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暴力のない、安心して学べる京都大学に!!
 京大暴力問題の焦点
  学寮問題の真相
*1



1986年3月 教養部自治会常任委員会


 新入生の皆さんへ
 ご入学おめでとうございます。これから始まる新しい生活に期待と不安でいっぱいのことと思います。
 さて、新聞報道でもあったように、今年一月、京大構内で「中核派」などの殺人者集団どうしによる「内ゲバ抗争」のあげく「中核派」メンバー一名が死亡するという事件がおこりました。まさしく京都大学から一切の暴力をなくし安心して学べる大学にすることが緊急重大な課題となっているのです。ところで京大の暴力事件が十年以上にわたり引き起こされ続けている、その温床にこうした暴力集団が「拠点」としている吉田寮・熊野寮の問題があるのです。とりわけこの数年は暴力集団はいわゆる「寮問題」を口実に暴力事件を激発させており、今や京大の暴力問題の焦点の一つがこれにあると言えます。
 本学には吉田寮・熊野寮をはじめ四つの寮があります。みなさんもこれらの寮から送られてきた「募集要綱[ママ]」をご覧になったことでしょう。でも注意して下さい。吉田・熊野寮には前述のとう[ママ]り以前から暴力集団が住つき、寮を“私物化”しており、吉田寮にいたっては今年の三月をもって「在寮期限」がきており、新寮については、敵対しているのです。ところが、寮自治会が発行している「募集要綱[ママ]」には、そのようなことを隠したまま、新入生の入寮募集をしている有様です*2。吉田寮はここ数年にわたって荒廃につぐ荒廃を重ね、もはや倒壊による生命の危険さえある老朽寮と化しています。新寮の建設という私たちの願いにも拘わらず、未だそのメドさえたっていません。寮自治会は“新しい寮がいまにも建つ”ような幻想をふりまきながら、新入生を“人質”として確保することに躍起になっているのです。
 はたして今のような状況が全学の財産であり、国民の財産である学寮にとってふさわしいものでしょうか。
 また、なぜこのようなことになってしまったのか、皆さんといっしょに考えていきたいと思います。

 1)「吉田寮問題」の経過と三つの本質


 昨年来、「中核派」や、赤ヘル暴力集団、吉田寮執行部などは“吉田寮「在寮期限」粉砕”を叫んできました。事の経過は次のようなものです。

'79・4 会計検査院が京大調査。京大の寮について「長期にわたる寮生による占拠状態」と指摘*3
'79・12 寮生数人が、学生部長に暴行(3名有罪)*4
'81・63)大学当局が寮自治会と寮生に「入寮者名簿」「入寮届」の提出と、「寮費納入」を求める。寮自治会はこれを拒否。17)約一〇〇名の寮生が総長室、学生部長室に乱入、暴行事件を再び起こす。
'82・12 京大当局は、吉田寮の老朽化などを理由に、'86年3月31日を、吉田寮の「在寮期限」と決定し、これ以降は、寮としての機能を停止させることにした。同時に、「期限」までに 新寮を建設する方針を確認した。
'83・12 京大当局は「新寮計画」のプランをまとめ、吉田寮執行部と「話し合い」を開始。文部省への概算要求はすでに行われ、'84年夏に、建設予定地の「埋蔵文化財調査」、秋に建設着行[ママ]のスケジュールがまとめられる。
'84・7 「埋蔵文化財調査」を吉田寮執行部が、妨害し、中止となる。これにより建設計画は85年まで延期。
'85・7 吉田寮執行部が「建設計画」と「埋文調査」について、突然、大学当局と「合意」。しかし、今度は「中核派」が「調査」を妨害。中止となる。
'85・9 「中核派」が「在寮期限粉砕」を掲げて、教養部をバリケード封鎖し、学生の糾弾を浴びる。
'85・10 吉田寮執行部が「状況によっては、新寮計画を白紙にもどす」と宣言*5
'85・12 赤ヘル暴力集団が、時計台屋上を占拠する事件が発生。この頃から吉田寮執行部と赤ヘル暴力集団の行動が一体化する。
'86・1 20)「内ゲバ殺人事件」が起こる。(22)C・S・J・Mの各自治会が連名で「新寮建設のための五つの要求」*6を発表。(30)吉田寮執行部が中心となり赤ヘル暴力集団が集結した「全学団交実行委員会」(全学団交実)を「結成」。(31)C自治委員会が成立し、「新寮建設要求」を採択。同日、「中核派」は「無期限バリスト突入」を掲げた「C代大」なるものを行おうとしたが、学生が集まらず破綻する。
'86・2 3)C・J・S・Pなどの学生自治会執行部で構成する自治会連絡協議会、職員組合、院生協議会の学内三者が「暴力をなくし安心して学べる京大へ!!全大学人集会」を開催。三六〇人集まる。同日、吉田寮執行部はこの集会の会場を妨害*7。数十人の赤ヘル暴力集団を集めて、宣伝妨害を行う。6)「全学団交実」が文学部新館を封鎖。以降、暴力的な「団交戦」を行おうとするが、ほとんどの学部で破綻する。また、「全学団交実」は各学部自治会の「新寮建設要求」に対して「物取り主義」と攻撃しはじめる。

