September 22, 2009
悲しい意識と言辞
一昨日(9/20)の深夜から昨日(9/21)未明にかけて,mixiのコミュで知り合ったメンバーで深夜の都心を走るポタに参加し,早朝に帰宅後,昼夜逆転に近い状態であったが,今日は昼頃に目が覚め,ぼちぼち動き出した。そうした中メ−ルをチェックしていたら,一通のメールに目を疑わされた。
疋田智の「週刊 自転車ツーキニスト」というメールマガジンの,今日配信された最新号・飯倉片町交差点で見た悲しい光景の367号において,偶然見かけたという自転車に乗った集団を「暴走族」とレッテル貼りして悲憤慷慨しているのだ。
この「自転車の集団」がどこからやってきてどこへいったのかについてはいっさい触れられていない。もっとも「猛スピードで」というのであれば,上り坂になる方向は可能性が低いが。また,「飯倉片町の交差点」は上に首都高速道路の高架があって,下の一般道は暗く,通行人の顔などは判りにくいので「乗っているのは皆、若者だ」とするのも疑問だ。
つけ加えるなら,今日においては「若者」と「暴走族」は,結びつきにくく,矛盾すると言ってもいい。今日の「若者」は,男女交際禁止とか軍隊や体育会のような厳しい上下関係といった規律や,暴力団への上納金といった負担を嫌って,「暴走族」に加入したがらず,本来であればとうの昔に「卒業」しているはずの成年がほとんどをしめ,中には中高年すらいるという。
さらに高架とその橋脚や下道の形状から,信号や対向車の動きが見づらく,「赤信号」が見えづらかったり何にたいしてのものか判りづらかったりするので,件の集団の確信犯的な信号無視か,見落としか,この人物や他の人車の誤解によるものかは,一概に判断できない。ともあれこの人物の言を鵜呑みにするのは危険だ。
この飯倉片町交差点は,平素もよく通るし,21日未明にも通ったが,信号と左右確認の難しさは,人車各々にある上,外苑東通りを六本木方面からくれば,東京タワー(夜間ならイルミネーション)が正面に見えるのだが,もし彼らがその方向で走っていたのなら,それに目を奪われることも考えられよう。
しかしながら,連休中とはいえ,政権交代の影響で霞ヶ関や永田町では動きがあり,本国のカレンダーで動く外国公館に至ってはもとより関係のないこと故に,それらにたいするなにがしらのアピールや抗議の類であった可能性も否定できない。
抗議やアピールのためにこうした行動をとれば,第三者には判らなくとも,当事者・関係者であれば何についてのものであるか判る上,政治的弾圧を受ける可能性は低くなる。非明示的な抗議行動といえば,死者・犠牲者追悼の体をとった抗議行動であるいわゆる「お焼香デモ」が想起されるが,これもまたその一種かも知れない。
かかるものにたいしては,思想信条の自由や集会結社の自由を保障した日本国憲法のもとで,直接弾圧することは難しいので,一見それと関係ない法規を用いる。交通法規はその手段としてとりわけ多く使われている。何年か前,自衛隊官舎に反戦ビラを投函したとして市民運動家が逮捕されたが,その直接の容疑は,ビラ入れの半年ほど前に赤信号の横断歩道を渡ったとする道路交通法違反なるものであったというのも,その一例だ。
適用範囲が広く,恣意的解釈の余地が大きいほど,政治的利用はしやすい。微罪なものであっても,口実が作りやすく証拠集めや手続も簡単なので,その分利用しやすくなる。その点で,交通法規の濫用は警戒すべきものだ。
可能性でいうなら,政治的理由(その立場や趣旨は色々考えられよう)のほか,自転車利用,とりわけ公道上の自転車通行の利便向上を訴えるものであることも考えられるが,その内実や方法を支持・共感できなかったとしても,かようにレッテル貼りして罵倒するのはいかがなものか。いい大人ぶりたければ,心の中で嘲笑していればいいことだ。むしろそれによって,この人物や彼が関係する団体のいうところの,自転車および利用者の「市民権」なるもの限界を,みずから明らかにしているのではないか。
その問題性を端的に示しているところを拾ってみると;
「自転車を都市交通に活か」すなかで「ママチャリ」を除外するというのだが,そこにはどのような問題があるだろうか?
