古賀市の小山田斎宮については、このブログの05年4月に私の調べた内容を記載しているが、最近河村哲夫氏の西日本古代紀行を読んで、私と同じ考えであることを知った。
日本書記に仲哀天皇が亡くなったので、神功皇后が仮葬の場所を小山田斎宮にしたことが記載されている。 江戸時代に貝原益見がこれを久山町の山田斎宮と推定したために、地元の学者(長先生たち)もこれを信じておられるかたが多い。 古賀市の小山田斎宮は辺鄙な場所のため、また市の広報が不十分のため存在をあまり知られていない。 しかし、河村哲夫氏の本では、「遠賀川河口から筑紫平野に上陸した一行が香椎までたどった経路」が地図のようなルートだったと推定し、久山まわりで香椎にいくのは不自然であり、古賀の小山田経由のほうが自然である。 仲哀天皇の遺体をこの経路にそって送り返し、香椎、小山田、穴門の順に移動させ、穴門の豊浦宮が忌宮神社と呼ばれるになったと想定している。 地元郷土研究者として大いに意を強くした次第である。
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by gfujino1 カテゴリ
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