最新編論文編書籍編雑記編

プロレタリア型右翼

従来、左翼は弱者の思想で、右翼は強者の思想と考えられてきた。たしかに、左翼や右翼という言葉が生まれたフランス革命後の議会では、そうした区別は有効だったが、現代では、弱者であるがゆえに右翼的な思想を持つ、プロレタリア型右翼とでも呼ぶべき、新しい右翼が増えてきた。知識人たちは、こうした右翼を権威主義的パーソナリティー論によって説明しようとするが、私はそれとは違う視点から、プロレタリア型右翼を解釈したい。

1. ナショナル・アイデンティティと学歴/所得の相関

田辺俊介の『ナショナル・アイデンティティの概念構造の国際比較』が、ISSP(International Social Survey Program)の1995年の調査結果から、排外的な人には低所得と低学歴が多いという結論を出したことが、かつて話題になったことがあった。低所得で低学歴で排外的な人は、まさに私が言うところのプロレタリア型右翼に相当する。ISSPの調査結果は、この論文を読まなくても、1995年版のみならず、2003年の最新版までもがISSPのサイト上で無料で閲覧できるので、それを直接紹介することにしよう。

調査項目は、多岐にわたるが、ここでは、右翼一般にとって最も重大な問題の一つである「自国内への移民の数を増やすべきか」という質問に対する回答を見よう。「強く同意する」と答えた割合に+2、「同意する」と答えた割合に+1、「現状でよい」と答えた割合には0、「反対する」と答えた割合に-1、「強く反対する」と答えた割合に-2を乗じた値の合計で、移民の増加への賛成の度合いをグラフにしてみた。以下のグラフに見られるように、日本では、学歴が低くなるほど、移民の増加に対する拒絶度が大きくなっている。

日本における移民増加賛成度と学歴の関係
日本における移民増加賛成度と学歴の関係
[データ:ISSP (2003) National Identity II

次に収入との関係を見てみよう。学歴の場合ほど相関性は明確ではないが、年収が少ない層のほうが、移民増加に対する拒絶度が大きい。一般的に言って、低学歴ほど低所得なので、これは当然であろう。

日本における移民増加賛成度と税引前年収の関係
日本における移民増加賛成度と税引前年収の関係
[データ:ISSP (1995) National Identity I

もとより、移民に対して排他的だから、即、右翼(極右)というわけではない。そこで、次に、極右政党の支持の分布を直接見てみよう。日本を含めて、現在の主要先進国には、有力な極右政党はあまり存在しないが、フランスには、ルペン党首で有名な国民戦線という、一定の勢力を持つ極右政党が存在する。以下のグラフが示すように、フランスにおける各学歴ごとの国民戦線の支持率を見てみると、学歴が低くなるほど支持率が高くなる傾向がある。

フランスにおける国民戦線と学歴の関係
フランスにおける各学歴ごとの極右政党(国民戦線)の支持率
[データ:ISSP (2003) National Identity II

オーストリアの有力な極右政党、自由党に関しても同様の傾向が見られる。

オーストリアにおける自由党と学歴の関係
オーストリアにおける各学歴ごとの極右政党(自由党)の支持率
[データ:ISSP (2003) National Identity II

では、外国人に対して排他的な価値観の持ち主には、なぜ低学歴・低所得の階層が多いのか。田辺の博士論文の審査を行った宮台真司によると、「昔からフランクフルト学派の人たちが言ってきた通りで、権威主義者には弱者が多い」のであり、そして、低所得ないし低学歴層が排外的愛国主義にコミットする背景には、「丸山眞男問題」があるとのことである。宮台は次のように言っている。

■丸山眞男によれば、亜インテリこそが諸悪の根源です。日本的近代の齟齬は、すべて亜インテリに起因すると言うのです。亜インテリとは、論壇誌を読んだり政治談義に耽ったりするのを好む割には、高学歴ではなく低学歴、ないしアカデミック・ハイラーキーの低層に位置する者、ということになります。この者たちは、東大法学部教授を頂点とするアカデミック・ハイラーキーの中で、絶えず「煮え湯を飲まされる」存在です。

■竹内氏による記述の洗練を踏まえていえば、文化資本を独占する知的階層の頂点は、どこの国でもリベラルです。なぜなら、反リベラルの立場をとると自動的に、政治資本や経済資本を持つ者への権力シフトを来すからです。だから、知的階層の頂点は、リベラルであることで自らの権力源泉を増やそうとします。だからこそ、ウダツの上がらぬ知的階層の底辺は、横にズレて政治権力や経済権力と手を結ぼうとするというわけです。

■これが、大正・昭和のモダニズムを凋落させた、国士館大学教授・蓑田胸喜的なルサンチマンだというのが丸山の分析です。竹内氏は露骨に言いませんが、読めば分かるように同じ図式を丸山自身に適用する。即ち、丸山の影響力を台無しにさせたのは、『諸君』『正論』や「新しい歴史教科書をつくる会」に集うような三流学者どものルサンチマンだと言うのです。アカデミズムで三流以下の扱いの藤岡信勝とか八木秀次などです。

宮台は、文化資本の「独占」者は政治資本や経済資本から疎外されていて、政治資本や経済資本の所有者は文化資本の所有に与ることができないと考えているようだ。それならば、政治資本や経済資本から疎外されている知的階層は、その限りでは弱者であり、その弱者が、アカデミズムという知的権威を振りかざして、文化資本が不足しているという意味で弱者である右翼系論客を「三流学者ども」と罵倒して攻撃するならば、それは、自分が批判していることを自分自身で行っていることにならないだろうか。

あるいは、宮台が言っている弱者とは、知的な弱者に限定されるのかもしれない。宮台が言及しているフランクフルト学派の理論とは、知的弱者は、過剰な自由に耐えられず、自由から逃走し、権威に頼ろうとするという、フロム著『自由からの逃走』(1941年)やアドルノ他著『権威主義的パーソナリティ』(1950年)に見られる考えのことであろう。

しかし、こうした心理学的説明は、ファシズムに対する説明としては不適切ではないか。ファシストが権力を掌握したドイツやイタリアや日本よりも、そうではなかった英国や米国の方が、個人により多くの自由を与えていた。ドイツでもイタリアでも日本でも、ファシズムが勃興した第二次世界大戦前の時期に、それ以外の時期と比べてより多くの自由が個人に与えられていたわけではなかった。

『権威主義的パーソナリティ』は、アメリカユダヤ人委員会(American Jewish Committee)がスポンサーとなって出版した『偏見の諸研究(Studies in Prejudice)』の一部で、ユダヤ人を擁護しようとする政治的意図に基づいている。その序論には、次のように書かれている。

The authors, in common with most social scientists, hold the view that anti-Semitism is based more largely upon factors in the subject and in his total situation than upon actural characteristics of Jews, and that one place to look for determinants of anti-Semitic opinions and attitudes is within the persons who express them.

著者は、大部分の社会科学者と同様に、反ユダヤ主義は、ユダヤ人の現実的性格よりも、主観と主観の全状況における諸要因に主として基づき、反ユダヤ主義的見解と態度の決定要因を探す一つの場所は、それらを表明する人の内側にあるという見解を持っている

[Theodor W. Adorno et al.: The Authoritarian Personality, p.2]

慎重な言い回しで書かれているが、要するに、ユダヤ人が迫害されるのは、ユダヤ人が悪いからではなくて、迫害する側の性格に欠陥があるからだという立場を表明しているのである。ユダヤ人は悪くないという見解には同意するが、それを強調しようとするあまり、ファシズムの問題を個人の心理の問題に矮小化してしまうと、ファシズムの最大の原因である経済問題を見落としてしまうことになる。

ファシズムは、それ自体は政治的な現象であるが、その原因は、心理学ではなくて経済学によって説明されるべきである。第二次世界大戦前夜のファシズムの直接的原因は、世界大恐慌であり、失業の増加が、戦争を含めた全体主義的公共事業の必要性を高め、とりわけ、植民地が少なく、国内市場が小さい後発工業国でファシズムが支持された。要するに、個人がファシズムに走るのは、《自由からの逃走》ではなくて、《失業からの逃走》である。

なぜ低学歴で低所得の人ほど移民の増加に否定的なのかに関しても《失業からの逃走》という観点から説明ができる。日本のような先進国の場合、移民制限を緩和すると、発展途上国から安価な労働力が流入するが、それによって真っ先に仕事を奪われるのは、単純肉体労働に従事している低学歴・低所得の人たちである。彼らが、外国人労働者に対して排他的になるのは、経済的な利害関係による。

読者の中には、このような説明は、先進国には当てはまるが、発展途上国には当てはまらないのではないかと反論する人もいるだろう。その通りである。実は、田辺俊介の『ナショナル・アイデンティティの概念構造の国際比較』は、ISSPが23カ国を調査したにもかかわらず、日本、ドイツ、アメリカ、オーストラリアの4カ国しか取り上げていない[学位論文審査要旨]。世界中どこでも低学歴で低所得ほど排他的というような結論は、こうした先進国の調査結果だけから導くことはできない。

では、発展途上国では、どうなのか。典型的な発展途上国として、フィリピンの事例を取り上げてみよう。1995年のISSPの調査では、フィリピンの所得に関するデータはないが、学歴に関するデータはある。以下のグラフからわかるように、フィリピンでは、学歴が低くなるほど、移民の増加に対する拒絶度が大きくなるという、日本で見られた傾向は見られない。むしろ、学歴が高い方が、拒絶度が大きくなっている。特に大学卒業者の拒絶度が最も高いことは、特筆するべきことである。この現象は、フランクフルト学派流の権威主義的パーソナリティー論では説明できない。

フィリピンにおける移民増加賛成度と学歴の関係
フィリピンにおける移民増加賛成度と学歴の関係
[データ:ISSP (2003) National Identity II

フィリピンの場合、国内の所得水準が十分に低いので、移民の受け入れを増やしても、低学歴の労働者のライバルが増えるという可能性は低い。むしろ、フィリピンの公用語が英語であることから、他の英語圏の高学歴労働者が、フィリピンに来て、国内の高学歴労働者から仕事を奪うという可能性の方が高い。大学卒業者の拒絶度が最も高いのはこのためだろう。