以上の経過から明らかなように、吉田寮「在寮期限」をめぐる問題の本質は次の三点に集約することができます。このことは、彼らの「寮闘争」なるものが、全学生の共有財産である厚生施設=寮の発展、充実と無関係であるだけでなく、逆に寮の荒廃・解体を導くものでしかないことを示しています。

1)「自主管理」と称する私物化

 吉田寮・熊野寮とも、寮の「自主管理」と称して、「寮費の不払い」*8「在寮届の未提出」*9などの“不法行為”ともいうべき状況を続けています。誰が住んでいるのかも定かではなく、男子寮であるにも拘わらず*10女性も住んでいる、暴力集団のアジトさえあるなどの実態です。
 吉田寮自治会が「在寮期限」を“粉砕”しようというのは「自主管理」と称するこうした異常な事態を「守ろう」としているにすぎません。
 これは全学の財産である学寮の“私物化”以外何ものでもありません。

2)「新寮計画」を自らつぶした寮自治会

 吉田寮自治会は「『在寮期限』後の寮生の生活をどうするのか」「新寮建設のメドさえ立っていない」と叫んでいます。このように、新寮が建設されるメドが全くない下での、自らの生活を保障することを問題にしているかのように振舞ってきている彼らですが、事の真相は「在寮期限」までに新寮を建設することが具体化していたにもかかわらず、自らがその計画までを台無しにしてしまい(彼らの言葉でいうなら“粉砕”してしまった)「長期化」と「泥沼化」を公言し、寮の荒廃をもたらしたのです。

3)暴力集団の「根城」であり、暴力の温床こそ、学寮

 吉田寮と熊野寮に「中核派」や赤ヘル暴力集団が住みつき「根城」にしていることは言うまでもありません。そればかりか、彼らは、この数年だけを見ても何度も、寮を「出撃拠点」にして、暴力事件を引きおこしています。まさに、「寮問題」は、京大の暴力問題の焦点となっているのです。
 以下、このことを具体的に見てみましょう。


 2)学寮「私物化」の驚くべき実態


1)「自主入寮選考」の実態

 入寮選考・許可のすべてを、寮自治会だけが行うしくみであり、独自の「募集要綱[ママ]」を作っています。
 入学するときと同様に、学寮に入寮するときにもその手続きとして「入寮手続」が必要です。ところが、この「募集要綱[ママ]」にはこれについての一切の記載がありません*11。当然、当局への「入寮届け」は極めて少ないものです。このため、大学当局は81年1月時点で*12、吉田、熊野二寮の定員数のわずか21%しか「入寮者」として把握できていません。(以降は公開資料なし)

