狼の山の魂

一言メッセージ :狼の山から、野性界の祈りを捧げます。

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華厳共生義

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■華厳仏教は「種を超えた尊厳・共生心」を提唱します■
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狼の山の魂(243)「命の連鎖」

<2009年9月18日>

「命の連鎖」を語る人が増えてきたようだ。

「命は、みんな繋がっているんだ!」と・・

確かに、すべての命は繋がっている。

すべての命が繋がって大自然が成立している。

だがひとつ懸念がある。

「命の連鎖」を頭で理解したとして、

「その人の心の中で、そこから何がどのように展開していくか??」ということだ。

「命は連鎖しているから・・」という認識が、

逆に「個の生涯」を軽視する風潮になりはしないか??と危惧するのだ。

「命はリレーされてるから、大丈夫、次の命になっていくんだよー!!」で済まされたら、

そんな風潮になったら困るのだ・・・・


しかし、人間は本当に「命の連鎖」を納得しているのだろうか??

もしそれが本心ならば、たとえ人間が野獣に食われても、文句は一切出ないはずだ。

人間が腹を空かせた猛獣に食われても、大騒ぎにはならないはずだ。

だが現実には、人間はすぐさま報復に向かう。

「なんてことだ!!人間が動物に食われるなんて!!許せない!!」となるのだ。

そしてその野獣を大勢の武装した人間たちが殺しに行く。

人間は、自分が他の動物を食うことは「当然の権利」としながら、

自分が食われることなど絶対に認めない。いや、考えもしない。

「自分が食われることなど絶対に認めない」のに、「命の連鎖」を平気で語るのだ。

※なにしろ、たとえば犬に咬まれれば、その犬を殺処分するのが人間社会だ。

そこに深い事情があっても、理不尽に対して防衛行為で咬んだとしても、多くは殺処分されるのだ。


「命の連鎖」の背景には、

それぞれの命たちの途轍もなく壮大なドラマが隠されている。

それぞれの命の、かけがいのない尊い生涯が隠されている。

それぞれの命の、全身全霊の苦闘が隠されている。

命の連鎖の陰に、それぞれの命の偉大なドラマがあった。

命の連鎖とは、つまりその偉大なドラマを語り継ぐことなのだ。

命の連鎖を単なる事象と考えれば、つまり何も見えずに終わるのだ・・・・


それぞれの「個」の偉大なドラマを知り、そして「命の連鎖」を考える。

そこにはそれぞれの、渾身の生涯があったのだ。

その渾身の生涯が、語り継がれていくのだ。

■南無華厳 狼山道院■

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狼の山の魂(241)「その豚の心」

<2009年9月17日>

今日は仕事が休みだ。

それで記事を書くことにした。

( 犬たちの世話と運動は夜明け前に済ませた。)

左足の激痛は治まらない。

こうして座っている状態が一番痛むのだが、書く。


「ブタがいた教室」という映画の存在は知っていた。

だが、観れなかった。

観れば自分がどうなるかが、分かっていたからだ。

だが、予告編の映像を観た。

想い描いていた通りの、可愛い可愛い子豚が登場していた。

そしてその実話の粗筋を読んだ。

思っていた通りの展開だ。

ある学校の教室で、生徒みんなで子豚を育て、子豚と交歓した。

子豚の無垢な笑顔が、この胸を離れない・・・・

そして最後、その子豚の行く末を、みんなで議論した。

生徒たちの議論は結着がつかず、先生の一存に委ねられた。

そして子豚は、食肉加工センターへと送られた。

別れのとき、子豚は泣き叫んだという・・・・


「どうする??」

「食べる??食べない??」

子供たちに、もともと最初から、その問いかけを、するつもりだったのだろうか??

あまりに深く難しい問題を、子供たちに突きつけた・・・

おそらく、子供たちの誰だって、食べる発想など持ってはいなかっただろう。

子豚は、友だちだったのだ・・・・

だが、子供たちは決断を迫られた。

だがここで、本当に決断を迫る必要があったのだろうか??

