異郷暮らし(タヒャンサリ) |
【第11回:1999年12月9日】 本名を呼び、名のる運動 −民族文化の違い認め合う契機 親の意識変えるケースも 【第12回:2000年1月20日】 【第13回:2000年2月10日】 【第14回:2000年2月17日】 【第15回:2000年3月9日】 |
第11〜15回
【第11回:1999年12月9日】
本名を呼び、名のる運動
−民族文化の違い認め合う契機
親の意識変えるケースも−
在日朝鮮人が集住する大阪市生野区では、児童・生徒の過半数が朝鮮人という小・中学校が少なくない。北巽小学校の場合、600人の児童のうち、朝鮮・韓国籍、および「帰化」にともなって日本国籍になった子が半数を占める。
12月1日、同校で「民族学級校内発表会」が催された。色あざやかな民族衣装を身につけた子らが、伝統的な歌や舞踊をのびのびと披露する姿は、見守る全校生と保護者の胸にさわやかな感動を与えた。
民族学級とは、朝鮮をルーツとする子らが、週に一度、放課後に集まって民族の文化を学ぶ場である。
1945年8月、祖国解放を迎えた在日朝鮮人はただちに民族教育を開始した。瞬く間に全国で600の民族学校が建てられ、生徒数は6万人に達した。ところがGHQ(連合軍総司令部)と日本政府は民族学校の存在を認めず、48年に大規模な弾圧を加えた。兵庫では3000人が逮捕され、大阪では16歳の少年が警官隊によって射殺された。翌49年にはさらに徹底した閉鎖令が強行され、民族学校は壊滅的な打撃を受けた。
しかし朝鮮人は「子どもらに民族教育を!」の一念で学校再建に立ち上がった。一方、一部の府県では、強制的に日本学校に編入させられた子らのために、民族学級を設ける権利を勝ち取った。
特に大阪では、72年に長橋小学校の朝鮮人児童が「ぼくらも朝鮮語を習いたい」と訴えたのを機に、新しい形の民族学級を設置する運動が沸き上がった。そしていまや府内で170校、3000人以上を網羅するに至ったのである。
民族学級における最重要課題は「本名を呼び、名のる運動」である。北巽小の民族講師の李ミンギさんは語る。
「最初はみな出自を隠し、日本名を使おうとします。でも民族学級に入って、民族の文化にふれるうちに、表情が生き生きと変わっていくんですよ」
本人も、周囲の日本人教師や級友たちも自然に本名を呼び・名のる過程で、お互いの違いを認め合う共生意識が芽生えていく。それだけではない。かつて本名を隠し、民族的コンプレックスにさいなまれていた親が、堂々と民族を歌い踊る我が子の姿に接して、涙ながらに目覚めるケースも数知れない。
ところで本名を呼び合ううえで頭の痛い問題がある。ハングルの使用法は祖国の南北で共通しているが、一部に発音の異なるものがある。例えば、「李」君という名字の場合、北朝鮮では「リ」と読むが、韓国では「イ」と読む。
「そんなときは、その子の親の意向に沿って呼び方を区別するんですが、親自身も母国語を知らないことが多いので困るんですよね」と苦笑いする李さん。
以前、同じ悩みの民族講師から聞いた言葉が記憶に甦った。
「ホント、現場にいたら、早く祖国を統一してほしい!って思いますよ」
【第
朝鮮語の授業にて
−偏見の垣根飛び越え
女子学生 初めて本名と向かい合う−
近年、朝鮮語を第二外国語として採用する大学が増加し、私も昨年から甲南大学で非常勤講師を務めることになった。担当は一、二回生の4クラスで、それぞれ約30人ずつ。程度の差はあれ、学生は真摯にハングルに取り組んでいる。
文字の読み書きをひと通り学んだ頃のことである。学生たちに自分の名前をハングル表記で黒板に書かせてみたとき、一人の女子学生が話しかけてきた。
