第45回衆院選が18日に公示され、県内の候補者は一斉に街頭に飛び出して、12日間の舌戦が始まった。うだるような暑さの中、早くも演説は絶叫調で、戦いは過熱気味だ。六つの選挙区で初日の候補者の動きを追った。
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◆1区
共産新人の木村恵美氏は名古屋市北区の事務所で出陣式を開いた。支持者を前に木村氏は「雇用を大事にし、安心して暮らせる政治に変えよう」と第一声。支持者から花束を受け取り、選挙カーに乗り込んだ。
民主新人の佐藤夕子氏は同市東区で出陣式。かつて秘書として仕えた河村たかし市長は米国出張中で「どえりゃあ度胸のある候補」との録音の応援メッセージが流された。佐藤氏は市長譲りの自転車街宣に出発した。
自民前職、篠田陽介氏の出陣式には比例東海ブロックの公明前職も駆け付け、篠田氏は「比例は公明党にご協力を」と訴えた。篠田氏は「世代交代 36歳」と染め抜かれたのぼりを立てた自転車で街へ繰り出した。
社民新人の平山良平氏は出発式で「国の形、働く仕組みを変える選挙だ。2年前の参院選が関ケ原の戦い。今度は自公政権を倒す『名古屋の夏の陣』だ」と力説。若者の雇用安定や社会保障の充実などを訴えた。
幸福実現党の河田成治氏も立候補した。
◆6区
民主新人、石田芳弘氏の出陣式は春日井市東野新町で開かれ、労組、NPO関係者らが集まった。石田氏は「政権交代で日本を変えよう。真の地方分権こそ急務」と訴えた。
自民前職の丹羽秀樹氏は同市六軒屋町で支持者らを前に第一声。若さを強調し「若い世代が自由に発言できる国会にしたい。その意味では自民も変わる必要がある」と述べた。
幸福実現党新人の福原真由美氏は同市の高蔵寺ニュータウンで、長谷川浩司氏(無所属新人)は同市のJR勝川駅前でそれぞれ第一声を上げた。稲垣寛之氏(同)も立候補した。
◆8区
民主前職の伴野豊氏は半田、東海市で出陣式。労組関係者や後援会員が詰めかけ「政権交代」と記したのぼりがはためいた。伴野氏は「やっとみなさんに政権を選んでいただく日がきた。30日は歴史が動く日」と声を張り上げ、自転車遊説へ。
自民前職の伊藤忠彦氏は、知多市内で企業や支援団体、公明党の関係者らを集めて出発式を開いた。伊藤氏は「経済は少しずつ上向いている。後ずさりはできない」と訴えた。「比例は公明」と、公明党との協力関係にも力点を置いた。
幸福実現党新人の三丁目伸哉氏も半田市で出陣式を開いた。
◆12区
共産新人の八田ひろ子氏は岡崎市で「自公政治を退場させ、国民が主人公の政治をつくるために共産党を伸ばしてほしい」を支持を求め、「若い世代の人たちが未来に希望の持てる雇用のルールを築きたい」と訴えた。
自民前職の杉浦正健氏は同市で終始厳しい表情で第一声。「12区は杉浦正健以外にないと確信している。民主党が政権を取ることに憂いている」と述べ、最後に「今回は小選挙区一本で戦う。比例復活はない」と強調した。
民主元職の中根康浩氏は同市で「前回、苦杯をなめてから4年間、人の痛みに寄り添う政策の大切さを学んだ。日本の政治はこの4年間、国民に痛みを押し付けた。政権交代し、政治を変え、生活を立て直していく」と訴えた。
幸福実現党の後神芳基氏も立候補した。
◆13区
民主新人の大西健介氏は刈谷市の刈谷駅前広場で出発式。「開かれた形にしたかったのと、駅前での演説が私の政治の原点だから」と説明した。「政権交代で官僚政治や金権政治を改め、税金の無駄遣いを無くす。子育てや介護、医療、年金、雇用などを優先する」と訴えた。
自民前職の大村秀章氏は安城市の選挙事務所前で出陣式を開いた。「政府の景気対策が効果を発揮し、明るい兆しが見えてきた」と強調。「国民生活の安心を築くため、雇用や年金、医療を着実に成し遂げる。これまでの与党の原点『責任』と平和国家を守り抜く」と支持を求めた。
幸福実現党新人の室田隆氏も立候補した。
◆15区
民主新人の森本和義氏は「国民は格差社会にあえいでいる。東三河から日本を変えていきたい。日本を変える一票を私に託してほしい」とアピール。その後、自転車にまたがり事務所を出発した。