人間誰しも、答えに窮するときがある。

深い葛藤のさなかで、答えたくはないときも、ある。

答える時機というものもある。

答えることだけが真実ではないと思うのだ・・・

もし「食べたい??食べたくない??」と聞かれれば、

おそらくみんなが、「食べたくない!!」と答えただろう・・・・


私には、その子豚の胸中が、ありありと伝わってくる。

子豚の痛切な心の叫びが、この胸を突き刺す。

子供たちのみんなを、信じたのだ。

信じたからこそ、心を開いて一緒に遊んだのだ。

信じたからこそ、一緒に散歩に行ったのだ。

信じなければ、そんな行為はあり得ない。

信じなければ、警戒心を解かずに、隅で固まっていた。

信じなければ、あんな笑顔は見せないのだ・・・・


センターに送られるとき、子豚は泣き叫んだという。

子豚の、悲しみと、哀願だ・・・・

動物たちの感知能力は、人間の想像を超えている。

おぼろげながら、子豚は自らの運命を悟っただろう。

センターへの道中、子豚は何を想っただろうか・・・

そして死の間際、子豚は何を想っただろうか・・・

人間との交流、楽しかった日々。

子豚は、子供たちを、愛した。

子豚は、自らの本能を抑制し、共生を努力した。

子豚は人間を信じ、精一杯、仁義を貫いた。

そしてその果てに、死地へと向かった。

孤独のなかで・・・・

途方もない孤独のなかで、この世に別れを告げた・・・・


「食べる・食べない」の論議も重要かも知れないが、

だがそれ以上に、それよりはるかに重大な「・気づき・」が存在する。

異種の命と、心で交流する。

異種の命の、心の実像を知る。

それだけでも尊い「気づき」が生まれるのだ。

それによって子供たちの心境にどのような変化が湧き起こるのか・・・

それによって子供たちの心はどのように成長するのか・・・

「食べる・食べない」は、その後に自らで考えていくだろう。

やがて子供たちは自らに、その問題と向き合っていくだろう・・・・

■南無華厳 狼山道院■

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狼の山の魂(220)「法界応報」

<2009年5月12日>

法界応報・・「ほっかいおうほう」です。

法界とは、人界の律法社会のことではありません。

「宇宙法界」のことであり、仏界のことです。

ここには、厳然と因果応報が機能しています。

因果応報には、「罰」とか「許す」とかの概念はありません。

そこにあるのは、ただ「知る」という事実だけです。

己の所業の意味を、とことん知るということです。

口先だけの弁解や反省が通用しないのは勿論です。

とことん、心の底から実感することだけが求められます。

だからそこには「刑罰」も「許し」も、無いのです。

とことん、どこまでも、「己の心で知る」ということです。

己の心で実感するまで、果てしなく旅は続きます。

延々と、「知るための旅」が続きます。

自分が冷酷な非道を行なえば、

自分が他者に残酷な仕打ちを行なえば、

その所業が、他者をどれほどに苦しめたかを、

いずれ自分の心のすべてで知ることになるのです。

たとえ今生で「知る機会」を持てなかったとしても、

未来永劫に亘って「知る旅」が続くのです。

己の行為の意味を、とことん知り尽くすことになるのです。

だから、許すも許さないも無いのです。

誰が裁くわけでも無いのです。

すべては、己自身に懸かっているのです。

己が自分で知るまで、延々と応報の道が続くのです。

それが過酷な旅であることは、言うまでもありません。

なにしろ、「己自身で実感するための旅」なのですから。

罰も許しも、ありません。

すべては、自分自身の心に懸かっています。


かといって、今生で苦しむ命たちが、

その応報の宿業の渦中に居るという見方は、当てはまりません。

私は長い間、このことを考えました。

もちろん、頭の中で考えたところで、分かるはずがありません。

本を読んだところで、分かるはずがありません。

長い年月ののち、華厳禅の中で、ある日分かったのです。

分かったのではなくて、入ってきたのです。

心に言葉が入ってきたのです。

何者からかの、伝言です。

何か不可思議な世界からの伝言です。


・・・・・・・・

そうじゃあ、ないんだよ。

苦しむ命たちの顔を見てごらん。

苦しむ命たちの心を観てごらん。

分かるだろう、おまえ。

その者の魂の境涯が。

それを、観るのだ。

それを観れば、すべては分かる。

この世に、不条理が、ある。

だがその不条理も、実は、意味がある。

