【質問】

浦和教区長であるマルセリーノ谷司教様が1017日に発表した「日朝国交正常化と真の和解と平和を求めるメッセージ」についてどう思うか。

 

 

【お答えします。】

 

王たるイエズス・キリスト

 

イエズス・キリストは、天主の永遠の御言葉であって、「全ての被造物の長子」(コロサイ115)、天にあるもの地にあるもの、見えるもの見えないもの、玉座も主権も権勢も能力も、みなイエズス・キリストによって、イエズス・キリストのために創られました。

私たちの主イエズス・キリストは、全ての在るものの上に立つ王であり、「全てにおいて第1のもの」(コロサイ118)です。イエズス・キリストは「万物の先に存在し、万物は彼によって存在する」(コロサイ117)のであり、森羅万象はイエズス・キリストの命令の下にあります。

私たちの主イエズス・キリストは「アルファでありオメガであり、最初のものであり最後のもの、始めであり終わりである」(黙示録2213)方です。全ては、私たちの主から来て、私たちの主に帰らなければなりません。

 

 天主によって創られた全宇宙は、全て王たるキリストの栄光のために秩序づけられ、全て王たるキリストを通して、至聖にして不可分の三位一体の賛美となっています。天主によって創造された全ては光に満ち、秩序があり、位階があり、調和に満ちています。

 

 私たちは、何故天主が「罪」がこの世に存在するのを許し給うのかその理由を全て把握しつくことは出来ません。しかし、天主がある理由によってお許しになる「罪」というものだけが、この調和を崩し、秩序を覆し、一時的に光を暗くすることが出来ます。悪魔に誘われた私たちの原祖は「善と悪を知る天主のようになる」ことを望み、不従順と反逆的な人祖は、天主に罪を犯しました。

 

 この地上には罪によって死と苦しみが入り、こうしてこの世は、光と闇の戦い、善と悪との戦い、イエズス・キリストとベリアルとの戦いの場となりました。

この戦いは、休戦も情け容赦もないもので、暗闇の勢力は、全力を尽くして王たるキリストの手から被造物を奪い去り、自分の配下におこうと虎視眈々とねらっています。

 

全創造と全人類の歴史の中心は、王たるキリストです。しかし、イエズス・キリストが世界史の主要なテーマであり、その原動力であるということは、最後の審判の日に完全にその意味が明らかになることでしょう。代々に亘る不死の王イエズス・キリストとそれに関わる全ての神秘は、「稲妻が東から西へとひらめき渡り」(マテオ2427)、全人類を裁くために「人の子が勢力と大いなる栄光を帯びて空の雲に乗り、来るのを見る」(マテオ2430)時、私たちに明らかになるでしょう。

 

全ての人を照らす真の光イエズス・キリスト

 

 天に人の子の印が輝きわたらない時、この世は光を失います。「全ての人を照らす真の光」(ヨハネ19)が輝かない時、太陽も月も星も何の役にも立ちません。見ても見えず、聞いても理解できません。

イエズス・キリストのない世界は、太陽の輝かない地上のようであり、全てに死の陰が覆います。天主の御言葉であるイエズス・キリストによって「万物は・・・創られた。創られたもののうち、一つとして御言葉によらずに創られたものはない。御言葉に生命があり、生命は人の光であった。光は闇に輝いたが、闇はそれを悟らなかった」(ヨハネ135)のです。

 

 天主は約束されたように御子を遣わし、本性によって天主である御子は人となり、救い主かつ贖い主として今から2002年前にベトレヘムで童貞女マリアから生まれました。しかし、20世紀を過ぎた現在、この王たるキリストがよく知られ、愛されているわけではありません。イエズス・キリストこそがこの世の贖いであり、全ての霊魂と家庭と国々にとって命であること、王たるキリストこそが全ての社会のかしらであり、中心であるべきである真理は、残念ながらほとんど知られていません。

王たるキリストは、太陽の光のように、この世に、諸国家に、諸民族に、全ての家庭と霊魂たちに、燦然と輝き、人々の社会生活と思想と仕事に直接良い影響を与えなければならないのに、人々は死の暗闇の中に座ったままです。私たちは、キリスト不在の、冷たい霊的な闇夜の中に生きています。

 

闇の時代

 

 私たちの指導者たちは、昼と夜との区別が付かなく、また、真理と誤謬、道と断崖絶壁の違いが分からず、それを見ようともしません。人類の大部分がこのように右も左も分からない状態です。天に人の子の印を見ることを拒んでいるからです。王たるキリストが道を教えることを拒んでいるからです。それはキリスト教への迫害であり、現代世界では、この罪は自由主義とか、宗教的中立主義とか、政教分離とかと呼ばれています。

