときまで存続していた天守閣が確認されているが、中津城、福岡城の天守閣の存在は最近まで不明確のままであった。 しかし加藤清正が熊本城を改築していたとき、黒田如水が見学にきたという記録があり、福岡城にも熊本城と同等の天守閣を計画したと考えられる。 黒田のあとに中津城にはいった細川忠興は、その年の年貢を黒田がもちさったことから不仲になり、中津から小倉に城を移して常に黒田を監視し、築城のデータを徳川に報告した記録がある。そのなかに天守閣が記録されている。これが福岡城の天守閣存在の確証の一つである。 最近そのほかの調査資料からも天守閣の史料がかなり詳細に解かってきたようだ。 中津や熊本の市民が天守閣を再建したのに、福岡市民が戦後いまだに天守閣の再建を考えなかったのは、黒田以前からの博多商人魂のせいであろう。 せめてCG再現図で幻の天守閣の姿を楽しもう。 下の図は福岡城天守閣のCG復元図 (佐藤正彦著 甦れ 幻の福岡城 天守閣より) かっては福岡城に天守閣は存在しなかったという説が優勢だったが、現在では一度建設されたあと徳川幕府の嫌疑をおそれて取り壊されたとする説がほぼ確実視されている。 わたしももと福岡市長の桑原さんが博物館長時代に、館の研究者たちの調査結果をまとめて講演されたのを聴いたり、九州産業大学の佐藤教授の著書「甦れ!幻の福岡城天守閣」をよむと、天守閣の存在した確証が沢山発見されているので、天守閣があったと信じるようになった。 上のCG復元図は佐藤先生が調査されたものだが、熊本城におとらぬ立派な天守閣である。。 1619年福島正則が広島城の改築で幕府から嫌疑をかけられ失脚した事件から、各藩で天守閣や御殿をこわしたり縮小した例が沢山おこった。 黒田藩もこの時期に天守閣を取り壊し、当時の大阪城の再建用資材として献上したと推測されている。 豊臣方から徳川方に移った外様大名たちは、生き残りのために大変な犠牲をはらっていたことがわかる。 現在市町村の大合併で、空き家になった建物や議事堂が埃やくもの巣にまみれていることを思うと、中央の権力と地方の知恵のどちらも無くなっているような気がする。 最近「福岡城跡市民の会」が天守閣の再建や歴史・文化のテーマパーク計画をしていることを知ったが、このNPO法人の石井理事長の活躍活躍に期待したい。 http://fukuokajokorokan.npgo.jp/index.html その実現方法の一つには大河ドラマがある。 上杉・直江の大河ドラマ「天地人」も、地元の有志やマスコミの運動によって実現したようだ。 これに刺激をうけて、播磨藩の黒田武士顕彰会では、黒田武士を大河ドラマにしたいという動きがあるようだ。 http://www2.117.ne.jp/~ysd/kuroda/ 地元筑前でも、秋月黒田藩の「鎧揃え」の行事が盛大に行われたようだが、もっと播磨と筑前が協力して大河ドラマへの行動を起こせば、少しは前進するのだろう。 ただし、大河ドラマになるには武士よりも核となる女性の存在が重要だが、その存在資料がちょっと心配だ。 幕末の野村望東尼のような女傑が戦国時代にもいたらよかったのだが。
「故郷名島の歴史」の本がでて、3年目である。
発刊の発起人代表真田さんが、遠縁にあたることを最近知って、くわしく読み直してみた。真田姓は古くから小早川の家臣だったこともわかった。知人やmixi仲間からもいくつかコメントをもらったり、別の埋め立てに関する本を見つけて調べなおしたことをここにまとめる。 1)古代の名島の地形 古代の名島は博多湾に突き出た岬の先端部にあった。 その付近で発見された名島古墳は古墳時代初期の古墳で、この地方でも古い遺跡である。古代からこの地区には海洋民族が住み着いていた証である。 2)多々良川と名島城 中世には多々良川周辺は堆積土で周辺の土地がひろがり、人家や田畑がひろがった。 また先端の丘に名島神社、弁財天、神宮寺、宗栄寺などがあり、その下の黒崎海岸には神功皇后ゆかりの帆柱石がある。 中世になって立花城の出城が名島にきずかれ、南北朝時代に足利尊氏が九州までのがれてきて、菊池勢との多々良川決戦で勝利をおさめた場所でも有名である。その後も毛利・大友の対決の戦場ともなった。 その後豊臣秀吉の九州平定で、筑前が小早川隆景の領地となり、その本城が海に面した名島城として築かれた。 小早川は水軍を得意とする武将で、城は次の図のように海続きの掘割で囲まれている。 