第一回

はじめに

 私の職場は4階建てのビルの3階にある。ビルの隣には、山手線に沿って細長い小さな公園が広がっている。その端に一本の桜の樹が立っている。
 3階の窓からは、桜の樹の枝を水平に眺めることができる。おそらく、2階でも4階でも、高さがずれてしまうのだ。そのことがわかるのが、1年のうちのわずか1週間なのである。4月上旬のその季節だけ、円形で横長なカウンセリング室の窓一面に、満開の桜の花が獰猛なまでに広がるのである。カウンセリングにやってきた人の中にも、あまりに見事な光景に一瞬すべてを忘れて見とれるひとがいるほどだ。
 昨年(2008)のそんな季節に生まれたのが、『母が重くてたまらない――墓守娘の嘆き』だ。時はめぐり、誕生して1歳をはるかに超えてしまったが、この本は相変わらず多くのひとに読まれ続けているようだ。多くの書籍が溢れる中にあってこのような反響を実感するたびに、著者としてはこころよりのしあわせを感じる。

 正直に言えば、これほどの反響を呼ぶことをまったく私は予想していなかった。もちろん、墓守娘という言葉に対して「私、そうなんですよ」という女性が現れることを期待してはいたが、それほど新しいことを書いたというつもりもなかったからだ。それほどまでに、母親との関係に苦しんでいる女性たちの姿は、カウンセラーである私にとって身近で日常的なものだった。
 もちろん、本の中に登場させた女性たちは現実にモデルがいるわけではない。私がお会いした無数の女性たちを基にしながら、読者が違和感をおぼえないように表現をマイルドにして造形しなおしたつもりだった。なぜなら、もっと悲惨な娘たち、もっと残酷で強烈な母親たちは数えきれないほどいたからである。

 ところが驚いたことがある。 「怖くて本を手にとれなかった」「書店で題名を見たとたんに、ああ、絶対こんな本読まないと思ったが一週間迷ってやっと買った」「買ったけど、なかなか頁を繰ることができなかった」といった反応が数多く返ってきたのだ。「強烈過ぎる題名ですね」、と言われることにも慣れてしまったほどだ。題名を見ただけで、自分の何かに突き刺さると感じるひとたちがそれだけ多かったということなのだろう。
 そのことを、私ばかりかおそらく出版社も想定していなかった。そして、「私のことだ」と思った女性も、そんな人がこの日本に多くいるなどとは予想もしていなかっただろう。つまり誰にとっても想定外の事態として、膨大な数の「母が重くてたまらない」女性たちの存在が浮かびあがったということなのである。

 墓守娘の本を読んでカウンセリングにやってくる女性の層を大まかに分けると、ロスジェネ世代と、団塊女性の二つになる。双方とも、娘の立場からの苦しみを抱えてやってくることはいうまでもない。そして後者の場合は、自分も母と同じことをしているのではないか、つまり世代間連鎖が起きているのではないかという懸念が加わっている。そこには驚くほどに、男性つまり父親の存在が気配もないほどに不在なのである。
 そんな女性たちの話を聞きながら、執筆時には思いもよらなかった新たな洞察を得ることができた。また、母娘関係をテーマに講演を依頼されることも増え、そこでの聴衆の反応から新たに見えるものもあった。

 それを一言でいえば、母娘をめぐる状況は、カウンセリングにやってくる一部の特殊なひとたちの問題ではなく、今の日本を生きる女性たちに共通の普遍的問題かもしれないという発見である。具体的に言えば、負け犬世代・アラフォー世代の女性と団塊母との関係性、さらに高齢化社会の進行に伴う90歳以上の母親と団塊娘たちの関係性がクロスして起きているという発見である。いうなれば、母娘という、男性からすればひそやかでどこか予定調和的な関係性も、社会・歴史的影響から自由ではないことを再確認させられたのである。
 このような問題意識が強まるにつれて、もう一冊新たに本を書く必要があると考えるようになった。

