9月11日、トロント映画祭でマイケル・ムーアの新作『Capitalism:A LoveStory』を観た。映画はこんなロックンロールで始まる。
共産主義世界は崩壊したけど
資本主義者には失望させられるだけ
金こそがその理由だ
まったくルイルイ歌うしかないぜ
なぜアメリカには公的医療保険がないんだ?
ブッシュの親父やゴルヴァチョフの後
ベルリンの壁は倒れたけど、何かが失われた
テレビのニュースを見ると映画みたいだ
俺はルイルイ歌うしかないぜ
Louie Louie by Iggy Pop
これは、社会主義の崩壊と共に失われた「何か」を描いた映画である。
歌うはパンクの神様イギー・ポップ。イギーはデトロイト・エリアで生まれたマイケル・ムーアの同郷人。イギーはフォードの城下町デアボーン、ムーアはGM(ジェネラル・モーターズ)の工場町フリントの出身で、ムーアの父はGMのプラグ工場の労働者だった。
『キャピタリズム』は、住宅ローンが払えなくなって家を強制退去させられる人々を映し出す。ムーアの映画第1作『ロジャー&ミー』のラストシーンとまったく同じだ。1980年代、ムーアの故郷フリントではGMの工場が閉鎖され、労働者が大量解雇され、町は廃墟になっていった。GMが工場を人件費の安いメキシコやカナダにアウトソースさせている事実を知ったムーアはGMのCEOロジャー・スミスに直談判しようとした。
それからちょうど20年経った2009年、フリントの惨状はアメリカ全体に広がってしまった。
ムーアは自分が子どもだった50~60年代を懐かしむ。あの頃は自動車工場の組立工であっても、家が買えて、子どもを2人も大学に入れることができた。病気は組合の医療保険で支払った。お金は銀行に預けておけば高い金利で勝手に増えた。今、それが全部パアになった。
今のアメリカ庶民は、銀行の金利がタダ同然なので老後の蓄えを401Kの投資信託に入れたが、それも株価暴落と共に消えた。民間の保険会社は医療費支払を拒否するので、病気になると破産。サブプライムローンで家を失い、子ども1人を高校を卒業させるまでにかかるお金は平均2000万円、大学4年間にかかる費用1000万円は、中産階級にも払えない。
ムーアは現在のアメリカのすさまじい搾取社会の実態を見せていく。なかでも驚くのは、大企業が従業員に無断で生命保険をかけ、受取人になっているという事実だ。ウォルマートで働いていた妻が亡くなって3人の子供を抱えた夫が、妻の生命保険で会社が800万円もの保険金を受けていたことを知って呆然とする。葬式代も出せない貧乏な一家だが、会社は遺族に1セントも見舞金を払わなかった。
普通なら、これはアメリカの資本主義の運営に問題があると考えるが、ムーアは資本主義そのものが問題なのだと訴え始める。
これだからムーアは「アカだ」「反アメリカだ」と叩かれる。ところが、彼のアンチ資本主義はマルクス主義のほうには行かないのだ。
まず、彼は愛国へと向かう。
ムーアはアメリカの独立宣言の文面を読む。建国の父の言葉には資本主義や自由市場競争を賛美する言葉はなかった。代わりにアメリカの目指すものとして掲げられていたのは「平等」だった。
それを読んだムーアは「アメリカ建国の精神に戻り、今こそ資本主義よりも民主主義を」と訴えるのだ。
しかし、「資本主義よりも民主主義を」という言葉はどこか変だ。資本主義は経済システムで、民主主義は政治システムだ。ジャンルが違うのだ。それに歴史的には、資本主義の発展が庶民に経済的力を与え、それが民主主義を生んだので、2つは対立する概念ではない。
現在のアメリカの格差社会は1980年代のレーガン政権から続いてきた「新自由主義」の四半世紀の結果である。だからムーアはレーガン以前、つまりニューディール時代を現在に呼び戻せと考える。そしてニューディール政策を始めたルーズベルト大統領最後の演説(1944年1月11日)を聞かせる。それはアメリカ憲法で保障された「幸福の追求」をより具体的に実現するための新しい権利章典の提唱だった。ルーズベルトが掲げた権利は以下の通り。