残念ながらこの時代の武家屋敷の地図は簡単まものしか残っていないようで、この堀の側には宗栄寺が存在していた。屋敷図にある浦一族は立花城の城代家老であった。 (周辺は風向明媚で、妙見島は秀吉・淀君の茶会が催された場所でもあった。またわが家の菩提寺もこの地にあったが城下町建築のため、この時期に箱崎に移転させられたという。) 今回はこの名島城の掘割の場所の、その後の変化を調べるのがメインテーマである。 3)黒田長政時代の名島城と武家屋敷 隆景は10年くらいで備前三島に隠居し、養子の秀秋があとを継いだが、有名な関が原の戦いのあと、黒田長政が筑前の領主に代わった。 長政が名島城にはいった頃の城下屋敷の図が残っている。次の武家屋敷の図によれば、掘割の横に、のちに黒田騒動で有名になる五千石の栗田大膳の屋敷があったことがわかる。 その他の有名な黒田武士の名前が多くみえる。 4)幕末・明治の名島城屋敷跡の見取り図 しかし長政は平和な江戸時代には名島城は土地が狭いとして、広大な面積のある福岡城の建設をはじめ、名島や立花の城の石材をすべて福岡城に運んでしまう。 したがって名島城とその屋敷跡は廃墟となったまま明治を迎える。 次の明治時代の村長真田広が作らせた名島城屋敷跡の見取り図をみると、濠にはいくつか通路がもうけられて、上、中、下の濠に分断されている。そして船入り場の形は明確ではない。 七兵衛屋敷跡の名があるが、これは黒田藩の御用商人として財を成したもので、栗田大膳の屋敷跡あたりを買い取り、使用してしたものらしい。 山頂の天守閣跡も最近福岡市が展望公園として整備するまでは、私有地となっていた。 5)河口の船入り場と九大ヨット艇庫 多々良川河口の黒崎という字名の入り江は、昔から繋船、荷揚、船修理などに適した場所で、名島城の掘割にもなったが、その後は名島村の船入り場として利用されていた。 大正・昭和初期時代に東邦電力の発電所が建設されることになり、黒田の御用商人だった七兵衛屋敷跡も候補地の一部となり、さらに河口域が約六千坪埋め立てられた。 この時多々良村の要請で、約八百坪の船入り場と四十坪の荷揚げ場が必要とする要望書が昭和5年に出された記録がある。そのときの船入場の計画図面が次の図面である。 また同時この一角に九州大学のヨットの艇庫と発電所に通じる冷却水の水路がもうけられたと思う。 ヨット部は昭和2年に結成され、3年に水面利用許可がでて、艇庫は6年に完成したが、台風で倒壊したあとまた再建された記録がある。 昭和初期の地図(名島大橋の工事計画中のころ)には、この船入り場が少し拡張された形で明確に記載されている。また航空写真にもその一角がよく写っている。 mixiのヨット部仲間のタッチャンや季咸◆kikan。さんが青春時代に通った思い出の場所であり、わたしも昭和18、19年頃、また家内も昭和27,28年頃通った場所である。 西鉄名島駅から艇庫に近づくと、発電所のコークスや石炭ガラの匂いが漂う場所をとおり、小川をすぎた頃から磯の香りが漂ってきたことを思い出す。日発時代の発電所では1月間ほど実習した経験もある。 当時は水面貯木場としても利用されたが、現在はさらに沖の埋め立て地の、かもめ大橋の西岸に専用の貯木場が新設されている。 (小学生の頃の遠足や磯遊び、貝堀りやのり採りなどの思い出多き場所で、学友のH,F君などの家もあった。) 6)最近の地形 その後の開発・埋め立てがすすみ、艇庫は昭和45年に西戸崎の大岳に移設され、名島の船入り場はなくなった。 現在の地図と名島城跡を重ねあわせたものが次の地図である。 また次の昭和58年の航空写真もカラー化しているが、昔の船入り場あたりは高速道路の通過点の下となり、埋もれてしまっている。 隠居後にこの場所の近くで(千早の九大仏青会館)福岡シニアネットのみなさんの東サロンに参加できて、そのおかげで名島の歴史研究会の中間報告会や現地案内などの会に参加できたのも、大変幸いであった。 以前このBLOGで作成した下記のページと一部重複するが、そのアドレスを記載しておく。 http://gfujino1.exblog.jp/3420569/ 多々良河口の風景 2005.9月 http://gfujino1.exblog.jp/3272870/ 名島城と妙見島 2005.8月
昨年9月14日小雨の中で参拝しました。結構人出がありました。
出店は色とりどりで賑やかでした。 一の鳥居の修復は完了していましたが、二の鳥居はまだでした。 そのときの写真を掲載します。
