オフィス街(紫)

 「南京地区における戦争被害」
  1937年12月−1938年3月
  都市及び農村調査
  
   ルイス・S・C・スミス博士(金陵大学社会学教授)と助手による
   南京国際救済委員会を代表して1938年作製

調査方法
人口調査

死傷者数
表1 調査家族と推定人口
表4 日付別による死傷者数および死亡原因


●人口

 南京市の戦前の人口はちょうど一〇〇万であったが、爆撃が繰り返され、後には南京攻撃が近づいて中国政府機関が全部疎開したためにかなり減少した。市の陥落当時(十二月十二〜十三日)の人口は二十万人から二十五万人であった。我々が三月に行った抽出調査で報告された人員を五十倍すれば、すぐさま市部調査で表示されている二十二万千百五十人という人口数が得られる。この数は当時の住民総数のおそらく八十ないし九十パーセントを表していたものであろうし、住民の中には調査員の手の届かぬところに暮らしていたものもあった。(人口についてさらにつっこんで問題するには、第一表の注を見よ)
 二万七五〇〇名は国際委員会の維持していた難民収容所に住んでいたもので、調査人員の一二%に当たる。収容所に入らなかったが安全区内に住んでいたものは六万八〇〇〇人で、全体の三一パーセントを占めている。調査の記述によれば、建物総数の四パーセントがあるだけであり、また、城内の総面積のおよそ八分の一に過ぎなかった地域に、市の陥落以後、一四週立った後でも、住民の四三パーセントが住んでいたのである。
 「南京地区における戦争被害」(「日中戦争資料集9」所収、p219)

第一表 調査家族と推定人口
地区 調査した家族数 調査した家族の家族員数合計 家族員数平均 家族数推定合計 家族員数推定合計
A.城内 906 4252 4.7 45300 212600
1.安全区 298 1358 4.6 14900 67900
2.難民収容所 114 550 4.8 5700 27500
3.城西 115 544 4.7 5750 27200
4.城東 55 232 4.2 2750 11600
5.城北 51 243 4.8 2550 12150
6.門西 126 631 5.0 6300 31500
7.門東 103 451 4.4 5150 22600
8.菜園 44 243 5.5 2200 12150
B.城外 43 171 4.0 2150 8550
9.下関 13 46 3.5 650 2300
10.中華門外 16 79 4.9 800 3950
11.水西門外 14 46 3.3 700 2300
全地区 949 4423 4.7 47450 22150*

* 十二月末から一月にかけて日本軍当局によって行われた不完全な登録に基づいて、国際委員会のメンバーが推定したところでは、当時の南京の人口は約二十五万人であって、数週間前に彼らが特に慎重に推定した数をはっきりと上回るものである。中国の半官半民筋はほぼ三十万と推定していた。2・3月には大した変化はなかったが、市の近辺の秩序の乱れた地域から著しい人口の流入があったので、恐らくそれは流出をわずかながら上回っていた。これも明らかに重要なことであった。我々が推定してみたところでは、3月下旬の人口は25万ないし27万であって、このうちには調査員の手の届かぬ人々もあり、また移動の途中の人々もあった。調査した人員は22万1、150である。5月31日には市政公署の5つの地区の役所で登録された住民(下関を含むが、明らかに城外のその他の地区を含まない)は27万7000人であった。この数字は特に婦女子について不完全であることが認められており、普通はほぼ40万と修正されている。
 一年前、南京市の人口はちょうど100万を越したところであった。この数字は8月・9月にかけて急減し、11月初旬にまた50万近くに戻った。旧市街は今日考えられているよりも広い地域を含み、その地域は少なくとも人口の10分の1を占めていた。