「先生、本名を書いた方がいいですか」
「・・・?」
「わたし、在日ですから」
「ああ、もちろん!」
以後、彼女を「張葉月」と本名で呼ぶことになったのだが・・・。
張さんは在日三世。一貫して日本学校に通い、通名を使ってきたが、両親から常々「韓国人として堂々と生きなさい」と教えられてきたため、国籍を隠そうという意識はなかった。
大学入学と同時に朝鮮語を選択し、韓国文化研究会の誘いにも応じた。韓文研で日帝植民地時代の歴史を初めて学んだときには衝撃を受けた。しかし先輩から「同胞は日帝時代の”創氏改名”によって名前を奪われたのだから、君はすぐに本名を名乗るべきだ」といわれても、そう簡単に割り切れない自分がいた。韓文研や朝鮮語の授業では本名を使っても、日常生活ではまだためらいがある。
「なぜ?」と聞くと、彼女は「ずっと日本名を使ってきたから、馴染んでいるというか・・・」と言葉尻をにごした。
かつて在日朝鮮人は懸命に国籍を隠そうとしたものだが、いまではさほど民族的コンプレックスを感じない世代が増えている。にもかかわらず本名に踏み切れないところに、差別の根深さがある。長い歳月にわたって全民族的に強要されてきた慣習は、もはや容易に払拭することができないほどに在日同胞の身体に染み込んでいるのである。
「でも」と彼女は言葉を続けた。「わたしはいま、生まれて初めて本名のことを真剣に考えるようになりました」と。
2年前、最愛のオモニ(母)が他界した。その報告を兼ね、昨年6月に家族4人でソウルの親戚を訪ねたとき、「もしハルモニ(祖母)たちが日本に渡らなかったら、わたしもこの地で生まれたんだなぁ」という思いがしみじみと胸を浸したという。
在日同胞の多くは、何らかのきっかけでハングルを学び、祖国に触れるなかで真の民族性に目覚めていく。あたかも大地に落ちた種子が、自力で養分を吸収しながら花に育つように。
前期の終わり頃、学生たちが朝鮮語を選択した動機をアンケート調査したところ、「隣国の文化に触れたいから」といった回答が8割近くを占めた。若い世代は古びた偏見の垣根を軽々と飛び越えていく。
同胞であれ日本人であれ、若者たちが新たな時代に向かって飛翔していくために、朝鮮語の授業がささやかな一助となるなら、これにしく喜びはない。
【第13回:2000年2月10日】
春の先駆者たち
−夢託す通訳案内業
願いは一つハングルへ−
私は甲南大以外に、インタースクールという通訳者翻訳者養成学校でもハングル講師を務めている。1966年創立。現在、大阪、東京など7都市で運営され、英語を中心に仏・中・韓の各コースがある。多数のプロを輩出し、サミット、APEC大阪会議、ユネスコ国際会議など数々のイベントで通訳スタッフサービスを担当した実績を誇る。
私の担当する本科コースでは毎回10人前後が受講するが、何しろ通訳者の育成が目的だけにレベルが高く、朝鮮学校卒業生や韓国留学経験者が集まってくる。若い女性が大半なので、真剣ななかにも笑い声が絶えない。
顔ぶれを見ると、フリーター、公務員、法廷通訳者、国際結婚した主婦などさまざまだが、共通した願いは一つ、「ハングルに関わる仕事をしたい」という点にある。しかも受講生の半数が日本人であることに時代の変化を感じさせられる。
中でもユニークなキャラクターで人気者なのが村津ゆきみさんだ。韓国に触れたきっかけは11年前。慶尚道にあるハンセン氏病患者の村でワークキャンプに参加して以後、ボランティア活動を継続。一念発起で93年から韓南大学に留学した。ところが阪神大震災で自宅が全壊し、妹が亡くなるという不幸に見舞われたため、留学を中断し悶々とした日々を過ごした。