古賀市の小山田斎宮については、このブログの05年4月に私の調べた内容を記載しているが、最近河村哲夫氏の西日本古代紀行を読んで、私と同じ考えであることを知った。
日本書記に仲哀天皇が亡くなったので、神功皇后が仮葬の場所を小山田斎宮にしたことが記載されている。 江戸時代に貝原益見がこれを久山町の山田斎宮と推定したために、地元の学者(長先生たち)もこれを信じておられるかたが多い。 古賀市の小山田斎宮は辺鄙な場所のため、また市の広報が不十分のため存在をあまり知られていない。 しかし、河村哲夫氏の本では、「遠賀川河口から筑紫平野に上陸した一行が香椎までたどった経路」が地図のようなルートだったと推定し、久山まわりで香椎にいくのは不自然であり、古賀の小山田経由のほうが自然である。 仲哀天皇の遺体をこの経路にそって送り返し、香椎、小山田、穴門の順に移動させ、穴門の豊浦宮が忌宮神社と呼ばれるになったと想定している。 地元郷土研究者として大いに意を強くした次第である。
先日は宇美町の光正寺古墳と、志免町の七夕池古墳を見学した。といっても二つの直線距離は1Km以内で大変近いが、町の境界線でわかれている。
宇美町は平成になり発掘調査されて、きれいな公園として整備されていて、駐車場もある。 志免町のほうは、昭和時代の発掘調査で、時間がかかっているせいか、草がはえて荒れ果てた感じで、標識も貧疎で駐車場もない。 どちらも不弥国王の関連と推定されているが、管理自治体の差で、古墳の扱い方の格差も大きい。
東区下原5丁目に小早川水軍の将・浦兵部宗勝の名前をつけた寺で、宗勝の墓がある。
1569年5月、小早川隆景ら毛利勢は大友方が守る立花城を攻め落とし、降伏した大友軍の将兵を丁重に志賀の島の敵陣に送り届けた。 これに対抗して大友宗麟は、毛利家の本国・山口に別働隊を送り込んだ。毛利軍は宗勝以下わずかの兵を残して退却し、味方の撤退を見届けた宗勝は、降伏勧告をうけいれて同年10月に開城した。大友軍は浦たち毛利残留兵を芦屋まで送り、本国に帰還させた。 その後隆景は秀吉につき、秀吉の九州平定後、筑前名島城に入ったとき、宗勝は立花城代(2万8千石)を命じられた(1587)。1592年9月に病没(関ヶ原の8年前)。 真福寺という寺に葬られたが、隆景は寺の名前を宗勝寺と改めさせ、寺領20石を寄進した。本堂左手に樹林の中に宗勝の墓がある。 当時の本堂は火災にあい、現在のものは200年前に再建されたものである。 楼門と鐘楼 宗勝の墓 末裔の浦克已さんから、立花城や名島城の講演をきいたことがあり、寺も国道3号線から見えているので、いつでも行けると思いつつ、やっと今日境内を訪ねた。 本堂は三日月山に面しており、立花山頂はマンションの影になっている。 浦宗勝の菩提寺は広島県竹原市忠海に所在する勝運寺である。 浦宗勝は、小早川氏の分流、乃美氏の家に誕生したが、父が同じ小早川氏の諸流である浦氏を相続したことにより、浦氏となる。 宗勝は、小早川隆景の指揮下で、小早川水軍の統括責任者で毛利水軍の主力軍の武将として各地に転戦、目覚しい戦果を上げている。 1555年の厳島合戦前夜には、毛利元就の意向を受けて、来島水軍への応援依頼に出向き、来島氏との交渉を引き受けていたのも、宗勝であった。 宗勝は、終生小早川隆景の下で、小早川水軍の提督とし活躍し、秀吉による九州征伐に出陣し、立花城代となったあと病死した。 前述のように遺骸は下原の宗勝寺(生前母の菩提寺として建立していた寺)に葬られた。 その後、小早川隆景が、筑前から三原に隠居したとき、宗勝の一族も殆ど小早川隆景とともに三原に従い、同時に宗勝の遺髪をこの勝運寺に葬ったという。一部の一族が克己さんのように九州に残ったらしい。 小早川隆景の墓も宗像市大穂の宗生寺にある。これは別の頁でふれる。
まずまずの天候の日に、気分転換のため大島温泉に日帰り旅行を決行した。車で渡って、島の一周道路をまわってみた。
大島灯台や風車展望所、砲台跡など、島の北側の風景は期待以上で、東尋坊に近い絶景であった。 大島温泉の近くに安部宗任の墓があり、東北の前九年の役でやぶれて、77歳までこの島で流罪の身の生活をしたことを確認できた。これは以前にMIXIや「よかくさ古賀」の歴史に書き、安部一族の墓が古賀の流れの交差点近くの丘にあることも写真をとってのせている。 この子孫が安倍晋太郎や晋三だという話もでたが、確証はないようだ。 温泉は潮湯であったが、連休のわりにはゆっくりしていた。 たっぷり休養をとって、4時半のフェリーで神湊に帰り着いた。