「南京地区における戦争被害」(「日中戦争資料集9」所収、p251)
表4 日付別による死傷者数および死傷原因
日付 死亡原因 負傷原因 拉致されたもの** 死傷者数総計 兵士の暴行による死傷者の比率(%)
軍事行動* 兵士の暴行 不明 軍事行動* 兵士の暴行 不明
12月12日以前 600 50 650
12月12、13日 50 250 250 200 550 91
12月14日〜1月13日 2000 150 2200 3700 4500 92
1月14日〜3月15日 200 250
日付不明のもの 200
150 600 50 1000 75
850 2400 150 59 3050 50 4200 6750 81
12月13日以降の暴行件数の比率 89 90
*「軍事行動」とは爆撃・砲撃・戦場における銃撃を指す。
**これらの拉致されたものについては大半が全く消息不明である。

「南京地区における戦争被害」(「日中戦争資料集9」所収、p251)
●死傷者
 2 戦争行為による死傷
 死傷者数および原因

死傷者数および原因ここに報告されている数字は一般市民についてのもので、敗残兵がまぎれこんでいる可能性はほとんどないといってよい。調査によってえた報告によれば、死者三二五〇人は、情況のあきらかな軍事行為によって死亡したものである。これらの死者のうち二四○○人(七四パーセント)は軍事行動(1)とは別に[日日本軍]兵士の暴行によって殺されたものである。占領軍の報復を恐れて日本軍にる死傷の報告が実際より少ないと考えられる理由がある。実際に、報告された数が少ないことは、暴行による幼児の死亡の例が少なからずあったことが知られているのに、それが一例も記録されていないことによっても強調される。

(1)ここで「軍事行動」による死者というのは、戦間中、砲弾・爆弾あるいは銃弾をうけて死亡したものをいう。

負傷を受けた状況がはっきり三一〇〇人のうち、三○五○人(九八パーセント)は、戦争以外に日本兵の暴行によって負傷したものである。負傷しても何らかの形で回復したものは(1)、負傷を無視するという傾向がはっきりと見られる。

(1)当復興委員会に救済をもとめてやってぎた一万三五三○家族が委員会に報告した負傷者のうち、三月中の調査によれば、強姦による傷害は十六歳から五十歳に到る婦人の八パーセント占めていた。この数はきわめて実際を下まわるものである。というのは、大ていの婦人はこのような扱いをうけても、進んで通報しようとはせず、男子の親近者も通報したがらないからである。十二月・一月のように強姦がありふれたことになっていた間は、住民はその他の状況からも、かなりそうした事実を遠慮なく認めたのである。しかし、三月になると、家族たちは家族の中の婦人が強姦されても、その事実をもみ消そうとしていた。ここでこのことに触れたのは、市の社会・経済生活がどれほどはげしく不安定なものであったかを説明するためである。

日本兵の暴行による死者の八九パーセントおよび負傷者の九○パーセント十二月十三日以後、すなわち市の占領の完了後におきている。以上に報告された死傷者に和えて、四二○○人が日本軍に拉致された。臨時の荷役あるいはその他の日本軍の労役のために徴発されたものについては、ほとんどの事実を報告していない。六月にいたるまでこのようにして拉致されたものについては、消息のあったものはほとんどない。これらの人びとの運命については、大半がこの時期の初期に穀されたものと考えられる理由がある。(1)

(1)「拉致」がいかに深刻なものであるかということは、拉致された者としてリストされた全員が、男子だったということからもはっざりしている。実際には、多くの婦人が短期または長期の給仕婦・洗濯婦・売春婦として連行された。しかし、彼女らのうちだれ一人としてリストされてはいない。

拉致された者の数字が不完全なものであることは疑いない。実際に、最初の調査表には、これらの人びとは死傷者のうちの一項目「事情により」というところに書きこまれており、調査の計画過程では必要とされもせず、予想もされなかったのである。こうして、これらの人びとは並なみならぬ重要性をもつものとなり、単にその数字が示す以上に重要なものとなっている。こうして、拉致された四二○○人は、日本兵によって殺された者の数をかなり増加させるに違いないのである(1)。