2)寄宿料も払わず、学生部職員が、立てかえ払い

 彼らの「募集要項」には、寄宿料の記載さえなく、「寮費不払い闘争」までしています。このため、大学当局が「入寮者」として、把握したものに限っても、「昭和51年4月から、昭和56年1月までの間に、寄宿料(熊野寮300円、吉田寮100円)の未納は年額の195名分(約46万8千円)にも達している」*13となっています。このため、学生部職員が基金を作って、表ざたにならないように、立てかえ払いまでしています。

3)暴力集団のセンター化していた熊野寮、吉田寮

七〇年代末の熊野寮は、「マル青同」「第四インター」「釜共斗」「中核派」などの暴力集団が部屋を公然とボックスとして使用していました。現在は、「内ゲバ抗争」の末、「中核派」だけになっています。また、他大学など、学外者が公然と居住していた事実もあります。
 吉田寮にも、以前から多数の赤ヘル暴力集団が在寮しており、現在も彼らの「根城」となっています。70年代以来、赤ヘル暴力集団は、学内で暴力事件を引きおこす際、しばしば、吉田寮を「出撃拠点」にしてきたのです。

4)男子寮に女子学生を、入れる

 男子寮である吉田寮、熊野寮に女子の入寮を認め、「募集要項」にも、女子の入寮案内を出しています。ことの発端は、熊野寮に何組かの同〓[ママ]者が生まれた挙句、これを追及されると、「女性を入れないのは差別だ」と居直って、正式に「女子寮生」と認めたのです*14

5)腐敗の実態

 厚生施設である学寮での同〓[ママ]をはじめ、寮生活における腐敗の実態は、目を覆うものがあります。暴力事件の発生もその顕著なあらわれです。
 70年代末には、京大病院の夜勤の看護婦などのための風呂を寮を中心とする暴力学生が無断利用した上、石鹸、シャンプーなどの窃盗、女風呂のノゾキなどを働いています。また、白眉寮(看護婦寮:当時)に対するノゾキ事件で追及を受けた暴力集団は、吉田西寮自治会の名で「謝罪文」を出しました。このような腐敗は、元熊野寮自治会委員長が、寮の自室で自殺し、一週間もわからず放置されていたという驚くべき事態にまで至っています。

6)反対するものは暴力で排除する

 彼らの「自主入寮選考」とは、反対するものを暴力で排除するものでもありました。
 '74年には、吉田東寮で、11名の学生にリンチを加え、全身打撲、鼻骨骨折、前頭部基底部損傷、角膜上皮はく離などの重傷を負わせ無理矢理、退寮させました。この事件の犯人の一人、■■*15(当時、教育学部6回生)は、指名手配中の75年10月、自首し、実刑判決*16を受けました。
 熊野寮でも残虐な暴力事件があとを絶たず、深夜、寝ていた寮生を、いすにしばりつけ、4階の窓からつきおとしかけるという事態まで発生しました。


 3)新寮建設には一貫して敵対してきた


1)自主管理」を認めない寮なら、「白紙に戻す」と主張

 暴力集団は全国的に、政府の押し付ける「『新規格寮』方式の新寮建設」に反発するというふりをして、実は、新寮計画それ自体に敵対しています。
 京大でも結局、「新規格寮粉砕」のスローガンによって、事実上、「在寮期限」までに、新寮が建つことに妨害しつづけたのは、寮自治会自身でした。彼ら自身、常に、「自主管理の継続できない寮なら意味がない」「状況によっては、白紙にもどす」と言いつづけているのです。

2)「新寮がたてば」それを「人質」にする!

