現在に至るまでの芸人、喜劇人をまとめてみました。
50音順に掲載していきますので、乞うご期待。
ジェニーいとう |
平成6年頃から、キワモノ系Mr.レディとして、数々のTVのバラエティ番組に出演し始める。その中で「発表!日本ものまね大賞」に出演し、ものまねではなく、エロ系替え歌で異彩を放ち、翌年4月から「ものまね王座決定戦」でプロデビュー。現在も同番組では、イロモノ系のレギュラーとして活躍する。見た目は"ゲイ"人であるが、資産運用会社とコンピュータ関連の会社で顧問を兼任していたり、またある時は人生相談のカウンセラーでもあり、さらにアームレスリング競技においては全日本選手権に出場する東京代表選手を育成する強化コーチでもあるなど多彩な顔を持つスーパーMr.レディーである。 |
獅子てんや・瀬戸わんや |
東京の正統派漫才師。獅子てんやは元警察官でお笑い好きが高じて内海突破に弟子入り。一方、瀬戸わんやは岡山県の公務員でこちらも同じ経過をたどり内海突破の弟子となる。芸名の由来は作家獅子文六の小説「てんやわんや」から、てんやは獅子文六の"獅子"を、わんやは師匠と同郷でもある岡山・瀬戸内海から"瀬戸"をそれぞれ亭号につけた。しゃべくり中心の話芸に長けた漫才で高座やTVにでても確実に客席を沸かせ、絶対に"ハズレ"のない漫才師であった。同じネタを続けてはやらず、常に新作を披露していた。その多くの持ちネタの中でも「たまごの親じゃ、ピーヨコちゃんじゃ。ぴっぴっピーヨコちゃんじゃ、アヒルじゃがぁがぁ。」のフレーズは大ヒットした。また「いーとこ、はーとこ、いとはとこ・・・」のフレーズや、鼓を持っての三河万歳なども高座で見せていた。漫才の他にも司会をしていたパロマ提供の「家族そろって歌合戦」は長寿番組として日曜お昼の定番番組となった。桂子・好江、千夜・一夜、Wけんじとともに東京漫才の重鎮として活躍していたが昭和62年にわんやが脳梗塞で倒れるとコンビとしての活動停止を余儀なくされ、わんやが亡くなった後、てんやは芸人を引退し、現在は在家仏教協会に所属して講演活動を行っている。 |
シティボーイズ |
劇団で活動していた大竹まこと、斉木しげる、小関安宏の3人が、劇団仲間の風間杜夫の映画出演をきっかけに一念発起し、お笑いの道へ進む。昭和54年ごろからFNN「お笑い大集合」のレギュラーとしてシティーボーイズを結成し本格的に活動する。舞台演劇の味を残しながらもどこか冷めた笑いが浸透し、昭和56年より「お笑いスター誕生」に挑戦し、見事10週勝ち抜きチャンピオンとなる。現在、シティーボーイズとしての活動は主にライブが中心となって、TVにはそれぞれ個々に出演している。また、いとうせいこう、竹中直人、中村有志らをくわえたユニット「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」での公演をはじめ、大竹はトーク番組やバラエティーのMC、斉木はドラマやパチンコ番組、きたろうはドラマ・バラエティーで活躍中である。 |
シティガールズ |
昭和54年ごろFNN「お笑い大集合」のレギュラーとしてシティーボーイズに対して結成された番組内のみのユニット。メンバーは角替和枝、松金よね子、岡本麗の3人。当然ながら番組終了後に解体。それぞれドラマ・舞台で活躍中。 |
品川庄司 |
品川祐と庄司智春の漫才コンビで人気と実力を兼ね備えた若手のお笑い筆頭株。吉本イコール大阪というイメージが強い中、2人とも東京出身で東京NSC1期生である。 |
しのざき美知 |
中学3年の時、あこがれの野々村真に会いたくて「笑っていいとも」の素人参加コーナーに出場する。ブサイクで微妙にあぶない雰囲気ながらも客層の笑いのツボを巧みにつかむキャラクターが受けてたびたび番組に出演。ついには素人ながら番組の準レギュラー扱いとなる。高校卒業後、野々村真と同じ事務所に所属しプロとして本格的に活動する。主に「ものまね王座決定戦」で山本リンダのものまねなどで番組のレギュラーメンバーとして活躍。番組内で医師との結婚を発表し家庭に入っていたが、最近になって復活を宣言。"SHINOZAKI"と改名しただけでなく、かつての面影はないほとスリムに大変身。現在はライブを中心に音楽活動をしている。 |
渋谷天外 |
明治39年京都祇園で人気喜劇役者・初代天外の一人息子として生まれ、7歳で初舞台を踏む。昭和3年に曾我廼家十吾と松竹家庭劇を結成し、翌年二代目渋谷天外を襲名。昭和21年松竹家庭劇を脱退するも2年後、再び十吾と共に、松竹新喜劇を結成。また、脚本家・館直志の名でラジオドラマの脚本を手がけるなどして新喜劇が全国的に知られる契機をつくった。最高視聴率58%を記録した『天外の親バカ子バカ』など、テレビ番組にも数々の作品を提供し、新喜劇の真価を世に問い続けた。優れた演出・演技と数多くの名作を執筆するなど喜劇一筋に情熱を注ぎ、「大阪にわか」から出発した上方喜劇を文芸的な人間喜劇にまで高め、他に執筆した作品は1000を超え、代表作は「親バカ子バカ」「船場の子守唄」「愛情航路」「桂春団治」など。昭和49年、藤山寛美に後を託し、60年間の舞台生活に幕を降ろし昭和58年逝去。現在は息子の渋谷天笑が3代目渋谷天外を継承し松竹新喜劇に戻り、藤山直美との2枚看板で松竹新喜劇をしっかりと受け継いでいる。 |
島木譲二 |
プロボクサー、毎日放送の警備員、殺陣師などを経て昭和55年、34歳で吉本新喜劇に入団した遅咲きの芸人。新喜劇での活躍は周知のとおり。こわもての風貌とは裏腹に「ごめりんこ」「しまったしまった島倉千代子」「ジョージ、ショック」のギャグや、裸になり平手で自分の胸をたたく「パチパチパンチ」など、豊富な一発芸を多数持つ。 |
島田紳助 |
