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2007年6月24日 (日)

介護と云ふ聖職

 六月二十日附中日新聞夕刊「社會時評」で、作家の高村薫が「『公』の姿、『民』の顏」と題する混亂した文章を書いてゐる。

 たとへば、私たちが營々と納め續けてきた國民年金や厚生年金の掛け金が、社會保險廳のコンピューターにきちんと記録されてをらず、宙に浮いてゐる件數が五千萬、六千萬にのぼるといふだけで、そんな役所はもはや信用に値しないし、そんなむちやくちやな行政を放置してきた政治も信任に値しない[略]。

 高村はこの箇所の直前に「もうそろそろ見限るべきは見限り、この國のていたらくにノーを突きつけるときかもしれない、とも思ふ」と書いてゐるのだが、現在の自公聯立政權が「ノー」を突附けられ、例へば民主黨が取つて代はつたとしても、「むちやくちやな」役所や行政が改善する見込みなど無い。社會保險廳に限らず、役所とは政權の別にかかはらず、本來非效率で無責任な存在だからである。民間に任せるべき業務を役所の手から奪はない限り、同樣の問題は何度でも起きる。

 また、生活に直結した不信では、介護保險制度の現状も例外ではない。折しも大手の訪問介護サービス會社が介護報酬の不正請求で處分されたが、そもそも營利の追求を目的とする民間企業の參入は、福祉の本質と相容れないのではないか。

 民間企業が福祉と相容れないと云ふのは事實に反する。世間には介護同樣、人間の生命に關はる仕事でも、民間が立派に擔つてゐる例は多數存在する。例へば人間は毒物を喰ふと死ぬ恐れがあるが、食品は民間の食品メーカーや商社によつて供給されてゐる。大病をして手術をしないと命にかかはるが、醫療機器は專門のメーカーによつて製造されてゐる。介護だけを特別扱ひして民間企業を排除する理由は無い。事實、コムスン問題に關する報道を見る限り、同社のサーヴィスの利用者らは口々に「ヘルパーが來なくなると困る」と不安を訴へてゐた。介護ビジネスに何も良いところが無いのなら、そのやうな發言は出ない筈である。

 そもそも高村は同じ文章の中で、年金記録に關する社保廳の「むちやくちや」を糺彈したばかりではないか。年金は介護保険同樣、福祉制度の一種である。民間の保險會社でも保險金の未拂ひ問題などは起きてゐるが、さすがに記録漏れが「五千萬、六千萬にのぼる」と云ふ篦棒な不始末をしでかしたところは無い。高村の云ふ「むちやくちや」な行政に介護を任せ切りにすれば、その結果は必ずや「むちやくちや」となる筈で、介護報酬の不正請求どころで濟まなくなるのは火を見るよりも明らかである。

 馬鹿念を押しておくが、私は民間企業が完璧だなどと云つてゐるのではない。凡そ人間の行爲に完璧などあり得ず、必ず缺陷が伴ふ。問題はその缺陷を如何に小さくするかなのである。惡質な民間企業はあるだらうが、競争相手の自由な參入が認められてゐれば、利用者にそつぽを向かれていづれ淘汰される(役所は惡質でも淘汰されない)。「公」が「むちやくちや」ならば、それよりも多少(或いは遙かに)増しな「民」に任せるしかない。ところが高村はをかしな事を云ひ出す。

 では、「民」はどうか。郵便制度をはじめ醫療、大學、そして介護など、本來は「公」であるべき性格のものが、改革の名のもとに「公」から放り出され、いまや「民」の顏をしてゐるのだが、この「民」は國民ではなく民間企業である。ここでも本來の「民」すなはち國民はほとんど置き去りである。

 企業は「本來の『民』」である國民とは無關係だと高村は云ひたいらしい。無論、企業は人ではないから國民ではない。しかし云ふまでもなく、企業に資本を出してゐるのは國民だし、企業で働いてゐるのも國民である(高村が「民間企業の元サラリーマンには介護を受ける資格は無い」などと言ひ出さない事を祈る)。