だが意味があるからといって、見て見ぬ振りをしたら、その意味は失われる。

見て見ぬ振りは、何にも増して大きな過ちだ。

おまえ、救うのだ。

おまえの命を賭けて、救うのだ。

・・・・・・・・


このようなニュアンスが、強烈に伝わった。

私は、泣いた。

その何か不可思議な伝言に、

とてつもない存在の、

とてつもない愛を感じたから、

どうしようもなく心が揺さぶられて、

私は山の中で、慟哭した。

■南無華厳 狼山道院■

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狼の山の魂(217)「花知鳥知花」

<2009年5月8日>

花知鳥知花・・・

花は鳥を知っている。鳥は花を知っている。・・・・

これは禅の言葉。

そしてこれは華厳世界。


花知鳥知花

鳥知鹿知鳥

鹿知狼知鹿

狼知山知狼

花は鳥を知っている。鳥は花を知っている。

鳥は鹿を知っている。鹿は鳥を知っている。

鹿は狼を知っている。狼は鹿を知っている。

狼は山を知っている。山は狼を知っている。

山の命たちは、たがいの懸命の境涯を、知っている。


夜の森。

フクロウが歌っている。

「ホッホウ・・ホッホウ・・・」

蒼い闇に、フクロウの声が響き渡る。

犬たちは、みんなが耳を澄ませている。

その素晴らしいバリトンを、じっと静かに聴いている。

その声がだんだん近づき、我々の頭上に来る。

なぜ我々の元に来てくれるのか・・・・

いつもそれを想う・・・・

我々は、フクロウからの贈り物、その至高の美声を、心に刻む。


山は人間を知っている。

山の命たちは人間のことを知っている。

だが人間は、山のことを知らない。

だが人間は、山の命たちのことを、知ろうともしない。

■南無華厳 狼山道院■

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狼の山の魂(210)「野性禅」

<2009年4月10日>

「水は方円の器に従う」という禅の言葉がある。

たとえそれが四角い器でも、丸い器でも、

水は最大限に己を一杯にして器を満たす。

「その環境の中で、その境遇の中で、全身全霊で生きる」

「己の可能性の最大限で今を生きる」

・・・このような意味だろう。

短い言葉だが、至難の生き方だ。

だが、それを目指すと目指さないとでは、すべてが変わってくる。

目指せば近づくが、目指さなければ、永遠に辿り着けない。

その差は大きいというよりも、決定的だ。

仏教はつまり、「目指す!」ことの重大さを、それを訴えているのだ。

「目指す!」と、その人の底力が湧き上がってくる。

自分でも知らない未知の力が湧き起こる。

その人の本当の可能性が現れてくる。

「禅」のハイライトは、つまり己の可能性へのチャレンジだ。

その先に、真の「個性」が開花する。

ただし、身勝手な自我のままでは、真の個性は開花しない。

だからこそ、「空・kuu」が説かれる。

「空」の偉大な調和を実感するために、さまざまな修行が説かれる・・・・・

だが人は世間に住む。

日常生活の中で「目指し続ける」ことは、本当に至難だ。

矛盾と理不尽に満ちた世間生活の中で「目指す」ことは、実に苦しい。

だがだからこそ、これが最大の修行となる。

目指すこと自体が「道」となり、

目指している限り、一歩一歩と真の己に近づく。

だが、その途中で、今生の運命が尽きることもあるだろう。

だが、そんなことは、ものともしない。

それを怖れていたら、力が萎縮する。

本来の力が隠れてしまう。

だからいつも、勇気を振り絞って生きたい。

己が己であるために。


私はいつも、「遺書」のつもりで記事を書いている。

運命は次々と変転するから、

明日がまた来るとは限らないから、

今日書けることは今日書く。

動物界からの伝言は、野性界からの伝言は、まだまだ語り尽くせないが、

せめて一言でも多く、世の中に発信する。

彼らが、己の命のすべてで私に伝えてくれた伝言を、語らずにはいられない。

言葉に現すことの困難な伝言だが、なんとしてでも世に伝えたい。

・・・ただ、その一念だ。

我が家族たち。我が子である犬たち。

彼らは毎日を、野性禅で生きている。

私が足元にも及ばない、禅の境地に立っている。

彼らは、私の真意を知っている。

彼らは、いつも私の真意を見守ってくれている。

彼らを裏切らないためにも、「今日が最期」という想いで記事を書く。

■南無華厳 狼山道院■

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