彼らは、さらに「我々の意向を満さない寮を建設しても、その新寮を人質にすればよい」*17と述べています。そうすれば、“大学当局は、我々に屈服せざるをえない”と。
 言うまでもなく「新寮を人質にとる」とは、彼らが占拠するか、封鎖するかであり、ここにも、彼らの犯罪性がはっきりあらわれています。

3)埋文調査は「粉砕」=新入生をペテンにかけて=

新寮予算化のために必要な「埋文調査」は、84年、85年度、ともに、吉田寮・熊野寮各自治会の妨害によって、今だに[ママ]実現していません。
 ところが、吉田寮執行部は、一方で新入生に対しては、「募集要項」で、「新寮建設は、目前」と述べています。驚くべきペテンと言わなければなりません。

4)赤ヘル暴力集団と一体となる吉田寮執行部


1)赤ヘル暴力集団の「根城」吉田寮

 吉田寮は、従来から赤ヘル暴力集団が「根城」にしてきたもので、今日でも関係の深いあいだがらです。
赤ヘル暴力集団は、国際的犯罪者集団である「赤軍派」に指導・育成されてきた集団で、'70年代以降何度も京大を「暴力支配」の危機に陥れてきました。

《77年〜78年にかけての京大「暴力支配」の実態》

[1]授業破壊
  一九三件(文部省調査:この他、彼らの暴力を恐れての休講・学外授業は無数)
[2]大学施設の不法占拠  十八カ所(78年)
[3]教官に対する暴行   十七件(77年)
[4]学生に対する暴行   三五件(77年9月〜12月)
[5]大学の正式会議の学外開催にかかった費用
    九〇件 一四〇万円(文部省調査)

《京大は「赤軍」の巣窟だった》
 [年表は別文書]

2)赤ヘル暴力集団をかき集めた「全学団交実」

 今年一月三〇日に結成された「全学団交実」は、二月三日には、全国から赤ヘル暴力集団をかき集めて集会を行っています*18。この「団交実」は、吉田寮執行部の方針に沿って結成されたものです。

3)封鎖・宣伝妨害などの蛮行

 「L団交実」は、今年二月六・七日、文学部新館を封鎖し、学部長を監禁するなどの暴挙に出ました。また、二月三日には、宣伝中のC自役員等を数十人の赤ヘル暴力集団が取り囲み、暴行を働いた上「俺たちの暴力はこんなものじゃない。みていろよ。」などの暴言を吐きました。

4)「実力闘争」叫ぶ吉田寮執行部

 吉田寮執行部は、「在寮期限」後の「居座り」を保証するものは「実力闘争」であるとして、次のように述べています*19。「我々の要求として*20物理的な力を加えても尚、それを解決していかねばならぬとき、やむを得ず表現されたものが我々のゲバルトに外ならない*21。つまりゲバルトとは*22、抑圧されたものの武器なのであり、この意味において物理的な実力闘争が必要なのだ。」

5)熊野寮執行部は、「中核派」と一体

 尚、「中核派」は、赤ヘル暴力集団と対立していますが、熊野寮執行部は、事実上、「中核派」と一体化しています。先に「内ゲバ事件」で殺害された「中核派」メンバーも、元熊野寮自治会委員長でした。


〈おわりに〉

暴力のない学びがいある教養部を今こそ築こう!

 以上、私達は、この間の京大の暴力問題の重大性にかんがみ、その焦点となっている学寮問題の真相について明らかにしてきました。京大から暴力をなくし、安心して学び働ける大学にすることは、全京大人の切実な要求であり、ますます緊急重大な課題となっています。この運動をすすめていく上で、私達は最後に次の事を新入生の皆さんに訴えるものです。

[1]京大当局の暴力集団容認・「泳がせ」の態度を厳しく追及していくこと。
 学寮の「私物化」や、暴力事件の続発の事態に対して、京大当局は何ら具体的な措置を取らないばかりか、逆に彼らに都合のいい「確約」を交わしたり、援助さえしてきました。暴力問題に対する大学当局の無責任な態度を厳しく追及していく必要があります。