 では高村が考へる「民」とは一體どのやうなものなのか。

 思ふに、福祉とはそもそも無償の善意がなすものである。家庭や地域社會が擔ふにしろ、人のいのちを慈しむのは、ひろく公共の善意をおいてないのであり、そこに營利目的が關はる餘地は基本的にはない。むしろ、この分野での民間企業は、たとへば介護タクシーや入浴サービスのように、地域社會での支へ合ひと「公」の間で、活用されるべきものだと思ふ。そしてもちろん、私たちはやはり、それなりの物理的負擔は引き受けなければならないのである。

  「家庭や地域社會」――。大家族で先祖傳來の土地に住み續けた時代ならいざ知らず、親子が遠隔の土地で暮らす事が當り前になり、轉居や轉勤が日常的となつた現代において、介護へのビジネスの關與を認めず、家庭や地域社會で擔ふなど土臺無理である。殘念ながら、たとへ相手が親や夫、妻であつても、「無償の善意」に基づき、長期間にわたり獨力で、己を殺して奉仕し得る人間は、さう多くはないのである。

 だから「公」に支へて貰ふしかない、と高村は云ひたいのだらう。結局、福祉とは原則「公」の仕事と云ふわけである。米歐のやうな自由主義の傳統を缺く我が國では、高村のやうに考へる知識人は多數派に違ひない。彼らにとつて介護や醫療や教育は、資本主義などと云ふ汚らはしい代物とは無縁であるべき聖職なのである。

 高村は別の箇所で、福祉ビジネスのサーヴィスを享受出來るのは高級老人ホームに入れる金持ちだけだと云ふ意味の事を書いてゐるが、老人ホームであれ介護であれ、需要と供給の法則により、參入する企業が増えれば競爭で料金は安くなるし質は高くなる。介護に求められるサーヴィスはそれこそ一人一人異なるものだから、非效率な役所仕事で滿足に實行できる道理が無い。一方で社保廳の年金問題を攻撃しつつ、他方で介護が「公」の仕事だと主張する高村は、官僚と云ふものの本質を、さらに云へば人間と云ふものの本質を、理解してゐない。官僚とは人間だからである。

 官僚は質の惡い介護サーヴィスを提供しても、ボーナスが減つたり首になつたりする恐れは無い。さう云ふ環境に置かれた人間が眞劍にサーヴィスの向上に取組む可能性はまづ無い。それでも一所懸命やる眞面目な役人は一部にゐるだらう。だがそれを多數に求めるのは無理と云ふものであるし、始末の惡い事に、眞面目であるがゆゑに相手が喜びもしない「サーヴィス」を無理矢理提供して滿足する獨善的な官僚も少なくないのである。

 介護疲れの果てに親や夫、妻を殺めたと云ふ悲慘な事件は後を絶たない。さうした境遇の者(すなはち潛在的には我々の大部分)にとつて介護ビジネスは助けになり得るし、現になりつつあつた。だが今後、高村薫のやうに「公」の介入を求める知識人やメディアの聲援を受けつつ、政治家と官僚は介護ビジネスに對する締附を強める事だらう。そして介護を受ける者やその家族は、いづれ年金問題と同樣の、或いはそれを上囘る犠牲を強いられる事だらう。

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コメント

要するに、働く事に報酬を求める人間の「報酬」への欲望と、人に實際に支拂はれる報酬の量、これらが、少なければ困るし、あり過ぎてもやつぱり困る――と、それだけの話でせう。ならばそれらが「適正」になれば「良い」筈だ、と簡單に言へる訣ですが、その「適正」な量なり何なりが決まらない。だから簡單な話も簡單に決着しない。
この手の問題は大體大雜把な「政治的な決着」で濟む話ですが、議論すれば「精密」な決着をつけなければ人間、氣が濟まないから、大體話が面倒になる。「政治」に興味を持つ人が「政治」に興味を持ち、また「政治」の議論で何時でも必死になる所以です。何しろ「政治」の話は「難しい話」に「なる」のです。それを簡單に言ふ人間を、彼等は憎惡する。けれども、どうなんですかねえ、ただの水掛け論を「難しい話」と言ふのは、ちよつと、ねえ。

