向丘小紹介


のぼりつめた・・・そこにグランドが!

 本校のグランドは、丘の上にあります。朝会ができる程度の校庭が校舎横にありますが、ふだんの体育や運動会などには誰もが元気にグランドまで・・・ダッシュです!
 なお、このグランドは遺跡が発掘された場所。いわば「グランドは弥生の村」だったのです。
 昭和49年5月に校庭が狭くなったので、新しい運動場を作ることになりましたが、工事中に1800年ほど前の弥生時代の村の跡が発掘されました。
たくさんの土器や石器とともに、6件の住居跡が発見されました。この遺跡は「平風久保(たいらかざくぼ)遺跡」と呼ばれています。

まずは両側に民家を見ながら・・・坂道を・・・ そして軽快に!階段を100段がんばり・・・ ラスト、34段・・・がんばる!
トラック150メートルをクリアーするほどのグランドが!






 私たちの向丘には、古くから読み・書き・そろばんを教えていた松月堂(しょうげつどう)[1848年から]と、柳斎堂(りゅうさいどう)[1823年から]という寺子屋がありました。
 明治5年、日本全国に「学校」をつくるようにきまりがだされると同時に小学校教育を始めた松月堂は、「化育学舎」(かいくがくしゃ)として生まれ変わり(この年を、向丘小学校の誕生としました)、柳斎堂は「初山学舎」となり、新しい校舎ができるまで本遠寺(ほんのうじ)をかりて勉強しました。
寺子屋で勉強中! 明治のはじめのころの学校 明治5年頃の国語の教科書


 明治8年、長尾村にあった化育学舎は「化育学校」に、初山学舎は「菅生(かんせい)学校」と名前をかえました。菅生村と平村の子どもたちは、菅生学校に通いました。その後、化育学校ともう一つの学校(私立の成始学校)[明治6年から8年]がいっしょになって「経綸(けいりん)小学校」となりました。
 そして明治22年、今まであった四つの村(上作延村・長尾村・平村・菅生村)がいっしょになって向丘村となりました。やがて明治30年には、「向丘村立高等向丘小学校」が誕生し、菅生小学校は「尋常菅生小学校」となり、経綸学校は「尋常経綸小学校」となりました。いずれも4年生まででした。
 向丘村立高等向丘小学校の校舎ができるまで、東泉寺で勉強しました。チャイムがなかったので、「ひょうしぎ」でカチ!カチ!とならして合図していました。
 今の場所に校舎ができた明治31年4月15日には、花火をあげて盛大に運動会をしました。ですから今でもこの日が向丘小学校の開校記念日になっています。
当時の経綸小学校の全景 チャイムのかわりに使った「ひょうしぎ」 明治33年ごろの卒業生


 明治41年、菅生・経綸・向丘小学校が統合され、「村立尋常高等向丘小学校」になりました。そして、菅生分教場(菅生小学校)と、経綸仮教場(経綸小学校は大正6年に廃止)が、分校となりました。このころは、尋常科が6年、高等科が2年、仮教場は尋常1,2年生まででした。勉強の内容としては、歴史・地理・図画・裁縫(さいほうと読み、女子だけ)も学ぶようになりました。
 その後、誰もが学校へ行くようになったので2階建ての校舎が建てられました。このころはアリーナのような広い場所がなかったので、学習発表会や卒業式は教室の仕切りをとりはらって「うちぬき教室」で行いました。プールがないので、登戸の方まで歩いていって、多摩川で泳ぎました。南武線や小田急線もありませんでした。
 このころの「学校のきまり」の一部を紹介します。

  7条 勉強の始めと終わりは、机の左側に立って先生が「気をつけ!」を言ったとき、おじぎをして席につく。
  8条 発表するときは、「先生!先生!」と言ってはいけない。右手をきちっとあげること。
 11条 先生に指名されたときは、恥(は)ずかしがらずにノートなどで顔を隠(かく)してはいけない。
 17条 明日使うものは、前の晩にそろえておくこと。
  6条 みちくさをしてはいけない。

 いかがですか?今とはだいぶ違いますね。でも時代は変わっても、変わらないこともありますね。
1年生の国語の教科書 大正の初めころの校舎 大正5年の卒業写真


 大正12年に学校が向丘尋常高等小学校と名前を変えました。この年、関東地方に大きな地震(関東大震災)があり、東京を中心とした地域では多くの家が倒れたり火災が発生して大災害を引き起こしましたが、幸いにも向丘地区は被害が少なく、校舎はびくともしませんでした。
 このころ、とても運動がさかんに行われました。水泳大会やリレーなどがさかんでした。
よその学校に羨(うらや)ましがられていたこととして、「学校のかさ」のことがあります。当時、向丘教育会(今のPTAのようなもの)がかさをたくさん買ってくれて、置き傘(おきがさ)にしていました。出かけて困ったときには、用務員さんがわざわざみんなのぶんのかさを持ってきてくれました。
多摩川で水泳 ・うしろは小田急線 女子の体操の授業 学校で買ってくれたかさ


 向丘村は昭和13年(今から60年ぐらい前)に、川崎市に入りました。これで校名も変わり「川崎市立向丘尋常高等小学校」になりました。そして、昭和16年になると「川崎市向丘国民学校」と改められました。
勉強の内容もだいぶ変わりました。朝会やラジオ体操は毎日あり、集団登校していました。男子は剣道、女子は薙刀(なぎなた)を習いました。そのうち、日本は戦争を始め、ますます激しくなってきたので、身を守るために運動場の裏(うら)山に、防空ごう(穴をほってその中に逃げ込むためにほった穴)をつくりました。食べ物もなく、生活するのがとても大変でした。
 昭和21年には戦争も終わり、アメリカから「脱脂(だっし)ミルク」が配給(はいきゅう)され、決しておいしくはありませんでしたが、みんな喜んで飲みました。
1年生の劇「花さかじいさん」 集団で行動しました 丘を切り開いてサツマイモをつくりました


○昭和22年4月1日より、学校が「川崎市立向丘小学校」となり、義務教育も小学校は6年間、中学校は3年間となりました。これまでなかった社会科ができ、ローマ字も4年生以上から学習するようになりました。ただ、今のような教科書はまだなく、新聞紙ぐらいのものを小さく折ってつかい、文房具は自由に買えなかったので大切に使いました。
○昭和25年8月にはじめて給食室ができました。はじめは給食室の皆さんが近くの農家で買った野菜を使った「みそしる給食」でしたが、昭和29年から今のような給食が始まりました。当時の給食費は、250円でした
○昭和30年代に入ると鉄筋校舎も造られ、地域では五所塚や南平あたりに家ができはじめました。
○昭和37年(今から40年ぐらい前)に90周年の記念式典が行われた時に、校歌や校旗が作られました。
当時の五所塚の様子 創立90周年式典 当時作成された校旗
その後、児童数が増えてきたので近くに学校ができてきました。
   1、昭和42年に菅生小学校ができました。
   2、昭和44年に上作延小学校ができました。
   3、昭和47年に白幡台小学校ができました。
   4、昭和52年に平小学校ができました。
   5、昭和57年に長尾小学校ができました。
また、少しずつ鉄筋校舎が造られ、プールなどもできるようになりました。
昭和43年頃の学校の全景 昭和47年頃の学校の全景


平成9年11月29日に、今の校舎の落成記念式典と祝賀会が行われました。たくさんの地域の皆様をお招きして全校の児童で式典に参加しました。
みんなで決めたシンボルマーク 全校児童が参加しました 祝賀会での鏡開き
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