静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

ダンシング

2009-09-26 17:45:02 | Weblog
ある年、歳末の礼に来た多くの人々に向かって蓮如上人は、
「人並みな歳末の礼は、聞きたくはない。それよりも早く信心決定してくれることが、蓮如の最もうれしいことなのだ。歳末の礼には早く信心をとってくれ」
と喝破なされたといわれる。
 猫も杓子も年が改まると、「おめでとう、おめでとう」と言うが、本当におめでたいのかと反省してみたことがあるのだろうか。
一休がうたったごとく、それは、「冥土の旅の一里塚」に間違いない。一年たてば一年、自分の命が縮まったということであり、最もイヤな死に近づいたのではないか。
ちょっと体の調子が悪いとすぐに医者だ、薬だ、病院だと騒ぐのも、所詮は死にたくないからだ。
金じゃ、財産じゃ、名誉じゃ、色欲じゃと求めるのも生きておればこそであって、死に臨めば画餅のごとし、瓦礫に等しいものになる。
 新年とか新春といえば、おめでたいようにも聞こえるが、最も恐ろしい死に一歩近寄ったことに間違いない。どんなに理屈を並べてみても、だれがこの厳粛な真実を否定することができよう。
 なのに多くの人々は、この冷厳な事実に目を覆って、いたずらに習慣的に、「おめでとう、おめでとう」と、言っているけれども、その人の頭が、「おめでたい」ということだ。自己疎外もその極みといわなければならない。
 仏教は常に真実を道破する。蓮如上人のお言葉が百雷のごとき驚きを与えるのは、真実だからである。
「人々よ、おまえたちは一体何を求めて生きているのか。何を生きがいとし、何を楽しみとして働いているのか。人生の目的は何だと思っているのか。金か、財産か、女か男か、名誉か地位か、子供の成長か、衣食住は何のために求められているのか。
 おまえの命懸けに求めているものはすべて、やがて滅び去るものばかりではないか。おまえは、一切のそれらに捨てられる時が必ず来ることを知っているのか。生まれ難い人生だ。地球よりも重い生命だと言っているが、そんな、たわいもないもの求めることが目的なのか。
 大体、そんなもので本当に魂は満足できると本気に思っているのか。どれだけの金を儲けたらおまえの心は満足するのだ。どれほどの財産を作ったら安心して死ねるのだ。どれだけの人から褒められ、尊敬されたらおまえの名誉心は満足するのだ。どれだけの女を自由にしたら満たされ切るのか。子供がどんな人間になったら安心できるのか。こうもなったら、ああもなったら満足できる、安心できると思っているであろうが、お気の毒だが、みんなおまえのはかない夢なのだ。夢を食って生きているバクのように、人は皆、永遠に満たされない夢を見て苦しんでいるのだ。
『おごらざる者もまた久しからず 露とおち 露と消えにし 我が身かな 難波のことも 夢のまた夢』
の太閤秀吉の辞世は、その証明ではないか」

 犬や猫はたたかれればキャンとかニャンとか叫んで逃げるだけだが、人間は違う。なぜたたかれたのか。たたかれないようにするにはどうすればいいかと考えるところに、万物の霊長たる所以がある。
 たたかれてからようやく動き出すのではなく、一歩進んで我々は聞法に身を沈めるべきである。無常の風に吹かれてからでは手遅れだ。吹かれた時は、次の世界で泣く泣く業を果たさねばならない。
だから一刻も早く、阿弥陀仏の無量寿、無量光の生命を頂戴して、死んでよし生きてよしの大満足・大安心の身になることこそ人生出世の本懐なのだ。




私は、本当に不思議に思うのである。
仏法を求める人、とりわけ僧侶たらんとする人は、上記のような内容は心に深く刺さっているはずである。少なくとも私はそう思っていた。
もちろん仏法者といえど枯木ではないのだから、もろもろの煩悩は起こり、金や名誉や地位や異性に心動かぬわけにはいかないが、だからといってそちらの方向に突っ走らないのは、その方角には幸福の蜃気楼しかないことを知っているからである。またその自覚や覚悟なしに、どうして仏道を進ませていただくことができよう。仏道は煩悩に逆らう厳しいものに決まっているのだから。
仏法をよく知らない人でも、仏法とは、僧侶とはそういうもの、そういうものとは煩悩を満たすのとは反対の道、世間の価値観と異なるもの、ぐらいの認識は持っていると思うのである。

ところが、ネットウマ(※)のサイトを見ると、自称・元幹部らの書いていることがつくづく幼い。こんな思いしかないなら、なぜにわざわざ仏法の道を?と首をかしげざるをえないのである。


・やめてみて分かったことですが、世間の人のほうがはるかに常識的で、普通に付き合ってくれました!
・本当にやめてよかった、と皆一様に言っています。普通の仕事につく人、学校に行きなおすひと、自分の信仰を求め布教をつづける人など様々ですが、自分自身をとりもどし……。
・裏切ってしまったと思った人たちが、信じられないくらい支援してくれて、今は一社会人として社会で働いて家庭ももって幸せな毎日です。

こういう、私たちにはとても恥ずかしくて書けないようなことを、「どうだ!やっと俺たちは目覚めたのだ」といわんばかりに書いている。今、世間と楽しくダンスを踊っている真っ最中なのであろう。「よかったね、ボクちゃん」とでも言ってやればいいのだろうか?
でも、そんな悠長なことも言っておれないのである。


「仏法に人生を懸けます」「正しく親鸞聖人のみ教えを伝える立派な講師になります」と何千人も前に誓っておきながら、彼らはその誓いを果たさなかった。そんな大ウソをついただけでなく、彼らを信用し、多くの人が出して下された多額の浄財(人によっては何千万も)を受け取っておりながら、不浄説法をして回り、追い出された後も、浄財を返すわけでもなく、反省するわけでもなく、それどころか私の青春を返せ!時間を無駄にさせられた!などと毒を吹き、こちらに噛み付いてくるのだから、彼らを信じて浄財を出して下された方々にとっては、踏んだり蹴ったりなのである。少しはそういう方々の気持ちにもなってみてはどうなのだろうか。

お金を無駄にさせられた。時間を無駄にさせられたとは、こっちのセリフ。

いつの時代、どこの宗派に、修行に挫折し「私の青春返せ!」などと本山に食ってかかった僧侶がいただろうか?仏門においては絶対服従などあったりまえのことだろ、それがいやなら最初から門をくぐるな。バカ坊主!といわれておしまいだろう。


(つづく)


※ネットウマ……親鸞会を誹謗中傷している人々

親鸞会
http://www.shinrankai.or.jp/b/shinsyu/infoshinsyu/index.htm
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