そんな問題を、「ブログ」のコメント欄邊で何時までも爭つてゐても仕方がないのではないですか。

投稿: n | 2007年6月30日 (土) 16時03分

>今の時点で年収300万円どころか、100万円台の人が増えています。管理人様の論理が正しいと考えると、今の時点で介護士になって働く低所得者が増えてもおかしくないのですが、介護士が増えたという報告はありません。それどころか、人員不足なのでわざわざフィリピンから違法すれすれで連れて来るほどなんですよね。

 正式な介護士(へルパーなどを含む廣い意味で使つてゐます。念の爲)になる日本人は増えてゐなくとも、フィリピンからやつて來て事實上の介護士として働く「低所得者」は増えてゐる――。これは寧ろ私の「論理」が正しいことを示してゐるではありませんか。正式な介護士が増えない理由は暇人さんの文章の續きの中にあります。

>管理人様は介護の現場を御存知ないのですよね。御存知ないからこのような発言を出来るのだと思います。今の時点では介護士の収入はコンビニのバイトと同程度かそれ以下です。しかも、介護士になるには有料で教育を受ける必要がある。

 正式な介護士になるには「有料で教育を受ける必要がある」。最も簡單とされるホームヘルパー三級でも五十時間の講習が必要で、二級だと百三十時間。講習に通ふとその間、稼ぎが減つて仕舞ふし、受講料も必要ですから、年收「100万円台」の人にはちよつと手が出ないでせう。介護福祉士ともなると、福祉系の學校を出るなりヘルパーの經驗をするなりした上で國家試験をパスしなければなりませんから、そもそもワーキングプアの人がすぐ就けるやうな仕事ではありません。

 問題の原因は二つあつて、いづれも政府の規制が絡んでゐます。第一に、介護報酬が規制で低く抑へられてゐる爲に、貧困層以外にとつては職業としての魅力に乏しく、人手が集まらない。第二に、國籍や資格など介護の仕事に就く爲の法的制限が多い爲に、違法な方法でしか人手が集まらない。これらの規制を大幅に緩和しない限り、人手不足と低賃金が同時に起こる異常事態は解決しません。

 介護報酬を自由化すれば、現状では介護士が足りないのだから、需要と供給の法則により一時的には介護料は上がるでせう。しかし國籍や資格の緩和で介護士の供給が増えれば、再び介護料は下がるでせう。

 ついでに氣になる事を指摘しておきます。暇人さんはどうやら、税金を使つて現在の低い介護報酬を引上げるべきだとお考へのやうに見えます(違つてゐたら失禮)。その爲には増税が必要です。しかし増税すると「年収300万、100万」の人々や介護を受ける貧しい家庭の暮らしはますます苦しくなります。金持ちや企業だけを對象に増税しても、その影響は經濟全體に波及するからです。例へば企業を對象に増税すれば、企業は人件費に囘す資金が少くなり、雇用を減らさざるを得なくなります。税金を使つた解決法は幻想です。それを理解する爲には、「介護の現場」よりも、經濟についての智識が必要です。

投稿: 木村貴 | 2007年6月29日 (金) 02時26分

>繰返しになりますが、年收300萬時代になれば、もつと安い介護料で働く人が増えるので心配無用です。但し、政府が「低賃金」での勞働を禁止しないと云ふ條件附ですが。 


今の時点で年収300万円どころか、100万円台の人が増えています。管理人様の論理が正しいと考えると、今の時点で介護士になって働く低所得者が増えてもおかしくないのですが、介護士が増えたという報告はありません。それどころか、人員不足なのでわざわざフィリピンから違法すれすれで連れて来るほどなんですよね。

それとも、今後何か新たな転換点となるようなことがあるのでしょうか?