 前著では、一貫して娘の立場に立つことで母娘関係を読み解いてきたつもりだが、今いちど娘である彼女たちが母親になった場合を想定しなければならないと思う。また、娘や父親に対して示しては処方箋を示したのだが、本書では母親に対しても示そうと考えている。この場合の母親は、現在・未来の母親までも射程に入れている。
 なぜならば、母との関係をつきつめるほどに、母になった自分が娘にどのような姿を見せればいいのか、どのような言葉をかければいいのか、果てはどのように生きればいいのか、とすべてが不安になってしまうだろう。娘が思春期を迎えさまざまな衝突が起きるたびに、自分と母との関係がそこに二重写しになり混乱するだろう。娘を育てるに際して、自分がされたことはしないという否定のモデルしかない女性は、それではどうすればいいのかという指針がないのだ。

 前著において、母親への処方箋を書かなかった理由は明快だ。彼女たちは本を手にとって読むことすらしないだろうと考えていたからだ。それは母たちへの絶望と言ってもいいだろう。その絶望は、娘の立場に立てば立つほど深くなった。それに、自分がよき母であると信じて疑わない人たちをいたずらに混乱させると、却って娘たちの負担が増えるかもしれないという懸念もあった。
 しかし、それはまずい。1年以上たった今、はっきりそう思う。
 重くてたまらない母たち(それはたぶん私と同世代だ)にどうしても変わってもらわなければならない。絶望しあきらめることは、彼女たちを貶めることにもなるだろう。それに、私自身が同じ世代である彼女たちを貶め見くびることは、傲慢以外のなにものでもないだろう。だから、可能か不可能かを問わず、とにかくアプローチをし続けるしかない。それがカウンセラーである私の仕事ではないだろうか。
 こんな私の悲壮な決意は、読者である多くの女性からの後押しによって生まれた。是が非でも本書を重い母たちに読んでもらいたい。そして、手遅れだったとしても、自分がどれほど娘の人生にのしかかっていたか、それを愛情と読み替えてきたかを自覚してもらいたい。10段階評価のゼロだった母が、3まで変化することはあるだろう。それでもいい、ゼロのままよりずっといい。

 さて、本書を新たに執筆するにあたって、そこを貫く3つの柱について説明しておこう。 ひとつは、娘の立場からの視点はいうまでもないが、重くてたまらないあの母たちがどうしてつくられたのかという点である。彼女たちに責任はあるのかどうか、彼女たちは果たして変わることができるかどうか……。こんな重い問いについてのこたえを少しでも書いてみたい。
 もうひとつは、多くの娘であり母である女性たちを苦しめている世代連鎖という呪縛についてである。これほど短期に日本社会に浸透した言葉はないと思われるほどに、多くの母となった女性たちは娘への加害者性に怯えている。実は、世代連鎖は父から息子に起きる可能性のほうが多いことを伝えたい。そして母である女性たちを過剰な呪縛から解放したい。
 3つ目は、あの鈍重にも見える母たちをむしばんでいるもののひとつに「ミソジニー」と名前をつけて、女性が女性であることを嫌悪するという不幸な事態について述べてみたい。

 これらをすべてひっくるめて、最終的には「母からの卒業」を目指すのが本書のねらいである。
 母であることからの卒業、娘としてあの母から卒業すること、この二重の意味(ダブルミーニング)を含んだ問題意識から本書を書こうと思っている。 子どもを産んだら死ぬまで母である必要などない。生物的関係性と、社会的関係性は異なるはずだ。夫婦が離婚によって解散するように、あるとき、母からも卒業できればどれほどいいだろう。それはそのまま、娘であることからの卒業と同義であることはいうまでもない。
 高齢化社会の進行に伴って、30代初めに母になったとしても、50年近くも母であることを続けていくことになる。それは、娘が、娘として50年を生きることを意味する。こんな長期にわたる母娘関係は史上初の現象である。そんな長い時の流れを、どうすればかろやかに生きられるのだろう。母にとっても娘にとっても、満足のいく関係性がないだろうか。そのための何か名案があるかもしれない。

 さまざまな問題意識に立脚したこんな欲張りな本を、私は書こうとしている。不安もあるが、夢は大きければ大きいほどいい、とも思う。たとえ消化不良であろうとも、中途半端に挫折しようとも、その意気やよし、と自分に言い聞かせながら書き進めていきたい。

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信田さよ子(のぶた・さよこ)

原宿カウンセリングセンター所長。著書に『母が重くてたまらない』(春秋社)、『共依存・からめとる愛』(朝日新聞出版)、『選ばれる男たち』(講談社)ほか多数。
原宿カウンセリングセンター、ホームページ http://www.hcc-web.co.jp/

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