十八歳の冬に自動車とぶつかって足を折り、手術を受けた。このとき、かねてより疑問に思っていたことを自分で調べ、幸か不幸か判らないが、自身の正体を知ることとなって頭がくらくらした。
現代では男性の三百人に一人の割合で出現する、尿道下裂という先天的な異常が、自分の体にはあった。手術の際にカテーテルを入れると聞いて、二つある穴のどちらに入れるのかと悩んだのだが、保健の教科書にある断面図にはどう見ても一つしかなかった。胎児の段階で人は性的に分化していくが、どこかで迷いが生じたのか俺は男になりきれなかったらしい。
機能的に何か不都合があるわけではなかった。但し統計的には、精巣癌などを発症する確率がいくらか高いらしい。そして今までに自分自身や周辺で起きていた異変を、あらためて思い知らされることになる。それは身体的なことに由来する異変でもあり、またはどこにでも起こりうる不幸でもあった。
不幸というのは様々な意味において厄介だ。第一に、それ自体が悲惨なことであり、第二に、連鎖的にいくつもの不幸が引き起こされ、第三には、不幸を言い訳にして自堕落を正当化しかねない。不幸を引き金として何らかの才能が開花することも稀にはあるのだろうが、だいたいは何も素晴らしいことは起こらずに打ちのめされる。そして人間は鉄ではないのだから熱して叩かれても鍛えられずにただ崩されていく。俺がいまこうして文章を書いていられるのは、運良く崩れなかったからだ。あるいは鉄のような性質が多少は人にあるのか判らない。
これから長々と書くことの半分は繰り言かもしれないが、あとの半分で何かを見出せればと思っている。
五人きょうだいに生まれて自分だけが男だったのは偶然でなく、二次性徴を迎えた十三歳の頃、どういうわけか胸が少し膨らみ、触れるとシコリがあって痛みを覚えた。病院へ精密検査を受けに行くと、一時的にホルモンのバランスが崩れているだけだから心配ない、けれども女性用シャンプーなどを使うのは控えるようにと医者が言った。当時はちょうど、環境ホルモンという言葉が盛んに使われだした時期でもあった。カップラーメンは丼に移して食べ、髪を石鹸で洗い、髪がごわごわになった。
腕力もなく、すぐに涙をこぼす自分が女々しいという自覚はあったが、あるときを境にして変わることになる。十六歳の頃に、周囲でいくつかの不幸があり、身近な人々が豹変するのを目の当たりにしながら、克服すべきは自分自身だと思い、針金のように脆かった身体は徐々に強くなって自身を振りまわした。家出を試みたけれど警察に捕まったり、雪道で自転車のブレーキが効かなくて路上駐車のクルマに突っ込んだり、交差点に飛び出して撥ねられたのが二度もあったりと、無茶苦茶というより他にない行動をしていた。笑い話として済ませてもいいのだけど、当時は笑う余裕もなく大真面目だった。
高校を出る間際になって足を折り、さらには親戚の死をきっかけとして両親が多額の借金を負う羽目になったとき、ようやく俺は笑うことができた。何もかもがひどいことになって、なぜだか吹き出してしまい、いくらか気が楽になった。このときの心情を今でも理解できない。大学にも落ちたから何もすることがなく、松葉杖をついて近所を散歩しながら写真を撮ったり、部屋にいて小説のようなものを書き始めたりした。
それまでにも何度か死にそうな思いをしていたけれど、ただの「思い」であって、実際には何も起こらなかった。手術のときにも印象的だったのは隣りのベッドにいた六十代のおじさんのことだった。彼は雨の日に、孫を抱きかかえてマンションの入り口で滑って転び、孫は無事だったが自分の脚がポッキリ折れた。けれども金属を埋め込んで骨は繋がったのだ。彼は以前にも気胸を患っていたが完治した、何でも気の持ちようで治るのだといい、一週間ほどの入院生活は、彼との会話によって楽しいものになった。手術前に知った自分の身体のことは、気に病む必要はなく、生きようと思えば生きる、駄目だと思えば死んでしまう、その程度のことだと思った。俺の足首にも金属が埋め込まれて、事故から半年後には何事もなかったように歩くことができた。ひどく痩せ細った脚のリハビリのつもりで再び自転車に乗り始め、徐々に距離を伸ばしていって、翌年には、日帰りで百キロを走れるまでに回復した。
浪人をしながら文章を書き、写真を撮り、恋人と遊びに出掛けたりなどしていた。不幸のあとには多少の愉快なことがあって、また、それは長くは続かない。借金に押しつぶされそうになった親は病み、仕事を助けるために現場へかりだされた俺が病み、愉しかった日々は終わる。それを不幸のせいだというのは簡単だが、実際は、どこにでもありうることだ。何のせいにもできない。
