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◆政治家の本棚――71 運命の高坂正堯『国際政治』との出会い 2/2
―――それが運命的だった。
前原:高校時代に読んだカントの「恒久平和論」がしっくりこなかった理由が一つ解けた気がした。あっリアリズムの視点がないんだと。外交とは一つのパワーゲームですね。「坂本義和じゃなくて高坂正堯だ」というところが,自分自身の分岐点だったろうと思うんですね。
―――二回目の京大受験は無事合格。
前原:京大一,二年目は,ほとんど遊び。ただ,高坂先生の授業はほんとは三回生からなんですけど,二回生からもぐり込んだ。ところがこれがわからない。歴史とか国際政治に対する知識が根本的に欠けていました。
授業が終わると高坂先生のところに何十人とばっと行くわけです。その一人になって自分で質問したこともあれば,先輩が質問しているのを聞いて「こういう本を読めばいいんだ」と。ベトナム戦争をもっと知りたければ『ベスト&ブライテスト』を読めばいいと,先生が他の学生に言うことをメモする。『ベトナム戦争報告』も読んだ。三回生後半から高坂先生のゼミに入った。初めはSDIという米ソ冷戦のときの戦略防衛構想。
―――レーガンのね。
前原:あれを共同研究して,例えばホワイトハウスのNSCのペーパーを先生が持ってこられてそれを読んだ。後半は論文を書かなきゃいけない。私のテーマは「中国の現代化」,先生に勧められたのが中嶋峰雄さんの『現代中国論』『北京烈々』。それから永井陽之助さん,もちろん高坂先生はほとんど読みました。
―――どんな感じの先生でした?きさくそうでしたけど。
前原:半分おちゃらけて言うと,女の子に非常に甘い先生だったんです。これはむずかしいんですけども,気さくそうで気さくじゃないんです。
みんなから尊敬を集めているので,それが煩わしいという部分があったと思うんです。相当セレクトして付き合われる。気むずかしい先生でしたね。高坂ファミリーに入れば非常に気さくで親身に個別指導してもらえる。ただ物忘れの激しい先生で,何時に家や研究室に来いって言われても,半分ぐらいすっぽかされるんですよ。「すまんすまん,マッサージ行っててな」とかいう感じで。でも,こんな話していていいんですか。
―――とても楽しいですよ。
前原:高坂先生はもうその頃はテレビの「サンデープロジェクト」の番組に出てひっぱりだこだったんですけれども,ゼミ生でソフトボールやるとか旅行しようかというときは,テレビは休まれるんです。授業,ゼミ,行事が最優先,それは絶対に崩されなかった。
あと一つ,稚拙でも自分の考えを言わないと先生の考えは絶対教えてくれなかった。SDIの問題で,「なぜMADの理論が成り立つのか」と先生に問いかけても「前原はどう考えるんや」と。で,しどろもどろで答える。それを「そういう考え方もあるわな」と,言下に否定をしないで尊重して下さった。
―――高坂先生をただ「現実主義」と括るのも何か浅い感じがしますね。
前原:やはり歴史の先を見る目があったんですよ。米ソ冷戦の激しい時期に,「ソ連という国家はなくなるかもしれんで。ロシアという国になっているかもしれんな」「案外,アメリカはソ連と仲良くなるかもしれんぞ。アメリカは喧嘩したところと仲良くなっているんや。日本もそうやった」と。
沖縄で少女暴行事件が起きて,僕は議員になっていたけれども,先生に教えを乞いに行った。例の調子で「おまえはどう思う?」と。先生は「五年早い」とおっしゃった。「五年経てば日本は基地返還を本気で主張していい。そのかわり,そのときに集団的自衛権の話をセットで持っていく。日米関係の再構築も含めて考えなきゃいかんな」と。
―――もう五年経ったわけですな。
前原:たまたま新幹線でお会いして横に座ったら,「おまえにぜひやってもらいたいのは公共事業の見直しだ。予算に占める割合があまりにも多すぎる」と。私が議員になった一九九三年,その直後ですよ。いままさに公共事業が政治のテーマです。そのときに意味はわからなかったんです,私。
