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【茨城】開藩400年・水戸藩の光芒 『二夫にまみえず』は建前? 全国5例目の離縁状の意味2009年9月22日
旧水戸藩士だった岡崎家(東京)で最近見つかった「返り一札」と呼ばれる武士の離縁状受取書が興味深い。 「嫡女(ちゃくじょ)(長女)の儀、此度(このたび)不縁に付き御離別の趣、承知令(せし)め候」 原文は文字通り「三くだり半」の短文だが、専修大教授の高木侃(ただし)氏(法制史)の研究によると、こうした武士の離縁状の授受を示す史料は全国で五例目という。 同藩の重臣、朝比奈弥太郎泰然が天保七(一八三六)年十一月、長女の離婚について承知した旨を、娘の夫だった天野孫七郎にあてた書状で、署名に朝比奈の花押もきちんと据えられている。 朝比奈弥太郎といえば、城代家老も務めた水戸藩の名門で、幕末期に同藩内の尊王攘夷派「天狗(てんぐ)党」と激しく藩内抗争を演じた一方の主役、「諸生党」の大幹部として知られる。 一方の天野孫七郎の父、景寿は五百石、小姓頭で、朝比奈家の方が家格が上だった。このため、夫の側からの一方的な離婚だけでなく、協議離婚もしくは妻の側から求めて離婚した可能性も考えられなくはない。また、二人は共に再婚していることから、当時の武家社会で重んじられていた「貞婦は二夫にまみえず」は建前にすぎなかったことをうかがわせる。 ところで、そもそも武家の間で当時、離縁状を取り交わす慣習はあったのだろうか。 これまでの通説では、武士の離婚は、藩への届け出だけで、庶民のように離縁状を取り交わす必要はなかったとされてきたが、高木氏は「御三家であった水戸家、しかも家老級の受取書が残っていたということは、藩への正式な届以外に、離縁状の授受が広く行われていたことを示す証左」と注目する。 江戸時代は武士も庶民も離婚率が高かった。これまでの研究成果には、武士の離婚率が11%、再婚率は59%というデータもある。現代の離婚率約2%と比べても、江戸時代の武士の離婚、再婚率は極めて高い。 夫の側から離婚を言い渡された武家の妻たちも、持参金を返還され、さっさと再婚していたのである。武家の女性といえば、夫の両親に仕え、財産もなく、虐げられた存在と思われがちだが、こと離婚に関しては現代人が考えるほど、「暗黒社会」ではなかったのかもしれない。 関心と興味のある方はぜひ、県立歴史館で二十七日まで開催中の史料紹介展「文書にみる近世の女性たち」に展示されている原史料をご覧いただきたい。 (吉原康和)
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