「そんなとき、韓国語を勉強するサークルに誘われて、韓国映画を集中的に観る機会があったんですが、ふと何かを取り戻したような気持ちがしたんです。もう一度韓国語をやってみようと。友達の紹介でインターを見学したとき、”自分のビジョンが見えた!”と感じましたね」
以後、4期連続で通いつづけた。授業では、韓国語のテープを聴いてすぐに日本語通訳する訓練が行われる。初期の頃には手も足も出なかったのが、いまでは8割以上こなせるようになった。昨年は、韓国の詩集を翻訳する仕事が入り、インタースクールの仲間とともに共同作業を行った。また秋には4人で通訳案内業試験を受け、彼女を含む3人が見事合格した。
「インターには志をもった人が集まってくるのでエネルギーが湧いてきます。技術を学ぶのも大切ですが、同じ想いの友人が増えたことが最大の財産ですね」と目を細める村津さん。
華やかな英語通訳に比べれば、ハングルの社会的な認知度はまだ低い。特に2年前から韓国が「IMF事態」と呼ばれる不況に陥って以後、韓国語の通訳・翻訳の仕事は「冬の時代」が続く。それでも彼女たちは夢に向かってひたむきな努力を重ねている。
日本の植民地時代、朴八陽(パクパリャン)は「春の先駆者」という詩を書いた。春先に、どの花よりも早く咲くチンダルレ(つつじ)に祖国解放への想いを託した名作である。冬の寒さに耐えながら、やがて来る両国間の春の時代のため職業的に貢献したいと願う彼女たちこそ春の先駆者だといえば、またきっとキャッキャッと笑うだろうな。
【第14回:2000年2月17日】
70日間国語修得運動
−会話能力を身につけ
民族性の一片を獲得−
私がハングルを学んだのは三十余年も昔のことである。激しい朝鮮人差別が蔓延していた時代に在日二世として生まれ、日本学校に通った私は極度の民族虚無主義に蝕まれていた。通名を使い、必死に国籍を隠す苦痛は、体験者でなければ到底計り知れないほど過酷なものだった。
そんな私が民族的アイデンティティに目覚めたのは高校3年の夏だった。同胞の先輩から初めて祖国の歴史や、在日をとりまく不条理について聞かされたとき、「俺は朝鮮人差別をなくすために生涯を捧げたい!」という激情がこみ上げ、朝鮮大学校(以下、朝大)に進学する決意をしたのだった。その日を私は第2の誕生日と位置づけている。
朝大は東京都小平市にある。入学して最初の難関はクゴ(国語)の修得だった。新入生の大半は朝鮮高級学校卒業生だが、”日高出身者”も全学部合わせて50人ほどいた。そのため1学期は日本語で授業が行われるが、2学期以後は全て朝鮮語になる。そこで私たちに課せられた課題は、なんと「70日間クゴ修得運動」だった。わずか70日で1国の言語をマスターするとは信じがたいことだった。
私たちは各学部での授業が終わると、毎日放課後に合流し特講を受けた。朝大は全寮制なので、夕食後は各部屋で自習する。11時の消灯後は、洗面所に入ってさらに2、3時間。同級生も先輩も、顔さえ合わせれば「頑張れよ」と煽りたてるので、寝ても醒めてもクゴ一色の日々が続いた。
朝大では毎日朝礼が行われた。皆目意味がわからないまま参加していると、5月下旬になり、ふと自分が話を理解していることに気づくときが来る。その瞬間から、あたかも山頂でモルゲンロート(御来光)を迎えたように、みるみる朝鮮語の世界が広がっていく。
クライマックスは6月末。日高出身者がクゴを学んだ成果を発表する恒例の文化公演が催される。私は演劇の端役を割り当てられた。稽古期間は1週間。連日連夜、睡眠時間2、3時間という強行軍が続く。私は授業中、睡魔に襲われ、夢かうつつか区別がつかない状態に陥った。