 

 ほとんどの国々の憲法によれば、議会において、政府において、裁判所において、学校において、職場において、イエズス・キリストは公式に何も言うことができず、完全に黙殺されています。イエズス・キリストは創造主であり、保護者であり、救い主であり、全宇宙の所有者であり、全被造物に命ずる王であるにもかかわらず、全社会は一丸となって、イエズス・キリストを霊的な君主として認めることを拒んでいます。

 

かつて聖金曜日に天主を殺したように、現代人々は聖金曜日と等しい恐るべき罪を犯しています。天主を公的な場所から抹殺するという罪です。王たるキリストなしに、世界と社会を築き上げようとすることです。

 

 この罪は、1517年宗教革命の時に、聖書を手にして公に行われました。私たちの母なる公教会を不要であるとし、教会の権利を踏みにじり、人間を全て教皇たちであるかのように崇めたてまつったからです。その時、何百万という人の霊魂が失われました。

 

 この罪は、1789年フランス革命の時に、人権宣言を手にして公に行われました。私たちの王イエズス・キリストを、公的生活から追放し、天主の権利を踏みにじり、人間を神々の如く崇めたてまつったからです。それ以来、何百万という人の血が流されました。

 

 この罪は、1917年ボルシェビキ革命の時に、公に行われました。人間の人間による人間のための政治は、国を地上の地獄に変え、人間を共産党の奴隷に変えてしまいました。ソ連は、共産理論適応の最初から経済的に破産し、人口は激減し、何千万という人は飢餓と追放と虐殺のうちに亡くなっていきました。

 

カトリック教会は、1517年の宗教革命の時も、1789年のフランス革命の時も、1917年のボルシェビキ革命の時も、声高らかにその革命の原理を排斥しました。これらの人類を不幸にした革命の本質は、天主を忘れ、無視した世界を作ろうという天主に対する革命だったからです。

 

教会は、キリストにならい、あらゆる世紀を通じて、万人に善を施してきました。もし、諸民族、諸国家の長たちが、教会の教えとその母心の警告をあなどらなかったならば、社会主義も共産主義も生まれなかったにちがいありません。けれども、かれらは、自由主義と俗化主義との土台の上に、他の社会的建物を築こうと考えたのです。これらの建物は、最初、強力かつ偉大に思われましたが、しかし、まもなく、堅固な土台を欠いていることが明らかになりました。これらの建物は、みじめにも、次から次へと崩壊して行っています。唯一の親石であるイエズス・キリストの上に築かれていないすべてのものは、宿命的に崩壊せざるをえないからです。

 

 

共産主義に対するカトリック教会の立場

 

共産主義に対してカトリック教会の立場は明白です。共産主義の危険を前にして、カトリック教会は、沈黙することができなかったし、事実、沈黙を守りませんでした。そして、使徒的聖座は、声明を発することを怠りませんでした。聖座は、真理、正義、および、共産主義によって否定され攻撃されているあらゆる永遠の善を防衛する使命をおびているからです。

 

共産主義は、唯物論の弁証法的側面を強調して、紛争は世界を究極の綜合に向かわせると主張します。ですから、人間の努力によって紛争を促進するべきだと主張します。それゆえ、かれらは、社会の種々の階級のあいだに生ずる反目を激化するよう努力しています。共産主義によれば、階級闘争とその憎悪と破壊とは、人類の進歩のための十字軍のように見なされています。これに反して、この徹底した暴力に反抗するあらゆる力は、その性質のいかんを問わず、人類の敵として撲滅しなければならない、と共産主義は言います。

 

共産主義においては、人間のペルソナは、機構のなかのひとつの歯車にすぎません。人間相互の関係については、絶対的平等を主張し、天主によって立てられた階級と権威とをことごとく放棄します。両親の権威さえも放棄します。共産主義によれば、人間のあいだに存する権威とか従属とか呼ばれるものは、集団に由来するものであって、集団こそ、その第一の、そして唯一の源なのです。共産主義によると、個人は、自然の資源もしくは生産手段に対するなんらの所有権も認められません。これらは他の財の源であり、これを私有するときは、人間の他の人間に対する支配を招くからです。ですから、共産主義によると、私的所有は、経済的奴隷制度の第一の源であるから、徹底的に廃止しなければならないことになるのです。