2. プロレタリア型右翼はなぜ戦争を渇望するのか

好戦的であることは、移民に対して排他的であることと並んで、右翼の大きな特徴であり、左翼との大きな違いであると一般に認知されている。では、なぜ右翼は戦争を好むのか。

こうした議論をするとき、そもそも右翼とは何かというところから話を始めなければならない。右翼という言葉は、フランス革命後の議会において、保守派が右側の席を占めていたことから、保守主義を指す言葉として使われるようになった。右翼は伝統的権威を重視し、好戦的であるといわれるが、それは、当時の没落貴族たちの特性であった。

フランス革命によって特権を奪われた貴族たちは、自分たちの栄光ある地位の回復を求めていたがゆえに、伝統的制度や伝統的価値観の復活に肯定的である。よって、彼らは、保守主義者の名に値する。ヨーロッパの貴族たちの伝統的な職業は戦争であるから、自分たちの活躍の場を増やすためにも、対外的戦争を支持する。だから、好戦的であるという右翼の属性を持っていた。

日本の場合、こうした右翼を形成した没落貴族に相当するのは、明治維新時の士族で、彼らは、伝統的な特権が奪われることに不満を持ち、自分たちの活躍の場を求めて、征韓論を唱え、それが新政府によって却下されると、新政府に対して反乱を起こした。

現代では、没落貴族型の右翼は少数派であり、代わって増えてきたのがプロレタリア型の右翼である。ISSPの調査で浮き彫りになった、移民に対して最も拒絶的な、低学歴・低所得の先進国の下層民たちには、復活するべき栄光に満ちた過去があるわけではなく、そのため、没落貴族型右翼とは異なって、伝統的権威への固執は強くない。彼らが伝統的権威の重要性を持ち出すとするならば、それは、それが移民排斥や対外戦争の手段として使える場合に限られる。彼らには、伝統的権威は、第一義的な重要性を持たない。

そういうプロレタリア型右翼の一つの事例として、赤木智弘を取り上げよう。赤木は、高校と専門学校を卒業したフリーターで、年収は150万円と報道されている[東京新聞朝刊(2008年5月3日)反発と絶望―極論生む]。日本人の大学・短大の進学率は50%を超えており、また平均年収も400万円を超えていることから、赤木を低学歴・低所得のカテゴリーに分類することができる。赤木は、「決して右傾化するつもりはない」[赤木智弘(2007)けっきょく、「自己責任」 ですか]と言いつつも、戦争を希望し、特権化された既存の「弱者」しか守らない左翼を厳しく非難しているという点で、一種の右翼と呼んでよいだろう。

では、赤木のようなプロレタリア型右翼が戦争を希望する理由は何か。

現状のまま生き続けたとしても、老いた親が病気などによって働けなくなってしまえば、私は経済基盤を失うのだから、首を吊るしかなくなる。その時に、社会の誰も、私に対して同情などしてくれないだろう。「自己責任」「負け犬」というレッテルを張られながら、無念のままに死ぬことになる。

しかし、「お国の為に」と戦地で戦ったのならば、運悪く死んだとしても、他の兵士たちとともに靖国なり、慰霊所なりに奉られ、英霊として尊敬される。同じ「死」という結果であっても、経済弱者として惨めに死ぬよりも、お国の為に戦って死ぬほうが、よほど自尊心を満足させてくれる。

[…]

生きていれば流動化した社会でチャンスも巡ってくる。また、軍務に就いていれば衣食住は保証され、資格もいくつかとれるだろう。今の日本で、年長フリーターが無資格で就業できて、賃金を得ながら資格をとれるような職業に就けるチャンスはどれくらいあるのだろうか?

苅部直氏の『丸山眞男――リベラリストの肖像』に興味深い記述がある。1944年3月、当時30歳の丸山眞男に召集令状が届く。かつて思想犯としての逮捕歴があった丸山は、陸軍二等兵として平壌へと送られた。そこで丸山は中学にも進んでいないであろう一等兵に執拗にイジメ抜かれたのだという。

戦争による徴兵は丸山にとってみれば、確かに不幸なことではあっただろう。しかし、それとは逆にその中学にも進んでいない一等兵にとっては、東大のエリートをイジメることができる機会など、戦争が起こらない限りはありえなかった。

丸山は「陸軍は海軍に比べ『擬似デモクラティック』だった」として、兵士の階級のみが序列を決めていたと述べているが、それは我々が暮らしている現状も同様ではないか。

社会に出た時期が人間の序列を決める擬似デモクラティックな社会の中で、一方的にイジメ抜かれる私たちにとっての戦争とは、現状をひっくり返して、「丸山眞男」の横っ面をひっぱたける立場にたてるかもしれないという、まさに希望の光なのだ。

赤木には、天皇崇拝や愛国心といった日本の伝統的右翼の特徴のいくつかが欠けている。だから、彼は典型的な右翼ではないのかもしれない。右翼には、没落貴族型右翼やプロレタリア型右翼の以外にも愛国心に最大の重点を置く心情右翼や宗教的伝統を重視する宗教右翼などさまざまな類型が考えられる。しかし、私が見るところ、デフレ経済のもと、失業率の増加とともに社会が急速に右傾化するとき、増えるのがプロレタリア型右翼であると思う。

プロレタリア型右翼にとって、戦争で日本が勝つかどうかは重要でない。戦争をして、日本が勝ったとしよう。戦場で死ねば、英霊として崇拝されるし、生き残れば、強くなった日本で立身出世できる。戦争をして、日本が負けたとしよう。戦場で死ねば、戦争の犠牲者として同情してもらえるだろうし、生き残れば、かつて偉そうにしていた特権階級が没落した、混沌とした日本で、新たに出世するチャンスがやってくる。戦争になれば、どちらに転んでも、屈辱的な身分が死ぬまで続く平和な世の中より自分にとって望ましい。

以上のようなプロレタリア型右翼の考えは、戦前の朝鮮人の考えと同じである[朝鮮人はなぜ太平洋戦争を喜んだのか]。大日本帝国の下層民であった朝鮮人の当時の心境を赤木風に表現するならば、「日本人をひっぱたきたい―檀紀4243年にして日本の属国。希望は、戦争。」といったところだ。前回、「彼らにとって、世界の一等国民の仲間入りをして、民族のプライドを取り戻すことは、歴史的悲願だった」と書いたが、赤木も「社会に出てから10年以上、ただ一方的に見下されてきた私のような人間にとって、尊厳の回復は悲願なのだ」[赤木智弘(2007)けっきょく、「自己責任」 ですか]と同じようなことを言っている。

フランクフルト学派流の権威主義的パーソナリティ論は、没落貴族型の右翼の説明にはある程度使える。市民革命によって、社会が流動化すると、特権を失った貴族たちは、自分たちの利権を支えてきた過去の権威を復活しようとする。しかし、この説明は、赤木のようなプロレタリア型右翼の説明には使えない。赤木は「権威主義に対するラジカルな批判」[赤木智弘(2006)『バックラッシュ!』非難の本質とは?(その2)]を行っている。「丸山眞男をひっぱたきたい」という象徴的表現が、強者や権威に対する彼の激しい憎悪を示している。赤木は、また、過剰流動性がバックラッシュ(右翼的な保守反動)の原因となっているとする宮台によるフロム流の説明を次のように言って批判している。

男性弱者が抱えている不安は「過剰流動性」とは正反対の「硬直性」です。「一度フリーターになってしまったら、正社員になることは、非常に困難である」ということです。

要するに、赤木のようなプロレタリア型右翼の場合、《弱者であるがゆえに、過剰流動性に耐えられなくなって、権威に盲目的に服従し、権威が遂行する戦争に加担しようとする》といったフランクフルト学派的説明は成り立たず、むしろ《流動性のない格差社会で負け組みとして固定されているがゆえに、戦争によって流動性を作り出して、権威を打ち倒そうとしている》というような逆の説明が成り立つのである。

読者の中には、弱者が強者を打ち倒したいのであれば、右翼的な戦争ではなくて、左翼的な革命あるいは改革によってその目的を達成するべきだという人もいることであろう。これに対して、赤木は次のように反論する。

革命は「多数派の国民が、小数派の国家権力に支配されている」というような状況を逆転させるための手法である。少数派が多数派に対して革命を行ったって、十分な社会的承認を得ることなどできないのは明白だろう。

[…]

正社員で、もしくは非正規社員でも生活に十分な給与を確保している安定労働層という多数派に、小さな企業の正社員や、派遣労働者や、フリーターといった貧困労働層という少数派が支配されている現状において、革命などは絶対に成就しない。つまり社会への信頼もなく、少数派であるしかない私が、革命という結論に至ることはあり得ないのだ。

非正規労働者が労働者に占める割合は、2008年の平均で、34.1%で、男性に限定すると、たったの19.2%である[統計局(2009)雇用形態別雇用者数]。こういう数が少なくて、金も何もない弱者が団結して革命を起こしても、鎮圧されて失敗に終わるに決まっている。左翼政党も、労働組合に加入している正規労働者や女性といった票になる多数派の「弱者」のための政治には熱心であるが、赤木のような票にも資金源にもならない少数派の弱者には冷たい。だから、赤木は既存の左翼に対して強い不満を持っている。赤木からすれば、左翼的革命/改革よりも右翼的戦争の方が、固定化された格差社会を流動化する上で、より現実的な選択肢なのである。

ここで、もう一度「朝鮮人はなぜ太平洋戦争を喜んだのか」という問題を考え直してほしい。朝鮮人は、日本人よりも数が少ないし、経済力も格段に劣っていた。彼らが内地に反旗を翻しても、たちまち強大な軍事力で鎮圧されてしまう。従属的身分からの解放を熱望していた彼らにとって、左翼的革命は破滅的結果しかもたらさない非現実的手段であり、右翼的戦争こそが、自分たちのステイタスを確実に向上させてくれる現実的手段だったのである。

