「貸座敷、引手茶屋、娼妓取締規則」と云う法規制があり、「強制」とか「 虐待」とかが伴う売春は法律違反だったのです。売春が本人の自由意志 によることを確認するために、まず、本人が自ら警察に出頭して娼妓名簿に 登録することが必要でした。また娼妓をやめたいと本人が思うときは、口頭 または書面で申し出ることを「何人といえども妨害をなすことを得ず」 とされていました。営業はどこでおこなっても良いものではなく「貸座敷」 と認定された特定の建物の中だけで許されたのです。だましたり、強制 したりして売春婦を集めることを防ぐために「芸娼妓口入業者取締規則」で 売春婦のリクルートを規制していました。 日本も婦女売買を禁止する国際条約(1910)や児童の売買を禁止する 国際条約(1925)に加盟しており、売春を目的とした身売りは、「本 人の承諾を得た場合でも」処罰しなければならなかったのです。もちろん いつの世にも法の裏街道を行く無法者はいるわけですが、大日本帝国では 軍が税金を使って無法者と同じ事をしていたのです。
慰安婦の登録もなかったし、慰安婦の自由意志の確認などされた形跡は
まったくありませんから、軍の慰安所は売春規則を守っていません。
国内法的には完全な違法行為である慰安所が作られたのは法律を上回る「軍
の力」によるものです。占領地では軍の司令官がすべての法権限を持って
いましたから、国内法を無視することも出来たのです。
戦地での強姦事件があとをたたず、「皇軍の威信低下」が危ぶまれたので
慰安所はこれを防ぐ目的で作ったそうです。
(万引きを繰り返す子どもの親が、小遣いを増やす
事でこれに対応したようなものです。)設置のされかたは業者が部隊に取り
入ったりする場合もあったし、軍が設営して慰安婦を徴募した場合
もありますが、部隊長名で利用規定や料金を定め、軍医や憲兵を配置して
実効支配していますから軍の組織の一部であり従軍慰安婦であったことに間違いはありま
せん。慰安所の普及は隅々にまで及び、全ての部隊に慰安所があったと云って
いいほどで慰安婦にされた人の数も20万人に達したと言われています。
慰安婦の徴募はいろいろな手段で行われました。日本の国内で行われたと同
じ様な「身売り」もあり、なるべく穏便な手段で集めるのがやはり基本
ではあったでしょうが、「○月×日までに慰安婦××名送れ」などという軍
の電文(例えば台電935号)も残っているように、軍の命令系統を通じた
指令です。徴集現場も、員数あわせには手段を選
んでおれなかったでしょう。強姦事件で軍規の乱れを防ぐためと理由づけた
のですから、十分な数の慰安婦を確保することも軍事作戦の一部だったのです。
最も確実な証拠のある軍による強制連行の例はインドネシアで起こった
「白馬事件」とよばれている事件です。白馬というのは当時の隠語で「白人女性に乗る」
ことを意味していたみたいです。インドネシアには数カ所に白人女性を使った慰安所が
あり、総計65名のオランダ人被害者の事例が記録されていますが、特に有名なのが19
44年2月新設のスマラン慰安所の事例です。
これは南方軍管轄の第一六軍幹部候補生隊が17才以上のオランダ人女性をスマラン慰安
所に連行して、少なくとも35名に売春を強制した事件で、まぎれもない軍による強制と言
えます。オランダ抑留民団が必死の抵抗を示し、陸軍省から捕虜調査に来た、小田島薫
大佐への直訴に及んで、軍中央も知らないでは済まされないことになりました。オランダへ
はすでに様々なルートで事態が知らされており、国際世論の反発を招くことが必至の状況で
したので、軍はやむなく2カ月後にこの慰安所を閉鎖する処置をとりました。
小田島大佐は陸軍省の捕虜管理部であり、これらの女性は慰安所に送られる前から収容所
に入れられていたので、捕虜虐待問題として扱われましたが、戦闘員でもない17才の女
の子を捕虜というわけにもいかないでしょう。これは、どう見ても住民虐待つまり
慰安婦事件そのものです。
こうした日本側の処置などが、記録に残ってしまったことと、被害者が白人
だったので、連合国の追求がきびしく、関係者が戦犯に問われて裁判記録が
残ってしまったことが今では決定的な証拠になっています。慰安婦に関して
は資料が乏しく、「証拠がない」との居直りを許すもとになっているのですが
この事件はその意味で大変重要な完璧な証拠を備えた事例だと言えます。
インドネシアでのオランダ人
慰安婦についてはオランダ政府の調査報告書が出ており、
白人慰安婦は総数200から300人と推定されています。報告書では
「自発的」な慰安婦の存在も認めていますが、それはごくわずかです。
この事件の重要な点は、「強制連行」の事実が陸軍省まで伝わったにもか
かわらず、慰安婦の幽閉処置を解除しただけで、軍としては何等処分を行わ
