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2009/09/25

水戸黄門も新撰組も江川さん

未完の「多摩共和国」―新選組と民権の郷 未完の「多摩共和国」―新選組と民権の郷
価格:¥ 2,625(税込)
発売日:2005-09

江川太郎左衛門というと、おいら、どうしても「郷土の偉人」と見てしまうんだが、確かに郷土の偉人ではあるんだが、必ずしも「伊豆」だけじゃないわけですね。というのも、たかだか90人扶持の代官にしか過ぎない江川さんなんだが、その、治めていた領地というのが、やたら広いわけです。伊豆はもちろんなんだが、駿河、相模、武蔵、甲斐まで、江川さんが代官として治めていた。それでも、江川さんの配下というのは33人しかいない。江戸の江川屋敷に17名、韮山代官所に13名、荒川番所に1名だそうで、ちなみに領地の生産高は9万石だそうで。

で、上のAmazonリンクの本というのは、多摩の歴史を描いたものなんだが、江川さんの話がたくさん出てきます。江川さんは多摩の代官でもあったわけで当然なんだが、特に、新撰組との関わりが興味深い。

ところで新撰組といえば「池田屋事件」なんだが、まだ電話も電報もなかった当時、池田屋事件が新撰組の故郷、多摩に伝えられたのは、11日後だったらしい。上記の本から、なんだが、

新撰組の面々は事件の事後処理に忙しく、手紙どころではなかったが、第一報を彦五郎にもたらしたのは上洛中の柏木総蔵だった。総蔵が仕立てた早馬によって、通常1ヶ月かかる京からの手紙が11日で到達した。
 手紙には「六月五日に長州藩士が焼き討ちをし、新撰組が駆けつけたため、先方(浪士)即死二人、生捕り五人、新撰組は二人即死。新撰組の討ち死にがだれなのかわからず、心配である」とあった。つまり、伝聞で事件を聞きつけた江川代官家のトップ(柏木総蔵)が、事実を確かめる間もなく自ら筆を執ったことが、この手紙からわかる。

柏木総蔵というのは、江川さんちの番頭です。この頃にはすでに英龍は亡くなっていたんだが、江川さんちは世襲なので、息子が後を継いでます。もっとも、まだ若くて、代官の業務そのものは実際には総蔵が仕切っていたようで、その総蔵が風雲急を告げる京都の情勢をうかがうために上洛していたわけです。そこで、早馬で新撰組の故郷に知らせた、というわけなんだが、そうした事実から著者は、「新撰組というのは、英龍が作ろうとしていた多摩農兵隊そのものだ」という見方をしているわけですね。

農兵隊というと、おいら、英国船マリナー号事件というのを何度も書いて来たんだが、文官の役人ばかり33名しか抱えてない江川さんが自分で育てた、近所の農民兵です。その有用性がやっと幕府に認められて、英龍公の死後、あちこちに農兵隊というのが出来るわけなんだが、その功績のひとつとして、天保七年の甲州一揆を鎮圧した、というのが書かれています。

天保七年、八月十七日、米価高騰・米不足に耐えかねた都留郡の農民がついに蜂起した。赤い陣羽織を着込んだ頭目のもと、世直しを掲げた甲州一揆(甲州郡内騒動)の勃発である。一揆はまず甲府へ向かい、次いで甲州全域に燃え広がっていった。浪人者を含む三万人が暴徒と化して甲府の米問屋などを打ち壊したのである。
 この騒動の行方を固唾を飲んで見守っていたのが、伊豆・駿河・相模・多摩の代官であった伊豆・韮山(静岡県田方郡韮山町)の江川太郎左衛門英龍(号は坦庵。「たんなん」と発語されていた)であった。天候不順の折から飢饉を予想していた江川代官は、支配地では先手を打ったものの、隣国からの一揆が波及さればその努力も水泡に帰すと考えていた。
 江川代官の不安は敵中してしまった。

この時にも、江川さんは手勢の鉄砲隊20名を引きつれて、韮山の代官屋敷から鎮圧に出向いているわけだ。とはいえ、そもそも韮山には文官が17名いるだけなので、この鉄砲隊も、近所の農民を動員したものだろう。で、威嚇射撃だけで一揆を蹴散らし、鎮圧するとすぐに、八王子で近所の名主、豪農、豪商たちを招集する。

