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中国において行なわれた刑罰


中国の歴史を紐解く時、歴史書や小説を読むとき、かなりグロテスクな描写の処刑シーンが出てくることがある。
この人間離れした、残酷な刑罰は中国史上ずっと行なわれてきた。
人間、気持ち悪いもの&怖いものは、見たいもので(?)、調べてみた方もおられるかも知れない。
今回は、そんな読者の方々の気持ちを汲んで(?)、刑罰について簡単に纏めてみようと思う。


刑罰名説明
凌遅・臠割・剮・寸磔・礫(切り刻み・八つ裂き)「凌遅」とは緩やかな死を意味していて、刑罰の中でもっとも残酷かつ非人道的であるといえる。もともとは“陵遅”と書き、山や丘の緩やかな傾斜を意味していた。
“緩やかな死”とは俗に「千刀万剮」ともいい、一刀ごとに肉を切りそいでいき、そぎ終わったところで、眼をえぐり、耳と鼻をそぎ落とし、四肢を切り取り、腹を割き、首を切り落として命を奪い、その後、首と五臓六腑が晒されるというもの。この刑は、謀反・朝廷誹謗・農民放棄の首領・父母兄弟の殺害・皇帝の所有物に対する危害などに適用されたが時代によっては軽微な犯罪にも適用されたこともあった。
この刑はあまりに残酷すぎるので、晋代や宋代に禁止されたが、元明の頃にはまた復活された。元の法律では、肉をそぐ回数は120回と決められていたが、明代には3000回にもなった。ケ之誠著「骨董続記」の「寸磔」の項には「劉瑾四千二百刀、鄭[曼β]三千六百刀」とあるから異常だ。罪人は恐怖に縛られているため、血液が下腹部やふくらはぎにたまり、肉をそいでいる間はほとんど出血がないようである。民衆はどのように刑が施されるのか一目見ようとして集まり、刑後にはそぎとられた肉片を吹き出物の薬として買い求めていくという。
清の十一代皇帝徳宗の治世になってようやくこの刑は「永遠に削除して、ともに斬決に改む」とされて、法典から消え去ったのである。
車裂・轘・分屍(車裂き・五牛裂き)罪人の頭と四肢をそれぞれ五つの車に縛りつけ、それらを一度に別々の方向に馬で引かせ、肉体を引き裂く刑である。時には牛や馬で直接引き裂いたこともあった。周代からこの刑は行なわれており、おもに謀反などの乱臣賊子に対する厳罰として執行された。そのほかにも倫理に悖る不孝を犯したものにも執行されたようである。
五胡十六国時代には車裂は最も重い刑罰であった。その後、隋の文帝によって酷刑が廃止されたが、煬帝がまた復活させた。唐代になると隋の苛政が改められ車裂も行なわれなくなくなるが、それもつかの間、昭宣帝の代にまた行なわれるようになる。その後の五代以降、車裂の刑は基本的には行なわれなくなった。
斬首・大辟・殊死・棄市
(打ち首)
読んで字のごとく、説明するまでもないだろう。人頭を胴体から切り落として死刑にする方法。先秦時代の斬首には斧が用いられた。後代には刀が用いられている。あまりにも切れない場合は鋸も用いられた。
人間の首には頚椎があるため、ちょっとやそっとでは切り離せない。特に罪人の中には武術を鍛えたものもあり首を落とすのは用意ではなかったようだ。清の初め阿里瑪という男が斬首を受けることになったが、首筋が鉄のように硬く、刀を振り下ろしても切れなかったため、小刀で首の筋肉を切り取り、ようやく処刑することが出来たという。
清初の「聊斎志異」にはこんな逸話も残っている。盗賊十数人が捕らえられて斬首に処されることになったが、兵士の中に恐ろしく切れ味のいい刀を帯びているものがいた。切り落とされた首は数歩の先にとび、首は地上を転がりながら、「よく切れる刀だ!」と叫んだとか…。斬首のさい、人間の血液は約5〜7メートルも吹き上がるようだ。
普通の人間が死刑に望む時、死への恐怖を免れない。あるものは蒼白になり、あるものは震え、あるものは小便をちびらす。しかしながら強健な人物も多くいたようだ。「竹林七賢」のひとり稽康は、処刑の前に琴を爪弾いたというし、子路(孔子の弟子)は死に望んで冠の紐を締めなおし、「帽子をかぶらずに死ぬわけにはいかない」と言ったという。康煕帝時代の文学者金聖歎にいたっては、刑執行の直前に酒を求め、「斬首は痛事、飲酒は快事、なんと痛快なことよ」と言ったというから相当堅固な人生観・文学観を持っていたのだろう。
斬首は官において正式に執行される刑罰の一つだったが、清朝が滅んだのちは、銃殺がそれに取って代わることとなる。
腰斬
(腰切り)
この刑は周代にすでに存在していた。“押し切り”という秣や飼い葉を切る銅製のもので、腰から真っ二つにするという刑罰である。「斬」という字の、「車」は車裂とおなじで“裂く”という意味があり、「斤」は“斧”を表す。週代には斧や鉞を用いて刑が執行されていたようだ。「韓非子」には、龍逢・比干・李梁・泄治・申胥・伍子胥などに関して、「手足、処を異にす」とあり、これらは腰斬を表している。
