米ソ冷戦時代に作られた小説や映画に必ず登場するのが「ソ連科学アカデミー」とその研究者。ソ連の秘密都市、研究者自身が隔離された環境で、人知を超えた研究がなされ、世界の転覆を謀っている、というお馴染みのストーリー。西側の人々の好奇心をそそるとともに、ソ連に対して「不可解で危険」というステレオタイプを植え付けてきた。 今、「ソ連科学アカデミー」は「ロシア科学アカデミー」と名前を変え、その全貌を現した。今回は、世界最初の学術研究都市として知られる、アカデムガラドクの研究者リュドミラを紹介する。 |
左:アカデムガラドク建設指導者ラブレンティエバ博士 右:遺伝生物学研究所 シベリアの首都ノボシビルスクにある、アカデムガラドク(アカデミータウン)は、40以上のロシア国立研究所が立ち並ぶ、学術研究都市だ。アカデムガラドクは、1957年、当時のソ連科学アカデミーのリーダーの一人であったラブレンティエフによって建設された。彼は、国家建設および人類発展の基礎は科学である、として、科学研究を目的とした都市の建設を説いた。彼に賛同した科学者が、自ら、シベリアのノボシビルスクに集まり、学術研究都市の設計と建設を行った。 アカデムガラドクが建設された地域は、ノボシビルスク郊外にある原生の森で、野生の熊が住んでいるようなところだった。アカデミータウンは森を切り開いてではなく、森の中に建設されたようだ。主な道路や建物が設計されただけでなく、建物と建物を結ぶ森の小道も合理的に設計された。神秘的な森の中に必要最小限の幅をもつ途が開かれ、交差部分には特徴的な白樺や松の木が残され目印とされた。今は大木となった途の両側の白樺と松の並木も、当時の人の手によって植林されたものだ。 科学者達ははじめ、ノボシビルスクの町に一つの建物を建設し、建物のそれぞれの部屋を様々な分野の研究室とした。その後、アカデムガラドクの道路と建物の建設が進むと、研究室はひとつの部屋からひとつのフロア全体に拡張され、やがてそれぞれが独立の建物を持つようになった。研究所といっても、研究用の書籍や機器があるわけではない。科学者達は、自分たちの職場の建設と研究機器の開発、本来の研究を同時にこなさなければならなかった。 モスクワの快適な生活と研究環境を捨てて、おそらく家族とも分かれて、シベリアに来たソ連のトップレベルの科学者達。彼らがどんな思いでシベリアに住んでいたのかかは想像する他ないが、「新しい学術都市の建設」という共通の目的とともに「科学が拓く人類の未来」をめぐって毎晩のように議論が交わされたことであろう。高度な専門知識をもって、分野の壁を越えて侃々諤々(かんかんがくがく)議論する、彼らの熱気を冷ますには、やはりシベリアの冷気がふさわしかったのかもしれない。 彼らは、アカデムガラドクに、日常生活に必要なショッピングセンター、娯楽場(ボーリング場やカジノ)、映画館、体育館、プールなどを配しただけでなく、「海」も造った。地元で「海」と呼ばれる「オビ湖」は、オビ河をせき止めて造ったダム湖で、岸辺には外部から持ち込んだ「浜辺の砂」でビーチを作り、松の木を配し、ヨットハーバーもある。潮の香りがないだけで、全く本当の海のようだ。 |
1958年、当時、モスクワ大学の神経細胞学の学生だったリュドミラ・ニコラエブナ・トルットは、遺伝学者ベリャーエフのセミナーに参加した。テーマは、「野生動物が人間に順応し家畜化されたプロセス」を解明すること。リュドミラは、大学卒業後、ベリャーエフの研究に従事するため、シベリアに設立されたばかりの「細胞・遺伝学研究所」に行くことを決意した。もちろん当時、研究所は建物も研究器材もなく、研究所の建設と研究活動が並行で進められていた。 40年以上の研究生活をアカデムガラドクで過ごし、家庭も持ったリュドミラだが、今でもシベリアの生活に馴染めず、モスクワを思い、望郷の念に打ち震える、という。なぜモスクワに帰らなかったのか、と問うと「動物が好きで研究がおもしろかったから」と言う。「転職など一度も考えたことがない」と言うが、そういう時代でもあったのだろう。 しかし、リュドミラがシベリアに来て1年後、師のベリャーエフは研究所から追放されてしまった。当時、ソ連の科学界では、「遺伝学は学問ではない」という風潮があり、ベリャーエフは迫害されたのだ。幸い、研究所自体の存続は許され、リュドミラは研究を続けることができたが、延べ数千頭のキツネの飼育費用の捻出は常に大きな問題で、研究者が無給で働いたときもあったそうだ。 |
威嚇するキツネ じっとするキツネ 甘えるキツネ 待ち焦がれた後、狂喜するキツネ |