 

このような共産主義理論からすれば、人間の生命には神聖な特質、精神的特質はみとめられないことになります。それで、結婚や家族も、必然的に、特定の経済体系の果実であり、純然たる合意にもとづく民事的ものとなります。その結果、個人や集団のわがままをのがれる法、倫理的性質をもつ結婚の縁の存在は否定され、この縁の不解消性は放棄されます。とくに、共産主義は、婦人を家庭に結びつける特殊な縁は、全く認めていません。婦人解放の原理を宣言し、これを家庭生活と子供の世話とから引きはなし、男性と同じ資格で、公共生活と集団的生産労働とに投げこみます。そして、家庭と子供との世話は、集団に委ねるのです。最後に子供を教育する権利は共同体の独占的権利であると考え、これを両親から奪います。両親は、集団の名において、その代理者として、この権利を行使することができるにすぎないのです。

 

このような唯物論的諸原理の上に築かれた社会は、経済的機構の階級制度以外の階級制度をもたない集団となるにちがいありません。そして、その唯一の使命は集団労働による財の生産であり、その唯一の目的は、各人が「その力に応じて与え、その必要に応じて受ける」楽園において、地上の財を享楽することです。共産主義は、個人を集団労働のくびきのもとに束縛する権利、いなむしろ、自由裁量権を集団にみとめます。

 

共産主義は、集団が、個人の個人的福祉をかえりみることなく、かれらの意志に反して、必要とあらば暴力をもって、この権利を行使することができると言います。そうなれば、倫理的秩序も法的秩序も、現に動いている経済的機構の放射物にすぎなくなります。

 

要するに、共産主義者は、新しい時代を開き、盲目的な進化の結果である新しい文明、「天主のない人類」をはじめようと主張するのです。

 

最後に、集団的理想が、万人にとってひとつの現実となり、この進化のユートピア的な終末がおとずれ、社会には階級の相違がみとめられなくなったとき、今日プロレタリアに対する資本家の支配の道具となっている政治的国家は、その存在理由を完全に失い、「ひとりでに消滅する」にちがいない、と共産主義は言います。しかしながら、この黄金時代が到来するまで、共産主義は、国家と政治権力とを、その目的を達成するために、もっとも有効で、もっとも普遍的な手段と見なすのです。

 

これが、共産主義が救済と贖罪とのメッセージとして世界に告げようとする新しい福音です。これは、理性と天主の啓示とに反する誤謬と詭弁とにみちた体系であり、社会の根底そのものを破壊するがゆえに社会秩序を壊乱する理論であり、国家の真の起源、性質、目的をはじめ、人間のペルソナの諸権利、その尊厳、その自由を無視する体系です。

 

 

「共産主義は本質的に邪悪である」

 

共産主義に関しては、1846年、ピオ九世は、『シラブス』によって確認された荘厳な声明によって、これを誤謬と断定し、「共産主義と呼ばれるこの悲しむべき理論は、自然法そのものに、根本から反している。このような理論をひとたび受けいれるならば、あらゆる権利、制度、所有、および人類社会そのものまでも、全く崩壊するにちがいない」と述べています。

 

レオ十三世は、その回勅『クオド・アポストリチ・ムネリス』のなかで、共産主義を「人類の心髄をおかして、これを滅ぼす致命的なペスト」と定義しています。

 

レオ十三世は、さらに明敏にも、この技術的進歩の時代に、大衆が無神論におちいっているのは、そのもとをただすならば、数世紀前から、科学を信仰生活と教会生活とから分離しようと努めている哲学であることを示しました。

 

教皇ピオ11世は、回勅「ディヴィニ・レデンプトーリス」の中で次の警告を司教様たちに出しています。

「尊敬すべき兄弟たちよ、信徒が欺かれることのないように留意してほしい。共産主義は本質的に邪悪であって、キリスト教的文明を救いたいと望む者は、いかなる領域においても、これと協力することはできない。

 

ピオ11世は、共産主義に抗議しました。ピオ11世教皇は、回勅、『ミゼレンティッシムス・レデンブトル』、『クァドラゼジモ・アンノ』、『カリターテ・クリスティ』、『アチェルバ・アニミ』、『ディレクティッシマ・ノービス』『ディヴィニ・レデンプトーリス』において、ロシア、メキシコ、およびスペインにおいて勃発した迫害に対して、厳重な抗議を行ないました。

 