従来、左翼の論客(進歩的知識人)は、戦争を望んでいるのは資本家という強者であり、弱者である労働者は、強者に騙されて、戦場に駆り出された犠牲者だという説明をしてきた。進歩史観による戦争の説明は、例えば、以下のようなものである。

資本家は、自分たちの搾取によって国内で品物が売れなくなると、搾取を少なくするのではなく、今度はその品物を外国に売ってもうけようとします。それは日本だけではなく、アメリカもイギリスもフランスもドイツも、資本主義国はみんなそうです。そうなると、品物を売る場所をどちらがとるかということで争いになります。

[…]

そこで問題は、戦争をやるとなると武器を持って戦場に行くのはだれかということです。その場合、大きな資本家が自分で武器をかついで戦争をしに行くでしょうか。そんなことはありません。資本家階級から搾取され、抑圧されて、貧乏になっている労働者や農民やその他の勤労人民を「国のため」とあざむいて、戦争へ行かせるのです。

[福田正義(1983)第二次大戦の真実は何か

私は、小学生の時以来、日教組の教師から、こうした類の説明を聞かされてきた。しかし、実際には、貧乏な勤労人民ほど、デフレで失業が増えると、戦争を熱望する。「右翼は、低学歴で頭が悪いから、権威に盲従し、自分たちにとって不利益になる権威の発動、すなわち戦争を支持する」というのが、権威主義的パーソナリティー論に影響された進歩的知識人たちの低学歴右翼に対する認識であるが、プロレタリア型右翼は、彼らが考えているような馬鹿ではない。下層階級の右翼には、戦争になれば、自国が勝とうが負けようが、自分たちの利益になるというしたたかな計算があるのであって、戦争に負ければ、多くの既得権益を失うリスクを抱える特権階級よりも、戦争から利益を受けやすいのである。

3. 右翼と左翼の対立地平を越える

右翼と左翼は、相容れるところがない、正反対の思想の持ち主と考えられがちである。たしかに、右翼と左翼という言葉の起源となったフランス革命後の議会では、右翼は第二身分、左翼は第三身分の代表であったから、その支持基盤には、明確な階級の差があった。しかし、これは、伝統的な特権階級が特権を失い、それまで権利を持たなかった者が権利を手にするという特殊な流動的状況での話である。持つものと持たざるものの格差が固定されると、自分たちの利権を守ろうとする特権階級が保守主義的になるのに対して、特権を持たないものはプロレタリア型右翼あるいは左翼となって、自らを解放しようとする。つまりプロレタリア型右翼と左翼は、支持する階級が同じで、下層階級の救済という同じ使命を帯びている。

プロレタリア型右翼にとって、戦争とは、別の手段を用いた左翼的革命の継続である。両者の手段の違いを簡単に言うと、左翼が自虐的で内ゲバ的な手段を使うのに対して、右翼は他虐的で外ゲバ的な手段を使う。すなわち、左翼が、ゲバルト(暴力)を同じ国家内の特権階級に向け、社会を流動化させようとするのに対して、右翼は、ゲバルトを外国に向け、自国と外国を戦わせることで、社会を流動化しようとする。もちろん、ゲバルトを使わない穏健な左翼や右翼もいるから、正確には、極左と極右と呼ばなければならないのかもしれないが、以下、極左と極右という意味で左翼と右翼という言葉を使うことにしたい。

一般に、右翼と左翼は、相互に相手を激しく非難する。このため、人々は、右翼と左翼は、正反対の、全く異なる思想と考えてしまう。だが、両者の仲が悪いのは、近親憎悪によるのであって、決して、両者が異質であることを示さない。プロレタリア型右翼も左翼も、ともに、下層階級の救済を目指しているので、譬えて言うならば、低所得層を顧客とするディスカウント店どうしのようなものである。ディスカウントショップは、同じ客を奪い合う関係にあるからこそ、激しく対立するのである。

プロレタリア型右翼と左翼は、手段においてのみ異なるわけではなく、目標においても相違している。すなわち、左翼が平等な社会の実現を目指しているのに対して、右翼は、必ずしもそうではなくて、むしろ自分だけは特権階級に入りたいというエゴイズムによって動機付けられているという違いもある。つまり、左翼的理想は普遍化可能な合理性を持つのに対して、右翼的理想はそうでないという違いがある。

ここで、話をまた赤木に戻そう。赤木は、「国民全員が苦しみつづける平等」を望むと言っているが、そういう平等は、決して長く続くわけではない。

本当に戦争のようなカタストロフィーが起きて、もし国民全員が苦しむ平等が達成されたとしても、そのような流動は極めて一時的なもので、安定を求める人たちがこうしたシステムを額面通り流動させたままにするとは思わない。戦争によって一度流動化したシステムも、やがてまた硬直化する。その時にはまた硬直化したシステムからはじきだされた人たちが、私と同じように異議を唱えることだろう。

戦争によって、固定的だった格差社会が流動化し、赤木がたまたま特権階級の仲間入りをしたとしよう。格差が再び固定された後、赤木は、社会の流動化を要求する下層民たちの声に耳を傾け、敢えて自分が手にした特権をリスクに晒すような戦争を支持するだろうか。もしも、特権階級にいる時とそうでない時とで言うことが異なるなら、赤木の思想は普遍化可能な合理性を失う。

思想には、普遍化可能な合理性がなければならない。社会における自分のポジションがどこであっても、同じ政策を支持することができないならば、その人はエゴイストということになる。格差の流動化が望ましいならば、自分が高資本所有者だろうが、低資本所有者だろうが、常に格差を固定しないことに同意しなければならない。但し、格差の流動化といっても、戦争は望ましくない。他者を不幸にすることを目標とする競争ではなくて、他者を幸福にすることを目標とする競争によって社会を流動化する必要がある。そのような競争とは、市場原理に基づく経済的競争であり、この競争により、社会を絶えず流動化させようとする政治的立場はリバタリアニズムと呼ばれる。

右翼・左翼・リバタリアン・保守主義者の違いがわかるように、以下のフローチャートで整理してみた。

右翼・左翼・リバタリアン・保守主義者
右翼・左翼・リバタリアン・保守主義者の関係

左翼は、格差を否定する。現実に存在する社会主義・共産主義国家には、格差は存在するが、彼らは、少なくとも理念としては、平等な社会の実現を主張している。左翼は、格差を肯定するすべての立場をまとめて「右翼」と呼んでいるが、そうした呼称は、大雑把過ぎる。そこで、彼らが言う「右翼」をさらに細かく分類しよう。

格差を肯定する立場のうち、現在の格差を固定的に維持しようとする立場は、言葉の本来の意味で、保守主義と呼ばれる。格差をゼロにしたり、格差を固定すると、イノベーションが起きなくなって、生産性が低下する。だから、格差社会は流動的でなければいけないが、流動化するための競争は、非合法な暴力に基づく右翼的競争ではなくて、市場原理に基づいたリバタリアンな競争でなければならない。この理由により、私は、四つの政治的立場の中で、市場原理至上主義という意味でのリバタリアニズムが最も望ましいと考える。

赤木は、特権階級が貧しくなれば、自分は豊かになると考えているようだが、こうしたゼロ・サム・ゲーム的な発想では、すべての人を納得させるような社会を設計することはできない。たとえ配分結果に格差が出ても、公平なルールに基づいて競争が行われ、社会全体の富が増大するシステムなら、(少なくとも理論的には)すべての人を納得させることができる。そうした社会は、市場原理至上主義によって実現されるというのが私の立場である。

追記

本稿公表後、内容に関していろいろな方からご批判をいただきました。なかでも

  1. 「なぜ右翼には低学歴と低所得が多いのか」という最初のタイトルは、「右翼は低学歴で低所得」というステレオタイプを広めようとしているようにみえる。
  2. 赤木智弘氏という一つの事例をすべての右翼に当てはまるかのように一般化することは一面的過ぎる。
  3. 新聞の購読者層の比較については、購読者の年齢層に偏りがあり、一般的な結論が導けない。

の三つの問題点を反省し、

  1. タイトルを「プロレタリア型右翼」に変える。
  2. 右翼一般ではなくてプロレタリア型右翼に話を限定する。
  3. 新聞の購読者層の代わりに極右政党の支持層のデータを採用する。

以上の改訂を加えました。

[投稿者:Nagai Tosiya|コメント:83個|この記事を含むlivedoorクリップ この記事をFC2ブックマークに登録する この記事をニフティクリップに登録する この記事をYahoo!ブックマークに登録する この記事を含むはてなブックマーク この記事のはてなブックマーク数
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コメント(83)

永井様
右翼・左翼・リバタリアン・保守主義者と分けた場合、イノベーションにもっとも敏感で積極的なのは、リバタリアンだと思います。
しかし、当初イノベーションの果実を市場を通じて分配していたリバタリアンも、やがて保守主義者に変質するように思います。
「守り」に入るわけでしょう。
このリバタリアンが保守主義に転換する兆候とは何でしょうか?
例えば、日本の大企業のトヨタや本田やソニーはリバタリアンなのでしょうか、それとも保守主義なのでしょうか?
特許取得数、内部留保の多寡、研究開発費の多寡、人事の流動性、保護主義へと傾倒などが思い浮かびます。
理念としての分類で現実は混合しているとは思いますが、永井氏の視点では何を重要視するのかご教授ください。

日本における移民増加賛成度と学歴の関係etc

こんなモノでラベリングしようとは安直すぎないか。

低所得・低学歴ほど単純労働や劣悪な労働環境に身を置いている可能性が高く、より安価な労働力が流れ込むことで、さらに生活が厳しくなることに我が身の危険を抱いているという証左ではないのだろうか。

>左翼的であると言われている『朝日新聞』の購読者の平均世帯年収が、最も右翼的であると言われている『産経新聞』の購読者の平均世帯年収よりも高いことによって傍証される

まで見て、読む気が失せた。

1、新聞なんて既にジジババ世帯専用メディア。
2、朝日は左翼的であると「言われてる」だけで、全然左翼でもなんでもない。
3、日本では年功序列なので、他の条件が同じなら年収が高い=高齢。単に『年収が高い』だけでは朝日の読者が高齢者中心で、故に年収も高いというだけのことかもしれない。考察が甘すぎる。

右翼・左翼の定義がおかしくないか?