なかったことです。
日本軍内ではだれも軍法会議にかけられていません。
陸軍刑法では「戦地又ハ帝国軍ノ占領地ニ於テ婦女ヲ強姦シタル者ハ無期又ハ
一年以上ノ懲役ニ処ス。」とあり、慰安婦の強制連行・集団強姦は、もちろん
日本軍の軍規に照らしても大きな罪だったわけですが、
まったく処分の対象としなかった所に、慰安婦の強制連行に対する軍の考
え方が示されています。
軍は強制連行した部隊・軍人を軍律違反とは認定しなかったのです。
強制連行を行ったのは方面軍直属の士官候補生隊であり、
逃亡兵でも敗残兵でもない、れっきとしたエリート部隊の組織的行動です。
連合軍のバタビア裁判では、この件で人道上の罪として、死刑1名を
含む11名の有罪が宣告されています。組織的犯罪に対する裁判ですから
命令されて強制連行に加わっただけの兵士は罪を問われていません。
「個人的逸脱行為」は通用しないでしょう。
「希望者だけに限れ」という司令部
の命令が十分伝わらなかったせいで、軍に責任はないというのも苦
しいいいのがれです。司令部が「希望者に限れ」と命令していたにもかかわらず、
その命令に従わなかったのが事実ならば「抗命罪」でさらに重い罪に問われるはずです。
しかし、軍はいっさい処分を行わず、この事件に関する軍法会議は無かったのです。
関係者を処分しなかったのは第16軍司令部あるいは南方総軍司令部の判断
ですが、第16軍だけが特殊な判断基準を持っていたという根拠
はありません。日本軍では慰安婦の強制連行を罪悪とする考えが無かったのです。
女性や土人(現地人)を蔑視し、命を捨てる覚悟の皇軍は何をしても許されれと
思い上がり、略奪をなんとも思わぬ教育がなされていました。
戦争中、女性を虐待して慰安婦にした罪で処罰された人はいません。
これは、そのような事をした人がいなかったのではなく、白馬事件の
例で見るように、いても処罰されなかったのです。
この事件に限らず、日本軍が実際に、事件は頻発していたにもかかわらず、
強姦や住民虐待で処分した実例は非常に少ないのです。罰則はあっても実際上は、
お咎めなしだったと言えます。
強制連行・集団強姦は、組織的意図的に黙認されていたのです。
軍人や軍に雇われたならずものが強制する売春があちこちで黙認され、
オランダ抑留民団 のようなバックをもたないアジア人はみな泣き寝入
りしていた。それが慰安婦問題の実態です。一度は閉鎖されたスマラン
慰安所も白人ではない慰安婦を使って後に再開されています。再開後の
慰安婦徴募についてはバタビア軍事裁判でもとりあげられませんでした。
慰安婦の証言はもちろん重要ですが、それににたよらずとも、
極東軍事裁判関係文書の中から<モア島で5人の現地女性を兵営改造の慰安所
に強制連行した中尉の尋問記録(検察文書5591号)が見つけられているなど、
確実な軍の強制連行の例は他にもあります。中国での裁判でも 117師団長
鈴木啓久中将が慰安婦の誘拐を行ったという 筆供述書を提出しています。
慰安婦を強制的に集めるためには、「看護婦にする」とか「工場で働かす」
とかで遠くへ連れだし、慰安所で強姦してしまうことも行われました。日本
に反抗した親をとらえて、親を助けたければ慰安婦になれとせまった
ケースもありました。憲兵や警察が、女性を拘束して、列車に乗
せてしまうと云う例もあります。村長や自治会長等を通じた徴集の割り当て
等も行われたようですが、慰安婦の証言でも、日本に協力した朝鮮人の行動
などについては、なかなかはっきりしない点があります。
慰安婦の徴集のやり方について、間に朝鮮人が介在したことが多かったの
で、そのような場合は、軍の責任ではないとする意見もありますが、それなら
慰安所に到着した時点で娼妓取締規則にあるように本人の自由意志
であることを確認し、強制されたり騙されて来た者は、家に帰
すべきです。しかし、そのような事を行った形跡はありません。
直接命じてやらせたにしろ、黙認したにしろ、軍の責任で行われたこと
に違いはありません。
日本は男性朝鮮人・中国人を多数強制連行して鉱山やダム建設現場で
酷使したことがはっきりしており、しかも軍規は強姦・略奪に甘かったとな
れば、よほどはっきりした無罪証拠を発見しないかぎり、韓国で露骨な
強制連行が信じられても当然だと思います。「証拠がなければ
強制連行があったとは言えない」は日本側の勝手な理屈でしかないでしょう。
朝鮮での慰安婦徴集の違法性で議論の余地がないのは、未成年者を徴集
したことです。現在日本で裁判をおこしている9名の元慰安婦達は全員が
21歳未満であり、この場合、国際条約によれば、本人が了承したとしても
慰安婦とする事は処罰の対象としなければならないはずです。もちろん、この
人達は強制をうけて慰安婦になったと詳細な証言をしています。
強制連行はあったか?