本番当日は、全校生と諸先生方が注視するなかで歌や詩の朗読が行われ、演劇も無事に幕を降ろした。翌日以後、顔も知らない学生たちから「良かったぞ」と声をかけられ、むず痒い想いをしたことが懐かしく思い出される。
最後の仕上げは夏休みである。日高出身者は10日間大学に残り、1日中朝鮮語漬けの生活を送る。その過程で、15分以上会話する能力が身についた自分を発見する。そして晴れて自宅に帰ったとき、両親の前で生まれて初めて「アボジ、オモニ、チグムトラワッスムニダ(お父さん、お母さん、ただ今帰りました)」と挨拶するのである。
まさに単語一つを覚えることが、民族性の一片を獲得する闘いだった。あれから三十余年が過ぎたいまも、事あるごとに、よくぞ民族の道を選択したものだという実感を噛みしめる。
【第15回:2000年3月9日】
母国語による創作活動
−在日文化の開花 形象化
民族作家輩出 次世代に託す−
先頃、在日韓国人が芥川賞を受賞して話題になったが、在日同胞の中には母国語による創作に励む人々もいることを記憶にとどめていただきたいと思う。
私は1970年に大学を卒業したのち、在日本朝鮮文学芸術家同盟東京支部という団体の専従になった。芸術を志す同胞たちの活動を側面的に支援するのが仕事である。よく飲みながら、いつの日か在日文化を開花させようと話し合ったものだが、後年、次々と優れた才能が世にあらわれたのは感慨深いものがある。
文学分野では、「文学教室」が開講され、私が責任者となった。母国語で小説や詩を書きたいと思う青年たちが毎週集まり、創作理論を学んだり、習作に対する合評を行ったりする。時折、著名な在日詩人の故許南麒先生が来て詩作論を語って下さったのは生涯忘れえぬ思い出である。
異国で生まれ育った者が、母国語で文学作品を書くのが容易でないのはいうまでもない。多忙な生活の中、まさに寸暇を惜しんで祖国の作品を読み、文学的表現を覚え、疲れ切った身体に鞭打って原稿用紙に向かう日々が続いた。そして処女作の短編小説が望外の評価を得、祖国の文学誌や朝鮮高級学校の教科書に掲載されたとき、最もうれしかったのは、「在日にも文学ができる!」と確認できたことだった。
1981年に大阪支部に転勤した私は、その後、情報誌「サンボン(出逢い)」を創刊し、ジャーナリストとしての道を歩み始めたが、大阪支部の文学教室には引き続き参加している。
参加者は十余人で、大半が朝鮮学校の教師である。彼らの作品は同胞系の新聞などに発表するほか、毎年『プルシ(火種)』という同人誌を発行している。韓国の林秀卿賞に入選した作品など佳作も少なくない。
かつてケニア人の世界的ベストセラー作家グギは、英語による創作をやめ、自分の属する一部族の言語で執筆することを宣言した。歴史的に欧米諸国から虐げられてきたアフリカの作家として、あえて部族のアイデンティティを優先する道を選択したのである。
もちろんグギと同次元で語ることはできないが、在日同胞が母国語による創作を行おうとすれば、表現力の問題だけでなく、発表の場や読者層が極端に狭いというジレンマにぶつかる。それでも彼らが母国語にこだわるのは、在日だからこそ、より一層真摯に民族文化を体得しつつ、真の在日朝鮮人像を形象化したいと思うからである。世間でもてはやされる「在日朝鮮人文学」の多くが、あくまで日本社会で売れるように書かれており、必ずしも在日同胞の共感を得ていない事実を見逃してはならない。
脚光には縁がなくとも、彼らが学校の授業で指導する子どもたちが驚くほどの秀作を書くのを見ると、地道な努力の成果は決して小さくないことに思い至る。
いつの日か、在日と南北祖国との文学レベルの交流が進み、在日同胞の中からも優れた民族作家が育つことを願いたいものである。