収入が少なく、移民増加を拒絶している人は、格差を否定するよね。ということは左翼。

・・・論理矛盾を起こしてます。

“当初イノベーションの果実を市場を通じて分配していたリバタリアンも、やがて保守主義者に変質するように思います。「守り」に入るわけでしょう。このリバタリアンが保守主義に転換する兆候とは何でしょうか?”

ある国家内部の市場で、競争によって勝者になった者が、自分の利権を確固不動のものにしようと、勝者であるがゆえの権力を用いて、これ以上競争が起きないように格差を固定するという可能性は十分あります。

しかし、国内の格差を固定すると、イノベーションが起きにくくなり、その国家はグローバルな市場で競争力を失い、国際的な競争で淘汰される危険が出てきます。国家が没落すれば、その国家内部の特権階級も同時に没落してしまいます。勝者が保守主義になることを防ぐのは、こうした危機意識です。

逆に言うと、つぶれる可能性が少ない大国ほど、そうした危機意識が希薄になり、国内の勝者は、自分の特権を固定しようとするようになります。日本で市場原理の導入という意味での構造改革がいっこうに進まない原因の一つは、構造改革などしなくても日本がつぶれることはないという安心感を多くの日本人が共有しているからでしょう。この弊害を取り除くために、日本を複数の小国からなる連邦国家にするということを考えた方がよいかもしれません。

赤木は、国内の格差を流動化するには、戦争が必要だと考えました。私は、この主張をもっと一般化して、国内の格差を流動化するには、国家間の競争が必要だと言い換えたいと思います。そして、国家間の競争は、戦争ではなくて、市場原理に基づく経済的競争でなければならないというのが私の主張です。

“低所得・低学歴ほど単純労働や劣悪な労働環境に身を置いている可能性が高く、より安価な労働力が流れ込むことで、さらに生活が厳しくなることに我が身の危険を抱いているという証左ではないのだろうか。 ”

同じことは本文に既に書かれています。本文をよく読んでからコメントしましょう。

“1、新聞なんて既にジジババ世帯専用メディア。2、朝日は左翼的であると「言われてる」だけで、全然左翼でもなんでもない。3、日本では年功序列なので、他の条件が同じなら年収が高い=高齢。単に『年収が高い』だけでは朝日の読者が高齢者中心で、故に年収も高いというだけのことかもしれない。”

1. だから「現在、新聞の購読率自体が大幅に下がってきているので、新聞購読者の平均世帯年収は、統計資料としての価値を失いつつある」と書いて、「傍証」と位置づけたのです。

2. たしかに「朝鮮人はなぜ太平洋戦争を喜んだのか」で書いたように、戦前の朝日新聞は右翼的でした。しかし、左翼と右翼は紙一重というのが本論の主張であることをよく考えてください。戦後に限定すれば、朝日新聞を左翼的メディアと位置づけることは問題ないでしょう。

3. 新聞の購読者がどこでも高齢者に偏っているのだから、新聞どうしの比較では問題にならないでしょう。学歴に関しても、朝日新聞購読世帯の世帯主学歴は、大学卒以上が44.3%を占め、他新聞購読世帯のスコア、21.9%よりかなり高くなっています[朝日エリア・アド]。こちらは、年齢は無関係ですね。

なお、誤解がないように書き添えますが、私は朝日新聞を高く評価しているわけでも、産経新聞を低く評価しているわけでもありません。

“収入が少なく、移民増加を拒絶している人は、格差を否定するよね。”

違います。移民を拒否している先進国の下層民は、豊かな先進国と貧しい途上国の間にある格差を維持しようとしています。これは、格差の否定ではなくて、格差の肯定です。

お疲れ様です
中流層の人達をもっと増やせば世の中が平和になるでしょうね

“中流層の人達をもっと増やせば世の中が平和になるでしょうね ”

1980年代、日本人が最も豊かさを実感した頃、国民は、「一億総中流」という意識を持っていて、極右も極左も影響力がありませんでした。バブル崩壊後、下流社会が拡大しており、このままでは、将来、極右や極左が台頭する可能性があります。極右や極左の台頭を防ぐために必要なことは、学校での思想教育などではなくて、社会全体を経済的に豊かにすることです。


>左翼的であると言われている『朝日新聞』の購読者の平均世帯年収が、最も右翼的であると言われている『産経新聞』の購読者の平均世帯年収よりも高いことによって傍証される

既出とかぶりますが、
ちょっとこれは「ん?」となりました。

そもそも、朝日新聞とか読んでる人って、リアルにジジババだと思うし、
というかこれは書かなくてよかったんじゃないかと。かなりターゲットに偏りあるし

“既出とかぶりますが、ちょっとこれは「ん?」となりました。 そもそも、朝日新聞とか読んでる人って、リアルにジジババだと思うし、というかこれは書かなくてよかったんじゃないかと。かなりターゲットに偏りあるし ”

そうですね。傍証だから、カットしてもよかったわけで、不愉快なら、そこは読み飛ばしてください。ただ、新聞が全国民的なメディアだった戦後の一時期のほうが、

高学歴=進歩的知識人=マルクス主義者=左翼=朝日新聞購読者

でした。朝日新聞が賞賛した大躍進や文化大革命やポルポト政権の実態が明らかになり、そして、冷戦が終結して、社会主義が崩壊してから、この等式がどんどん崩れていったことを考えると、「昔の高学歴インテリは、いまだに朝日新聞を読んでいるのか」というのが私の率直な感想です。

ようするに、格差の存在と、格差が発生する元の社会階層の存在をどう捉えるか(格差を認めるか、認めないか。社会階層を固定するか、しないか)で立場がわかれるわけですね。これはわかりやすい。

社会全体の富(文化資源,政治資源、経済資源とか)を巧い具合に市場で交換出来れば良いですね。


単なるレッテル張りでしかないと感じました。申し訳ないですが筆者のあなたを軽蔑します。

“単なるレッテル張りでしかないと感じました。申し訳ないですが筆者のあなたを軽蔑します。”

フィリピンでは、高学歴ほど外国人移民に対して排他的になるという事実の指摘は、むしろ既存の偏見に対する反論になっています。ここからもわかるように、本稿は、右翼を馬鹿扱いするために書いたのではなくて、右翼を馬鹿扱いしてきた従来の左翼による右翼論(フランクフルト学派のファシズム論)を批判するために書いています。

日本では、右翼というと「頭のおかしな人」という偏見で見られてしまいます。しかし、実際には、右翼とはそういう人たちではなくて、貧しい生活から抜け出し、プライドが持てる人生を送りたいと切に願っている弱者なのだということを本稿から理解していただければ、幸いです。

私も正社員になれなかったアカデミズムの落ちこぼれだから、赤木さんの気持ちはよくわかるけれども、だからといって、自分の利益だけを考えて戦争を肯定するのではなくて、社会の全員が幸せになる社会の仕組みを考えるべきだと思っています。

>以下のグラフからわかるように、フィリピンでは、学歴が低くなるほど、
>移民の増加に対する拒絶度が大きくなるという、日本で見られた傾向は見られない。

学歴が高くなるほど、移民の増加に対する拒絶度が大きくなる、の間違いではないでしょうか?

と、思ったら読み違えてました。上のコメントは無視してください。

◆豊かな国
・・・(A)富裕層
・・・(B)貧困層

◆貧しい国
・・・(A2)富裕層
・・・(B2)貧困層

移民政策を肯定することによって利を得るのは、(A)(A2)(B2の一部)ではないだろうか。

(B)が反対するのは自明の理です。格差の否定や肯定を各国内・各国間の話が混ざっているのではないだろうか。

各国間での格差は、政治・行政・医療・教育など文化・文明の差であり、食や知における生産的な活動を積み重ねた結果を垂れ流すことは、それぞれの国益に反することになるのではないだろうか。

後進国ほど得られる利得が多きく先進国ほど失うものが大きくなるのではないだろうか。但し、先進国の中では得に貧者が大きく割を食うのではないだろうか。

>もしも、特権階級にいる時とそうでない時とで言うことが異なるなら、赤木の思想は普遍化可能な合理性を失う。

>思想には、普遍化可能な合理性がなければならない。社会における自分のポジションがどこであっても、同じ政策を支持することができないならば、その人は偽善的なエゴイストということになる。

赤木氏は自らがエゴイストとなることによって特権階級側のエゴイズムを浮かび上がらせることを狙っているのかも知れませんね。


あなたのような正論を言う人にはテレビの仕事は来ないでしょうね(笑)

ところで私は永井均が好きですが、
永井俊哉も少し気になります(笑)

赤木さんは、男性/女性と強者/弱者の組み合わせでできる4つの立場に以下のような序列を作っています[赤木智弘(2006)『バックラッシュ!』を非難する]。

「強者男性」>「強者女性」>「弱者女性」>「弱者男性」

女性は男性よりも一般に弱者と思われているがゆえに、左翼は弱者女性を手厚く保護します。そのために、強者と思われていて、実は弱者である弱者男性は、弱者女性以上に不利な立場におかれます。ここで、男性/女性の代わりに豊かな国/貧しい国という対立軸を持ってくると、あなたの話と同じになります。

まださっぱり理解できていません。

「移民に反対」という意見を持つと、その人は右翼なのでしょうか?