昭和49年、島田洋介・今喜多代に入門。昭和52年、松本竜介とコンビを組みデビュー。このころは「ヤングOH!OH!」で、のりお・よしお、ザ・ぼんちとともに"チンチラチン"というグループのメンバーとして「体弱いねん・・・」という病弱ギャグで売り出していた。その後、リーゼント姿で若者の本音をネタにした"つっぱり漫才"で頭角を現し、漫才ブームに乗り、大ブレークする。「笑ってる場合ですよ」「オレたちひょうきん族」で不動の人気を得るものの、徐々に"つっぱり漫才"は下降線をたどり、昭和60年、うめだ花月でダウンタウンの漫才を見て彼らの大いなる才能を見抜く反面、自身の漫才師としての限界を感じ、その日のうちに紳助・竜助の解散を宣言した。翌年バイク好きの趣味が昂じて往年の名レーサー千石清一を復帰させた「チーム紳助」を率いて鈴鹿8耐にも挑戦した。解散後はバラエティ、クイズ番組などの司会・進行役としての活動が中心となり、現在も「開運!なんでも鑑定団」「Kissだけじゃイヤッ!」「松本紳助」など息の長いレギュラー番組を多数持つ。また平成元年から現在でもキャスターとして抜擢されたテレビ朝日の「サンデープロジェクト」では政治や社会問題などにも斬り込み、硬派な一面をのぞかせるため一時期、桂三枝とともに選挙が近くなると立候補するのではとの噂が立つこともあった。 |
島田珠代 |
高校2年生の時、ダウンタウンの「4時ですよ〜だ」に出演したことがきっかけで、吉本入りした。「素人やのに、何度も出演してたらメンバーっぽくなった」。学校を終え、放課後は心斎橋筋2丁目劇場に"芸人"として通った。1人芸で2丁目劇場に出演していたが、後に吉本新喜劇へ転向。セットや壁にぶつけられたり、男性の股間に触って『チーン』のギャグなど半ば開き直った芸風で人気を博す。「笑っていいとも」のレギュラーに起用されても違和感なく東京で受け入れられ、そのキャラクターには芸人臭さや嫌味などない。平成10年吉本興業の社員と職場結婚したが、現在も新喜劇で見せるパワーは相変わらず全開である。 |
島田洋七 |
漫才師。正しくは"しまだようひち"と読むらしい。島田洋介・今喜多代に入門し島田洋一を名のる。昭和46年、団順一とコンビを組みB&Bとしてデビュー。翌年相方を上方真一に代える。若手の注目株と期待されていたが、昭和49年東京進出を試みようとするも相方と意見が合わず解散。昭和50年に藤井健次と新生B&Bを結成。「人生七転び八起き」(「七転八倒」説もあり)の意味を込め"島田洋七・島田洋八"にそれぞれ改名。テンポの良さと"もみじまんじゅう"などのギャグで「お笑いスター誕生」初代チャンピオンとなりブレイク。漫才ブームに乗り、「笑ってる場合ですよ」などレギュラーを持つ。しかし、番組終了後は一気に下降線をたどり、昭和58年解散。その後心機一転、国分健二と新コンビ「スティング」を結成したが、半年ほどで「B&B」にコンビ名を戻すも解散。さらに間寛平と「洋・寛」という漫才コンビを結成するも長続きしなかった。もはやこれまでと芸人引退を決意し、親友であるビートたけしに相談したが「芸人をやめるなら友達づきあいをやめる」と喝を入れられ、引退を思いとどまる。そして「北野ファンクラブ」でビートたけしと番組内ユニット「B&BEAT」で漫才のリハビリをする。一方、私生活では竜雷太と土地の売買を巡りトラブルがあったり、所沢市長選挙に出馬するも落選したりどん底の状態であったが、かつての相方と漫才をするイベント企画を数回するうちに"生涯一漫才師"として復活の手応えを感じ、島田洋八とB&Bを再結成し、吉本興業に頭を下げ、半年間は「新人扱い」とする条件ながらNGKで完全復活を果たす。現在はベテラン漫才としてのポジションに戻り、往年のスピードはないものの客席を笑いの渦に巻き込んでいる。また舞台を離れると佐賀県に一軒家を構え充実した日々を送っている。 |
島田洋介・今喜多代 |
昭和40年代に活躍した夫婦漫才。昭和32年コンビ結成。大小のコントラストの妙と、抜群のテンポあるしゃべりで人気を得た。昭和49年に師匠島陽之介の名を襲名すべく洋介から洋之介に改名。しかし昭和54年3月、夫の洋之介が糖尿病の悪化により引退。残った喜多代は、はなあい花と新たにコンビを組み、自身も今日喜多代と改名。翌年相方を阿吾寿朗に代え芸名も今日規汰代に再度改め漫才コンビをスタート。その一方で昭和55年最愛の夫であった洋之介が亡くなってしまう。弟子に島田洋七、島田一の介、島田紳助、今いくよ・くるよがいる。 |
ジミー大西 |
中学時代から吉本興業の芸人になることを志し、高校卒業と同時に吉本興業入社。昭和58年、ぼんちおさむに弟子入りし芸の修行をするが、のちに明石家さんまの付き人兼運転手に回される。「明石家電視台」などそこそこTV出演機会が増え、"頭脳を持った猿"といわれる天然ボケと「やってるやってる」「お前もがんばれよ」「エクスタシー」などのリアクションギャグがうけ、芸能人のオモチャとしていじられるキャラが定着。EXテレビで「普段絵心を持たないタレントたちが絵を描いて、それぞれを品評する」企画で絵を描かせてみたところ、特異な表現力で描いた水彩画が高い評価を受け、何と30万円の高値がついた。これを機に作品の依頼が舞い込むようになり、また専門家からもその才能が認められ、ついには画家に転向。芸人を引退して本格的に絵画に取り組むべくスペインに絵画留学に出たこともある。現在も独特な世界をキャンバスに表現するアーティストを中心としながら、たまにバラエティ番組に出演することもある。 |
清水アキラ |