自民前職の山本明彦氏は「設楽ダムや豊川用水2期工事が中止になれば東三河には大打撃。厳しい選挙だが地にはいつくばってゴールを目指す」と決意表明。ガンバローコールで気勢を上げた。
共産新人の斎藤啓氏は「規制緩和で雇用環境がずたずたになった。生活が大変な一人一人の苦しみをしっかりと受け止め、何よりもそんな人を生み出さない政治をつくりたい」と力強く訴えた。
幸福実現党の新人、高橋信広氏も立候補した。
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■候補者の横顔(届け出順)
◆1区(5人)
23歳の時から、看護師として、医療・福祉の最前線で働いた。「1970年代には医療の無料化も進んだが、その後は改悪されるばかり。制度を変えようと、政治の道を志しました」
医療費が払えずに入院を断り、完治していないのに通院しなくなる患者を見てきた。だから「誰でも受けられる医療」を訴えの中心に置く。さらに、介護保険についても「認定は厳しいうえに負担も大きい。絶対に廃止させたい」と言葉に力を込めた。「二大政党では医療と福祉は改善しません」
選挙戦では「労働者派遣法を抜本改正し、『雇用は正社員が当たり前の社会』を」と訴える方針だ。また、憲法9条を生かして「世界とアジアの平和に貢献する日本であってほしい。平和と暮らしを守る政治を実現したいんです」。
信条は「一人は万人のために、万人は一人のために」。趣味は絵画鑑賞で、特にルノワールなどの印象派絵画が好きだという。
航空自衛隊のパイロットの出身。「元々、宇宙工学や航空工学に興味があり、防衛大に進学しました」。航空自衛隊では100人に一人という難関を乗り越え、念願のパイロットに。「空を飛んでいる時は最高に気持ちがいい。右手側に太平洋、左手に日本海が見えるという得がたい体験もしました」
だが、自衛隊にいたからこそ安全保障問題を常に考え「日本は本当に安全なのか。自民党と民主党では日本を守れない」と思い、出馬を決意した。「敵国がミサイル発射の準備をしているなら先制攻撃をかけるのは正当防衛なのに、その議論すらできなくて言論の自由があると言えるのか」と語る。「有事を意識した防衛論が日本には欠けています」
「選挙戦では自転車街宣で政策を繰り返し訴え、本気で日本を変えるという姿勢をみせたい」と語る。大学時代は少林寺拳法に熱中し、全国大会で表彰されたこともある。趣味はスキューバダイビング。
元々は幼稚園の教諭で退職後、幼稚園の日照障害を訴える市民活動をしている姿が、当時の河村たかし衆院議員の目に留まり、同氏の秘書に。07年の県議選では強敵の自民現職を破り、初当選した。
公約は「議員特権の廃止」で、費用弁償は受け取りを拒否し、政務調査費は一人で全面公開した。
河村氏の市長転身で後継に。「4人の子供の母親であることが原点。そこをおろそかにせず、国会議員ができるのか」と苦しんだが、家族に背中を押され、出馬を決意した。「母親の視点をなくさず、県議時代と同様、庶民目線でやっていきたい」と強調する。
「河村チルドレン」を自称し、師匠ばりの自転車街宣で、子育て、少子化問題を訴える。
後期高齢者医療制度の廃止と、医療保険の一元化を政策に掲げる。政調費の公開などで県議会では冷遇された。「つらかったが、結構くじけない自分に気付き、自信にもなりました」と笑ってみせた。
平日の朝に続けた街頭演説は600回に迫る。「国会議員は東京にいて週末だけ帰ってくるイメージ。バッジを付けている以上、何をやって何をしたいのかを報告する義務がある」と新たな政治家像を語る。
夏場の暑い選挙も苦にならない。「夏は好きで、生き生きしている」と日焼けした顔で笑う。マラソンにサッカー、スピードスケート……。多くの競技で優秀な成績を収めたスポーツマンだ。
党に対しても、はっきりともの申す。世代交代を掲げ、首相経験者は、後進に道を譲る意味でも一線から身を引いてはどうか、と大胆な提言をする。その上で「大物閣僚に応援演説は依頼しない。私の政策で判断してほしいから」と話す。