ベリャーエフと彼女の研究は1959年に始められた。研究の目的は「家畜化プロセスの解明」だが、その手法として、「遺伝的な」というよりは「ふるまい」による選別を行った。実験個体として、エストニアやアルタイの毛皮用キツネの飼育場から、30頭の雄ギツネと100頭の雌ギツネが選ばれた。実験では、誕生した子ギツネをテストし、「生まれつき人間に慣れている個体」を選択し交配した。キツネは一生をカゴの中ですごし、人間との接触は給餌のときのみとし、人間による訓練は一切行われなかった。「人に馴れる」かどうかのテストは次のように行われた。 生後1〜6、7ヶ月、性的成熟前の選別テスト:人間になでられたり、抱かれた状態で、人間の手から餌を取る。テストは毎月、カゴの中と、他の子ギツネがいる部屋の中という二つの異なった環境下で繰り返された。 このテストにパスした個体が、生後6,7ヶ月、性的成熟後の選別テストに回された。成熟後のテストで、キツネは次の三つのレベルに分類された。
V:人間から逃げる、触られると噛む(このレベルでも、人間から手渡しで餌をもらうので、野生のキツネよりはよっぽど馴化しているといえる) 選別交配の6代目から、さらに厳しいテストを追加し、IE(エクストラ)のレベルが追加された。 IE:人間との接触を切望し、人の気を引くためキーキー鳴き、人の臭いをかぎ、なめたがる。 このテストをパスした個体は「エリート」と呼ばれた。エリートクラスのキツネは、実に生後1ヶ月前からこの「人間馴化」の兆候を示した。
交配10代目、18%がエリート このような交配の結果、注目すべき身体的変化も現れた。8〜10代目、毛色の変化−特定部分、特に顔面に白い色素の抜けた部分が現れた(犬や牛、馬などでも家畜化によって生じたことが知られている)。耳がやわらかく垂れるようになった。15〜20世代以降、尻尾と足が短くなった。頭蓋骨に占める顔の割合が大きくなった。 このような変化は、形質による交配でなく振る舞いによる交配によって現れた。これはメンデルの遺伝法則に従わない。このような身体的変化は「発達遅延」によって起こると考えられている。「柔らかい耳」は子供の象徴だし、白い斑点はメラニン細胞が未発達で色素が合成されないことを意味する。 ベリャーエフの実験開始から40年、4万7千頭のキツネの実験を通じて、現在、ニ百頭のユニークなエリートギツネが存在している(1995年には六百頭いたが、その後の経済危機のため削減された)。これらは一風変わった動物だ。従順で教えやすく、人を喜ばせたがり、人に馴れている。彼らの振る舞いは、まさに犬のようで、外敵から人を守り、きゃんきゃん鳴き、名前を呼ぶと何処にいても犬のように舞い戻り、すまし顔で主人の側に座る。 狼から犬への移行は数世紀を経て実現したが、ここのキツネの家畜化は40世代で実現した。 |
ノボシビルスクでは、5月に入っても底冷えと湿った雪が続き、厳しい冬に消耗した人々の顔を曇らせていた。「労働と協調」のパレードにはじまる5月の連休(5月1日から10日)が明ける頃、天気も回復し、あっという間に雪が消え春が萌え出した。そんな春の日の5月12日、私は、キツネの飼育場を見学した。 あるキツネは、人間を見ると警戒して興奮し、歯をむき、飛びかかり噛み付こうとする。別のキツネは、ケージの隅にうずくまり、耳を伏せ歯を向き、防御の姿勢だ。 その隣りのケージでは、キツネは人間に近い側に寄り、ごろごろと従順の姿勢。人に触られるとじっとしている。 更に進むと、だんだん騒がしくなってくる。キツネは人間の姿を見ると、キーキー鳴き、尻尾をふり、カゴの中を興奮して走り回る。カゴを明けると、逃げるでもなく、人にすりよって身を投げ出し、口をはぐはぐしている。 一番かわいそうなのは、他のキツネが愛撫されているのを見るだけで嫉妬に狂うほど「人間好き」のキツネたち。人の気を引こうと遠くから哀しい声で訴えている。人と触れ合うと、歓喜にあふれ、恍惚とした表情。 飼育場の入り口から奥に向かって、だんだんに「馴化」の進んだキツネのケージが置かれている。今私が目にしているものは、まさに「野生動物が人間に順応し家畜化されたプロセス」だ。40代近い選択交配によって、このような「人間好きな生物」が現れる、ということを目の当たりにすると、感動とともにぞっとさせられる。 ここで得られたキツネは、人間との交流が無いにもかかわらず、生まれつき人間に馴れ、人間を求めている。私のような全くの部外者に対しても、愛情いっぱいの表情で接触を求めてくる。人を愛し、人との接触を喜びとするキツネが誕生したのだ。 |