小泉政権以降、『新自由主義』あるいは『ネオリベ』なる言葉は、否定的になってしまった。もともとは、同じ自由主義的な意味合いを持ちながら福祉国家的に思想が変容してしまった『リベラリズム』とは別に用いられ始めた言葉であった。1950年代に経済教育財団のレオナルド・リードが『リバタリアン』と自称したことが始まりで、哲学界では『アナーキー、国家、ユートピア』のロバート・ノージックが始まりと言われる。そして、リバタリズムには1)過激な無政府資本主義、2)夜警国家にまで国家を縮小する『最小国家主義』そして、3)最後が『小さな政府』である。1)が自己所有権に訴えかける『自然権論』で2)は帰結主義、3)は契約論が自由の正当化の理由である。オーストリア学派のマレー・ロスバードは1)を信奉し、先のノージックが2)で、3)はジョンロックである。このうち、1)のリバタリズムは左翼的傾向が強く、各個人は自信の身体に排他的支配権を有しているが、外界の資源は本来各個人が私有しても構わないものではないとの思想であり、政府の再分配を容認するため正確にはリバタリズムとは言えない。
さらに詳しく、新自由主義をみてゆくと、シカゴ学派とオーストリア学派がある。シカゴ学派は効率性から市場を支持する帰結主義だが、場合によっては政府による介入が効率的な場合もあり、ケインズ主義を受けいれる土壌がある。これに対し、オーストリア学派は、市場経済を支持する理由を、シカゴ学派と違い市場が完全市場であり得ない前提から始めているため、局所的な知識を発見し有効に利用することにしている。この他にも、ブキャナンの『ヴァージニア学派』もあるが、読者を混同させないためにもここで一旦筆を置こう。
ここで、単純な新自由主義者と呼ばれる『リバタリアン』を単純に分類したが、ここで明らかなのは、保守派や左派が十把一絡げに批判する新自由主義には幅があることだ。それに、小泉政権は2)の帰結主義(要するに民営化でサービス向上など)に近く、1)の無政府資本主義とは違い、生物学的な無規制の競争を促したわけではない。
当方は、左翼系のブログを読んでいると、上記のような新自由主義についての知識も定義も無く、小泉政権を1)に近い無政府資本主義と錯覚し批判しているのを頻繁に見かける。これは佐藤優などの左派系評論家にも見られる。一方の右派も、新自由主義をネガティブにとらえ過ぎである。そもそも、小さな政府を唱えた小泉政権は新自由主義を3分割した先の説明からでは、一番穏健である。これすらも否定するようでは、我が国の改革の行方は思いやられる。
さて、後日当方は『自由はどこまで可能か? リバタリアニズム入門』を読む。本書は自由権論が大元になって書かれている。リバタリアンは財産権や市場などを大事に考えるが、多くの人は国家が法的に保護しているから財産権が存在すると考えるのに対し、リバタリアンは闇市などでも財産権や市場は存在していることから国家が無くても守られると考える。同じように、裁判所も、警察も民間の方が良いと考えるのである。例えば、アメリカには代替的紛争解決サービスが裁判所の代わりにあるし、リバタリアンは 国家による罰よりも、被害者への補填(すなわち被害者の権利回復)に重きをおくため、刑務所などもあまり必要ない。また、無政府資本主義者は、犯罪者の情 報を国家が独占せず民間にも公開することや、国家が独占している復讐権を被害者または遺族の同意があれば行使されることにも賛成している。もちろん、過激 な面があるため、リバタリン内で、統一的コンセンサスがあるわけではない。
一方で、リバタリアンは共同体を重視しない、個人を重視すると言われるが、これは大きな間違いで、民間で、所属や脱退が自身の意思で成し遂げられるのであればいかなる共同体に参加することも賛同する。日教組や過激な左系組合のように、職場での圧力などで加盟させられる団体や、脱退が不可能な社会保障制度に強制的に加盟させる共同体には否定的なだけだ。ただリバタリアンが、国家よりも個人を重視して、国家に中立性を求めるのは事実である。そして、『帝国』を目指しているのである。さらに、市場経済を重視するリバタリアンは弱肉強食を促していると言われるが、市場経済は等価交換ではなく、ゼロサムゲームでもないので、弱肉強食ではなく、相手も自分も儲かるのである。
我々は、リバタリアニズムのシカゴ学派のハイエクをリバタリアンと 見る向きもあるが、彼の唱えた自生的秩序にはある程度疑問がある。たしかに、合理主義を排する理由はわかるが、現在、世界中の法は、近代に『書かれた』わ けであって、ハイエクの論理に従えば、全て破棄せざる終えない。それに、合理主義的でなく自然にできた秩序を重視すると、談合なども正当化されてしまう。問題なのは、法が自然にできたかではなく、自由を規制し、侵害しないかである。もちろん、バークの保守主義のように、古い慣習はすべて『時効』の論理で正当化されるなどは言語道断である。
『自由とはどこまで可能か』は、リバタリアニズムの誤解を解き、より深く同思想を勉強する最適の入門書である。池田信夫氏の『ハイエク』、フリードマンの『政府からの自由』と『新自由主義とは』に並ぶ、素晴らしいリバタリアンの本である。一読をお勧めする。
by libertarian0606
在日が奥さんの八木は黙れ!