普遍化不可能なエゴイズムを普遍化可能なエゴイズムへと止揚しようとすると、相互承認されたエゴイズム、すなわち個人主義となります。そして、市場経済とは、利己的に動機付けられた諸個人の行為を結果として公益に結びつける装置です。ですから、エゴイズムそのものが問題なのではなくて、普遍化不可能であることが問題なのです。

右翼に関しては、いろいろな時代にいろいろな定義がなされていますが、例えば、現代のヨーロッパの極右政党は、移民問題を最も重要な問題として扱っています。もっと具体的に言うと、ドイツのネオナチはトルコ系移民、フランスの国民戦線はアルジェリアの移民を主なターゲットにしています。

 考えは分かりましたが、どれもこじつけのように思えます。本当はただ、右翼の人が嫌いなだけなのではないですか?
 世の中には様々な意見を持つ人がいるので、気に入らない人達もいるのは仕方ありませんが、くだらないことを書き並べて相手を軽蔑するのはいかがなものかと思います。

“考えは分かりましたが、どれもこじつけのように思えます。本当はただ、右翼の人が嫌いなだけなのではないですか? 世の中には様々な意見を持つ人がいるので、気に入らない人達もいるのは仕方ありませんが、くだらないことを書き並べて相手を軽蔑するのはいかがなものかと思います。 ”

私は、右翼を軽蔑するためにこれを書いたのではなくて、右翼を軽蔑している左翼の誤解を批判するためにこれを書いたのです。私は、「右翼は頭が悪いので、自分では何も判断できずに、権威に盲従して、自分で自分の首を絞めている」という従来の左翼による、右翼を馬鹿にした解釈を退け、「右翼は、固定された格差社会の犠牲者なので、自らを解放するための手段として戦争を肯定する」という代替解釈を提示したのです。

どうも皆さんの反応を見ていると、タイトルの中にある「右翼は低学歴で低所得」という部分だけ見て感情的に反発している人が多いように思えます。「右翼は低学歴で低所得」という事実自体は、田辺さんの『ナショナル・アイデンティティの概念構造の国際比較』によって明らかにされ、ネット上では、既に周知となっています。私は、既にネット上でよく知られるようになったこの事実を改めて広めるために、本稿を書いたのではなくて、この事実に対するフランクフルト学派流の既存の解釈に異議を唱え、代替解釈を提示するために書いたのです。

多分この記事は、ハニーポットなのです。

古代ローマの階級制度というのが、本文で述べられている「リバタリアニズム」に相当するのかと考えました。

古代ローマには、確かに明確な社会階級というのは存在し、それにより、戦争の際に拠出する費用も決まっていたそうです (e.g.: 経済基盤を持っていない奴隷は戦争参加の義務を負わず、逆に経済力のある者は、 (自分の) 軍馬に乗って戦争に参加するなど)。

更に、これらの明確な階級というのは、生まれの様なもので一生決まるのではなく、例えば奴隷は奴隷でも、自分で財産を貯めて、自分自身を買うことができたそうです (そうした人を解放奴隷と呼んでいたと塩野七生さんは著書で述べられています)。これと同化政策により、ローマに征服された人達も、希望を持ちながら古代ローマ社会の活性化に貢献する事ができた、とも述べられています。

私の勉強不足かも知れませんが、このような社会を、私は古代ローマ以外に知りません。「自由と平等の国」アメリカでさえも、黒人の大統領は最近まで生まれませんでしたし、アメリカ国内の富豪層と、人口比の (「アイルランド系」や「日系」等の、先祖も含めた) 出身国の分布には大きな隔たりがあります (参考)。

この記事は書き方自体が右翼への攻撃と取られても
仕方ない部分をたぶんに含んでいるからね。
右翼の人がこの記事を見てどう思うか、
ということに配慮して書かなきゃ。

右翼を軽蔑する気持ちが本当に無いのであれば
そういう人間として当たり前のこともできただろうに・・・。

筆者は人間性に少々問題があるような気がする。
右翼とか左翼とか関係無くね。

右左翼の思想はどうでもいいが、どちらかといえば経済より治安の悪化を懸念する声の方が多い気がする。移民を受け入れた国々の事例を見れば明らか(例:フランスにおける暴動)だ。

日本は世界的に見ても犯罪率が低い平和な国なので、貧しく、文化も違う学も無い野蛮な連中が大挙として押しかけてくる恐怖感は言いようのない不安感を生み出していることだろう。

特に、富裕層ほど彼らに狙われやすくなるので、低所得の右翼層だけが反対しているとはとても思えませんね。


>特に、富裕層ほど彼らに狙われやすくなるので、低所得の右翼層だけが反対しているとはとても思えませんね。

「移民増加賛成度」という訳の分からない尺度がカラクリだったりして。

ソースを読めばいいのかもしれないけど、そこまでエネルギーは無い・・・。

ところで、

質問:
>「移民に反対」という意見を持つと、その人は右翼なのでしょうか?

に対する答えは、これですか?

右翼に関しては、いろいろな時代にいろいろな定義がなされていますが、例えば、現代のヨーロッパの極右政党は、移民問題を最も重要な問題として扱っています。もっと具体的に言うと、ドイツのネオナチはトルコ系移民、フランスの国民戦線はアルジェリアの移民を主なターゲットにしています。


結局どうなのか、さっぱり分かりません(涙)

はじめまして

「3. 右翼と左翼の対立地平を越える」を
読んで私も比較的近い考えであると感じました。

しかしながら、
「2. 右翼はなぜ戦争を渇望するのか」は
乱暴過ぎると思います。
「3.〜対立地平を越える」のような考えを
持っておられるのであれば
「左翼はなぜ内戦を渇望するのか」と
いったような項を作るべきだと考えます。
「2.〜渇望するのか」は意味をなしていなと感じます。

そもそもの「右翼と低学歴と低所得の関連」
について結論が出ていないのでは?
途中から話が脱線しているような気が。。

新聞の購読者数からの検証ですが、
購読新聞と思想の関係はそれだけで
議論すべきテーマではないでしょうか。
新聞に影響される部分もあるのでしょうが
高学歴であるほど報道に対して
鵜呑みにするのではなく
記事に議論の余地を見出すかもしれません。
購読者数の減少以前に
議論の引き合いに出せるか否か検証が必要だと感じました。

“この記事は書き方自体が右翼への攻撃と取られても仕方ない部分をたぶんに含んでいるからね。右翼の人がこの記事を見てどう思うか、ということに配慮して書かなきゃ。 右翼を軽蔑する気持ちが本当に無いのであればそういう人間として当たり前のこともできただろうに・・・。”

そうですね。たしかにそうした配慮が足りなかったと思います。そこで、タイトルと本文を書き換える決心をしました。

追記にも書きましたが、

1. 「なぜ右翼には低学歴と低所得が多いのか」という最初のタイトルは、「右翼は低学歴で低所得」というステレオタイプを広めようとしているようにみえる。

2. 赤木智弘氏という一つの事例をすべての右翼に当てはまるかのように一般化することは一面的過ぎる。

3. 新聞の購読者層の比較については、購読者の年齢層に偏りがあり、一般的な結論が導けない。

の三つの問題点を反省し、タイトルを「プロレタリア型右翼」に変え、エントリーおよび本文の一部を改訂いたします。

今後とも、皆さんの意見を反映して、よりよいサイト作りに励みたいと思いますので、アドバイスを宜しくお願い申し上げます。

>その人は偽善的なエゴイストということになる。

赤木さんはどうみても露悪的なエゴイストですが。
なんで「偽善的な」なんて言葉が出てきたんでしょうか?

永井先生の論文はいつも読ませてもらっています。
永井先生の人格に対する批判がコメントに出ていますがそれは少しだけ間違いだと思います。既存の論文を読めば先生は客観的に物事を論じようとしている事が分かります。

今回の論文に関しても、右翼が低所得等、一般論としてありえると思います。
2ch等見ていても刺激的な発言をする人は国家に自己を投影、一体化しているように思えます。
私自身書き込みなどはあまりしませんが、そのような意見に賛同する事が多いので今回の論文の内容がすんなり入ってきました。

プロレタリア型右翼が好戦的な訳が分かったのですが赤木智弘に関してはプロレタリア型右翼とは少し違うと感じました。
なぜなら左翼を非難する事や戦争を肯定する事で右翼と定義付けるには弱いと思うからです。
まず左翼が嫌いなだけの反左翼主義者もいるという点と、日本における右翼の定義には「天皇崇拝や愛国心といった日本の伝統的右翼の特徴」という物が必須だという点においてです。ネット右翼と呼ばれる人達はプロレタリア右翼だと考えているのですが、彼らは伝統的右翼の特徴を持っている事からもそうであると思います。

それと、これは全く個人的な感想なのですが、引用文を見るに彼にとって戦争を望む事は政治的な思想ではなく、宗教的な終末思想におけるのようなものではないのでしょうか。
今の自分をとりまく世界を破壊する終末論としての戦争を絶望の中で見出したのではないのかと感じました。


疑問があったので質問させて頂きます。

3. 右翼と左翼の対立地平を越える、において

左翼が自虐的で内ゲバ的な手段を使うのに対して、右翼は他虐的で外ゲバ的な手段を使う。すなわち、左翼が、ゲバルト(暴力)を同じ国家内の特権階級に向け、社会を流動化させようとするのに対して、右翼は、ゲバルトを外国に向け、自国と外国を戦わせることで、社会を流動化しようとする。

とありますが、5・15事件や2・26事件、三島由紀夫によるクーデター未遂などの事例によって断定するにいかがなものかと考えますがいかがでしょうか。


もうひとつ


プロレタリア型右翼と左翼は、手段においてのみ異なるわけではなく、目標においても相違している。すなわち、左翼が平等な社会の実現を目指しているのに対して、右翼は、必ずしもそうではなくて、むしろ自分だけは特権階級に入りたいというエゴイズムによって動機付けられているという違いもある。つまり、左翼的理想は普遍化可能な合理性を持つのに対して、右翼的理想はそうでないという違いがある。

とありますが、粛清や左翼同士の内ゲバなどの事例により、左翼が思想の普遍化可能な合理性を持っていないと感じるのですがいかがでしょうか。

“日本は世界的に見ても犯罪率が低い平和な国なので、貧しく、文化も違う学も無い野蛮な連中が大挙として押しかけてくる恐怖感は言いようのない不安感を生み出していることだろう。 特に、富裕層ほど彼らに狙われやすくなるので、低所得の右翼層だけが反対しているとはとても思えませんね。”