社会に貢献し、正当な報酬を得られる仕事を持つ権利
充分な食事、衣料、休暇を得る権利
農家が農業で適正に暮らせる権利
大手、中小を問わず、ビジネスにおいて不公平な競争や独占の妨害を受けない権利
すべての世帯が適正な家を持てる権利
適正な医療を受け、健康に暮らせる権利
老齢、病気、事故、失業による経済的な危機から守られる権利
良い教育を受ける権利
この演説の後すぐにローズベルトは亡くなり、この権利章典は法制化されなかった。ムーアはこれを実現するのがアメリカの使命だと訴える。
ただ、アメリカは実際、これを実現しようとしていたのだ。60年代まで続いたニューディール政策のアメリカは国民の平等を第一とする福祉国家だった。ジョンソン大統領は「偉大なる社会」をスローガンに掲げて貧困の根絶を目指していた。世界中があこがれたアメリカン・ドリーム、誰もが豊かになれるアメリカとは、ある意味、社会主義的な理想でもあった。
ところが、それは経済の停滞を生み、70年代にニューディール政策は崩壊した。だから、平等よりも競争によって経済を活性化させる新自由主義とレーガン政権が登場したのだ。
ニューディールも新自由主義も共に失敗した今、アメリカは第3の方法を手探りしている。だが、そうした経済・政治論議にムーアは興味を示さない。
ムーアの心は神へと向かう。
アイルランド系で、敬虔なカソリックとして育ったムーアは子どもの頃は神学校に通い、神父を目指していた。『ボウリング・フォー・コロンバイン』(02年)でアカデミー賞を取った時も壇上から「ローマ法王もイラク攻撃に反対だ」と叫んだ。
『資本主義というラブストーリー』でもムーアは格差社会について経済学者や政治家にインタビューするのではなく、ローマン・カソリックの神父たちに質問する。
「クリスチャンとして、資本主義をどう思いますか?」と。
キリストは「富める者が天国の門に入るのはラクダが針の穴を通るよりも難しい」と言った。「貧しい者に分け与えなさい」と、言った。キリストが生涯ただ一度激怒したのはあこぎな商売人どもを蹴散らした時だ。キリストの言葉や行動は、弱肉強食の自由市場主義とは相反するものばかりだ。そもそも西欧の社会主義思想はキリスト教から生まれたのだ。当然、神父たちは皆、こう答えるしかない。
「資本主義は邪悪であり、神の教えに反している」
ムーアはその言葉にただ従う。
実は、プロテスタントが「労働によって富を蓄えることは神への道だ」と説いて価値観を逆転させたことから現在の資本主義が発展したのだ。アメリカの人口の3割を占めるキリスト教福音派もまたプロテスタントであり、自由市場主義を信奉している。庶民の生活を救う公的医療保険に対しても、「政府による福祉は社会主義だ」「貧乏人のために税金を使うな」と頑固に反対している。
彼らに「それはキリスト教的ではないよ」と反論する代わりに、ムーアはウディ・ガスリーの歌で映画の幕を閉じる。
イエスは金持ちに言った。「貧しい者たちに施しなさい」
だから奴らはイエスを葬り去った
イエスは病める者、貧しき者、飢えた者、傷ついた者を救った
だから奴らはイエスを葬り去った
イエスは宗教家や警官にも同じことを言った
宝石を売って貧しき者に施しなさい
ところが奴らはイエスを葬り去った
イエスが町にやって来ると、彼の言葉を信じる労働者たちに歓迎された
銀行家や宗教家どもはイエスを十字架にかけた
この歌はニューヨークで書かれた
金持ちと宗教家と、その奴隷たちの街で
そうだ、もしイエスが今、同じように演説したら
奴らはイエスを逮捕して処刑するだろう
Jesus Christ by Woody Guthrie
ムーアは政治家でもアカでもなく、素朴なキリスト者なのだ。