「畜米がある者は困窮者に放出せよ。代官がかわりに買い上げて進ぜる。また、緊急に生業資金を貸し付けるので、必要な者はこの会所に申し出よ」
 坦庵は八王子に臨時の会所を設け、手代の長沢与四郎と鉄砲隊五名を残して窮民の救済に当たらせ、伊豆・韮山に引きあげた。代官のあざやかな手並みは、多摩や相模ばかりでなく、甲州にも伝わった。

ところで、韮山から多摩に出向くには、箱根越えはしないですね。熱函道路というのが今ではあるんだが、その当時でも、わざわざ箱根峠なんか越えないです。もっと南の、函南あたりから東海岸の熱海あたりに出て、そこから小田原経由で、町田から南多摩に入る、というルートです。これを著者は「北条の道」と呼んでいるんだが、この、北条が治めていた土地を、そっくりそのまま徳川氏は天領にして、北条氏でも代官をやっていた江川代官家に治めさせていたわけです。

代官というのは、大名とは違って徳川家の中間管理職であり、必ずしも世襲というわけじゃないんだが、江川さんだけは例外です。平安時代に伊豆に来て以来、ずっと代官やっている。頼朝の挙兵も手助けしたし、その後の足利、北条、徳川の治世にも引き続きずっと代官です。明治になっても県知事やっている。江戸の西側はすべて、江川さんの領地という事になるんだが、それを33人の配下で治めていたというのだから、徳川幕府というのはずいぶん「小さな政府」です。

さて、甲州一揆の翌年なんだが、江川英龍公は
甲州徴行という旅に出ます。逃亡した大塩平八郎を捜索する旅だとも言われているんだが、終生の友であった剣豪・斉藤弥九郎とともに、刀売りの商人に変装して、支配地を視察。悪い商人や豪農をこっそり調べあげて、のちにこれを懲らしめたという、まぁ、コレが
「水戸黄門漫遊記」の元ネタになったという話もあります。

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江川さんは、こうした勧善懲悪をずいぶんやっているので、多摩地方では
江川世直し大明神とまで呼ばれたそうで、ずいぶん人気のあった為政者だったようだ。

で、多摩地方というのは、もともと北条と武田の残党が自治を旨として半農半武で運営していたわけで、専業の武士というのが存在しないわけです。新撰組が「百姓から武士に成り上がった」というのは、だから、一面的な見方であって、もともと半分は武士だったわけですね。それが、江川英龍公の「農兵思想」を身をもって教えられ、農兵隊として幕府の認可がおりたのは新撰組以降なんだが、早い時期からその萌芽はあって、なので、新撰組というのは江川農兵隊の一卵性双生児であり、実に、
水戸黄門も新撰組も江川さんが作った、というわけです。

コメント

>>江戸の東側はすべて、江川さんの領地という事になるんだが

西側じゃね?

直しました

私も江川さん大好きです。もっと取り上げられても良い人だと思います。

 八王子に甲武鉄道(現・中央線)が引かれたのが1880年代と思いましたので、その50年ほど前のことですね。八王子はちょっと郊外に出れば、牛小屋なんかあったり、まだ田舎です。

新選組と江川はあんまり関係ないよ。
近藤勇も土方歳三も武士になりたいという目標があって浪士組に参加したわけだし、農民のままで兵隊になりたかったわけじゃない。
後に京都で活躍中、武士の身分もらったね。

佐藤や小島は実際農兵隊を組織して戊辰戦争に参加したけど江川は幕府の役人のくせに何もしなかんじゃなかった?