管理人様は介護の現場を御存知ないのですよね。御存知ないからこのような発言を出来るのだと思います。今の時点では介護士の収入はコンビニのバイトと同程度かそれ以下です。しかも、介護士になるには有料で教育を受ける必要がある。

私だったら、介護士になるくらいならコンビニのバイトのほうを選びます。

投稿: 暇人28号 | 2007年6月28日 (木) 08時59分

>まず、この発言を裏返せば、「皆低所得者層に落として低賃金で奴隷のような仕事を文句も言わせずにさせればいい」と言っておられるように聞こえますが。マスコミ各社の論調では、「格差はいけない。小泉・安倍政権は悪いことをしている」と仰っていたはずです。これこそ意見が矛盾しています。賃金が下がること自体容認していいのでしょうか。

 まあマスコミ論調と云ふ奴は餘り信用なさらない方が宜しいかと。そもそも「年収300万円以下時代」が來ると云ふ話自體、根據が曖昧なのですが、假にさうなれば、社會全體の人件費が大幅に下がりますから、物價は安くなり、年收300萬圓でも暮らしやすくなります。

>それから、平均年収400万円台の現在でも、一般家庭がその介護費用である月10-20万円を支出するのが困難な状況です。通常の生活だけで精一杯でしょう。さらに所得が低下したらそんな費用を支出するのは不可能です。

 繰返しになりますが、年收300萬時代になれば、もつと安い介護料で働く人が増えるので心配無用です。但し、政府が「低賃金」での勞働を禁止しないと云ふ條件附ですが。 

>介護というのは個人が人を一人雇うことと実質的には一緒です。普通のサラリーマンが人を雇うことは不可能です。普通の人の何倍も収入が無ければできません。結果として、収入の多い人しか介護を受けられなくなるのではないでしょうか。

 そんな事はありません。まづは勞働市場を外國人に開放するなどして、介護料の水準そのものを下げる事。介護保險を民營化し、月々掛捨ての安い保險料を支拂つておき、いざ介護が必要になれば料金を保險金で賄ふと云ふ仕組みもあり得ます。現在の國の介護保險よりも柔軟で多樣なものが出來るでせう。

投稿: 木村貴 | 2007年6月27日 (水) 09時40分

失礼な発言があったかもしれませんが御容赦ください。私自身、医療・介護の現場で働いているもので、実情を知っていますので多少感情的になってしまった節もあります。すみません。

>貧しい人の増加は惡い事ばかりではありません。もし仰るやうに「多くの方が年収300万円以下の低所得者層に転落」したら、その中から安い時給でも喜んで介護士になる人が増えるでせう。假に時給1000圓として1日8時間勞働で8000圓、月25日働いて20萬圓、年収240萬圓。殘業を考慮せずにこの額ですから、「年収300万円以下」時代には惡くない商賣です

これは本気で仰っていますか?そうだとしたら非常に悲しいです。

まず、この発言を裏返せば、「皆低所得者層に落として低賃金で奴隷のような仕事を文句も言わせずにさせればいい」と言っておられるように聞こえますが。マスコミ各社の論調では、「格差はいけない。小泉・安倍政権は悪いことをしている」と仰っていたはずです。これこそ意見が矛盾しています。賃金が下がること自体容認していいのでしょうか。

それから、平均年収400万円台の現在でも、一般家庭がその介護費用である月10-20万円を支出するのが困難な状況です。通常の生活だけで精一杯でしょう。さらに所得が低下したらそんな費用を支出するのは不可能です。

介護というのは個人が人を一人雇うことと実質的には一緒です。普通のサラリーマンが人を雇うことは不可能です。普通の人の何倍も収入が無ければできません。結果として、収入の多い人しか介護を受けられなくなるのではないでしょうか。

投稿: 暇人28号 | 2007年6月27日 (水) 09時05分

>どこが矛盾しているのか分かりません。一般に外国人を受け入れることは社会不安を招くといっているのです。あなたの仰っていることはリスクが高いと言っているに過ぎませんが。