昭和49年、足利工大在学中にぎんざNOWの「素人コメディアン道場」に出場。コントやものまねで5週勝ち抜きチャンピオンとなる。このとき、いっしょにコントに参加させられた後輩が清水健太郎である。翌年、番組内で誕生したチャンピオンが6人集まりザ・ハンダースを結成、リーダーとなる。昭和53年にヒットした「ハンダースの想い出の渚」では様々な人物のものまねで見事に唄い上げている。翌年に芸の幅を拡げるためハンダースを脱退し、あのねのねの清水国明に弟子入りするも、これがしばらく低迷することとなる。その後アキラバンドを率いたり、単独で「お笑いスター誕生」に出場。替え歌メドレーネタでチャレンジするもほとんどウケず、人気実力ともかつてのメンバーだったアゴ&キンゾーに大きく離されどん底まで落ちていたが、「ものまね王座決定戦」に出場すると得意のものまねで実力が開花。コロッケ、栗田貫一、ビジーフォーとともに"ものまね四天王"と呼ばれ、番組のリーダー的存在となる。持ちネタは五木ひろし、村田英雄、谷村新司、井上陽水など多数。番組では常に高得点を出すが、下ネタが多すぎるため審査員の淡谷のり子には徹底的に嫌われ、満点をもらうのは至難の業だった。現在は舞台公演も行い、ものまねショーでも営業に回ったりと精力的に活躍している。なお、昭和48年から6年連続で冬季国体に出場するなど、本格的なプロスキーヤーとして活躍していたことはあまりにも有名。 |
清水金一 |
昭和3年16歳で、浅草にオペラ一座を組織していた清水金太郎の弟子となり、清水金一を名のる。その後いくつかの劇団を渡り歩き、浅草オペラ館で堺駿二とのコンビで活躍。"シミキン"の愛称で軽演劇界の人気者となる。戦時中の暗い世相の中でも舞台に上がり続け、「みっともなくてシャーがねえ」「ハッたおすぞ」という台詞が流行語となるも憲官からは睨まれる存在であった。戦後は映画界にも進出、主演作品を立て続けに出し、八の字眉と細長いたれ目をトレードマークにキビキビとした動きで戦後の世相に笑いをふりまき一世を風靡した。しかし昭和30年前後からは人気が下降、映画や舞台でも客が入らない状態まで落ち込み、自殺未遂事件を起こすほどの不遇な晩年を過ごした後、昭和41年に亡くなった。 |
清水圭・和泉修 |
東京でサラリーマンをしていた清水圭が同志社大学を卒業した後輩の和泉修と漫才コンビを結成し、吉本に所属。大阪では"圭・修"と呼ばれるほどのアイドル的な人気者であった。しかしながら現状には飽きたらず、清水圭は「探偵ナイトスクープ」の探偵役、「しまうまのおしり」の司会に加わり、さらに東京進出を果たし「浅草橋ヤング洋品店」にも出演、顔を覚えらるようになった。一方の和泉修は大阪から出られず、浪速高校の先輩である赤井英和と街を荒らして回る番組「なにわ友あれ赤井英和」に出演するなど大阪のイメージが完全に定着してしまった。結局コンビ活動停止状態が数年間続いた後、和泉修がベイブルース高山との新コンビ"ケツカッチン"を結成したため、圭・修は解散となった。なお、清水圭は同志社大学在学中から清水K太の名でラジオ番組を持っていた。芸能人ゴルフ番組でともに参加していた香坂みゆきに一目惚れし、見事射止める。和泉修は高校総体で、ボクシング高校チャンピオンに輝く。 |
清水ミチコ |
昭和58年からクニ河内 の「ラジオ・ギャグ・シャッフル」の構成作家をしていたが、企画を考えるだけでは物足りなく徐々に自らも番組に出演するようになる。ピアノの弾き語りやコミカルな演奏をしたり、ものまねを披露したりするところから"女タモリ"、”イミテーション・シンガー”の異名をとる。昭和62年「笑っていいとも」のレギュラーとしてお茶の間に浸透し、「夢で逢えたら」ではコントもこなし、"ミドリさん"のキャラクターで不動の人気を得る。ものまねのネタは松任谷由実、楠田枝里子、桃井かおり、黒柳徹子など多数。コンサートやライブでネタを披露したり、CDやエッセイを発表するなど幅広い活動を行っている。またVOWで連載されている有名人の顔をまねた「顔まね塾」はガッツ石松やオウムの上祐史浩の顔まねなど特徴を捉え、非常に楽しめる内容で宝島社から出版された。プライベートでは、PTAのベルマーク委員をやっているということである。 |
志村けん |
お笑い界の首領。この人の面白さは読者がよく知っているのでここで説明する必要はないだろう。昭和43年、コメディアンを目指していかりや長介の家に押し掛け弟子入りを直訴。翌日からドリフターズの付き人として採用。1年余りボーヤとして過ごすが、毎日がハードなスケジュールと楽器運搬の繰り返しについていけず脱走。1年後に加藤茶の口利きのおかげでボーヤとして復帰。昭和47年、同じボーヤの井山淳とドリフを離れマックボンボンを結成。このコンビは志村が井山を徹底的にツッコミ倒して笑いをとるコントが多く、ドリフの芸風よりもコント55号に似ており、55号の再来といわれた。レギュラー番組を持つも力不足を露呈し半年で打ち切り。相方を福田正夫に変えるがすぐに解散し再度ボーヤに戻る。昭和48年荒井注が引退を決意したときにスムーズに交替できるよう、半年間見習いとして全員集合に出演。翌年、荒井注の引退で正式にドリフターズのメンバーに昇格。しかし2年間は全くウケず、会場の反応も冷ややかであったが、全員集合の「少年少女合唱隊」のコーナーで東村山音頭を披露したところ、客席の反応がよかったので毎週続けていたら大いにウケだし、ようやくお茶の間にもメンバーとして認知された。その後はヒゲダンスなどやることなすこと全てバカウケ、加藤茶に代わりドリフのメインを張るようになる。昭和56年競馬のノミ行為の客として謹慎するが復帰後のパワーはさらにアップした。全員集合終了後は「志村けんのだいじょうぶだぁ」「志村けんのバカ殿様」など単独でレギュラー番組を持ち活躍。しかし平成8年ごろTV出演が激減し、レギュラーが深夜枠1本だけになると、どこからか"志村けん死亡"の噂が全国的に広まった。ところがその直後、今度は女子中高生の間から"シムケン"などと呼ばれだし、"アイ〜ン"のギャグが広まり人気が突如再燃する。現在もその人気は全く衰えず、バラエティを中心にグルメ番組やトーク番組のゲストとしても活躍している。弟子はとらない主義だがジョーダンズの山崎まさやは弟子である。また田代まさし、桑野信義、ダチョウ倶楽部、岡村隆史ら多くの芸能人が師と仰いでいる。 |