「近藤」勇とか、「土方」歳三とか、幕府から武士の位を貰う前から「名字」を持っているんだから、百姓じゃないよ。つうか、本、読めw ジュブナイル小説じゃなくて、ちゃんとした歴史書を。

戊辰戦争の時には、もう、江川英龍公はとっくに亡くなっていたし、そもそも戦争やったのは幕府でも、ごく一部。将軍そのものがさっさと降参してるんだものw

そういえば昔槍を抱えた藤田まことさんが出ていた股旅ものTV「てなもんや三度笠」がすごく面白かったのをなんとなく思い出しましたw
同じく日曜朝にやっていたのが米国連続戦争テレビドラマ「コンバット」で毎回毎回米国軍歩兵隊の人たちが延々と戦争をやり続けているドラマでしたが明るいBGMに戦争する毎日は楽しいものかとつい錯覚しそうでしたw

前にも書いたけど、この地域の人間は元々武士階級で、帰農した人が多いんだよね。
新撰組関係の資料うずもれて発掘が大変なので、まだ見つからず。

江川家の当主のことだよ。
戊辰戦争時は英武だけど、当主なんだから同じこと。

あと百姓は皆苗字がないはずとか思ったら大間違いだよ。
うちも百姓だが江戸時代からちゃんと苗字持ってる。
佐藤彦五郎も小島鹿之助も苗字を持った豪農だ。

それに近藤勇や土方歳三が多摩時代から武士扱いされてたなんて新選組オタに笑われるよ。
近藤が出自が原因で講武所の師範にしてもらえなかったのは有名。
土方家は半農半武だが歳三に丁稚奉公させてたとこから見れば武士扱いとは程遠い。

そもそも2人が生まれつきのお武家さんだったというのなら、江川が新選組を作ったという主張と矛盾するんじゃないの?

英龍の次は、息子が16歳で世襲したんだが、病弱ですぐに死に、その弟が継いだ。いずれにせよ、まだ子供。まして徳川将軍が降参してるんだから、代官が戦争しなきゃならん理由はないし、もともと江川さんは開明派で、勤王派にも多くの人脈を持っていた家なので、戦争なんかしないよ。戦わないでコトを納めるのが、江川さんの能力だ。で、新撰組の出自が「武士扱いとは程遠い」のかどうかは、上のAmazonリンクの本を読んでから寝言ほざいてくれ。

今日もだが、ここ最近の野次馬さんは饒舌じゃの
民主の政権奪取という願いも成就した喜びのせいかな?

巷間伝えられている新撰組なんざ、半分以上がフィクション。オタは「物語」と「史実」をごちゃ混ぜにしている。まぁ、日本では「歴史」は文学部なので仕方ないかw

最近、維新前後の話題が多いのぉ。
近藤、土方のルーツは武士。
しかし、清河の呼びかけで浪士組に参加したときは、百姓上がりの侍もどきのようなもんで、たまたま多摩が天領扱いだったんで、百姓も武士も将軍直属の意識が強かったんだな。
もっともワシは近藤・土方は嫌いだがの。

新選組の出自というのならばまずその母体となった浪士組のことから勉強すれば?
これは表向きは家茂警護のために身分を問わず組織された部隊だが、発案者はかなり逝ってる尊皇攘夷信者の清川八郎だし、取締役もあまり熱心ではない幕臣達だ。
江川が関与した痕跡はない。

その後京都居残り組で組織したのが壬生浪士組だが、出自が農民の近藤では何かと不便だったので、いざというときは正真正銘の武家出身であった芹沢が表に立っている。

>>巷間伝えられている新撰組なんざ、半分以上がフィクション。

その巷の新選組に影響されちゃってるのが野次馬さんに見えるんですがwww

たった1冊の郷土史本読んだだけで新選組語っちゃ墓穴掘りますよ。
オタは1次史料まで漁りますから。

ところで地元の偉人を歴史の人気者と結び付けたがるのは老人に多いですね。
新選組を利用する日野のナンミョーと同じくらいいやらしいですわ。

>江川が関与した痕跡はない。

そら、もう死んでたんだから、関与しようがない。
ただ、新撰組の母胎となった多摩の半農武士階級を育成して来たのが、江川代官家だった、というのは確かな話だよ。清河が作った寄せ集めの尊皇攘夷浪人組たちの中から、なぜ、多摩の連中ばかりが残って新撰組を作る事が出来たのかというと、そこには江川代官領の多摩ゆえの、強烈な思想性があったからだ。

>オタは1次史料まで漁りますから

お嬢ちゃま、奥さまの新撰組マニアが古文書読み下せるとは思えないけどねw
で、上のAmazonリンクの本は読んだの? おいら、上のAmazonリンクの本について話しているんだが。

だから江川家の当主を指してるんだってば。

>>なぜ、多摩の連中ばかりが残って
残った人数(近藤の私信によれば)17人のなかで多摩出身者は4人じゃなかった?