 外國人を受入れる事が「リスク」を伴ふとしても、それは外國人を受入れない事による「リスク」と比較考量する必要があります。介護料が高いと一家心中が續出するのでせう? そのやうな恐ろしいリスクに比べれば、外國人による「社会不安」のリスクは小さいと云へるでせう。そもそもやつて來る外國人は犯罪者ではなく、介護と云ふ定職のある人々です。假に經濟状況の變化などによつて彼らや彼らの家族の一部が犯罪に走つたとしても、あちこちで一家心中が相次ぐやうな悲慘な有樣に比べれば「社会不安」が大きいとは云へないでせう。

投稿: 木村貴 | 2007年6月27日 (水) 08時52分

まず、東京の特養のことに関しては存じませんので保留としておきますが、

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>自国民より低賃金で働かせるために外国人を呼び込もうなんて発想はやめるべきです。そんなことすれば、ヨーロッパ各国で発生しているような社会不安が増加します。

 おやおや。もし暇人さんの仰るやうに日本の介護市場に魅力が無いのなら、外國人をどんなに呼び込まうとしても來ない筈でせう? 前に仰つた事と矛盾してゐます。
ーーーーーーーーー

どこが矛盾しているのか分かりません。一般に外国人を受け入れることは社会不安を招くといっているのです。あなたの仰っていることはリスクが高いと言っているに過ぎませんが。

投稿: 暇人28号 | 2007年6月27日 (水) 08時35分

>「自由化・民營化」で介護關係の事が必ずしも解決し得ない事は認めて良いと思ひます>木村さん。

 本文で「馬鹿念を押しておくが、私は民間企業が完璧だなどと云つてゐるのではない」と書いてをりますので、それで何とか御勘辨を……。

>國鐵が分割・民營化で「良くなつた」のは、勞組の分斷を實現したから「良くなつた」のであり、民營化によつて「良くなつた」のだとは言切れません。民營化で何でも解決はしない筈です。

 意地を張るやうで恐縮ですが、國鐵を國營のままにしておいて勞組を「分斷」しても、恐らく「良く」ならなかつたと思ひます。國營である以上、職員はみんな公務員で、ストをやつても經營が傾く心配は無く、サボつても首になる氣遣ひは無いのですから。分割民營化して、會社ごとに業績の格差が出るやうにしたからこそ、勞組の「一枚岩」を崩せたのだと思ひます。尤も各JRの中ではいまだに組合の力が強いやうですが。

>日本たばこ産業なんかは、民營化しても隨分非道い社員が殘つてゐましたよ。被害に遭つたから判る。

 早く首にして下さい>JT社長殿。

投稿: 木村貴 | 2007年6月27日 (水) 02時15分

>日本での職が魅力的だったのは一昔前、今は魅力なんてありません。特に医療・介護では顕著です。医療従事者にとって向かう先は今はアメリカです。イギリスならアメリカかフランスです。日本なんか眼中に全くありません。

 さうでせうか。コムスンとほぼ同時期に問題になつた東京都の特別養護老人ホーム「くすのきの郷」では、五年間で約百人のフィリピン人女性が働いてゐたと云ふではありませんか。表向きはヴォランティアと云ふ事になつてゐますが、介護報酬の中から賃金に相當する額が支拂はれてゐたやうです。それぞれのフィリピン人が幾ら貰つたかは分かりませんが、總額がもともとの介護報酬より多くなる事はあり得ません。要するに、「フィリピンの医大を主席で卒業した医師」のやうなエリートは兔も角、貧しいフィリピン人にとつては、たとへ「時間給600円台」にせよ、重勞働にせよ、訴訟などのリスクがあるにせよ、日本の介護市場が魅力的に映つてゐるとしか考へられません。さうでなければ、なぜ「くすのきの郷」の彼女らは日本に來たのでせうか?
http://www.helpertown.net/mt/blog/000373.php