[2]要求を基礎に、クラスの団結を固め、自治会運動の一層の発展を!!
 学園における暴力の横行は、学問の自由と大学人の人権を侵害し、大学の自治そのものを破壊するものです。だからこそ、全学生の団結をうちかため、要求を基礎に、自治会運動の発展を克ちとることが、暴力を許さない土台であり、より学びがいのある教養部を作ることができるのです。

 新入生の皆さん。ともに、がんばりましょう。


焦点真相注
*1 1986年3月付のビラ。新入生を対象にまかれたもの。本文献に対しては、ビラ「吉田寮「居座り」路線は、何をもたらすか」(1986年5月24日、教養部自治会常任委員会、本資料集に収録)と共に、同年6月14日に開催された教養部自治委委員会において自治委員有志により撤回決議案が提出され、現出席の自治委員により採決をとったところ、賛成14、反対9、保留4により可決された。
*2 吉田寮自治会の発行する「1986年度寮生募集要項」には、以下の記述がある。

   ◆ 「入学案内」記載事項について ◆
 京都大学学生部からみなさんのお手元に郵送されている「入学案内」に学寮についてのページがあります。そのページに「吉田寮は'86年3月31日を在寮期限としているので入寮できない」と書かれていることと思いますが、このことについて少し説明しましょう。
 '82年12月14日、京都大学最高の意志決定機関である評議会は、吉田寮の老朽化が著しいことを憂慮して「'86年3月31日を吉田寮の在寮期限とする」と決定し、それまでに新寮建て替えの計画を検討することとしました。しかし、'86年3月10日現在もまだ新寮建設の計画がまとまらず、在寮期限と新寮については吉田寮自治会が新寮への無条件移行へ向けて学生部と話しあいを続けています。
 前述の「入学案内」の記述について学生部は、「評議会の決定('82年12月14日に決定された在寮期限のこと)を覆すのは無理」と説明していますが、実際は、老朽寮の建て替えを指示している文部省のてまえ、少しでも事態が解決の方向に向かっていると見せかけるために、やむを得ず記述しているに過ぎません。ですから事実上は本年4月以降もこれまでどおり吉田寮に入寮できます。
 新入生のみなさん、安心して吉田寮の門を叩いてください。吉田寮生一同、心からお待ちしています。
*3 京都大学長岡本道雄宛「実地検査の結果について」(542普第279号 昭和54年9月14日、会計検査院事務総局第2局長 藤井健太郎)のこと。
*4 巻末の用語一覧の「12・15弾圧」を参照のこと。
*5 「1985年度前期吉田寮自治会全体方針(案)」(1985年9月13日、吉田寮自治会執行委員会、本資料集に収録)において、7月15日の各寮総会での結論として再掲された、「吉田寮自治会は、いよいよこの夏休みに埋蔵文化財の試掘調査を行なわせ、秋の運動の、全学の注目と支持をあつめるその焦点に埋蔵文化財本調査をもってくる、とうぜん3項目要求は取り下げたわけではなく、状況によっては新寮建設を白紙にもどすことも辞さない。」を指すものと思われる。なお、該当文献は『京都大学新聞』第1939号(1985年10月16日)に抄録されて全学に公表されたが、本文献の言う10月に「宣言」とはそれを指すものと思われる。
*6 正しくは、「新寮建設のための我々の五つの要求」。ビラ「暴力の根絶と寮問題の民主的解決のために−我々の提案と要求−」(1986年1月22日、教養部自治会常任委員会、本資料集に収録)に収録。なお、連名したのは各自治会の執行部である。
*7 「暴力を根絶し、安心して学び、働ける京都大学をめざす「全京大人」集会」(主催:自治会連絡協議会・院生協議会・職員組合・生協労働組合)は当初、時計台前を集会場に予定して1月23日付で院生協議会が大学当局に届け出を出していた。一方、1月20日付のビラで吉田寮自治会は2月3日に時計台前で「「在寮期限」粉砕!新自治寮獲得!2・3時計台前大集会」を開催することを告知していた。「全京大人集会」は法経7番教室に会場を変更して行われた。