福岡市東区三苫と新宮町の海岸沿いには海の神様の綿津見神社がいくつかある。
古賀市の方は現在かなり海岸線からはなれているが、かっては入り江だったらしい。 三苫と新宮の綿津見神社の近くの道路はよく通るのだが、入口が解かりにくいので、今まで素通りしていた。 先日は好天にめぐまれ撮影にでかけた。新宮湊の方はひなびた神社であるが、三苫の方は予想以上に広く、また海にちかい。そして海側の景色がすばらしかった。これから時々でかけたい場所で、このあと一度家族をつれてまたでかけた。 日本書記では綿津見神社の底津少童命・中津少童命・表津少童命の三柱は阿雲系 ということで、宗像との関係も深いようです。 あとで詳しい紹介のホームページを見つけた。 http://www.jinja.sakura.ne.jp/higashiku/no45/no45.htm さらに新宮湊の磯崎鼻までいくと、岩場の先に相の島がみえ、連絡線がかよっている。 弥生時代の初期から中期にかけて、北部九州には死者を大型甕棺にいれて埋葬する風習の民族がいた。福岡市金隈遺跡では367基もの甕棺が展示されており、壮観である。 玄海灘に面した地域では、唐津から古賀までと聞いていた。そして弥生時代後期には、甕棺埋葬の風習はなくなって、卑弥呼の墓のように古墳にかわる。 最近読んだ橋口達也さんの本で、その分布図をみつけたが、古賀は飛び地状態で、多々良川が東側の境界になっている。 嘉穂や武雄には大きな飛び地帯があり、古賀や島原、玉名などは小さな飛び地帯である。 古賀より東北の地帯は古墳時代の埋葬形式だから、弥生時代前期には無人に近い状態だったのだろうか? そしてこの甕棺墓のルーツは何処か?と調べていたら、韓半島南域の馬韓時代(2~3世紀)ということが解かった。栄山江流域の石室封土墳に多く残り、百済の支配下になっても、独自の勢力圏をもっていたらしい。 百済の圧力からのがれて日本に渡来してきた部族が筑紫平野に住みついたのであろう。 詳細な紹介文献:http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/kyushu/kamekan.html#2 豊臣秀吉が武勲をあげた福島正則に恩賞として授けた由緒ある槍で、作者は不明であるが、美術品としての評価が高く、今なら人間国宝クラスの人の作品といわれている。 そのあと黒田家の家臣母里太衛が大杯の酒をみごと飲み干して、福島から飲みとったとする「黒田節」で有名になった。 その後の槍の流れを最近読んだ本で詳細に知った。 明治維新の混乱時期にこの槍が売りに出され、玄洋社の頭山満が買い取った。博多の侠客大野仁平が頭山との争いのあと、肝胆相照らすなかになり、頭山はこの槍を仁平にゆずった。 仁平の死後、その息子が槍を売りに出し、炭鉱王の安川敬一郎が買い取った。 子息の一人安川第五郎は子供の頃、欄干に飾られた槍をみて、怖いと思っていたという。 しかし彼は晩年に槍を私物化するのは良くないと思い、黒田家に献上した。 黒田家は代償に狩野派の掛け軸を安川家に授けた。 戦後になり、槍は福岡市美術館に寄贈され、掛け軸は国立美術館に寄贈され、どちらも公共の施設で鑑賞できるようになった。
|
by gfujino1 カテゴリ
以前の記事
2009年 09月
2009年 06月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 05月 2008年 04月 2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 2007年 11月 2007年 10月 2007年 09月 2007年 07月 2007年 03月 2007年 02月 2007年 01月 2006年 12月 2006年 11月 2006年 10月 2006年 09月 2006年 06月 2006年 05月 2006年 04月 2006年 02月 2005年 12月 2005年 09月 2005年 08月 2005年 07月 2005年 06月 2005年 05月 2005年 04月 2005年 03月 2005年 02月 2004年 11月 2004年 10月 2004年 09月 2004年 08月 エキサイトブログ
|