ロシアやメキシコ、スペインで、また中国、ベトナム、北朝鮮で、共産主義は、あらゆる手段を使って、キリスト教とキリスト教文明との根底までも破壊し、人々の心、とくに、青少年の心から、そのすべての追憶を消し去ろうと努力しました。司教、司祭はあるいは銃殺され、あるいは非人道的に処刑された。一般の信徒も、宗教を弁護したかどで嫌疑をかけられ、虐待され、追跡され、牢獄に引かれ、裁判所に引き出されました。共産主義は、暴虐をほしいままにし、できることなら、キリスト教のすべての教会、すべての修道院、そのすべての形跡をも、たとえ、それが、芸術的に、科学的に、どんな著名な記念物であっても、破壊しようとしたのです。

 

兇暴な共産主義者は、司教たちをはじめ、数千の司祭、修道者、修道女、しかも、他の人々よりも熱心に労働者と貧者のために尽くしていた者も殺したばかりでなく、さらに多数の信徒を、あらゆる階級にわたって殺戮しました。これらの信徒は、今日でも、善良なキリスト者であるという一事だけで、あるいは、少なくとも、共産主義の無神諭に反対したという一事だけで、毎日のように、殺戮されています。そして、この恐るべき破壊は、現代では可能とは思われないほどの憎悪、残虐、蛮行によって遂行されたのです。

 

このような残虐は、普通、あらゆる大革命にともなうー時的な現象、あるいは、あらゆる戦争に見られる偶発的な激越行為であると言うことはできません。これは、内的拘束をことごとく棄て去った体系の自然の結果です。人間の心から天主の観念が消えるときは、奔放な情欲は、これを駆って、もっとも野蛮な残虐行為に走らせるのです。

 

自然とその作者である天主とを踏みにじって、不都合をきたさないわけはありません。

共産主義はその目的を、純然たる経済的領域においてさえも、実現することができなかったし、将来においても実現することができないにちがいありません。私たちは、共産主義が、その約束したものを現実に達成しなかったことを知っています。その上、恐怖政治が、数百万の人間を奴隷状態におちいらせ、経済的領域においてさえ、倫理や倫理的責任感を無視することができないのですが、共産主義のような唯物論的体系においては、これに代わるものとして、恐怖政治があるだけです。そして、私たちはその実例を、現在北朝鮮で見せつけられているのではないでしょうか。しかも、この恐怖政治をもってしても、結局、道徳の腐敗を食いとめることができず、社会機構の崩壊を防止することができないのです。共産主義は実理と愛徳との不動の諸原理に土台をおく天主の掟のかわりに、人間の独断から発する憎悪にみちた党の政策を強制するとき、不法な僣奪を行なうのです。

 

そして、共産主義は暴力や非合法な手段を含むありとあらゆる手段を以て、この革命を全世界において遂行させようとしているのです。

 

北朝鮮の問題

北朝鮮の問題はここにあるのです。北朝鮮は、公に私たちの主イエズス・キリストを否定し、その国家目標として労働党規約(これは憲法に優先する国家指導指針です)に、「共和国北半部で社会主義の完全な勝利を勝ち取り、最高目的は全社会(韓国を含む朝鮮半島全部)を主体思想化し、共産主義社会を建設することである」と明記し、それを追求していることなのです。

 

北においては、カトリック教会は全て破壊され、全ての聖職者、司教様、神父様、修道者たちは、存在していないのです。私たちの主イエズス・キリストとその教えを抹殺し、それに代わって「主体思想」を植え付け、私たちの主の十字架の代わりに金日成の巨大な像をあちこちに立て、天主なき国を作ろうとしていることなのです。

 

日本人拉致問題も、北朝鮮工作船の日本領海侵犯も、それだけでなく韓国人拉致問題、ラングーン爆破テロ事件、大韓航空機爆破事件などを引き起こしたのも、主体思想化をはかり、革命を誘発しようと言う「工作国家」であり、そのための軍事独裁国家だからです。

 

だからこそ、例えば最近の、北朝鮮から帰国した拉致被害者5人に同行(9日に北朝鮮へ帰国)した李虎林氏が副書記長を務める「朝鮮赤十字会」が、実際は朝鮮労働党の工作機関「統一戦線部」のダミー組織だったこと、また李副書記長の上司である張在彦・赤十字会中央委員長はかつて、「朝鮮カトリック教徒協会委員長」の肩書で、「北朝鮮の核開発疑惑が問題化していた平成6、7年ごろには来日したり、訪米してクリントン大統領(当時)とも接触するなどの工作を展開していた」こと、「北朝鮮にとって人道とは支援を通じて経済と直結した問題であり、諸外国の宗教界や人道的機関はすべて工作の対象となっている」こと、などを聞いても、私たちは「やっぱり」と思うのです。