志村としお |
通信士希望で電気学校へ通いながらも、プロボクサーになったり、歌謡学院へ通ったりしていた。昭和28キングレコードの歌手にになり、さらに「ハナハナボーイズ」のメンバーとして浅草のスミダ劇場で初舞台を踏む。昭和35年に富井トシ、小原しょう太と「ミュージカルぼーいず」を結成、リーダーとして演芸場や演芸番組に出演。リーゼント頭に太った体格で「デブ」「カバ」などのネタで笑いをとっていた。晩年はボーイズバラエティ協会理事長を務め、JRのキャンペーン「らくだっち」のキャラクターとしてポスターに登場した。 |
〆さばアタル・ヒカル |
たけし軍団所属の浅草キッドに次ぐ漫才コンビ。当初は「雨空トッポ・ライポ」の名でTV「北野ファンクラブ」やお笑いライブなどに出演していた。昨年あたりから芸名を変えるが現在もたけし軍団の使い走りのような存在で、なかなか漫才の評価もされておらず、中途半端なポジションについている。 |
ジャイアント吉田とシンフォニックマッド |
ドンキーカルテット解散後、旧メンバーのジャイアント吉田と猪熊虎五郎、アイドルフォーから山田マサを加え結成。コミックバンドとしてしばしば「大正テレビ寄席」に出演していた。ジャイアント吉田と山田マサのどちらかが主導権を取り合い、一方が唄ったりメインで演奏するともう一方が音をかぶせたり演奏をじゃましたりして必ずモメ、猪熊が奇声を発するというおきまりのパターンはドンキー時代と全く変わっていない芸風であった。結局それ以上発展することもなく解散し、新バンド「ジャイアント吉田とブラックジャック」を結成。このメンバーの中にVANVAN、笑パーティーのばんきんやなどが参加していた。 |
JADOES |
獨協大学在学中から5人でバンドを結成。その中でも特に芸達者な藤沢秀樹、斎藤謙策、島村幸男の3人が獨協大学3人組として昭和60年ごろから「全日本そっくり大賞」にたびたび出演。竹中直人や荒井注の顔マネ、長嶋茂雄のものまねなどでチャンピオンになるなど人気を博す。ただこれはあくまでもかくし芸の範囲であって、同時期にバンドとして演奏したデモテープをレコード会社に送らず、アーティストの角松敏生に直接送った。これがきっかけで角松敏生がJADOESのライブへ足を運び意気投合、プロデュースを引き受けプロのバンドとしてデビュー、本格的に音楽活動することとなる。メンバーの脱退など紆余曲折を経て、平成12年JADOESからジャンジャナ〜ル・ジンジェに改名。また、藤沢秀樹はダンス☆マンとしてヒット曲を出している。 |
ジャリズム |
山下栄緑と渡辺鐘が結成したコンビ。コントだけでなく、まれに漫才をすることもあった。コンビ名の由来は「ジャリズム=ジャリ・イズム=子供主義」というところから。2丁目若手芸人の中で千原兄弟に並ぶ地位のある人気コンビであり、いじめられキャラの山下とマニアック渡辺の新しい笑いは絶妙であった。千原兄弟とともに東京のレギュラー番組もやっていて、将来が期待されていたが、平成11年山下が突然、吉本の社員になりたいと言い出し、コンビを一方的に解消。当時のマネージャーに頼みにいったところ「4年制の大学卒業したら試験受けにおいで」と言われ、社員への道をあっさりあきらめた。当然後に渡辺を呼び出して「もう1回ジャリズムやろう」と言っても受け入れてくれるはずはかった。結局山下の思いつきの解散だったため全てを失ってしまった。現在も芸能界で別々の道を歩み地道に活動をしており、渡辺鐘は構成作家として活躍。山下は「山下しげのり」と改名してルミネの新喜劇に定期的に出演のほか、新喜劇の仲間である友野と「ガリッパナ」という漫才コンビを結成し舞台に出ている。 |
春風亭小朝 |
キャッチフレーズは"横町の若様"。昭和45年に春風亭柳朝に入門、春風亭小あさの名をもらう。直後に小朝と改名。昭和51年二つ目に昇進。昭和55年に先輩36人を抜いての真打昇進は異例のスピード出世として当時話題になった。TBSラジオ「夜はともだち」のパーソナリティ、FNN「笑ってる場合ですよ」の木曜レギュラーとしても活躍。また時代劇「三匹が斬る」シリーズでは"たこ"こと燕源内役でも好演、好評を博す。現代的なセンスに加え、文・イラスト・音楽などにも才能を発揮し、マルチタレントとして高座以外でも活躍する一方、本業の落語でも落語ファンの拡大に大いに貢献してきた。現代人の浮遊感を巧みに噺に取り入れて聴きやすい高座である。寄席の他、歌舞伎座や日本武道館で独演会を開催するなど企画の手腕にも優れている。昭和63年、故林家三平の次女で歌手の海老名泰葉と結婚した。 |
春風亭昇太 |
若手落語家にして一番の売れっ子。学生時代、ザ・まんだらーずのメンバーとして「ザ・テレビ演芸」にチャレンジ。見事初代グランドチャンピオンとなる。昭和57年春風亭柳昇に入門、昇八の名で前座。昭和61年昇太の名で二つ目。平成4年に真打ち昇進。関東高田組のメンバーとしてラジオやバラエティー、執筆活動など落語以外でもマルチぶりを発揮している。 |
春風亭小柳枝 |
昭和期の落語家。希代の粗忽者でそのエピソードは数知れず。戦前に7代目林家正蔵門下として林家正平の名をもらう。後に青枝から正太郎、6代目春風亭柳橋門下に移り、昭和24年に7代目春風亭小柳枝を襲名して真打昇進。明るく憎めない芸風で「野ざらし」などを得意とした。昭和37年糖尿病のため、惜しまれながらも亡くなった。 |
春風亭梅橋 |
