南北共同宣言と統一教会

 将来の統一も視野に入れた歴史的な南北共同宣言が6月14日に発表された。55年間も続く分断国家である韓国と北朝鮮。紆余曲折を経ながらも、ようやくここにまでたどりついたことは、21世紀初頭のアジア情勢に多大なる影響を与えることは確実だ。ただしその実現には重く高い条件がある。この共同宣言を、文字通り「宣言」に終わらせることのない政府当局者の実行力が果たしてあるのか。
 私は懐疑的だ。昨日まで「独裁者」とのイメージで報じられていた金正日総書記が、テレビ映像で笑顔を振りまき、多弁な実像を見せたからといって、一転「平和の使者」であるかのような報道に違和感を感じないだろうか。金総書記が空港まで金大中大統領を出迎えたパフォーマンスを北朝鮮国内で報じたのは6時間後。しかも世界中に報じられた金総書記の肉声も国内ではとうとう伝えられることはなかった。
 内政と外交は結びついている。21世紀に入ろうという時代に、社会主義を唱える国家の最高指導者が世襲制。しかも国民に多数の餓死者が生まれ、政治犯収容所が存在することが国際問題となってからでも久しい。日本との関係でいえば拉致疑惑もある。外交(外圧)が内政に変化を与えることは容易ではないだろう。儒教社会主義あるいは封建的社会主義が近代化するにはあまりにも多くの課題が山積しているからだ。
 ここで検討する北朝鮮と統一教会(正式名称は世界基督教統一神霊協会、文鮮明教祖)との深い関係も、あまり知られてはいない。全体的かつ歴史的構図を描くのは機会を改めるとして、いま明らかにするのは南北首脳会談が行われることになった経緯のなかでの統一教会の役割である。
統一教会のナンバー2である朴普煕(金剛山国際グループ会長、韓国「世界日報」社長)が、朴相権(金剛山国際グループ社長)とともに北朝鮮の黄海側にある南浦市を訪れたのは今年2月3日のこと。南浦市は朝鮮労働党作戦部で最大規模の対南出撃基地となっている土地だ。この日、ここで平和自動車の着工式が行われた。朴相権は、この会社の社長でもある。
 統一教会がこの会社を北朝鮮で経営する経過は、91年12月6日にさかのぼる。韓国政府にも極秘で北朝鮮に入った文鮮明と朴普煕は、この日、金日成主席と会談。そこでは離散家族の再会問題、核視察受け入れ問題とともに南北首脳会談についても話し合われている。さらには経済問題も協議され、次のような合意が成立した。
「海外僑胞をはじめとするすべての国家の対北朝鮮経済投資を歓迎し、軍需産業を除外した北朝鮮の平和的経済事業に統一グループが支援する大原則に合意した」
 この会談で文教祖側から持ち出されたのが、ホテル経営や金剛山開発だった。北側は受け入れの条件として1億5千万ドルの献金を求めたが、統一教会側は35億ドルの援助を約束したという。こうして実現したのが平壌にある普通江ホテルの経営だ。安山通りにあるこのホテルは73年に建築され、9階建て、約170室を持つ。統一教会が経営をはじめたのは93年11月から。
 金日成―文鮮明会談で合意したのは、ホテル経営だけではなかった。たとえば文教祖が生まれた定州の生家跡を平和記念公園にすること(ただし万景台にある金日成の生家より大きくしてはならないとの条件がある)、平壌に統一教会の施設を建築すること、そして自動車工場を経営するという課題である。今回、南浦で着工式が行われたのも、91年合意の一環だった。 
 統一教会が北朝鮮で自動車工場を経営することは「金日成主席の時代からの悲願だった」(統一教会幹部)。ところがこの計画が実現するまでには大きな困難が待ちかまえていた。金剛山観光への統一教会の関与もふくめて韓国政府の許可が降りなかったからだ。しかし韓国に金大中政権が成立、北朝鮮に対していわゆる太陽政策が進むなかで自動車工場経営も容認されるに到った。
 平和自動車では部品を日本から輸入し、北朝鮮の国産品としてトラック、バスを製造することになった。実は2月3日に行われた着工式に出席した朴普煕と朴相権は、その足で金正日総書記側近で、6月14日に行われた第2回南北首脳会談では金正日総書記にただ一人付き添った金容淳書記と会談している。
 金容淳書記は1934年生まれで、金日成総合大学を卒業し、モスクワ大学に留学、統一戦線事業担当の党書記として活動。アジア・太平洋平和委員会委員長を歴任。南北統一問題に長年関わってきた。一方、朴相権・平和自動車社長は1950年生まれの統一教会幹部で、北朝鮮への渡航歴が34回ある。この2月の会議で話し合われた主要テーマが南北首脳会談についてだった。その内容が韓国政府に伝えられたのである。そこから一挙に南北首脳会談の開催へと進んだことは注目してよい。
 朴相権は韓国で発行されている『時事ジャーナル』(5月4日号)のインタビューにこう答えている。
「北朝鮮の人と会って話していて、金大中大統領の任期が半分を切れば北朝鮮側は首脳会談には関心を持たないだろうと感じた。米国との関係もクリントン大統領がレイムダックに陥ってから北朝鮮側は積極的でなくなった。従って、大統領の任期が半分を切ってしまえば、今年6月まで、あるいは今年中に首脳会談を開かないと、永遠に機会を失うかもしれないと切実に思っていた」
 だが韓国政府側は懐疑的だった。朴相権は政府の反応について語っている。
「当時、韓国政府内には離散家族の再会や面会所の設置、インフラ支援など段階的にやるべきだとの意見が多かった。それで、私はス首脳会談さえ実現すれば、そうした問題はいっぺんで解決できると強調した。金日成主席ならいざしらず、金正日委員長が受けるかと質問されたので、私は現代財閥の実例を上げた。鄭周永名誉会長も会っているのに大統領が会えない理由はないと」(翻訳は『KOREA REPORT』、NO400)
 南北首脳会談が実現するまでの経緯には、統一教会幹部が密使として動いていたのである。もちろんその背景には、文鮮明教祖が北朝鮮の出身であること、いずれ北で国際合同結婚式を行ないたいという願望がある。その規定的イデオロギーが「勝共」つまり共産主義に勝利することにあることにも変化はない。北朝鮮の経済的苦境は、国際的謀略組織という側面も持つ統一教会の浸透をいとも容易に許すほどにまで追い込まれている。

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