近藤や土方を突き上げたものは出自コンプレックスだよ。
天領の百姓っていう徳川帰属意識はあったけどね、新選組メンバーのほとんどは多摩以外の食い詰めた浪人とか武士になりたい町人、農民だし。
小野路や日野の農兵隊に江川が影響したってのはわかるけど、新選組は野次馬さんが期待するほど影響はしてない。
だいたい同じ江川代官管理地でも戊辰戦争に参加したところと傍観したところがあるじゃん。


あと近藤は養子先の苗字ね、元は宮川。
農家だよ。

多摩の百姓をナメちゃイカンのよ。

遠く鎌倉時代の村山党の流れをくむ侍達の末裔よ(苦笑)

だから大昔からの農家に行くと古文書、武具、武器の類が有る訳さ。

普段は百姓してるけど苗字帯刀が許されてた連中、判る?

佐藤彦三郎んトコの修理に来てた大工だって苗字を持ってる侍だぜ。

大石鎌次郎って知らない?

>>大石鎌次郎って知らない?

鍬次郎の間違い?

おっとイカン 大石鎌次郎は俺の鍛冶屋のオジサンだった。^^;)

>>お嬢ちゃま、奥さまの新撰組マニアが古文書読み下せるとは思えないけどねw

新選組史料集ってご存知ないですか?
もう2巻ほど出てますけど新選組関連の1次史料集ですよ。
幕末の古文書はそれほど難しくないです。
永倉や島田の日記はもう出版されてますし、今のところオタは数年前に発見された山崎蒸の取調日記の出版を待ってるところじゃないでしょうか。

>>上のAmazonリンクの本は読んだの?

読んだことありますよ。
でも自分は三島の人間じゃないから江川に思い入れないし、他の新選組研究本も読んでるので野次馬さんほどの極論には至りません。

町田の自由民権資料館の出版物には、多摩地区での武芸の流行は「為政者である武士の特権とされていた帯刀への、豪農たちの欲求」と書かれてますね。

肥後侍さん
大石鍬次郎はもともと武家の人です。
父親の大石捨次郎は一橋家の御近習番頭取次席 奥詰だそうです。

>新選組関連の1次史料集ですよ

一次資料集は「一次資料」ではないんだがw
コレだから素人は困るw

私が言ってるのは「史料集」です。
資料じゃないです。
読んだことないですか?

ちなみに大石捨次郎のことが書かれている史料を発見した人は女性ですよ。
残念でしたねw

野次馬さんは玄人なんですか?

史料で明らかになる部分は限られてますからね。
「歴史」が文学部な所以でしょう。

『江戸期より前の豊臣期、あるいはそれよりもう一つ前の戦国期のころ、関東一円は小田原の北条氏の領域だった。天正年間・北条氏の一族の氏照(陸奥守むつのかみ)が、八王子城に拠って、このあたりの地侍たちを大きく系列下においていた。 氏照のことはさておき、地侍のほうに視線をむけたい。


戦国のころ、日野一帯では、佐藤氏と土方氏が地侍として大きな存在で、そのことは古文書類(佐藤仁家、佐藤利文家、土方義春家文書など)にあらわれている。


周知のように、小田原北条氏は、豊臣氏にほろぼされた。豊臣政権の最大の主題の一つは、地侍退治だったということは、いつだったか、以前の稿でのべた。地侍という中間支配層を消滅させ、それまでかれらに隷属していた農民たちを自作農として自立させ、その上でじかに百姓から租税をとるという建て方だった。


