日雇い労働者の街として単身の男性が数多く暮らしてきた山谷(台東区、荒川区)で8月下旬、毎年恒例の夏祭りが開かれた。山谷の住民は高齢化し、記者が手伝いのため初めて訪れた10年前と比べ、祭りの参加者の中には野宿者が目立つ。様変わりした祭りを見るため、今年も足を向けた。【市川明代】
午後4時。会場の公園に到着すると、入り口付近に人だかりができていた。両手に大きな紙袋やボストンバッグ。無料の配食を待つ人々だ。支援者らがプラスチック容器に入ったマーボー豆腐丼を配り始めると、500食余りがあっという間になくなった。
山谷の夏祭りは84年、お盆休みに帰省するあてのない労働者をねぎらう目的で始まった。当時は労働者の懐もあたたかく、会場には屋台がいくつも並んだ。だが労働者の高齢化が進み、参加者の半数を野宿者が占めるようになると、屋台に代わって炊き出しに長い列ができ、にぎわいもなくなった。
炊き出しだけでは寂しいという声が上がり、ふたたび支援団体らが屋台を出すようになったのは数年前。じゃがバター、ピリ辛コンニャク、焼きそば……。その材料費のほとんどは、カンパで賄われている。どれも値段は50~100円。缶チューハイや発泡酒も100円で楽しめる。それでも払えない人々のために、2~3年前から、集めた空き缶を金券に換えるコーナーも設けられている。
配食の後は「乾杯」だ。大きなバケツに入った手作りウーロンハイを、ボランティアスタッフらがひしゃくで紙コップに注ぎ、一人一人に手渡す。記者も1杯。しかし、これが濃い。ウーロン茶の色がうっすら付いている程度だ。飲み干したところで頭痛がしてきた。すかさず「姉ちゃん、飲んだか。新しいの取ってきてやる」と声がかかる。断りきれずにもう1杯。「うまいか」と聞かれて思わずうなずくと、「おれと姉ちゃんは心が通じてるんだな。つまみを買ってやりたいけど、銭がない」と苦笑した。東北なまりの、あたたかい言葉が不思議と胸に染みる。
「最近は、女性も飲むんだねえ。おれはダメだ。全然飲めねえから」。振り向くと、今度は大柄な男性がほほ笑んでいた。57歳というが、年齢よりずっと老けて見える。長崎市内から上京し、山谷の労働者として働いたが、仕事にあぶれて路上生活を経験した。支援者に助けられ、現在は墨田区内で生活保護を受けているといい、時折、話がかみ合わなくなることもある。でもその笑顔は穏やかで、何だかほっとする。
山谷の労働者も炊き出しに並ぶ野宿者も、心優しくて親切だ。単身生活が長く、人との触れ合いを楽しみたいというのもあるだろう。でも、ある支援者が言っていた。「あんまり優しくて不器用だから、社会からはじき出されちゃうんだよ」。この街にやってくるたびに、その言葉を思い出す。
ビニールシートに腰掛けて音楽や芝居の出し物に拍手を送る男性、ベニヤ板で設営された簡易テーブルにひじをついて立ち飲みを楽しむ男性、カラオケに合わせて踊る男性……。どの頭にも、白髪が目立つ。10年前の山谷には、「オレは鳶(とび)だ」「もう何十年も鉄筋工だ」と、がっちりした体を揺らして歩く武骨な労働者の姿があった。だが山谷が労働者の街でなくなったいま、そんな光景はどこにも見当たらない。
会場の隅に、仮設の仏壇がある。歴代労働争議の勇士らの遺影の中に、見覚えのある労働者の顔があった。聞けば数年前に持病が悪化し、生活保護を受けていたが、交通事故で入院し、退院後間もなく部屋で亡くなっているのが見つかったという。57歳。その若すぎる死に、「ああ亡くなっちゃったんだ」と独り言を言うと、「こうやって逝っちまうやつが増えてくんだなあ」。隣で手を合わせていた男性がつぶやいた。
バンドの演奏が終わり、ビニールシートが片づけられ、盆踊りが始まった。河内音頭に炭坑節。支援者の女性や学生、ジーパン姿の若者も輪に交じり、勢いよく手を振って踊っている。最近、若いフリーターたちが支援にやってくるという。
10年前の山谷にはなかったその光景に、ほっとするような、寂しいような、複雑な気持ちになった。
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■メモ
◆山谷の夏祭り
80年代当初は3日間開かれ、多いときは1000人で音楽や芝居を楽しんだ。やがて労働者の高齢化が進み、住民の多くが生活保護受給者になり、10年ほど前から1日開催に。炊き出しを求めて集まる野宿者が増え、今年は2日間の開催になった。
毎日新聞 2009年9月17日 地方版