慰安婦の徴募について強制連行はなかったと主張する人がいます。
娼妓取締規則に基づいた自由意志の確認でもやっておればはっきりした根拠
があるのですが、この主張には根拠がありません。「私が強制連行をやった」
と云う内容の本が出版されたことがあり、その本の証言があやふやであったことが
話題になりましたが、もちろんこれは強制連行が「無かった」と云う根拠にはなりません。
軍の方針としての慰安婦の強制
朝鮮半島での強制連行
「強制連行」という言葉のイメージからは、軍人が銃剣を突きつけて
無理矢理連行するといった白馬事件のような情景が思い浮かびますが、
朝鮮半島では憲兵警察制度があって、軍が自由に警察や行政を動かせたので
、軍が直接表に出る必要は少なかったでしょう。やり方が巧妙悪質
になっただけで本質的には同じことです。
慰安婦の生活はどう悲惨だったのか?
女性が不特定多数を相手に、性奴隷としての生活を強いられることは
屈辱であり、悲惨このうえないことは自明ですが、連合軍による尋問資料
の一部を取り出して、安楽な生活であったと主張する人がいます。
兵士から見ればかなりの大金を払ったたという記憶もありますが、
業者や軍にピンハネされ、手元に残る収入も、多く前払いの借金の
支払いに消えます。お金はまったく受け取っていないと証言している
慰安婦も多くいます。支払いは軍の勝手に発行する紙幣「軍票」でした
から、終戦と同時にただの紙屑になりました。
慰安婦は将校用、下士官用、
兵用にわけられ、将校用には内地から来た日本人のプロがあたり、
アジア人は兵用として、ひどい場合にには、わらむしろで囲っただけ
の「部屋」の前に、兵隊が並んで順番を待つ「公衆便所」
状態でした。休む間もなく次々に何人もの「処理」をさせられる
代償として軍が勝手に決めた定額料金を受け取るのです。連隊長の許可
を得なくては外出もできない監禁状態の場合もあり、衛生状態も
悪く、前線近くまで連れていかれた人では、終戦まで命があった人は
多くなかったかもしれません。
「安楽な生活」に引用されるミッチナ文書でも
朝鮮人、中国人の慰安婦は未経験者が大半で、未成年者も多かったと
言う違法性が読みとれます。戦後も悪夢のトラウマに悩まされ、過去を
隠してひっそりと生きて行かねばなりませんでした。現在名乗り出て
いるのはごく一部で、親類縁者の無い人がほとんどです。
慰安婦はどの軍隊にもあったのか?