刑具は特に鈇質と呼ばれた。「鈇」は大斧で、「質」は斧で切る際に横たわる台のことである。漢代以降には刀身と台が軸でつながれた押し切りが使用された。
腰斬刑は春秋戦国時代から頻出し、秦・漢代でも枚挙に遑が無いほど使用されたといわれる。その後南北朝から唐の時代には、法律から腰斬の刑が消されたものの、依然として執行され、宋代には民衆から財産を掠め取ったものや謀反人に対してこの刑が用いられている。
この刑は明代まで用いられたようだが、清代の記録には見当たらない。しかし、この酷刑は絶えたわけではないようだ。近代になって、中国共産党の革命下で解放区から逃亡した地主などが共産党員に行なった報復は、腰斬の刑だった。これは、清代にもアンダーグラウンドで腰斬刑が行なわれてきた証拠といえるかもしれない。
剥皮
(皮剥ぎ)
剥皮の最初の記録は、「漢書」にあるもので、「漢の景帝の時向川王劉去が、生の人を割剥した」とある。
有名なものでは、三国時代の呉の最後の皇帝孫皓が、人の顔の皮を剥いだというものである。孫皓が晉に降った後のある日の事、晉の武帝司馬炎と侍中の王済が碁を打っていた。王済は傍らにいた孫皓に、「そなたは呉を治めていた時に、人の顔の皮を剥いだと聞くが本当かな?」と尋ねた。孫皓は、「臣であるのに君に非礼をはたらいた者があったので、この刑を科したのです」と答えた。すると王済は、司馬炎の足元に投げ出していた足をたちどころに引っ込めたという。
明代は、この剥皮がもっとも多く行われた時代であり、いろいろな方法があったらしい。永楽年間、両広提督の韓観は、人の皮を完璧に剥ぎ、耳・目・口・鼻、更には頭髪に至るまで整ったものを、座布団としていた。嘉靖年間、倭寇討伐将軍として名を馳せた湯克寛は、沿岸を荒らしていた倭寇の首領の皮を剥ぎ、その皮を張った太鼓を作って「人皮鼓」と呼んでいた。天啓年間、宦官の魏忠賢は溶けた松脂を全身に塗りつけ、固まった所をノミで打って剥ぎ取って人の皮殻を作った。民末の反乱軍の頭領張献忠は、首の後方から肛門まで真っ直ぐに切り下ろし、その後、皮膚を両側に引っ張って剥がし、その背中と腕が繋がった様はまるで蝙蝠のようだったとか。
このように明代には、皮剥ぎの刑が多用されたが、清代に入ると皮剥ぎが行われたという記述は無い。正史・野史・小説の中にも全く見つからない。
しかしその後、大日本帝国が中国を侵略した時、反抗した中国人は皮を剥がれたという。
炮烙
(銅柱焼き・格子焼き・焼鏝)
炮烙刑と聞けば、たいていの人が、商の紂王が妲己を笑わせるために用いた事を思い出すだろう。しかしこの紂王が用いた炮烙刑も、二種類の説がある。まず、一般的なものは、「列女伝」にある、「銅柱焼き」である。銅の柱に油を塗り、さらに下から火であぶり、その上を罪人に歩かせる。すると、柱の上は熱いし、油で滑って火の中に転落するという算段だ。これが一般的に知られる炮烙刑だろう。
別の説もある。「史記」「荀子」「呂氏春秋」には、「格子焼き」について述べられている。銅製の格子を下から火であぶり、その上を罪人に歩かせるというもの。さしずめ、網焼き、又は、人間バーベキューである。まぁ、事実がどちらにせよ、妲己がそれを見て興奮し、声を出して笑ったというのだから、変態である。
炮烙刑は後世にも用いられている。いくつか例を挙げると…
遼の穆宗耶律mは、罪人の体を火で熱し、腫れ上がったところを鉄梳ですいて、肉をそぐという刑を用いた。
北宋の徽宗と欽宗の二人の皇帝は、金軍に敗れて連れ去られ、犬の格好をさせられて、裸足のまま焼いた鉄板の上に立たされた。熱さに耐えかねて跳ね回る様は、犬が踊っているように見えたと言う。
このほかにも、南宋の勇将曲端は、鉄籠の中で蒸し焼きにされ、明の朱高煦は銅甕をかぶせられて外側からあぶられて死んでいる。そのほか、焼鏝や焼鋏、焼いた鉄靴を履かせるなど、炮烙刑にも様々な種類がある。
烹煮
(釜茹で)
剖腹
(腹裂き)
抽腸
(腸引きずり出し)
射殺
(射殺し)
沈河
(沈め殺し)
絞縊・絞刑
(絞め殺し)
鴆毒
(毒殺)
黥面・入墨
(顔面入れ墨)
割鼻・劓
(鼻そぎ)

(耳そぎ)
截舌(舌きり)
挖眼
(眼えぐり)
断手
(手切り)
断指
(指切り)
刖足・剕・臏・斬趾
(足切り)

(性器切除)
幽閉
(膣閉じ)
枷項
(首かせ)
笞杖
(鞭打ち)
廷杖・敲
(棒打ち)
鞭扑
(鞭打ち)
人食
(人食い)
獣咬
(咬み殺し)
拷訊
(拷問)
梟首
(晒し首)
戮屍
(死体を辱める)
火焚
(火あぶり)
鑿顚
(ノミ打ち)
断脊
(脊椎切り)
活埋
(生き埋め)
刷洗
(ブラシかけ)
騎木驢
(串刺し)
鋸割
(鋸引き)
灌鉛
(鉛流し込み)
又流
(島流し)
贖(罰金)
烙印
(焼印)

(塩漬け)

(干し肉)

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