たしかに、話を日本に限定すると、治安の悪化を理由に移民の増加に反対する人が多いですね。しかし、米国のように、もともと治安がよくない国では、別の説明が必要になります。

“「移民に反対」という意見を持つと、その人は右翼なのでしょうか? ”

“そもそもの「右翼と低学歴と低所得の関連」について結論が出ていないのでは?途中から話が脱線しているような気が。”

外国人移民を拒絶しているだけでは、極右とは言いがたいので、フランスの極右政党の支持率と学歴に関するデータを追加しました。なお、この項目では、所得に関するデータはないようです。

“赤木さんはどうみても露悪的なエゴイストですが。なんで「偽善的な」なんて言葉が出てきたんでしょうか? ”

その文は、赤木さんのことは念頭におかずに、理論家一般のこととして書いた文だったのですが、論者の中には、偽善的ですらない人もいるでしょうから、「偽善的な」は削除します。

低学歴低収入を知識層の価値観で「弱者」だと決め付けておられますが、彼らプロレタリア型右翼の多くを占めるブルーカラー層においては低学歴低収入で腕力が取り柄で脳みそまで筋肉のような存在はむしろ「強者」なのですよ。
ブルーカラーにとってはIQや学歴など全く眼中にないと言うより、IQと言う言葉さえ知っているのかもはなはだ疑問です。年収でさえ彼らにとっての強弱を計る価値にはなりえません。
腕力があって肉体労働がきちんと出来るとか、マッチョ主義で喧嘩が強い事が彼らにとっての「強者」です。
日の丸をかざしてサッカーを観戦して一般客に暴力を振るったりするネオナチの日本版のような人間が、自分を弱者だと思っていると思いますか?
よって彼らは、強者として排外主義を取っているに過ぎません。

それから身体的にはひ弱であろうネトウヨであっても同じです。彼らは自称「ネット界の強者」です。自分たちは国家を支えるために活動している国士様と言うわけです。


国家間の格差、国家内の格差
混ぜて考えていませんか?

永井様
”つぶれる可能性が少ない大国ほど、そうした危機意識が希薄になり、国内の勝者は、自分の特権を固定しようとするようになります。”
このコメントは、日本企業に対してよりアメリカのGMのような会社によりよく当てはまりそうな気がしますが、どうでしょう?
また、国際的競争力の確保のために、国内での独占的地位を正当化することに何処まで賛成するのでしょうか?
たとえば、世界シェアの半分を目処に独占禁止法の適用を検討するといった基準とかはあるのでしょうか?
ご教授ください。

 

“赤木智弘に関してはプロレタリア型右翼とは少し違うと感じました”

赤木さんは、例えば、遊就館に関して次のように発言しています。

“私は「クニ(日本国や天皇がまったく含まれないとは言わないけど、それよりは友人知人や故郷だろう)」のために戦った英霊たちを、あのような施設に閉じ込めて、金儲けやイデオロギーの道具にすること自体を批判します。”

たしかに天皇崇拝という側面は弱いけれども、右翼的な価値観は持っていると思います。

“彼にとって戦争を望む事は政治的な思想ではなく、宗教的な終末思想におけるのようなものではないのでしょうか。”

米国には、そういう宗教型右翼がたくさんいるそうです。しかし、彼は戦争をハルマゲドンとは考えていないから、やはり違うと思います。

“5・15事件や2・26事件、三島由紀夫によるクーデター未遂などの事例によって断定するにいかがなものかと考えますがいかがでしょうか。 ”

右翼と左翼は、極端になればなるほど相互に似てくるという傾向があります。ナチスは典型的な右翼と思われていますが、国家社会主義ドイツ労働者党という正式名称が示すように、「国家」「ドイツ」という右翼的要素と「社会主義」「労働者」といった左翼的要素の両方を持っています。右翼と左翼は、ウェーバー的な意味での理念型であり、現実にはその混合が多数あるわけです。

“低学歴低収入を知識層の価値観で「弱者」だと決め付けておられますが、彼らプロレタリア型右翼の多くを占めるブルーカラー層においては低学歴低収入で腕力が取り柄で脳みそまで筋肉のような存在はむしろ「強者」なのですよ。”

強者か弱者かは、基準によって変わる相対的な概念です。そもそも価値自体が、目的との相関で決まる値ですから、同じものが、ある目的にとっては良く、別の目的にとっては悪いというように変化することがあります。このように、価値は相対的であるがゆえに、肉体が強靭で、スポーツで良い成績をあげることができる人と頭脳が明晰で、学業で良い成績をあげる人とどちらが「客観的に」良いかということは言えません。

こうした価値の相対性に基づいて、社会科学は、価値中立的に社会事象を分析しなければいけません。先進国が移民の受け入れを拡大すると、途上国で相対的に豊富な肉体労働者が流入して、先進国の肉体労働者のライバルになるので、後者がそれに反対するといった説明は価値中立的です。

そう断った上での話ですが、プロレタリア型右翼には、強者のレッテルを貼られた弱者が多いという気がします。健常者/障害者、男性/女性、先進国/途上国といった二項対立で、前者の属性の所有者は、強者と認識され、たとえ貧しくても、左翼は保護しようとはしません。強者のレッテルを貼られた弱者は、右翼的な手段で、自分の問題を解決しようとするのでしょう。

“国家間の格差、国家内の格差混ぜて考えていませんか?”

両者は、一応区別するべきだと思いますが、しばしば同じロジックがフラクタルに成り立ちます。例えば、第二次世界大戦におけるファシズムの台頭は、「植民地を持たざる国」の中の「資本を持たない階級」という二重の意味で「もたざる者」が格差の流動化を謀って起こした戦争であるというように。

“国際的競争力の確保のために、国内での独占的地位を正当化することに何処まで賛成するのでしょうか?”

発展途上国が国内の幼稚産業を育成するという場合ならともかく、先進国の場合、特定企業に独占的地位を与えることは、国全体ではメリットよりもデメリットの方が多いでしょう。

「自民党リベラル派」と「民主党リベラル派」の違いは何でしょうか?
リベラル=中道左派という意味だと思いますが。
労組のメンバーの中でも改憲派と護憲派がいます。
ただ、日本の右翼が「目指す社会」は何なのでしょうか?
やや「小説的な話」になりますが、今世紀の末期には民主主義ルールに基づいて「徳川幕府的地方分権推進+京都朝廷的な官僚統制・全国自治管理=公武合体政府」ができるのではないかと感じます。民主主義の限界を国民が感じ、既成政党ではなく前述の「世直し新党」が誕生して公武合体的な連立政権誕生。本当に実現したらある意味すごいです。


フラクタルという語は、単に「複雑」という意味で用いているのか。
または、「合成の誤謬」のような意味で用いているのか。

どちらなのか。

横文字を曖昧に使用されて茶を濁されても訳が分からない。

どちらであれ、議論をするにあたり、場合分けして考える必要性を自認しているものを一纏めにしラベリングするのは暴論が過ぎないか。

御用学者としてのポジショントークをしているように見えてならない。

既知だと思うが読み直して欲しい。

加藤周一
http://kshu.web.fc2.com/


右翼に朝鮮半島の方が異常に多い件について、コメントどうぞ。

はじめまして。記事を楽しく拝見しました。

最近ドメインごとにユーザーのプロフィールが推定できるサービスがあるのですが、それに沿っていろいろと調べてみました。どうやら言論・政治系のオンライン・プラットフォームに来る人たちにはいくつかの特徴があるように思えました。比較したのは、uesugitakashi.com, the-journal.jp, agora-web.jpとnagaitoshiya.comです。

大学卒者が多い。年収は500万円以下。購読者に35-44歳(偶然ですがバブル世代です。私もここに入ります)が抜けるM字型。男性が多い。(だいたい75〜80%程度になります)。低学歴 X 低収入というのは結びついているようですが、実はある程度学歴があるのに収入が中程度から下という人が多いのです。このインバランスが一つの問題のような気もします。このnagaitosiya.comのプロフィールも、年収600万円台の人たちと35-44歳くらいの人たちが抜けていたM字になっています。

私も「自己の基準が持てない人たちが、国家や民族といった大きな物語に飛びつくのであろう」と思ってヒトラー、ユング、フロムといった本をいくつかぱらぱらめくったのですが、どうも日本の今の状況とは若干異なるように思えます。「ある程度リテラシーがあるのに、期待すべき待遇が得られていない(もしくは投資に対して期待するリターンが得られていない)ことを不満に思っている人たち」対「自称反体制派(他人をダシにして自分はサボリたがる人)」といった図式です。これは果たしてイデオロギー対立なのでしょうか。

そもそも、会社の社長も株主に使われているという意味ではプロレタリアですし、年金を株式で運用している普通の引退サラリーマンが資産家だったりします。そういう意味で「正しいプロレタリア」とはどういう人たちなのかという疑問も湧きます。例えば土地を持っている農民はどこに入るのでしょうか。このように、旧来のラベルは再定義が必要なようにも思えます。例えば、資本家が力を持っていたのは、生産を行なうためには設備が必要だったからです。その前は土地を持っていなければ生産ができませんでした。この支配力の源泉がナレッジ(金融とかITとか)に失敗を繰り返しながら傾斜してゆく中では、ブルジョアやプロレタリアというラベルも再定義が必要になりはしないでしょうか。資産も有形資産から無形化(この無形化は簡単でにいうと、政府が信用だけを元に発行する例の紙切れのコトをさします)しています。

私は社会資本が知識依存型の人たち(無形財から無形財を生み出す人たち)にうまく使われないことが問題なのではないかと考え始めています。例えばSEやプログラマと言った人たちですが、この人たちには階級としての自覚も自分たちの優位性に対する認識もありません。投資は故に一番簡単に再生産可能な無形財に流れます。お金がお金を生む経済の誕生です。

過剰感のある大学院卒の人たち(ナレッジが唯一の財産になっている人)も、彼らがダメな人であるということではなく、社会資本と結びついていないことが「問題」だと思うのですが、彼らが階級闘争に立ち上がったという話も聞きません。単純化すると「仕事がなくてコンビニでバイトしている経済学の修士号を持つ人」は、右翼、左翼どちらになりやすいかというような議論です。彼らがシンパシーを感じるイデオロギーはないように思えます。しかしもし知識が生産財として使えればこの人は資産家になってしまいます。

経済とイデオロギーを結びつけるのであれば、こういった変化も考慮する必要があるように思えます。

排他主義と低学歴・低所得の相関が強いことを心理学的側面よりも経済的側面から説明しようとするのは面白い試みだと思います。重回帰分析してみたいですね。

ところで、移民増加賛成度についてですが、人数が増えると値が増えるような度合になっているように思います。平均にしたほうがよいのではないでしょうか。またエラーバーはどの程度のものでしょうか。


ええと、ザクッと読んだだけなのですが、一言だけ言わせてください。
グラフの意味が全く読み取れません。理由は(グラフ中に)単位が存在していないためだと思います。
例えば、"フランスにおける各学歴ごとの極右政党(国民戦線)の支持率"のグラフでは、極右政党の支持率だし、おそらく%だろうと予想がつくのですが、"日本における移民増加賛成度と学歴の関係"や"日本における移民増加賛成度と税引前年収の関係"のグラフでは、まったくもって予想がつきません。
そこでお願いなのですが、ぜひグラフ中に単位をつけてもらえないでしょうか。

“「自民党リベラル派」と「民主党リベラル派」の違いは何でしょうか?”