―――先生,早く亡くなられた。
前原:先生の遺言として私が受けとっているのは三つ。「アメリカは毒にも薬にもなる。アメリカべったりでもいかんし嫌米主義でもいかん。アメリカとの関係をうまくやれ」というのが一つ。「集団的自衛権のいまの解釈はおかしい。トータルで考えていけばこの問題に必ず突き当たる。これはなんとかやれ」。あと「公共事業」ですよ。
―――前原誠司という政治家のまさに骨格のところだ。京大を卒業してこんどは松下政経塾へ行く。なぜですか。
前原:将来は大学に残るか外交官か,もう一つは漠然と政治家にと。高坂先生は,学者は天才でなければならない,外交官は東大が羽振りをきかせていたのでどうか,おまえはおやじがいないからどうかと。それで「山田を紹介してやるから」と。いま杉並区長をしている山田宏さん,高坂ゼミから松下政経塾に行った先輩なんです。
―――政経塾はためになりましたか。
前原:日本の将来をどうするか,議論できる仲間は素晴らしいと思いました。幸之助さん自身は「政経塾で知識は勉強するな」。現地現場主義でいかに人間の幅を広める勉強・研究をするか,「金出すから自分でやりたいことをやれ」ということでテーマも先生もいない。逆に何やったらいいかとノイローゼになる人もいたりして。
―――しかし政経塾は苦労が足りないという議論もありますよ。
前原:私の同級生の奥さんから「あなたに投票しなかった。あなたは社会人経験していない。純粋培養で政治だけ。そんな人に一票託せない」と面と向かっていわれました。ショックでしたけど,どうしようもないんですよね。それは政治活動を通じて皆さん方に社会性,一般社会人としての感覚,そういうものがあるかないかを見てもらうしかない。そこはもう居直りしましたけどね。
―――そのころの本は・・・・・・。
前原:私のもう一人の師は小島直記さんという伝記作家なんです。政経塾で小島さんの講座があって,「おまえたちは政治家になって何をやりたいのかという志を固めるために来たんだ」と,人生の生きざまを教えて下さった。
―――どういうことです。
前原:「人生にテーマを持て」ということと「名を求めるな」。山県有朋にはぼろくそだったんですよ。彼は別荘を幾つも持った。椿山荘もそうですし,京都にも「無鄰庵」を持った。「財産を求める政治家には絶対なるな」と。
山県有朋は国葬でしたが,一般市民は「なんだ」という目で見ていたし,参列者も少なかったと聞きます。中江兆民は,言論人として有名だったけれども,それほど成功したとはみなされなかった。しかし,彼の葬式には,道行く人が帽子を取って頭を下げた。そういう死に方をしろということを小島先生に教えられた。
小島先生にはご著書を数多く頂きました。例えば日本新党を離党したときにこんな風に書いてあったり(笑)。
―――「日本新党離党賛成 前原誠司様 小島直記」。小島さんの本,並んでいるな。『福沢山脈』『出世を急がぬ男たち』『人間・出会いの研究』『スキな人キライな奴』・・・・・・。しかし松下政経塾の出身は政界の一大勢力になりましたね。
前原:やはり日本新党と新生党,あの頃ですよ。ロッキード事件,リクルート事件。僕たち,稚拙で未熟かもしれないけれど,古い汚れたものを追い出していかなければ,この悪の連鎖は断ち切れないという思いで出てきましたね。
◎対談後記◎
前原誠司氏は京都府会議員から日本新党をつくった細川護煕氏にくどかれ三十一歳で国政に躍り出た。その日本新党を細川氏が小沢一郎氏に近づきすぎたと離党してさきがけに合流,そして民主党の若手リーダーの有望株となる。
氏の歩みを聞くと,小学校の塾,中高の数学塾,大学の高坂ゼミ,そして松下政経塾と「塾」育ちのところが面白い。かつての松下村塾で育った若者たちのごとく,氏ら民主党三,四十代の気鋭の群像にこそ日本回天の仕事に挑む資質とエネルギーを感ずる。(早野)
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