*8 水光熱費については、吉田寮自治会は1984年2月分より支払いを開始している。シリーズビラ「でいりぃへたパン通信」の第1号「特集 日共−民青を批判する/「C自(常)」によるデマキャンペーンを許すな!」(1986年6月19日、吉田寮自治会)によると、「寄宿料については、我々が不払い斗争を行なっているわけでなく、入寮届を出さないと学生部がその寄宿料を受け取らないため、寄宿料が支払われていない、という状況が生まれているのである。」
*9 71年確約(巻末の用語一覧を参照のこと)に基づき、入退寮者氏名の『京都大学新聞』への発表は行っている。
*10 そのような規定はどこにも見られない。
*11 例えば、1986年度の吉田寮の「寮生募集要項」には、「6入寮届/○入学式前日に行われる入寮のためのオリエンテーションを受けてから正式に寮生と認められますからそれまでは学生部厚生課寮務係[ママ]に入寮届を提出しないで下さい。」とある。
*12 「吉田寮熊野寮の現状と問題」(学生部長 藤原元始、『京大広報』No.210(1981年2月15日)掲載)に1981年1月17日付のものが発表されている。
*13 *12の「吉田寮熊野寮の現状と問題」には、「昭和51年4月から昭和56年1月までの間に,寄宿料(月額吉田寮100円,熊野寮300円)の未納は,年額の195名分にも達しています。」とある。「46万8千円」の根拠は不明だが、あるいは吉田寮生・熊野寮生の比重を無視して寄宿料の平均を月額200円とし、それに12ヶ月と195名を掛けて独自に試算したものと思われる。
*14 熊野寮自治会の第19期総括(1974年、第19期熊野寮自治会常任委員会)には、以下の記述がある。「我々は72年3○○○弾○以降、女性差別に対する糾弾を受け、寮生が自らの立場を把え返し、差別を行ったことの根源にあるものを追求してきた。我々はこの主体的総括のもとに、女子正式入寮を昨年6月より開始した。」ここで判読しがたい箇所は、1972年3月8日に吉田寮生が看学女子寮に対しストームをかけたことに対し看学生による糾弾が行われた経緯を指すものと思われる。なお、この問題に関しては、「3・8糾弾行動委」名で資料集「帝国主義大学の腐敗と堕落の極地 看学女子寮集団襲撃を徹底糾弾するぞ!」が出ている。
*15 原資料には実名が見られたが、編集部の責任において伏せ字とした。
*16 正しくは、略式起訴による罰金刑。
*17 レジュメ「“禍”を転じて福と為せ!/新自治寮戦取へ向けての我々の見解と今夏以降の闘いの方向性について」(1985年7月27日、吉田寮自治会、本資料集に収録)において、まず埋蔵文化財調査をやらせてT期分を建てさせるが、「我々の意向を満たさない新寮を建設しても、その新寮を人質にすることで、U期分について我々に有利な展開が約束される。」としたもの。なお、該当文献は『京都大学新聞』第1939号(1985年10月16日)に収録されて全学に公表された。
*18 「「在寮期限」粉砕!新自治寮獲得! 2・3時計台前大集会」(主催:吉田寮自治会)のこと。
*19 *17で述べた「“禍”を転じて福と為せ!/新自治寮戦取へ向けての我々の見解と今夏以降の闘いの方向性について」より。
*20 該当文献には「要求として、」とある。
*21 正しくは「他ならない。」
*22 該当文献には「ゲバルトとは」はない。なお、*17で触れた『京都大学新聞』収録のテクストには「ゲバルトとは」が挿入されている。

|目次| 前頁(1988年度後期吉田寮自治会全体総括(草稿) 吉田寮自治会1988年度後期執行委員長(1990年1月23日)(50KB))| 次頁(吉田寮「居座り」路線は、何をもたらすか 教養部自治会常任委員会(1986年5月24日)(23KB))|