自民党と民主党の違い自体がなくなりつつあります。小泉政権の時、自民党はリバタリアンな方向に動こうとしましたが、現在の麻生政権では、再び「大きな政府」に戻りつつあります。みんな「早く民意を問え」と言っていますが、リバタリアンには、「民意」を表明する選択肢がありません。

“フラクタルという語は、単に「複雑」という意味で用いているのか。または、「合成の誤謬」のような意味で用いているのか。 どちらなのか。 横文字を曖昧に使用されて茶を濁されても訳が分からない。 ”

解説抜きで使って、すみません。フラクタルに関しては、「フラクタルは複雑系か」をご覧ください。ここでは、「全体が部分を繰り返す」あるいは同じことですが「部分が全体を繰り返す」システムのあり方と理解してください。

例えば、プロレタリア型右翼が、北朝鮮へ圧力をかけるように日本政府に働きかけたとしましょう。日本政府は、単独では北朝鮮に十分な圧力をかけることができないので、その意味では弱者であり、強者である米国に、北朝鮮へ圧力をかけるように働きかけます。この場合、「全体が部分を繰り返す」と言うことができます。

日本の左寄りの政党は、日米よりも経済的水準の低いアジアとの連携を主張しています。つまり、国内的にも、国際的にも、「弱者との連携」を主張しているわけです。ここでも、「全体が部分を繰り返す」と言うことができます。

プロレタリア型右翼が、外国人移民を排除し、先進国と途上国との格差を維持し、固定しようとする時、保守主義になっています。下にいるときには右翼となって社会の流動性を要求し、上にいるときには保守主義になって格差を固定しようとすることは、普遍化可能な合理性を欠いています。

普遍化可能な合理性を持つには、自分のポジションが格差社会の上でも下でも、ポジショントークをせずに、同じ政策を語ることが必要です。市場原理至上主義は、すべての市場参加者の機会均等を主張しているのだから、ポジションとは関係なしに賛同できる思想だと思っています。

“場合分けして考える必要性を自認しているものを一纏めにしラベリングするのは暴論が過ぎないか。”

場合分けするのではなくて、概念的に区別するということです。全体と部分を概念的に区別しなければ、「全体が部分を繰り返す」と主張することすらできなくなります。

“右翼に朝鮮半島の方が異常に多い件について、コメントどうぞ。”

元公安調査官の菅沼光弘氏が、外国特派員協会での記者会見で、日本の右翼団体に在日コリアンが少なからず存在するという趣旨の発言をしたそうですが、詳しいデータがないので、コメントは差し控えさせていただきます。


善悪や妥結解の話ではありませんが、機会均等とは甚だ疑問です。

例えとしてですが

誰でも、訴訟を起こせるが金と時間が無いとできない。一部の有能な人間は除く。その有能さとは知識を積み上げられる環境にあった者やある者。

出口部分の訴訟を起こす事は認めていても実質は機会均等ではない。

高等教育への進学や留学等による見聞を広め知識を深める方法なども、する事を禁止していないだけで実質はできない。極めて賢いヒトをのぞいては、金が幅をきかせる。

私立大学の医学部・歯学部・薬学部など大して難しくもないけれど金の多寡で、その後の将来が左右されている。借金してでも進学すれば良いのではと言われるが、担保価値のある資産すらない。

機会均等とは、それを禁止しないだけであり実質は無理が生じる。では、全てを極めて優秀なヒト(天部の才)をくみ取れるようにハードルを上げれば良いのかというとそうでもなさそうで、東大などに見られる保護者の所得をみれば歪みが見て取れるように思えてならない。

以上、オチなし

“そもそも、会社の社長も株主に使われているという意味ではプロレタリアですし、年金を株式で運用している普通の引退サラリーマンが資産家だったりします。そういう意味で「正しいプロレタリア」とはどういう人たちなのかという疑問も湧きます。”

プロレタリアートとは、無産階級のことで、本来的には経済的資本から疎外されている人たちのことです。本稿で言っている格差とか弱者とかは、経済的な意味での概念です。では、なぜ年収よりも学歴との相関を調べたかというと、年収の場合、例えば、20代で年収300万円と40代で年収300万円では、同じ階層に所属しているとは言い難いといった問題点があるからです。本当は生涯賃金のデータがあればよいのですが、そういうデータは計算が難しい。だから、生涯賃金と相関性が高い学歴を代わりに使ったというわけです。

“排他主義と低学歴・低所得の相関が強いことを心理学的側面よりも経済的側面から説明しようとするのは面白い試みだと思います。重回帰分析してみたいですね。 ”

二変数しかないので、単回帰分析で十分でしょう。グラフに回帰直線を加えました。また、オーストリアの極右政党のデータも追加しました。

“グラフの意味が全く読み取れません。理由は(グラフ中に)単位が存在していないためだと思います。”

本文に書いたように、「強く同意する」と答えた割合に+2、「同意する」と答えた割合に+1、「現状でよい」と答えた割合には0、「反対する」と答えた割合に-1、「強く反対する」と答えた割合に-2を乗じた値の合計で、単位はありません。相対値と考えてください。

“機会均等とは、それを禁止しないだけであり実質は無理が生じる。”

その通り。機会均等とは、市場への参入をオープンにするということであって、スタートラインを同じにするということではありません。スタートラインで、市場参入者が金太郎飴的に同じなら、いくら自由参入・自由競争を促進しても、市場に多様性が出てきません。そこで、重要なことは、スタートラインで同じでないことを「不平等」と嘆くことではなくて、「災いをもって福となす」開き直りの精神です。短所を克服して金太郎飴になることではなくて、長所を伸ばして、自分のニッチマーケットを見つけることです。多様性を否定する平等ではなくて、多様性を肯定する平等が、市場原理至上主義が求めているものです。


金銭の多寡による裏道を歩める者が、格別に有利である現状の「不平等」は、割を食う側の大多数の人々にとって嘆きに値するかと個人的な感情では考えています。

このような社会制度の現状について、教育する機会を設けていない事にも甚だ疑問が残ります。

また、超過利潤にありつける可能性の高低について、不満は顕著に表れるのではないでしょうか。

ニッチを狙える素養や資質を磨くにも金銭の多寡が影響を及ぼしているのには疑問が残ります。

何かを目指す人々が、金銭に縛られる事無く純粋に能力で競えると良いのですが、能力の計測法に限界があり困難を極めます。


当方は、マルキシアンでもケインジアンでもなくフラットのつもりですが、現状の制度では、富裕層の中でもさらに上位の者ほど市場原理至上主義による恩恵が過大であり、その他大勢の貧困層には厳しいことは自明だと考えています。
その昔は、不特定多数のヒトとの意見交換をする機会に乏しくインターネットにより良くも悪くも「考える人」が多くなり、その結果が反体制的に映るだけではないのでしょうか。権力者側は、自分たちの利得が減少することを理解しているだけに、誤魔化す事に躍起になっているように思えてなりません。

“現状の制度では、富裕層の中でもさらに上位の者ほど市場原理至上主義による恩恵が過大であり、その他大勢の貧困層には厳しいことは自明だと考えています。”

私も最低限の生活を保障するセーフティネットが必要だと考えていますが、それは市場原理至上主義と矛盾しません。これに関しては、「社会福祉は必要か」をご覧ください。


市場原理至上主義であることの利点?優位点?が、貧者に見られない事や、それに対する説明や妥結解の考察が見られない点が、優位者(≒権力者≒富裕層≒賢者)としてのポジショントーク・御用学者と思えてならない所以だが如何なものか。

社会全体の富を増やすということは、社会におけるポジションがどこであれ、賛成できることです。逆に平等を求めるあまり、社会全体の富が減るということは、望ましいことではありません。干上がっていく池の中で「平等な水」を求めて争い合う魚のようで、悲惨です。


市場原理至上主義でなければ『“社会全体の富”が増えない』という論拠をお教え頂けますか。

多様性と自由に基づく市場原理がイノベーションを促進し、イノベーションが生産性を向上させ、生産性の向上が社会全体の富を増やします。


既知かと思いますが『イノベーションのジレンマ』
http://satoshi.blogs.com/life/2005/11/post_2.html


多様性と自由に基づくイノベーションを担保するモノは何だとお考えでしょうか。

日本やアメリカ等の現状を鑑みるにアカデミズムを排他する傾向や社会を構成する要素を統合するモーメントには、一時的な自由や多様性しかみてとれません。また、焼き畑農業にしか見えませんし、一部の人間の利得最大化に働いているようにしか理解できません。

