名前
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ニコラ・サルコジ
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誕生日
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1955年1月28日
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事件の日付
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1973年1月27日(フランスなどの西欧地域)
1973年1月28日(ベトナムや日本などのアジア地域)
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事件の内容
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「ベトナム和平パリ協定」
ベトナム戦争で米国が敗北、北ベトナムとの間で休戦協定が成立。米国にとっては、耐えがたい屈辱だった。
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因果関係
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一応、パリ協定とはなっているが、日本は秘密裏に北ベトナムを支援した。パリで協定が成立したのは、元宗主国フランスを利用したにすぎない。
1946年、仏軍とベトナム民主共和国軍の間で第一次インドシナ戦争が始まり、日本軍兵士が多数参加した。当時、ベトナムには766人の日本兵がとどまっており、なかには、陸軍士官学校を創設して、約200人のベトミン士官を養成した者もおり、8人の元日本兵がベトナム政府から表彰を受けた。なお、150人は日本へ帰国したが、その他はベトナムに留まり続けた。
パリ協定締結時、サルコジは18才だった。このころ将来の大統領候補として目を付けられた。大統領になるべく段取りが敷かれた。3年後シラクの結成した共和国連合へ入党する。
※ ここで重要なことは、サルコジは、アジアの日付で選ばれたことだ。ということは、サルコジを選んだのはフランスではなく、アジアの国だった。ベトナムかもしれない。いや、十中八九、日本だろう。
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名前
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ジャック・シラク
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誕生日
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1932年11月29日
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事件の日付
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1932年11月29日
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事件の内容
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仏ソ不可侵条約調印
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因果関係
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シラクはシャルル・ド・ゴールの後継者で、外国の影響力(特に英米)から脱し、フランスの独自性を追求するド・ゴール主義を貫いた。誕生日にそって、常に親ソ・親ロシアであった。これは、日本の方針に完全に沿ったものだ。
シラクは、第二次大戦後大学を卒業しており、このころから政治家として選ばれ、徹底的に支援された。大統領への道をまっしぐらに進む。
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名前
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アフマディーネジャード
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誕生日
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1956年10月28日
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事件の日付
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1886年10月28日 自由の女神像の除幕式
1891年10月28日 濃尾地震(美濃・尾張地震)、死者数は7273名。
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事件の内容
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米国自由の女神像建立と、米国の終わりを象徴する、「反米」の人工地震
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因果関係
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アフマディーネジャードはアメリカ合衆国のブッシュ政権に対して歯に衣着せぬ批判で知られる。
自由の女神像と濃尾地震の関連については、「自由の女神と米国の終わり」の項を参照されたい。
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