なぞかけの名人。昭和29年柳亭痴楽に入門。昭和32年小痴楽で二つ目。小痴楽時代がこの人の全盛期であった。笑点の初期大喜利メンバーとして活躍。特にブラックユーモアを織り交ぜた回答は、司会の立川談志が高く評価していた。なぞかけも得意で、お題が出されると即興でなぞかけを作ることが出来た。また、いたずら好きでも有名で、あるとき伊勢丹の屋上にペットショップがあり、鳥かごにオウムがいた。そこに毎日通ってオウムに言葉を教え込んだ。やがてそのオウムは人がよってくるたび「三越、三越」としゃべったというエピソードが残っている。昭和44年春風亭梅橋で真打昇進したが、笑点を降板後は仕事がなくなり、酒におぼれ、ついには飲み屋でなぞかけを披露して日銭を稼ぐなど芸を売って生活するところまですさんでしまった。結局酒で体をこわし、肝硬変で亡くなった。社会風刺や毒のある高座が信条だったので、もう10年時代がずれていれば、再度TVで必要とされる存在になっていたのではなかろうか。 |
春風亭柳橋 |
昭和期の落語家。小学校卒業の翌年、4代目春風亭柳枝に弟子入り、春風亭柳童の名をもらい明治42年初高座を踏む。大正4年に春風亭枝雀と改名し二つ目。大正6年演芸会社発足の際に対抗して生まれた睦会で真打となり春風亭柏枝と改名。このころから若手の成長株として注目されだし、小柳枝、さらに6代目春風亭柳橋を襲名。昭和5年に柳家金語楼とともに芸術協会を発足させ、昭和54年に亡くなるまで会長を務めた。「掛取り早慶戦」「支那そば屋」の古典改作や「時そば」「三味線栗毛」など本格派の力量を示し、戦後のラジオ番組「とんち教室」出演で知名度を高めた。現在の柳橋は7代目。3代目桂三木助門下で桂木久夫。昭和31年二つ目、昭和36年三木助の死去に伴い先代柳橋門下に移り、春風亭愛嬌と改名。昭和39年真打に昇進して春風亭柏枝、昭和57年に7代目柳橋を襲名。ややかすれた声で淡々と噺を運んでいき、その安定感には定評がある。3代目三木助の持ちネタを得意とし、受け継いでいる。 |
春風亭柳好 |
昭和の高度成長期に活躍。工場勤務から家業の魚屋を継いだが、昭和25年噺家を志し、先代柳好に入門して春風亭笑好の名をもらう。昭和31年師匠の没後6代目柳橋門下に移り、昭和33年真打に昇進して春風亭柳好を襲名。先代とは対照的なゆっくりとした口調に独特のおかしさがあった。また「日曜ワイド笑」の"男性診断"のコーナーでも活躍。平成元年落語芸術協会を離れ平成4年に亡くなるまでフリーの噺家として高座に上がっていた。 |
春風亭柳昇 |
「大きなことを言うようですが、今や春風亭柳昇といえば、わが国では私一人でございまして・・・」がキャッチフレーズとなっている。昭和16年陸軍に招集され中国北部で終戦を迎える。著書「与太郎戦記」は実体験に基づくものである。昭和21年6代目春風亭柳橋に入門して春風亭柳之助の名をもらう。噺家になったきっかけは同じ部隊に師匠六代目春風亭柳橋の息子がいたため。昭和24年に春風亭柳昇に改名して二つ目、昭和33年に真打昇進。はじめは古典を修行していたが、林鳴平のペンネームで新作を発表してから新作落語専門に転向、飄逸な語り口と現代的センスの軽妙な爆笑落語を披露している。新作落語を書くのは手を負傷してしまったことと、落語の爆笑王柳家金語楼に毎月台本を書いてもらっていたため。「結婚式風景」「雑俳」が十八番で書いた台本は奥さんが読んで面白いか決めるそうだ。平成11年落語芸術協会理事長に就任。その風貌のかわいらしさから20歳前後の女性ファンが突如増えだし、ついには"柳昇ギャル"などといわれる追っかけが存在すほどのブームになったこともある。弟子に春風亭昇太などがいる。惜しまれながらも平成15年6月亡くなった。 |
春風亭柳朝 |
中学在学中に志願して海軍入隊。戦後各種の職をいくつか経験した後、昭和25年8代目林家正蔵(林家彦六)に入門して林家小照の名をもらう。一度は噺家を断念するが、2年後再入門して林家正太、翌年林家照蔵と改名して二つ目。昭和37年春風亭柳朝を襲名して真打昇進。やや濁声ながらも江戸前の歯切れのいい口調で「宿屋の仇討」「品川心中」などを得意とした。また日曜演芸会の「お笑い七福神」メンバーとして大喜利でも活躍。春風亭小朝の師匠であった。 |
松旭斎すみえ |
12歳の時に里子に出され、その里親が松旭斎小天菊であったことがこの人の運命を決定づけた。見よう見まねで奇術を覚え、その腕前は先輩弟子よりも優れていた。やがて本格的に奇術の修行をはじめ、松旭斎すみえの名で松旭斎小天菊門下生となる。以来、積極的に芸域を広め、天性のしなやかさで人気を得る。出囃子の代わりに「オリーブの首飾り」をBGMとして取り入れたのは彼女が初めてであり、これ以降多くのマジシャンがマジックで使うBGMの定番となった。また従来見せるだけのマジックに軽妙なおしゃべりを交えながら披露することをしたのも彼女であり、現在の奇術のスタイルを確立したパイオニアともいえよう。現在も日本奇術協会会長として奇術界の第一線で活躍している。 |
松旭斎八重子・美恵子 |
親子で活躍する奇術師。昭和22年に松旭斎天菊に入門。昭和32年に松旭斎八重子の名で活躍。昭和50年からは娘の美恵子とコンビで高座に上がっている。特にしゃべりや笑いを入れることはなく、BGMにあわせてオーソドックスなマジックを淡々と披露する正統派の芸風を極めている。 |
正司敏江・玲児 |
どつき漫才でスターダムにのしあがり、その後離婚するが、それまでもネタに取り入れるバイタリティーあふれる漫才を展開。敏江はかしまし娘のお手伝いさんとして働くうち昭和37年、正司利江の名でトリオ漫才"ちゃっかり娘"でデビュー。しかし素人同然の実力の為にすぐ解散。他の2人は津軽姉妹として歌手に転向。一方玲児はタレントのマネージャーから及川玲児の名で音楽ショー"ピスボーイ"を結成、のちに解散。昭和41年周囲の反対を押し切り結婚。漫才コンビを組むが、その熱意に師匠の正司歌江から「正司」の屋号をもらい、昭和43年正司敏江・玲児で再デビュー。高座では情け容赦ないドツキに普通客席は引いてしまいがちだが、敏江の愛嬌と玲児の人柄でそれを笑いに昇華してしまう漫才は、この2人ならではの"芸の力"であろう。 |