継続的・恒久的な、ぬか床のような知の温床を耕す事が良いとは考える事ができません。

『イノベーションのジレンマ―技術革新が巨大企業を滅ぼすとき』は読んでいませんが、書評を読む限り、私が主張していることと矛盾していないようです。大企業は、社会主義国家と同様に中央集権的で、イノベーションが起き難いから、イノベーションの主体は、中小のベンチャー企業でなければなりません。


多様性と自由を堅持した市場原理至上主義が成り立つのに必要なモノは何だとお考えでしょうか。

市場原理至上主義については、「至上原理としての市場原理」、「市場原理は至上原理か」を参照してください。

物凄い量のコメントが来ても、一つ一つ丁寧に返事をする永井氏の知的誠実さには平伏します。

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統計データを見て私が最初に考えたのは、疎外の問題でも損得勘定の問題でもなく、常日頃何を見て、何を議論に足る事柄だと考えるか、という問題です。"Out of sight, out of mind"とはよく言ったもので、例えば先進国における一般的な人間は、世界中で飢え苦しんでいる人々のことを自分が飼っている犬猫以上に心配することはありません。国内外の貧困問題以上にクジラの話ばかりをメディアが取り上げるような国では、クジラの命を他国の人命以上に尊重する方々も居るようです。その一方で、身近に貧困を見たり経験してきた人間が、そのような倒錯した考えを持つことは珍しいのではないかと推測されます。

似たように、ある種の発想と学歴・所得が相関関係を持つのは、意識的・無意識的な損得勘定が行われているからではなくて、一部の人間が別の一部の人間以上に、そのような発想を生む土壌となりうる事柄にまなざしを向けているから、という解釈が成り立ちます。実際、私は米国在住で、仕事も米国で見つけることになりそうですが(つまり、戦争云々の損得勘定が意味をなさない立場に居ますが)、以前のワールドカップでの某国の振る舞いを見て、某国に興味を持つようになり、以前は某国に対して(無関心ゆえの、ガイジンに対する条件反射的な)好意的な感情しか持っていなかったのですが、その国にまなざしを向けているうちに、嫌いになっていきました。

また、上述の観点から、途上国において違った統計結果が出ることも説明できます。つまり、"お犬様"的な発想が大規模には生じにくい途上国においては、そのような"まなざし"のズレが起き難い、と。他方、一部右翼が戦争を望むことに関しても説明は可能であるものの(例えば:国際問題を、無視せずに煮詰めて考えるなら、解決の困難性ゆえに戦争という強引な結論に辿り着き易い)、そもそも戦争を望んでいる右翼というのは数の上で非常に限定されていると思いますし、これに関して論じる上では、個人や過去の事例ではなく、現代における統計データが必要になるかと思われます。

長くなりましたが、上述のような解釈が今回の永井氏の主張においてはrule outされていないと思うのです。

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あと、蛇足かもしれませんが、この場合の心理学的解釈であれば、権威主義性格よりも集団極性化の方が適切かと思います。実験を重視しないフロイト系の学者は、心理学会以外では人気ですが、心理学会では非常に不人気です。


“そもそも戦争を望んでいる右翼というのは数の上で非常に限定されていると思います”

たしかに、戦争待望論を公然と主張する人はほとんどいないでしょう。ヨーロッパの極右政党も、移民の排斥を声高に主張しても、戦争に関してはほとんど発言しません。しかし、建前はそうでも、本音は別という人もかなりいるかと思います。ISSPの調査には戦争に関する項目がありませんが、仮にあったとしても、どこまで本音が反映されるかは疑問です。ですから、実証的な検証はかなり困難です。

私が赤木さんを取り上げたのは、彼が、自分の利己的な主張を、普遍的価値で隠したり、ごまかしたりせずに、正直に表明しているわかりやすい人物だからです。彼と同じことを公然と主張する人はまれでしょうが、内心、同じようなことを考えているという人なら、もっといると思います。

>ISSPの調査には戦争に関する項目がありませんが、仮にあったとしても、どこまで本音が反映されるかは疑問です。ですから、実証的な検証はかなり困難です。

社会学的手法では当然不可能なはずです。

ここで用いられるべきは(フロイト系のアレなものではなく、コンテンポラリーな)心理学における実験であり、しっかりした操作的定義を用意し、必要に応じて実験の目的を偽装すれば、件の統計に関して永井氏の解釈が正しいのか、私の解釈が正しいのか、はたまた両方正しかったり間違っているのか、そして本当に右翼は戦争を望むのか等、現状より深く探求できるはずです。

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あと気になったのは、左翼思想は一般化可能か、またはそもそも一般化可能な規範に則っているか、という事です。

例えば、他国(日本、ドイツ、アメリカ、中国等)の侵略は非難しつつ、自国の侵略に関してはだんまりを決め込むイギリスやフランスの左翼。その思想を一般化するなら、世界中は第二次大戦前のイギリスとフランスのような関係になるでしょう。

例えば、北朝鮮が核を持つことは許容し、日米がMDを構築することには怒る日本の左翼。その思想を一般化するなら、キチガイほど刃物を持ち、まともな人間ほど無防備になる、独裁者と犯罪者の楽園となるでしょう。

例えば、(そのような団体があったと伝聞で聞いただけですが)弱者である黒人に社会主義を賛美させることで、社会主義の正当性を訴えようとする、白人だけをリーダーとした左翼団体。その思想を一般化するなら、"知能に劣る黒人やアジア人を、優秀な白人が導く"という、一昔前の奴隷思想を肯定することになるでしょう。

(相変わらずの蛇足ですが)個人的な意見としては、相当数の左翼思想(そして右翼思想)は動物愛護思想と似たようなもので、個人的な感情をこじつけの理屈で正当化し、その過程において倫理的優越感を感じるという倒錯に基づいているだけだと思うのです。

ホームレスの悲惨な境遇を無視して、「弱者保護」と称して動物愛護にばかり力を入れる団体は、ホームレスからすれば、偽善的で狂っているように見えるでしょう。赤木さんが既成の左翼政党に対して抱いている不満は、これと同種類のものです。もちろん、すべての左翼団体が、動物愛護団体と同じとは思いませんが。

私が問題としているのは、ある観点から"偽善的で狂っているように見える"左翼思想がある、という自明の理ではなく、"左翼思想は一般化可能か、またはそもそも一般化可能な規範に則っているか"ということです。

純粋な左翼思想は、理論的には普遍化可能ですが、それを普遍的に実現しようとすると、生産性が低下し、さらには、社会が機能しなくなります。これに対して、利己主義は、現実的にどころか理論的にすら普遍化不可能ですが、それを個人主義という普遍化可能な形態へと止揚するならば、理論的にも現実的にも普遍化可能になります。

ほんの一例だけですが、右翼の考えでも。
私は、第二次世界大戦時の報復戦争や日本の支配圏の拡大、資源獲得を望んでいますが、正当性皆無なので、たとえ匿名の調査であっても、この考えを明らかにしたくはありません。生活のための戦争という発想には乏しいです。公共事業すればと。防衛戦争に関しては、何も言う必要は無いでしょう。

“私は、第二次世界大戦時の報復戦争や日本の支配圏の拡大、資源獲得を望んでいます”

第二次世界大戦で、勝ち組と負け組みが決められ、その後、その格差が固定されています。日本は、国連の分担金が、イギリス、フランス、中国、ロシアより多いにもかかわらず、常任理事国になることはできません。また、自立的な国防力を持たないために、外交的にも不利な立場におかれています。このように、格差が固定されると、格差社会の下層は、不満を持ち、格差という秩序を破壊したいという願望を持つようになります。これは、プロレタリア型右翼の願望です。ここからもわかるように、個人だけでなく、民族全体や国家全体までがプロレタリア型右翼となりえます。

“生活のための戦争という発想には乏しいです。公共事業すればと。”

建設的な公共事業だと、需給ギャップが埋まらないが、破壊的な公共事業である戦争は、インフレ効果が大きいので、その悲惨さにもかかわらず、デフレ時に実行されるのでしょう。もちろん、私は、別の手段でインフレにするべきだと考えているのですが。

なるほど。私の考えは、日本国自体のプロレタリア右翼的な側面から生まれていたわけですか。祖国が抑圧されている状態に憤りを感じたのかもしれませんね。なんだか、戦前のドイツに生まれていれば、ナチを支持していそうな感じで、ちょっと嫌ですね。危険なわけではなく、異質なだけで人を迫害することには、強い嫌悪感を感じますから。

左翼とは共産主義者のことですが、では、右翼はどうか。
「所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義者なり」近衛上奏文

正直、ウヨサヨごっこにはうんざり。いずみんさんに同意というところ。

“所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義者なり”

これはプロレタリア型右翼に対する正しい認識です。

まだ論文2つしか読んでおりませんが、アホな私でも納得することしきりです。
さて、NHK、JAPANデビューへの抗議デモがあったことはご存知でしょうか?
右翼的と思われている団体が左翼的な手法で成功しそうです。(数にまかせての抗議や集団訴訟なんかは左翼の得意技ですよね?)
これは今まで無かったパターンだと思うのですが、どうなんでしょう?
私は戦後教育のおかげで基本左ですし、義侠心から参加したのですが、私もプロレタリア型右翼に分類されちゃうんでしょうね。
貧乏が図星なだけにちょっとツライ。
賢い永井先生のご意見を賜りたいです。

『JAPANデビュー』は見ていないので、直接の論評は避けたいと思いますが、インタビューを柯德三さんが同意しない形に編集して、放送したとするならば、それは、イデオロギー的な話を別にしても、問題がありそうですね。時間的制約があるのだから、編集するのはやむをえないとしても、放送する前に、本人の同意を得るべきではなかったかと思います。

これは開発独裁体制一般に関して言えることですが、日本の台湾統治には、近代化の素地を作ったという光の側面と人権侵害という影の側面があるわけですから、その両方を取り上げないとフェアな評価はできないでしょう。それにしても、戦前の日本の台湾人に対する扱いは、朝鮮人に対する扱いよりもひどかったにもかかわらず、現在、台湾が韓国よりも親日的になっているというのは皮肉なことです。

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