大学時代は名古屋で過ごした。4年前の初めての立候補にあたり、名古屋に転居し、本籍も移した。「名古屋は便利だし、生活しやすい。日本のへそ」と言う。この地方に根を下ろす決意に変わりはない。
自衛隊の海外派兵反対や勤務していた中学校での嫌煙運動に携わった行動派。特に、20年の歳月を経て勝ち取った学校敷地内の全面禁煙は思い出に残る。1月からは、派遣切りに遭って区役所に生活保護申請に訪れる人に同行し、その人数は200人を超えた。
74年から中学校の保健体育教諭に。「自分は人前で話すのが苦手。人間としての幅を広げよう」と、学校外の事象に興味を持ち、情報網を広げようと、社会運動に参加するようになった。社会には多様な考えを持つ人がいると感じ、生徒らに強制的な指導はせず、伸び伸びやらせる「自然体」を貫いた。
実家が建設業だったため、モノづくりが得意だ。選挙で使う旗や小道具を自らが作る。「アイデアが形になるのは楽しい」と話す。教諭になる前にはとび職の経験もあり、自宅のリフォームも手掛ける。
護憲を掲げて演説を続ける。「(07年出馬の参院選より)演説は成長した」と笑う。
◆8区(3人)
「いまの自民、民主の目的は政権だけ。30、50年先を見据えたビジョンがない」と初挑戦を決めた。街頭に出て、知名度アップを図る。
前衛画家だった祖父の影響で美術の道に進み、大学では彫刻を学んだ。「子供のころから絵が好きで、よく祖父のひざの上に乗って絵を描いていた」という。祖父は戦争によって自由を抑圧された。北朝鮮の核武装には断固反対で「隣国として自由な交流ができることを望んでいる」と話す。
「景気回復」を重視する。商店主らの言葉から厳しさを実感するという。地元に対しては「未来の基幹産業を作らないと若者は居なくなってしまう。一大リゾート計画を打ち出してもいいのでは」と、熱く語る。
「人生の疑問が解消された」と幸福の科学に入った。91年から95年まで半田支部で主任を務め、08年12月から支部長。情熱家で「直球勝負で行くタイプのプラス思考の性格」という。
「相手のことを考え、伝えたいことをわかりやすく話す」が今一番の課題という。10年間、自転車遊説の選挙スタイルは変えない。「人が歩く速度に合っており、支持者との距離が一番近い」と、自転車で1000キロと1000回の街頭活動を目標にする。
前回は小選挙区で敗れて比例で復活。「この4年は、もう一度原点に帰って活動をしてきた。人事を尽くして天命を待つ」との心境だ。この1年、県連代表として「党内の意識改革に努めてきた。野党慣れというか、甘さもあった。勝つために何をやっていくかという(小沢一郎党代表代行の)小沢イズムが植え付けられた」と語り、「政権交代で国民生活に密着した予算づくりをしたい。生活第一を考えたい」と意欲を見せる。
使命感、信頼感、責任感を重んじ、国、中央集権、東京、米国からの自立を目指す「3感4(自)立」が政治姿勢。「欠けたときは政治家を去るとき」と自らを厳しく律する。
「今回の選挙で大事なことは、残ること。再び国会の場に」と語る言葉に危機感が漂う。今の自民党に対して「国家があって国民がいる。これでは国家色が強すぎ、時代に合わない。党をリニューアルするための人材になりたい」と言う。
初当選から、この4年間は「まず自分の足元を深く知ることが大事だと思った。知多半島の未来のために種をまいてきた。半島の発展のためにも継続させていただきたい」と、地元に対する気持ちは強い。性格は、考える前に動くタイプ。
早稲田大学高等学院に入ってから政治家への道を考えるようになった。銀行マンの父親からは「合理的でない」と反対されたが、大隈重信の建学の精神を学び「人に尽くしていきたい。一つの時代を作っていきたい。何もないところから生み出す力がある政治はおもしろい」と思うようになったという。
「凛(りん)とした日本人になりたい」。終戦直後に活躍した実業家、白洲次郎を尊敬する。
毎日新聞 2009年8月19日 地方版