都市交通における自転車利用は,いうまでもなく通勤・通学や買い物その他日常的な移動全般にわたるものであり,目的はもちろん,移動距離の長短,その担い手も老若男女さまざまで,体力・経済力その他の要件にも大きな違いがある。そうした多様な自転車及び利用者のありようを,まずもって前提として認識しなければならない。
「ママチャリ」という用語の内実についてここでは触れていないが,対概念的に「スポーツバイク[全般]」以外をさすと文脈上理解できるほか,この人物や関係する団体のこれまでの言説から,おもに低廉粗悪な自転車をさすものと考えられる。どのような形態の自転車であれ,自傷他害の可能性があるような品質ものについては,道路と市場から排除されるべきことと,「ママチャリ」のなかにかかるものが含まれる割合が高いことを,否定するものではない。
「ママチャリ」という語には,子どもを乗せる自転車,女性が乗る自転車という意味でも使われる。子どもを乗せる補助いすの有無にかかわらず,ほぼ全てのそれは,スカートをはいたままでも乗れるスタッガードフレームだ。「ママチャリ」を除外するなかで,かかる自転車利用のニーズと担い手にたいする認識が欠落してしまっているわけだ。
子どもを乗せる自転車に関しては,子育て支援の観点から,その規制に反対する声が上げられたことがあったが,この人物や関係する団体がそれに与したことはなかった。のみならず女性の自転車利用一般に関しての認識を欠如させていないかと,大いに疑問を持たざるを得ない。
「このメルマガの読者層は、30代から60代までの男性が中心だ」とのことだ。その層に立脚した方向性となったのか,かかる認識の欠落・欠如が,こうした層へと収斂させていったのかは判らないが,ともあれこれは,自転車利用に関するジェンダー的視点の欠落といわねばならない。
自転車とジェンダー,これだけでひとつのテーマになることだから,詳しくは別稿にゆずることにしよう。
そして今ひとつの大きな問題は,上述の箇所をとらえ返してもその一端は理解できるであろうが,全体を通して,「強者の論理」となっていることである。「30代から60代までの男性」,「スポーツバイク[全般]」が,自転車および利用者全体の中でどのような位置・位相にあるだろうか。体力・経済力の両面において「強者」であることに,詳しい説明は必要ないだろう。
一方で,歩行器代わりに自転車を利用する高齢者,車いすや杖と併用して自転車で外出する障碍者も自転車利用者だ。こういった姿を,別のヴォランティア活動でも少なからず見聞してきた。
自転車を利用することで,自分の力を大いに発揮し,自由意志に基づいて移動し,それに楽しみを見いだし,喜びを感じることは,全ての自転車利用者が,それぞれの利用方法とニーズの中で,享受すべき権利である。
自転車に市民権をというのであれば,その多様性を包摂した普遍的なものでなければならない。哲学では理性的,法思想上では自然法的と言い換えてもいい。個々人のレヴェルに即していえば,ライフステージに応じた利用方法を追求することであり,その実現によって自転車を「人生をともにする道具」,「人生のパートナー」とできるのだ。
別サイト都市生活改善ボランティアも参照ください。近々一挙大幅更新・追加予定。
9月21日、午後8時40分頃、飯倉片町の交差点(ロシア大使館近くの大交差点ですね)を、30台、いや40台もあろうかという自転車の集団が、赤信号を猛然と突っ切っていくのだ。ピストとロードが半々くらいだろうか。乗っているのは皆、若者だ。
連休中とはいえ、クルマ通りだってある。タクシーや一般車両が、驚いてキキッと停まるのを尻目に、いずれも猛スピードで目の前を通過していく。……これではタダの暴走族である。……こんなのはドライバーの反感をかうだけだし、実際に危ないし、自転車の地位を徒におとしめるばかりだ。
この「自転車の集団」がどこからやってきてどこへいったのかについてはいっさい触れられていない。もっとも「猛スピードで」というのであれば,上り坂になる方向は可能性が低いが。また,「飯倉片町の交差点」は上に首都高速道路の高架があって,下の一般道は暗く,通行人の顔などは判りにくいので「乗っているのは皆、若者だ」とするのも疑問だ。
つけ加えるなら,今日においては「若者」と「暴走族」は,結びつきにくく,矛盾すると言ってもいい。今日の「若者」は,男女交際禁止とか軍隊や体育会のような厳しい上下関係といった規律や,暴力団への上納金といった負担を嫌って,「暴走族」に加入したがらず,本来であればとうの昔に「卒業」しているはずの成年がほとんどをしめ,中には中高年すらいるという。
さらに高架とその橋脚や下道の形状から,信号や対向車の動きが見づらく,「赤信号」が見えづらかったり何にたいしてのものか判りづらかったりするので,件の集団の確信犯的な信号無視か,見落としか,この人物や他の人車の誤解によるものかは,一概に判断できない。ともあれこの人物の言を鵜呑みにするのは危険だ。
この飯倉片町交差点は,平素もよく通るし,21日未明にも通ったが,信号と左右確認の難しさは,人車各々にある上,外苑東通りを六本木方面からくれば,東京タワー(夜間ならイルミネーション)が正面に見えるのだが,もし彼らがその方向で走っていたのなら,それに目を奪われることも考えられよう。