残虐な戦争に売春や強姦行為はつきものと云われますが、日本軍には異常な密度
でそれがおこり、慰安所を制度的に持つ様になりました。軍人は買春があたり
まえとする考え方の異常性には軍の内部にすらも
批判はあって、陸軍病院の早尾軍医中尉は論文で「軍当局ハ軍人ノ性欲ハ抑
エル事ハ不可能ダトシテ支那婦人ヲ強姦セヌヨウ慰安所ヲ設ケタ、然シ、
強姦ハ甚ダ旺ンニ行ハレテ支那良民ハ日本軍人ヲ見レバ必ズコレヲ恐レ」
と指摘しています。現代の軍隊はどこも慰安所を
持っていませんし、当時もイギリス軍やアメリカ軍
には軍の慰安所はありませんでした 。ドイツ軍には小規模な慰安所があったそうで
すが、強姦事件多発のためではなくもっぱら性病の管理のためでした。
戦後、占領軍が日本で慰安婦を要求したと云うまことしやかな噂
が
流れたこともありますが事実ではありません。
近代軍隊でほぼ全軍にわたる規模でこのような事をしたのは大日本帝国だけの様です。
戦場の緊張を長期に渡って続けるには無理があります。通常の軍隊は帰休
制度を持ち、ローテーションを組んで戦うのですが、日本の兵士は消耗品
扱いで、一度出征すれば死ぬまで戦わされたのです。兵站・補給を考えぬ無理な
戦線の拡大は、兵士に略奪を日常とする生活を強いました。倫理観が荒廃し、
強姦事件が起こるのもあたりまえでしょう。慰安所を作らないと強姦が
多発すると発想しなければまらない戦争と云うものが、そもそもの国策の
誤りだったのです。
慰安婦議論と証拠
慰安婦問題全体から言えば、強制連行の事は一部の問題です。最初は否
定意見もあった慰安所の存在はもはや確定したし、政府や軍の関与もは
っきりした。未成年の少女を騙して慰安婦にした非道性も否定する人は
少ない。軍人が直接脅して慰安婦にした例も占領地では確認された。ここまでくれば個々の慰安婦の証言に裏付け証拠を要求してみても、
いちゃもんに過ぎず、歴史事実としての認識には決着が付いたと思いま
す。
それでも、朝鮮半島での強制連行に直接証拠がないかぎり強制は無かった
ことになるなどと言い張る人がいます。証拠がなければ「なし」になる
のが論理だと言うのです。このような人たちは政治的意図から物事を論議
しているために、歴史事実の認定が裁判の有罪無罪にすりかわってしまって
いるのです。
裁判は「多くの真犯人を取り逃がすほうが、1つの冤罪をつくるよりましだ」
の原理に基づいて「証拠がないかぎり無罪」とする片寄った判断をします。
歴史事実の認定はどちらが合理的に事実と思われるかを公平に判断します。
歴史ではどのような事実も決定的な証拠が無いのが普通ですから、傍証を
固めていって定説をつくりあげて行くのです。
日本軍は自由に証拠の隠滅が出来たし、慰安婦はその境遇から、記録を残
せる立場になかった。決して自慢にならない忘れてしまいたい過去に関
しては証言だって簡単には得られない。やっと重い口が開いたのは50年も
たってからだった。こういった条件を抜きに議論すれば、
終戦時に日本が行った記録の大量抹殺がまんまと成功することになります。
慰安婦問題に限らず、朝鮮総督府関係の資料は徹底的な抹殺が行われています。
記録が存在しないだけでなく、意図的な焼却が行われたこともはっきりして
います。歴史の風化を許さず、全体的な目で起こった事実を見つめて行く事が
大切なのではないでしょうか。
<参考文献・このページをまとめるために読みました>
「従軍慰安婦資料集」(吉見義明、大月書店、1992年)
「従軍慰安婦をめぐる30のウソと真実」(吉見義明・川田文子、大月書店、1997年)
「脱ゴーマニズム宣言」(上杉聡、東方出版、1997年)
「教科書問題を考える県南の集い」パンフ、茨城県歴教協、1997年)
「慰安所」男のホンネ (高崎隆治、梨の木舎、1996年)
「赤紙兵隊記」(いまいげんじ、径書房、1987年)
「海軍特別警察隊」(禾 晴道、太平出版社、1975年)
「従軍慰安所海の家の伝言」(華 公平、日本機関紙出版センター、1992年)
「ビルマ戦線盾師団の慰安婦だった私」(文玉珠・森川万智子、梨の木舎、1996年)
「ジャワで抑留されたオランダ人女性の記録」(ネル・ファン・デ・グラ−フ、梨の木舎、1996年)
「共同研究 日本軍慰安婦」(吉見・林、大月書店、1995年)
「オランダ人慰安婦事件の経緯と背景」(朝日新聞8月30日、1992年)
「半月城通信」(半月城、wwwページ)
「慰安婦は商行為か?」(上杉聡、wwwページ)
Korean Council for Woman Drafted for Military Sexual Slavery by Japan: 慰安婦の証言集(英語)
その他、知識の多くはfj.soc.history の議論のお世話になっています。