 

 

共産主義に対する私たちキリスト者のあるべき態度

 

しかし、私たち、カトリック者はキリストに倣うものです。ですから、私たちは全ての人類の兄弟姉妹の救霊を望み、私たちの主の福音が全世界に伝えられることを願い、民族の違いによる憎しみはありません。あってはならないものだと思います。私たちの天主は、罪人である私たちを赦すために十字架に付けられ、私たちに互いに許し合うことを教えてくれました。ですから、カトリック教会の司教様や枢機卿様が、イエズス・キリストの名前によって私たちには互いに赦しあろう、というのは非常にカトリック的であり、素晴らしいことだと思います。もしも高位聖職者が、相手国の政府に自国の被害者のために損害賠償を払え、と言っていたら、カトリック的ではなかったと思います。

 

しかし、日本と北朝鮮の真の和解と平和は、私たちの主イエズス・キリスト以外に在りません。北朝鮮が主体思想を捨て、私たちの主イエズス・キリストの福音を受け入れるとき、また、私たちの愛する祖国日本が、私たちの主イエズス・キリストの聖なる信仰を受け入れるとき、相互の国の真の和解と平和がやってくることでしょう。それ以外には、道はありません。

 

日本と北朝鮮の真の和解と平和は、戦前の日本を批判することによっても、日本政府が戦前、戦時中の十分な謝罪と補償を行うことによっても、達成されるものではありません。真の和解と平和への道は、私たちの主イエズス・キリストが開かれるのです。

 

ですから私たちは、使徒聖ヤコボの「この教えによって行動せよ。みずから欺いて、これを聞くだけにとどまってはならない」(ヤコボ122)という警告にしたがい、聖なるカトリック信仰を、日常生活に実践しましょう。

 

やみの子らが唯物無神主義の宣伝のために日夜努力し、北朝鮮の工作員が日夜働いている情熱を見て、光の子らが信心をはげまされ、天主の栄誉のために、同様の熱誠、いえむしろ、さらに大きな熱誠を鼓吹されなければなりません。

 

私たちの間で、いわば名ばかりのカトリックにすぎない者があまりにも多いのではないでしょうか。

あまりにも多くの人が、カトリック教のもっとも本質的な務めを多少は忠実に果たしているけれども、私たちの主イエズス・キリストに関する知識を深め、もっと内的な確信、もっと深い信仰を獲得しようと心がけていないのではないでしょうか。

 

表面だけの宗教、中身のない見せかけだけの宗教は、天主にてまします救い主が、この上もなく嫌いたもうところです。なぜなら、救い主は、すべての人が、「霊と真実によって」(ヨハネ423)御父を礼拝することを欲したもうからです。

 

その奉ずる信仰を真実に、まじめに実践しない者は、今日吹きまくっている迫害の嵐とはげしい暴風雨とに、永く堪えることができないにちがいありません。このような人は、世界をおびやかすあらたな大洪水によって、悲惨にも押しながされ自己の亡びを招くとともに、キリスト者の名を嘲笑の的となすにちがいないのです。

 

私たちの主イエズス・キリストは言いました。「幸いなるかな、心の貧しき人々」(マテオ53)。山上の説教において、聖主の口から最初に発せられたのは、この言葉でした。この教訓は、地上の善と快楽とをむさぼり求めている唯物主義的現代においては、いつの時代におけるよりも必要な教えです。

 

キリスト者はみな、富者も貧者も、つねに天を見つめなければならず、「われわれは地上に永久の国をもつものではなく、来たるべき国を求めている」(ヘブレオ1314)ことを決して忘れてはならないからです。

 

富者はその幸福を地上の善のなかに求めてはならず、その努力の最良の部分を、これらの善の獲得にささげてはならないからです。むしろ、富む者は、自分を、最上の主に決算報告をなすべき管理者にすぎないと考え、その富を、天主が善をなすために与え給うた貴重な手段として使用し、福音の教え(ルカ 1141)にしたがって、余分のものを貧者に分配することを怠らないようにしなければなりません。

 

使徒聖ヤコボはこう言います。「富者よ、あなたたちの身に及ぶにちがいない禍いのために涙を流し、泣き叫べ。あなたたちの富は腐敗し、あなたたちの衣服は虫に食われ、あなたたちの金銀はさびついている。しかも、そのさびは、あなたたちに不利な証言をなし、火のように、あなたたちの肉を食いあらすであろう。あなたたちは、終末の日にあたって、怒りの宝をたくわえたのである」(ヤコボ 513)。

