特集
【あの日あの時−十勝ひと物語−】 前大樹町長 福原勉さん(2)
福祉・医療
試行錯誤 道内特養の先駆けに
まだ財政再建中でしたが、ひとまず道筋を立てた1957年に厚生係(現在の福祉係)に異動しました。当時の島田町長は発想力が豊かでいろいろな施策を実行しました。
特に福祉面に理解があり、金婚式を迎えた夫婦を町が招待してお祝いしたり、特別養護老人ホームの建設にも尽力しました。議会とも相談しましたが、なかなか首を縦に振ってくれなかったと聞いています。維持、運営に町の持ち出しがかなり必要だろうと抵抗が強かったみたいですが、67年に今のコスモス苑の前身の町立特別養護老人ホームが完成しました。
私が初代の事務長に就きました。確か北海道では4番目、公立では2番目の老人ホームだったと思います。画期的だったのですが、何しろ初めての仕事で何から手を付けてよいのか分かりません。スタッフ全員が未経験者なので、本来なら優先順位が低いはずの、ある程度元気な人にも入ってもらいました。
試行錯誤の日々が続きましたが、「皆で力を合わせて、日本一の老人ホームにしよう」と誓い合いました。言葉は悪いのですが、昔の養老院のような暗い雰囲気を作らず、家庭の生活の延長となるよう心を配りました。具体的には日本の生活文化に染み込んだ年中行事、七夕やもちつき、盆踊りなどを施設に取り入れました。細かな問題が発生して苦労しましたが、楽しく充実した生活を送ることができました。
年間500万円ほどの赤字でしたが、町議会もお年寄りが幸せに過ごせるのなら高くはないと、理解を示してくれるようになりました。町内の入所者も徐々に増えていったように記憶しています。道内の特養の先駆けとして認知度も高くなり、島田町長の先見の明には驚きました。私が町長在任中に老人ホームを移転改築したのも、何かの縁かもしれません。
議会事務局を経て55歳で役場を早期退職しました。しばらくして、当時の野口町長から声が掛かり、町国保病院の事業管理者に就きました。当時病院は累積赤字がかさみ、議会でも突き上げがありました。病院改革として赴いたのですが、院長の上に管理者が置かれる状態に、医師や派遣元の大学病院は面白くなかったでしょうね。少なからず反発がありました。
患者は医師を頼りにしています。何とかよい方法を探ったのですが、1人減り2人減り、不安になりました。さすがに完全撤退まではいかず、出張医を派遣してもらいどうにか運営してました。
知り合いのつてを頼りに、開業医を紹介してもらうなど綱渡り状態が続きました。産婦人科の常勤医に大樹に来てもらうなど、それなりの態勢が整ったこともありましたが、医師不足は根本から解決したわけではありません。
地方の公立病院のあり方は一自治体では限界があります。縁や偶然に頼っているようでは心もとない。医師の安定供給について、道や国から何かしら方策がないものかと感じたものです。これは今でも同じ問題。半世紀の役場職員生活で一番苦労した期間で、白髪も増えました。
(聞き手・北雅貴)
−大樹町特別養護老人ホーム−
町立特別養護老人ホームは1967年6月開所。入所者は50人。95年10月に現在の名称の「コスモス苑」となり、在宅老人デイサービスセンター、在宅老人介護支援センターを併設した。
- 【あの日あの時−十勝ひと物語−】 前大樹町長 福原勉さん(1)(2009/09/21)
- 【あの日あの時−十勝ひと物語−】 一覧