松竹梅 |
杉ゆたかと漫才コンビを解消した松みのるが梅村達也、竹田倫克と昭和60年コントトリオを結成。それぞれの芸名から「松竹梅」と名付けた。「お笑いスター誕生」に出場。芸風は女装コントだがオカマコントではなく、OLや女子大生などの日常におけるありがちな風景をデフォルメしたコントで笑いをとっていた。松の「情けのーて、情けのーて、たーまらん!」はコントのオチとしてよく使われていたが、流行るところまではいかなかった。その後ホリプロにお笑い芸人としてスカウトされ、TBS「加藤茶の史上最大の作戦」でレギュラーを持つも、平成2年に解散。現在、松みのるは「お笑い実践塾」を主催。梅村と竹田は二人で「ザ・ディスカス」を結成したが、平成9年頃に解散し引退した。 |
庄野健二 |
萩原健一のそっくりさん。芸名はもちろん"ショーケン"をもじったもの。素人ものまね番組の常連として出ていたが、その勢いでバラエティ番組などにも顔を出すようになり、大々的に売り出そうとした。しかしあまりに顔や仕草が似すぎていたため萩原健一サイドからクレームがつき、結局これ以降、表舞台に出ることが出来なくなった。現在はショーパブで地道に活動しているものと思われる。 |
笑パーティー |
ばんきんや、松元ヒロ、石倉直樹のコントグループ。コントにパントマイムや楽器演奏などを組み込んだエンターテインメントなコントを演じる異色な存在で「お笑いスター誕生」で人気が出た。番組終了後キャラバン、すわ親治らとコント集団「ザ・ニュースペーパー」結成のため、合流する形で解散するが直後にばんきんやが脱退し「ジャイアント吉田とブラックジャック」に加入。現在は松元、石倉も舞台役者としてそれぞれ活動の場をひろげ舞台中心に活動している。 |
笑福亭鶴志 |
昭和49年、大阪産業大学を中退して6代目笑福亭松鶴に入門。昭和50年名古屋大須演芸場で初舞台を踏んだ。長く師匠の運転主役をしていただけに、師匠のものまねは微に入り細にわたり絶品といえる。学生時代は野球をしていたので、堂々とした体格で高座でのネタやしゃべりも豪快である。「火焔太鼓」「湯屋番」などの東京落語のネタを上方風にアレンジして成功させた功績は大きい。本業の落語の他、体当たりレポートなどマスコミでも活躍している。また落語関係の本を収集し研究熱心でもある。 |
笑福亭学光 |
高校卒業後徳島相互銀行で1年間サラリーマン生活を経験する。昭和50年笑福亭鶴光に入門。昭和52年新花月で初舞台を踏む。拳法二段の腕前は昭和49年少林寺拳法関西大会で優勝した折り紙付き。奈良健康ランドのCMに長年出演していたが、そのCMで"おいなりさん"が写っていることが探偵ナイトスクープで暴露された。サンテレビ「大人の絵本」では視聴者からの葉書に芸名を"学校"と書かれて、キレたことがある。 |
笑福亭鶴笑 |
昭和59年6代目笑福亭松鶴に入門し、笑福亭鶴笑を名のる。立体落語の元祖。手作りの人形を使った「パペット落語」を編みだし、海外にも進出して披露した。 |
笑福亭小松 |
落語家。昭和47年16歳で松鶴門下に入るや、持ち前の人なつっこさでラジオの世界で活躍。昭和52年に上京して漫才に転向。コロムビアトップ門下となって青空ピン児ポン児のポン児で漫才をする。昭和55年解散後はコアラの芸名でB&Bの弟分となるが、帰阪し松鶴門下に戻る。進行性の胃ガンで胃を全て切除したが、リハビリを兼ねた全国行脚で舞台にも復帰。現在は高座で師匠松鶴のエピソードを交えた噺などで活躍している。 |
笑福亭枝鶴 |
6代目笑福亭松鶴の長男昭和36年6代目笑福亭松鶴に入門し笑福亭光鶴を名のる。昭和48年5代目枝鶴を襲名。もともと落語界には熱心でなく、昭和62年の6代目松鶴追善興行で失踪事件を起こし、そのまま廃業してしまった。ホームレス同然の生活をしているという噂もある。 |
笑福亭松枝 |
昭和44年6代目笑福亭松鶴に入門。高座では理知的な話しぶりと豊富なボキャブラリーから「一門きってのインテリ」と評されているが、人当たりのよい落語家である。松鶴7代目名跡を巡って起こった一門の顛末を本にした「ため息坂、くちぶえ坂」は好評であった。 |
笑福亭笑瓶 |
昭和56年笑福亭鶴瓶に入門。師匠鶴瓶の「突然ガバチョ」に出演し、同番組が大ブレイクし一躍有名になったが、「突ガバ」終了後松竹芸能を辞め、単身上京。太田プロに事務所を移った。関東の放送局でディレクターやプロデューサーに「突然ガバチョ」のビデオを見せて売り込んだ。その後「鶴ちゃんのトッピング」にレギュラーとなり、関東でも顔が知られるようになる。「ものまね王座決定戦」で魔法使いサリーの"よし子ちゃん"のものまねで人気を不動のものとした。現在はバラエティー番組に頻繁に出演、浜田雅功とのコンビでレギュラー番組「HAMASHO」に出演。 |
笑福亭松鶴 |
6代目の活躍が記憶に新しいところ。祖父が林家正楽、父が先代松鶴という家庭に育った。はじめは落語家になるつもりはなかったが、凋落期にあった上方落語を地道な活動でさせていた父の下で、落語界の世話人や出版の手助けをするうち、芸名なしで前座を務めるようになる。昭和21年笑福亭松之助で初舞台を踏む。昭和23年に3代目笑福亭光鶴、昭和28年に4代目笑福亭枝鶴、昭和37年に6代目笑福亭松鶴を襲名した。昭和43年には上方落語協会会長を務め、寄席の開場など協会の復興発展に寄与した。破天荒な生き様と豪放磊落な高座は多くのファンを魅了し、酒の噺はこの人の独壇場であった。「らくだ」「天王寺詣り」「高津の富」等を得意とした。 |
笑福亭仁智 |