 

私たち貧者もまた、愛と正義との綻にしたがって、必需品を獲得し、自分たちの境遇を改善するよう努めながらも、つねに、「心の貧しい人」(マテオ53)でなければならなりません。すなわち、その考えのなかでは、霊的善を地上の善と快楽との上におかなければならないのです。この地上から、悲惨、苦しみ、患難などを消し去ることは、決してできないにちがいないこと、だれも、外見的には大変幸福な人々でさえも、この法則をのがれることができないことを想わなければなりません。

 

聖ヤコボは言います。「兄弟たちよ、主の来たりたもうまで忍耐せよ。見よ、農夫は、地の貴重な果実をのぞみ、この果実が秋の雨と春の雨とに浴するまで、忍耐して待つではないか。あなたたちも忍耐し、心を堅固にせよ。なぜなら、主の降臨は近いからである」(ヤコボ 578)。

 

このようにして「貧しい人は幸いである」という聖主のなぐさめにみちた御約束が成就するのです。それは、共産主義者のそれのように空しいなぐさめでも、いつわりの約束でもありません。それは、生命の言葉であり、深い真理であって、まず地上で、ついで永遠に、完全に成就するのです。

 

永遠の生命を獲得し、貧者を有効に救うことができるためには、もっと質素な生活に立ちかえり、現代の世界がきわめてゆたかに提供する快楽、しかも、しばしば有罪な快楽を断たなければならなりません。一言でいうならば、隣人に対する愛のために自己を忘れなければなりません。

 

 

イエズス・キリストを知らない人々の悲惨さ

 

私たちは、北朝鮮に住む国民の兄弟姉妹たちの悲惨な状態をかわいそうに思います。世界食糧計画(WFP)のジェームズ・モリス事務局長によると、北朝鮮の食糧事情について、「来年にかけて400万人の子どもが餓死する恐れもある」とのことです。

しかし、私たちにとってもっと悲惨でかわいそうに思うことは、人口2,1234,387(1998年国連推計)の北の国民が、すべて、霊的に餓死していているという事実です。

 

そして、谷司教様にこの場を借りて申し上げたいのは、私たちの愛する祖国日本の現状です。私たちは、祖国に住む特に若い同胞の兄弟姉妹がかわいそうです。読売新聞(88日)によると、昨2001年の1年間に未成年女性が行った人工妊娠中絶は4万6000件余に上り、過去最多を記録したことが、厚生労働省の調査でわかったそうです。成人女性の中絶は、どの年齢層も横ばいか減少傾向にありますが、未成年だけは6年前の8割増と急増していたのです。厚生労働省が全国の届け出件数を集計したところ、日本における昨年1年間の人工妊娠中絶は34万1588件に上り、3年連続で前年を上回ったのです。

 

同じ日本人同士が自分の子供を殺していること、しかも34万人も虐殺して闇に葬っていること、これは、広島・長崎の原爆の犠牲者を合わせた程で、日本の全カトリック信者43万の約8割に当たること、これを放置してどうして世界平和を語れるでしょうか?日本自国の罪のない赤子を殺しておいて、日本国憲法第9条の戦争放棄を守る、などとどうして語れるのでしょうか?

 

日本中にはびこるポルノも大問題です。青少年の霊魂はまだ若いときから汚されその奴隷になり、霊的に殺されています。また、日本では昨年1年間に自殺をする人が3万人もいたそうです。私たちは、これらの不幸の全ての原因は、私たちの主イエズス・キリストが知られておらず、唯一の真の天主が信じられていない、ということにあると思います。

 

日本の兄弟姉妹すべてが、真の意味で幸せであるように、私たちの王であるキリストが、個人においても、家庭においても、日本の学校、社会、憲法、行政、司法においても、全てにおいて唯一のまことの天主として認められ、礼拝され、愛され、奉仕されることを願い、その実現を祈って止みません。

 

 

そして、大変長くなりましたが、これを以て、お答えしたことにしたいと思います。

2002年ももう後僅かになりましたが、今後とも兄弟の皆様の寛大な祈りとご協力とご援助をよろしく申し上げます。来る新2003年が、兄弟の皆様にとって、イエズス・キリストの恵みにあふれた良き新年となりますように謹んでお祈り申し上げます。

 

20021227

ソウルにて

トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)

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