(1)市内および城郭附近の地域における埋葬者の入念な集計によれば、一万二○○○人の一般市民が暴行によって死亡した。これらのなかには、武器をもたないか武装解除された何万人もの中国兵は合まれていない。三月中に国際委員会の復興委員会によって調査をうけた一万三五三○家族のうち、拉致された男子は、十六歳から五十歳にいたる男子全部の二○パーセントにも達するものであった。これは全市人口からすれば一万八六○人となる。救済をもとめてやってきた家族の言によるのであるから、誇張されているところもあろう。しかし、この数字と当調査で報告された四二○○人という数字の差の大部分は、おそらく男子が拉致されても、拘留あるいは強制労働をさせられて、生存した場合を含むことによるものであろう。

多くの些細な事件を無視すれば、軍事行動による死傷者、日本兵の暴行による死傷者、および拉致された著は、二三人につき一人、つまり五家族につき一人である。

このような死亡の重大な社会的・経済的結果は、われわれの調査記録から直接計算しても、その一部を示すことができる。夫が殺害・負傷、または拉致された婦人の数は四四○○人である(1)。父親が殺害・負傷、あるいは拉致された子供の数は三二五○人である。

(1)救済を希望した一万三五○○家族を当復興委員会が三月中に調査した結果によれば、十六歳以上の婦人全体の一四パーセントが未亡人であった。
●調査方法

実地調査の手続き
 南京の市部調査においては、家族調査員は入居中の家屋50戸に一戸の全家族(every family in every 50th inhabited house)を家族調査表に記入するように指示をうけた。「家屋」(house)は若干の場合には一番号に数軒のアパートや建物(building)があったけれども、「家屋番号」(houuse number)に従うものと定められた。三月には多くの出入口が封鎖され、どの家に人が住んでいるのか知るのは少しばかり困難であった。その結果、若干のの家を見過してしまったかも知れない。脱落した地域を点検するのに対照地図が役に立った。客人は地図上で特定の地区を割当てられ、各自五○戸ずつ人の住んでいる家を抽出して、住宅番号を数えてはそれに記入してうめてゆく。調査員は委員会の評判が良かっため親切に迎えられたが、調査員は、ただ事実を質問するために来たこと、委員会の通常業務の仕事を目的とする家族救済調査員として来たのではないことを注意深く説明した。これら両者の活動に参加しだ人びとのきわめてはっきりした考えでは、家庭調査の方が救済調査の場合よりもはるかに損失報告の誇張が少ないということだった。
 市部調査における建物調査員には二つの仕事があった。すなわち(一)市内の建物(building)を数えて、軍事行動・放火・略奪による被害をうけているどうかを記述する。(二)一〇棟の一棟割合で(on every 10th buikdings)損害の見積りをおこなう。この目的のために一家屋番号が一棟と見なされたれたが、それは若干の場合には一つ以上の建物(structure)を含んでいた。熟練した建築技師が並列の建物(consutruction)にそれぞれ単位コストを割出したので、正確な見積りをおこなうのが非常序に容易となった。さらに、二人一組になった調査員のうち一人は土木の方を受けもった。現在居住者のない建物(building)の家財の損害の見積もりは、その建物の性質および近所の人々に対する質問にもとづいておこなわれるべきであるとされた。対照地図によって見落した地域が位置づけられ、そこは入念に再調査された。
 家族調査・建物調査の双方とも城内全域をカバーし、城門のすぐ外側にある若干の地域をも含めた。しかし浦口その他の周辺小都市を含む旧南京地区全体を調査したわけではない。旧日本軍人および一般日本人の住む特定の小地域と点在する個人住宅のみが調査の対象外とされた。
 農業調査においては、三つの団体の通行証をもった二人の調査員が、べつの県へそれぞれ派遣された。調査員に主要道路にそって進み、それから8の字を描きながらその道路をジグザグに横断して戻り、道路の後背地にある地域をカバーするように指示された。この一巡のさいに道筋にある村三つから一つを選んで村落調査票を作製し、それらのそれらの村で毀損している農家のうち、一〇家族に一家族を選んで農家調査票に記入することにした、市場町の物価表については、通過する市場町全てで質問の回答を記入することになった。

「南京地区における戦争被害」(「日中戦争資料集9」所収、p217-218)

  
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