高校卒業後、昭和46年に笑福亭仁鶴に入門。一番弟子となり、仁智を名のる。創作落語の会のメンバーとして自作の落語を演じる。またテレビやラジオの分野でも活躍。 |
笑福亭仁福 |
昭和47年に笑福亭仁鶴に入門し仁福を名のる。若手の噺家が京橋近辺に住んでいる"京橋村"の住人で、桂雀三郎・桂雀松たちも住人。茫洋とした態度や語り口で、新作・古典ともに得難い味を出している。 |
笑福亭鶴光 |
昭和42年に6代目笑福亭松鶴に入門。 "つるこう"ではなく正しくは"つるこ"。東京デビューはTBS「学校・そば屋・テレビ局」で、劇中に3つほど小咄を披露していた。ラジオでは「オールナイトニッポン」の土曜パーソナリティーとして10年以上にわたり活躍。"わんばんこ"、"乳頭の色は…"、"ええか、え〜のんか"などのフレーズを流行らせ、下ネタをふんだんに取り込んだDJは深夜ラジオの一時代を築いた。「うぐいすだにミュージックホール」もヒット。本業では上方落語協会に所属し関西の寄席に出る傍ら、東京の落語芸術協会にも所属し、東京の寄席にも出演する。関西の落語家にあって、新宿末広亭で夜の部のトリを務めたこともある。弟子に嘉門達夫がいたが破門した。娘はタレントの小林ありさ。 |
笑福亭鶴瓶 |
京都産業大学時代、あのねのねのメンバーとして活動。卒業後メンバーと離れ昭和47年6代目笑福亭松鶴に入門。"つるべえ"ではなく正しくは"つるべ"。アフロヘアーだったころからエピソードを多数持っており、若手時代に起こした事件として、東京でレギュラー出演していた「金曜10時!うわさのチャンネル」で山口百恵が歌っている最中、鶴瓶がセットの陰で局部を出し、それを見てしまった山口百恵が歌えなくなりスタジオ内がパニック状態になってしまった。事の顛末を知ったディレクターが大激怒し、以後東京のテレビ局から出入り禁止となったのは有名。その後、関西でラジオのDJなどで活躍していたが、MBS「突然ガバチョ!」で人気に火がつき、トークを中心に笑いをとる現在のようなスタイルが確立され、関西での実績がようやく東京でも認められ、東京の番組で再び起用されるようになる。「パペポTV」「歌謡びんびんハウス」「笑っていいとも」で全国的な人気を得た。日常の中のエピソードを交えたトークは他の追随を許さない。第一線で活躍している大物芸人でありながら、バラエティー番組ではタモリ、ビートたけし、志村けんらと共演すると必ずと言っていいほどいじられる。本業でも「らくごのご」など高座に上がっている。余談であるが玲子夫人は、あのねのねのメンバーだった。 |
笑福亭仁鶴 |
高校卒業後家業を手伝ううち、古道具屋で見つけた初代桂春団治のレコードに魅せられ、ラジオ素人参加番組にしばしば出場していた。昭和36年6代目笑福亭松鶴に入門。昭和40年、ラジオ大阪「大阪オールナイト」のDJで人気者を得、落語家タレントの先駆者となる。ボンカレーのCMでは当時の人気時代劇「子連れ狼」のパロディで「大五郎、3分間待つのだぞ。」「どんなんかなぁ〜」などの台詞が流行語となり、全国的に名を知られるようになる。現代上方落語界のトップとして双璧をなす桂三枝とは落語・テレビ・ラジオとあらゆる面で対比される。「池田の猪買い」「青菜」「くしゃみ講釈」などを得意とし、本格の上方噺で爆笑をとる力量を養い、現在も師匠亡き後の笑福亭一門総帥として高座で活躍する傍ら、NHK「バラエティ生活笑百科」の司会を務め、土曜の昼の顔としてすっかり定着している。 |
笑福亭松之助 |
上方落語界の重鎮であるが、関東では明石家さんまの師匠として知られている。昭和24年5代目笑福亭松鶴に入門。上方落語の低迷期には宝塚新芸座、吉本新喜劇でコメディー作家、役者として活躍。「桜の宮」「堀川」「住吉駕籠」などの古典の評価も高いが、明石光司のペンネームでの新作落語もこなしたり、古典落語の大胆な改作も試みるなど器用さも見せている。半年間ではあるが平成11年9月まで、ニュースステーションのコメンテーターとしても定期的に登場していた。 |
笑福亭松葉 |
高校卒業後ビール会社に勤めたが、ビールを盗み飲んだことがばれて3ヶ月でクビになる。昭和45年6代目笑福亭松鶴に入門、松葉を名のる。師匠が亡くなって8年後、7代目を誰が継承するかで、兄弟子の仁鶴が一門の相談なしに「7代目を松葉に継いでもらう」と宣言。"お家騒動"に巻き込まれる。結局7代目笑福亭松鶴を襲名することで一件落着するが、今度は7代目襲名を目前にして病に倒れ、残念ながら亡くなってしまった。死後7代目笑福亭松鶴の名を贈られ、松鶴の大看板は現在永久欠番の形となっている。 |
昭和のいる・こいる |
アルバイト先の川崎の歌声喫茶「エルサルバドル」で知り合ったのがコンビを組むきっかけとなった。イントネーションがややのんびりとした、のいるの口調に対し、こいるは気が短く調子はやけにいい。相手のいうことを最後まで聞かないで、早口で「そうそう、よかったよかった」と相槌を打つ。昭和41年、獅子てんや・瀬戸わんやに入門。新宿・花園神社脇の「花園饅頭」でアルバイトをしながら苦労を乗り越えるという意味を込めて、"花園のいる・こいる"の芸名でスタート。その芸名から当初は女性漫才コンビと勘違いされることがあったという。その後、"獅子のいる・瀬戸こいる"、"獅子のびる・瀬戸こえる"と改名、昭和48年に"昭和のいる・こいる"に改めた。昭和51年にNHK漫才コンクールでは、さがみ三太・良太、ツービートを抑え優勝。こいるの「コマ切れ民謡」は現在も持ちネタの1つ。演芸場中心の活動であったが、地道な努力が徐々に実を結び、平成11年あたりから「しょうがない、しょうがない」「ヘーヘー、ホーホー」などこいるの相槌がうけ、大ブレイクする。現在もこのスタイルは変わらず、奇妙なやりとりで笑いをとっている。 |
松鶴家千とせ |