 このために、豊臣期には、佐藤氏や土方氏は、全国の地侍と同様、ただの百姓に"降格〟された。


江戸期になると、この層は、すこし名誉を回復された。そういう旧地侍層のなかから名主(西方では、庄屋)がえらばれたのである。幕藩体制での名主(庄屋)は、ふしぎな存在だった。士農工商でいえば農なのだが、晴れの日には、大小を帯び、武士の姿をする。むろん、多くは姓も公称した。しかもその屋敷たるや、小藩の家老屋敷のように大きく、土塀をめぐらし、長屋門などをかまえていた。門を入ると、玄関があり、式台があり、また、座敷は書院造りだった(ただの百姓屋敷は、門も玄関も書院座敷もゆるされなかった。それらが付属しているということが、「苗字帯刀」のしるしだったのである)。』

(中略)

このあたり一帯の名主は、甲州街道ぞいの日野にある佐藤家であった。幕末の歳三の時代、その佐藤家の当主は彦五郎俊正で、石田の土方家から嫁がきていた。歳三の姉のおのぶだった。このことで、土方家が名主層と姻戚関係をむすぶ家格だったことがわかる。』

(この国のかたち by 司馬遼太郎)


もっともオイラは司馬史観は嫌いだがのw

珍しく、荒れてますねw
一言いってよかですか、むなしい・・・お話で
やりとりに意味を感じないんですけど。

新撰組だけの話なら、どこか他でやってください。
おいらは野次馬さんの江川論は非常に楽しみにしてるので。

こんなんだと、全然盛り上がらないじゃんw

てなわけで、おいらも「本論」にまぜてもらいましょう(`・ω・´)

歴史の大きな流れをつかんでるよく勉強している人でないと野次馬さんのこのお話の焦点はわからないでしょうね。

「思い入れがない」とか言う人がよく知らずにコメントするのはちょっと滑稽ですね。だから、どんどんズレてますけど。


江川さんが尚歯会のメンバーとの交流やオランダ商館からの情報、来航する異国船(捕鯨船)に際して、国防の必要性と、海外の最新兵器の威力を知っていたからこそ

異国船の大砲の射程から江戸城を守るために、海の中にまで人工島をつくり、大砲を置いたんですよね。

そのこと自体、水野忠邦に説明しているのは江川さんですし。

国を守るのに、圧倒的な西洋の文明力に対抗していくために、武士階級だけではムリで、国民皆兵を意識した近所の農民を指導指揮して率い、それを幕府レベルでやるように提案したけど

容れられなかったというのは史実で、そうした意味で、幕府が武士階級以外から兵を募り組織したさきがけが江川さんだったのですよね。
筋の通ったお話です。


秀吉も宮元武蔵も農民出身だし、没落した武士が郷士として
ちらばったのはそこかしこにある話ですし

勝海舟は祖父の代に、金貸しが御家人の格を買って武士になった末裔ですし

武士か農民かなんてほとんど意味を感じません。

新撰組も江川さんもこの国のためにと、命を張って生きてきた
人たちであることは、その業績を知ればわかること。結果や方向性の違いはあっても

むなしいコメントをいくら並べても、彼らの素晴らしさは変わることは
ありません。

歴史ででてくる有名な「偉人」は、時の権力にとって都合がいいので
装飾されてでてくる人物であることが多いというかほとんどでしょう。

そうした意味で、みんながあまり知らない英傑を
取り上げて、お話してくれる野次馬さんをおいらは

尊敬してますお(`・ω・´)

今度は最上徳内あたりを取り上げてくれると嬉しいですね

なにやら中身がない砂の掛け合いになってますね。

>新撰組が「百姓から武士に成り上がった」というのは、
>だから、一面的な見方であって、もともと半分は武士だったわけですね。

ここで済んでいる話を、ひっくり返して、砂掛け延々やって、
その砂の掛け合いの方がメインになって「あれ何が言いたいんだっけ?」という印象。

>もともと半分は武士だったわけですね。

「多摩時代から武士扱いされてたなんて新選組オタに笑われるよ」

という具合では、単なる汲み取り不足なだけですし
全般を通して見ても、この手の焦点ボケが常に目立ち、
結論としては、ポジトークが先に来た「場当たり的な砂掛け」だけになってる感は否めないです。
また、言ってしまえば