大学の夏休みに長い旅行をして、その最中に精神を病んでしまい、通院するようなことになり、その翌年には再び旅行をして自転車日本縦断なんてことを成し遂げたが、いろいろともう頭が駄目になってしまい大学に通うことを諦めた。そもそも人がこのような旅をするのは、何かが駄目になりかけているときだと思う。砂浜に張ったテントのなかで人の生死について考えを巡らせていると涙が止まらずになかなか寝つけなかった。さらには海外へも飛び出してみたけれど混迷は深まるばかりだった。不思議なのは黒熊の親子に遭ってしまったとき、その場では死について思いが至ることはなく、毛むくじゃらの彼らが血の通っている生き物であり、けれどもまったく正体の判らない彼らと、向き合っている自分がいるということだった。本当の恐怖がやってきたのは、彼らが立ち去ってから暫くあとのことだ。
生きている実感なんてものを、体験したことはないし、また、死を実感したこともなかった。死に近付いたことはあっても死んだことがない。ブコウスキーの言うような、死をポケットに入れて、時々、取り出してみる、そんなことは俺にはできない。できることなら考えたくもないが、一応、自分がいつか死ぬことは解っている。誰にでも平等に訪れるのが死だ。生きたいと願うか、死にたいと願うかに関係なく訪れる。
その人の一生が、喜びに満ちたものであったか、苦痛や不幸に満ちたものであったか、それすらもついには意味を為さなくなる。だから人々は死に魅了されるのかもしれないが、俺にはよくわからない。死を忘れるな、死を思え、メメントモリと言われても、理解できないというのが正直なところだ。死について真面目に考えれば人は発狂するのじゃないか。だからポケットに入れていたはずの死はすりぬけて、どこかへ落としていき、戸惑っているところへ突如、背後から覆い被さる。あらかじめ備えておくことは、少なくとも俺にはできない。だから死をポケットに入れない。知らぬうちに入っているかもしれないけれど。
冒頭に書いたこと、もしかしたら自分の寿命が平均よりは長くないかもしれない、そんなことはすっかり忘れている。年に一度、思い出すかどうかだ。習慣的にタバコを吸う人が平均より寿命が長くないかもしれない、それと同じことだと思っている。統計的に相関関係はみられても因果関係を証明するのは難しい。だから俺は運良く九十歳まで生きるかもしれないし、明日、通勤途中に事故死するかもしれない。たとえ何かが染色体に刻まれていたとしても、二十五歳まで生き延びてしまった現在、それはもう寿命を左右しない。
成人の男になった現在、自分がひとりの男として認められるか、または自分自身を認めているかというのも重要な問題で、大人になりきれていない、男にもなりきれていない、よくわからない生き物かも判らないが、それでもなんとなく生き続けてはいて、今さら女にはならないし、人間ではない犬や猫にもならない。考え方はいろいろあるが、さて、ここまで生きている俺は不幸であるのか、これからも生きていこうとする俺は不幸なのかと問われれば、どうにも答えようがなく、そもそも幸不幸で論じることに意味はなく、秋の夜長にビールを飲んで酔っぱらった勢いで長々とこうして文章を綴っている俺はただの大馬鹿野郎だから、無論、筋道を考えながら書くことなんかできない。話の着地点が見当たらない。
んで、この文章を書き始める前に、『晩秋の一夜』を聴いて、ぼろぼろ泣きながら、あー、俺、冬になるまえに火鉢を買おう、と思った。火鉢を抱いて冬を越し、夏には押入れに仕舞い込み、次の冬にはまた火鉢に手をかざす、その繰り返しを延々と続けていけば、俺はちゃんと老人になるまで生きていけそうに思えた。ちゃんと老人になるまで、って、自分で書いといてなんだけど、凄い台詞だな。
ある秋の夜 ひとりで火鉢を抱き
くもった部屋の空気で息をした
いまだに死ねぬ哀れなる虫の音と 秋の夜長を共に遊んでいた
ああ ひとり動かず部屋にいた ある秋の夜長に
(エレファントカシマシ『晩秋の一夜』)
本当のことをいえば、俺は、激しく怒っていた。誰を恨めばいいのか判らず、矛先をまずは他人に向けたが、やがては自分自身に向かい、追い込んでいく。どこかで減速しなければと思っていた。宥めるのではなく、落ち着かせるのではなく、ただ、思いっきり走らせたあとに速度を落として、自分をただ歩かせるか、座らせるかしたかった。そのためには今まで数年間にやってきた暴走が必要だったし、ここに何度も長い文章を書くことが必要だった。
めちゃくちゃな、この文章を読んでいるやつらは、だいたい、ひとりで部屋にいて、虫の音も聴こえてんだろ。男らしいとか、女らしいとか、そもそも性別なんか知らんけど、あのー、その音が虫の鳴き声だと認識できてんなら、少なくとも君は人間なんで、何も気に病むことはないし、死について考えんのはいいけど、死なないでくれ。
いい文章だね。 何か本書いて欲しい。 探すし見つけるから。
まだあったよこのブログ つわけでさっきまで見てたやつを紹介でも ある秋の夜長に http://anond.hatelabo.jp/20090907225448 ホントにさ、酒に酔ってこの文章かいたわけ?シラフでもムリだわww ...
http://anond.hatelabo.jp/20090907225448 まさか増田で尿道下裂のエントリを拝見するとは思わなかった。 今まで他で聞いたことがないので、300人に1人もなるものなのか?と思ってググってみたら...