しかしながら,連休中とはいえ,政権交代の影響で霞ヶ関や永田町では動きがあり,本国のカレンダーで動く外国公館に至ってはもとより関係のないこと故に,それらにたいするなにがしらのアピールや抗議の類であった可能性も否定できない。
抗議やアピールのためにこうした行動をとれば,第三者には判らなくとも,当事者・関係者であれば何についてのものであるか判る上,政治的弾圧を受ける可能性は低くなる。非明示的な抗議行動といえば,死者・犠牲者追悼の体をとった抗議行動であるいわゆる「お焼香デモ」が想起されるが,これもまたその一種かも知れない。
かかるものにたいしては,思想信条の自由や集会結社の自由を保障した日本国憲法のもとで,直接弾圧することは難しいので,一見それと関係ない法規を用いる。交通法規はその手段としてとりわけ多く使われている。何年か前,自衛隊官舎に反戦ビラを投函したとして市民運動家が逮捕されたが,その直接の容疑は,ビラ入れの半年ほど前に赤信号の横断歩道を渡ったとする道路交通法違反なるものであったというのも,その一例だ。
適用範囲が広く,恣意的解釈の余地が大きいほど,政治的利用はしやすい。微罪なものであっても,口実が作りやすく証拠集めや手続も簡単なので,その分利用しやすくなる。その点で,交通法規の濫用は警戒すべきものだ。
可能性でいうなら,政治的理由(その立場や趣旨は色々考えられよう)のほか,自転車利用,とりわけ公道上の自転車通行の利便向上を訴えるものであることも考えられるが,その内実や方法を支持・共感できなかったとしても,かようにレッテル貼りして罵倒するのはいかがなものか。いい大人ぶりたければ,心の中で嘲笑していればいいことだ。むしろそれによって,この人物や彼が関係する団体のいうところの,自転車および利用者の「市民権」なるもの限界を,みずから明らかにしているのではないか。
その問題性を端的に示しているところを拾ってみると;
今ようやく芽生え始めたばかりの「自転車を都市交通に活かそう」という動き、それも「ママチャリ以外の自転車にこそ未来がある」という認識が、元の木阿弥になってしまう。
「自転車を都市交通に活か」すなかで「ママチャリ」を除外するというのだが,そこにはどのような問題があるだろうか?
都市交通における自転車利用は,いうまでもなく通勤・通学や買い物その他日常的な移動全般にわたるものであり,目的はもちろん,移動距離の長短,その担い手も老若男女さまざまで,体力・経済力その他の要件にも大きな違いがある。そうした多様な自転車及び利用者のありようを,まずもって前提として認識しなければならない。
「ママチャリ」という用語の内実についてここでは触れていないが,対概念的に「スポーツバイク[全般]」以外をさすと文脈上理解できるほか,この人物や関係する団体のこれまでの言説から,おもに低廉粗悪な自転車をさすものと考えられる。どのような形態の自転車であれ,自傷他害の可能性があるような品質ものについては,道路と市場から排除されるべきことと,「ママチャリ」のなかにかかるものが含まれる割合が高いことを,否定するものではない。
「ママチャリ」という語には,子どもを乗せる自転車,女性が乗る自転車という意味でも使われる。子どもを乗せる補助いすの有無にかかわらず,ほぼ全てのそれは,スカートをはいたままでも乗れるスタッガードフレームだ。「ママチャリ」を除外するなかで,かかる自転車利用のニーズと担い手にたいする認識が欠落してしまっているわけだ。
子どもを乗せる自転車に関しては,子育て支援の観点から,その規制に反対する声が上げられたことがあったが,この人物や関係する団体がそれに与したことはなかった。のみならず女性の自転車利用一般に関しての認識を欠如させていないかと,大いに疑問を持たざるを得ない。
「このメルマガの読者層は、30代から60代までの男性が中心だ」とのことだ。その層に立脚した方向性となったのか,かかる認識の欠落・欠如が,こうした層へと収斂させていったのかは判らないが,ともあれこれは,自転車利用に関するジェンダー的視点の欠落といわねばならない。
自転車とジェンダー,これだけでひとつのテーマになることだから,詳しくは別稿にゆずることにしよう。
そして今ひとつの大きな問題は,上述の箇所をとらえ返してもその一端は理解できるであろうが,全体を通して,「強者の論理」となっていることである。「30代から60代までの男性」,「スポーツバイク[全般]」が,自転車および利用者全体の中でどのような位置・位相にあるだろうか。体力・経済力の両面において「強者」であることに,詳しい説明は必要ないだろう。
一方で,歩行器代わりに自転車を利用する高齢者,車いすや杖と併用して自転車で外出する障碍者も自転車利用者だ。こういった姿を,別のヴォランティア活動でも少なからず見聞してきた。
自転車を利用することで,自分の力を大いに発揮し,自由意志に基づいて移動し,それに楽しみを見いだし,喜びを感じることは,全ての自転車利用者が,それぞれの利用方法とニーズの中で,享受すべき権利である。
自転車に市民権をというのであれば,その多様性を包摂した普遍的なものでなければならない。哲学では理性的,法思想上では自然法的と言い換えてもいい。個々人のレヴェルに即していえば,ライフステージに応じた利用方法を追求することであり,その実現によって自転車を「人生をともにする道具」,「人生のパートナー」とできるのだ。
別サイト都市生活改善ボランティアも参照ください。近々一挙大幅更新・追加予定。