>町田の自由民権資料館の出版物には、多摩地区での武芸の流行は
>「為政者である武士の特権とされていた帯刀への、豪農たちの欲求」と書かれてますね。

これを持ってこれる時点で、見方の深度に疑問あり。
こういう公的な資料館の編纂記述などは中央寄りの上っ面の安パイしか書けないです。
何かしっかりした事実が紙の上に載っていると思っている内は
歴史や物事の真相に迫る事は難しい。特に柔軟性と洞察が効かなくなるのがデカい。

で、この辺の見方の深度の問題と論旨への不理解、及び好き者ゆえの偏りが齟齬の原因かと思われます。
まあ実際は最後の好き者ゆえの「衝動」が一番という感じでしょうかね。
読めども読めず。言えども聞かず。

大石鍬次郎、人斬りの名人と言われたやつだね。

横からごめんなさい。

一次史料ってのは、市史編纂室なんかに雇われてる院生や地元の社会科教員が「くずし字辞典」なんかを片手になんとか読みこなそうとする手書きの記録です。たいてい本陣屋敷とか庄屋や酒屋なんかの蔵のつづらから「発見」され、虫食いでその上鼠のオシッコ・ウンコまみれになってる状態で教育委員会なんかの倉庫の奥に持ってこられます。そいつをミシミシとほぐして読みます。句読点なんかない候文(そうろうぶん)です。

経験的には、江戸時代の地方文書(じかたもんじょ)がいちばんクセがあって読みにくいです。原則は「御家流」という幕府の公式な用字作法がありますが、書き手によってまったく気ままに当て字をしてくれますので。

これに対し、「史料集」はそれら一次史料を活字に起こしたものです。原史料という扱いをされますが、一度人間の脳みそのフィルターをくぐっている情報ですから、時には読み違いや思い過ごしが混ざります。一次資料に対して二次史料という言い方をされることもあります。

アルバイトで某大名の江戸藩邸の一次史料の下読みをさせられたことがありますが、どこの大名から付け届けが来たとか、正月はどこへ挨拶回りしたとか、当時の社会的事件となんの関連もないと思われる記述が99パーセント。死ぬほどタイクツでした。というか、古い記録を素手で触ると身体中痒くなります。一応薫蒸消毒してあるんですが、きれい好きなひとには奨められないバイトでした。げほげほ…カユカユ。。

>啄木どん

しかしの、近藤、土方のエネルギーの源泉は土民出身だというコンプレックスだったと思うな。
近藤は世界レベルで思考できなかった成り上がりで、土方は原理主義のターミネーターだったろう。

この本を書いた「佐藤」さんというのは、その名字で判るように、あの、佐藤彦三郎の末裔。専門は「戸籍」。なので、多摩のあちこちまわって、新撰組にまつわるホンモノの一時資料をたくさん調べて、それをベースに本を書いている。まだ活字になってない、戸籍や日記なども調べている。なので、批判するんだったら、せめて当該の本を読んでからにして欲しい。

>まだ活字になってない、戸籍や日記なども調べている。なので、批判するんだったら、せめて当該の本を読んでからにして欲しい。

「歴史は足で書け」と言われます。その点では経験科学の一分野ではないかしら。野次馬さんが仰せのように、原史料にあたって研鑽されている方の見方を一度取り入れてごらんになるのがまずは宜しいのではないかと存じますヨ。

横から脱線組が増えましたよ。

候文は句讀點がないと云ふか、「候」自體が句點であると。

史料と云ふか資料を漁るのではなく、觀測したりsimulateしたりすることでdataをうる業界から來ますた積雲でつ。Historyとはさうした(such a hi-)storyであつて、歴史學科が文學部にあるのもさうした理由、とかナントカ恐らくロリポ時代に書込んだ言囘しですが、野次馬さんの血肉になつたやうで嬉しう御座候。當方の書込とは無縁であるにしても。

野次馬さんの幕末のエントリー、毎回楽しみにしています。

自分は古写真や浮世絵を研究してますが、資料・文献はあまり参考にしてないです。

それはそうと、江川英龍公をはじめとして、幕末には当時の外国のテクノロジーをいち早く理解し、それを作ってしまう人がいたというのには驚きですね。

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