漫談家。昭和28年松鶴家千代若・千代菊に入門。昭和42年に松鶴家千とせを襲名して宮田羊かんと漫才コンビを結成。その後コンビ解消して漫談に転向。昭和50年にカーリーヘアの風貌で童謡"夕やけ小やけ"をジャズのフィーリングタッチで、独特の”メルヘンの世界”を築き上げ、「俺が夕焼けだった頃、弟は小焼けだった…」「わかるかな、わかんねえだろうなぁ」としみじみささやきかけるような口調の漫談がウケ、一世を風靡する。この勢いでレコードまでだし、それがヒットした。しかしその人気も1年しか持たず、「わかんねえだろうなぁ」につづく第2弾のギャグ「俺には、どうしようもない」は全く浸透しなかった。昭和56年には「ビートたけしのオールナイトニッポン」で話題に取り上げられるも、たけしがシャレで「あの人は今、生活保護を受けてます」と発言したところ、真に受けたマスコミに家まで取材に来られてしまったエピソードがある。昭和59年頃から突如「お笑いスター誕生」に出場。実績のある大ベテランが若手芸人に混じって"サバイバルシリーズ"へのチャレンジは違和感がありながも格の違いを見せつけていた。現在も地味ながらスタイルは変えず、味のある芸を披露している。また「さつまいもの会」を主宰するなどボランティア活動も積極的に参加している。 |
松鶴家千代若・千代菊 |
昭和期の漫才師。千代若は大正12年に初代松鶴家千代八に入門。千代菊は大正13年に日本舞踊で初舞台を踏む。昭和6年に結婚して、千代若・千代菊の夫婦漫才を結成。以来60年近くにわたり、千代菊の三味線伴奏で千代若の民謡を助け、ネタに取り入れていた。ゆったりとしたスケールの大きい掛け合い漫才に定評があり、千代若の「もう帰ろうよ」のフレーズはおなじみ。昭和24年には漫才研究会の会員となり、民謡・詩吟・剣舞・三河万歳などの再演に努力した。千代菊病没後は実娘や弟子とコンビを組むも長続きすることはなかった。5年前に千代若も亡くなった。ちなみにツービートは千代若・千代菊の弟子となっているが、これは彼らが漫才協団に加入するために、松鶴家千とせが千代若・千代菊に引き合わせ、それ以来千代若・千代菊門下となったといういきさつがある。また、かつて千代若は大正製薬「メンフラハップ」のCMで巨人の江川卓、ブッチャーブラザーズのリッキーと共演し、「メンフラハップに謝りなさい」の台詞が一時期流行ったことがあった。 |
ジョーダンズ |
山崎まさやと三又忠久のお笑いコンビ。当初は「冗談's」というコンビ名だった。山崎は志村けんの弟子で「ギルガメッシュないと」にイジリー岡田の後釜として出演し顔が知られていた。「ボキャブラ天国」では三又の金八先生のモノマネがうけ、そこから次第にお茶の間に知られるようになった。現在も「志村けんのバカ殿様」「たけしの斎藤寝具店」をはじめ単発のお笑い番組に他の若手芸人たちとともに出演している。 |
白木みのる |
人呼んで"Mr.Children"。永遠の少年として年齢未詳としているが、昭和9年の生まれである。歌手を目指していたが、吉本興業入りをきっかけに、「スチャラカ社員」に出演。続く「てなもんや三度笠」では小坊主・珍念の役で藤田まこと扮するあんかけの時次郎との名コンビでお笑い界の人気者となった。番組終了後は自ら劇団を結成するが、1年ほどで解散する。その後は主に舞台の地方公演などでテレビに出ることはほとんどなくなった。現在は賃貸住宅のオーナーなどで生計を立てているほか、本業の役者としても北島三郎のコマ劇場公演では芝居のレギュラーメンバーとして毎年参加している。Mr.ChildrenのアルバムのCMにも出演して一役買った。 |
白倉ヒサオ |
昭和54年ファイブカラットのリードボーカル&ギターとしてデビュー。デビュー曲の「ジンギスカン」がヒットしてその年の全国有線大賞新人賞に輝く。これだけ華々しくデビューを飾りながら"一発屋"で終わってしまい、解散後はその風貌から矢沢永吉のものまね芸に磨きをかける。「日本ものまね大賞」に出演してアイデア賞を受賞し、本格的ものまね芸人として活動。「ものまねバトル大賞」にレギュラー出演。本人は永ちゃんのものまねを十八番としているが、所ジョージのものまねは顔、声、仕草とも絶品で、その評価は永ちゃんの時よりもはるかに高い。 |
白山雅一 |
声帯模写。昭和17年に初代柳家三亀松に入門して柳家亀松の名をもらう。昭和24年に白山雅一と改名。戦後歌謡の歌まね専門として主にラジオやテレビの寄席演芸で活躍。レパートリーは戦後に活躍した歌手がほとんどで、藤山一郎、灰田勝彦、東海林太郎など多数。昭和53年「三波伸介の凸凹大学校」の番組当初から1年間レギュラー出演していたが、起用された意図は今もって不明である。 |
人生幸朗・生恵幸子 |
昭和期の漫才師。ぼやき漫才で地位を築いた。昭和2年21歳で芝居の一座に入り、ぼやき漫才の創始者である都家文雄に入門して漫才に転向。「まあ皆さん、聞いてください。」で始まるぼやきの対象は歌謡曲専門で、「責任者出てこい!」のフレーズで客席を沸かせた。散々ぼやいて毒づいた後、幸子の「やかましい、この泥亀!」のことばに、幸朗首をすくめ、「かあちゃん、ゴメン」と謝るくだりも茶目っ気があった。昭和57年に人生幸朗が亡くなり、"ぼやき漫才"の後継者もおらず、このスタイルも今では過去のものという感がある。一時期トミーズが現代の歌謡曲をぼやき倒すネタをやっていたが、あくまでも持ちネタの1つであり、ぼやき漫才を継承するものではなかった。 |
じん弘とスリーポインツ |
軽演劇の一座を組んでいたじん弘が、劇団だけでは食えないという理由から昭和38年に座員の北海道太、九々八十一とトリオを結成。主に地方のキャバレー等を回って稼ぐ傍らに、寄席に出演したりしていた。棒の先にピンポン玉をくっつけ、卓球のコントをする「インチキピンポン」の持ちネタで有名。後に九々八十一に代わりマルセ太郎が加わった。 |