>自国民より低賃金で働かせるために外国人を呼び込もうなんて発想はやめるべきです。そんなことすれば、ヨーロッパ各国で発生しているような社会不安が増加します。

 おやおや。もし暇人さんの仰るやうに日本の介護市場に魅力が無いのなら、外國人をどんなに呼び込まうとしても來ない筈でせう? 前に仰つた事と矛盾してゐます。

>一人の介護をするのに必要な介護士は1人以上です。最低でもその人の時給分だけ支払う必要があります。もちろん、事務手数料などを考えればその2-3倍が必要でしょう。(一般に人件費は30-50%ですからね)。当然家族の支払いは時間数千円になるでしょう。今後の日本で果たしてこれだけのお金を出せる人はどれくらいいるでしょうか。今後多くの方が年収300万円以下の低所得者層に転落予定です。その方たちがそれだけのお金を捻出することは不可能です。

 貧しい人の増加は惡い事ばかりではありません。もし仰るやうに「多くの方が年収300万円以下の低所得者層に転落」したら、その中から安い時給でも喜んで介護士になる人が増えるでせう。假に時給1000圓として1日8時間勞働で8000圓、月25日働いて20萬圓、年収240萬圓。殘業を考慮せずにこの額ですから、「年収300万円以下」時代には惡くない商賣です。従つて「数千円」の時給を拂ふ心配は無用です。もし時給600圓でも働く外國人(や日本人)が増えれば、拂ふ側の負擔はさらに輕くなり、一家で首をくくるなんて事は無くなるでせう。

>多くの人は金銭の負担が出来ない、だけど、サービスに対する要求は増大する、そうなったとき、誰が費用を負担するのでしょうか。日本国政府にそのような余裕があるのですか?

 無いでせうね。だから政府は介護から手を引けと申上げてゐるわけです。

投稿: 木村貴 | 2007年6月27日 (水) 01時38分

「自由化・民營化」で介護關係の事が必ずしも解決し得ない事は認めて良いと思ひます>木村さん。

國鐵が分割・民營化で「良くなつた」のは、勞組の分斷を實現したから「良くなつた」のであり、民營化によつて「良くなつた」のだとは言切れません。民營化で何でも解決はしない筈です。

日本たばこ産業なんかは、民營化しても隨分非道い社員が殘つてゐましたよ。被害に遭つたから判る。

投稿: n | 2007年6月26日 (火) 19時26分

日本国政府は個人責任ということで要求の矛先が国に向かないようにするんじゃないですか?

そんな余裕は無いから。つまり弱者切捨て。

投稿: 森英樹(本物) | 2007年6月26日 (火) 17時30分

>介護が完全に自由化・民營化されれば、政府に介護保險料を納める必要がなくなり、家計はその分餘裕が出るでせう(ついでに他のわけのわからない保険料や税金も無くして貰ひたいものです)。それでもなほ、安い介護料も拂へないほど貧しい老人や家族もゐるかも知れません。しかしそれは介護制度全體の規制でなく、別の方法によつて對策を考へるべきです。


これも全く反対だと思います。一人の介護をするのに必要な介護士は1人以上です。最低でもその人の時給分だけ支払う必要があります。もちろん、事務手数料などを考えればその2-3倍が必要でしょう。(一般に人件費は30-50%ですからね)。当然家族の支払いは時間数千円になるでしょう。今後の日本で果たしてこれだけのお金を出せる人はどれくらいいるでしょうか。今後多くの方が年収300万円以下の低所得者層に転落予定です。その方たちがそれだけのお金を捻出することは不可能です。

(昔、病院には付添婦という仕事がありました。家族の変わりに入院患者に付き添い、様々な世話をしていました。その人の手取りが月約20万円でした。恐らくこのレベルになるでしょうね。)

保険が無くなって介護費用をまかなえる人なんていません。無くなったら本当に一家で首をくくらなければならない人が続出するでしょう。


ちなみに、療養病棟での入院では月一人50-60万円の費用がかかっています。介護にはお金が必要なんです。さらに国民は「より良質な医療・介護」を希望しています。ちょっとした事で数千万円の損害賠償が成立する世の中です。そうなれば、さらに人員を増やす必要があります。本当に安全を重視するのならアメリカのように日本の10倍以上の人員を配置する必要があります。しかも、他の職種と同じ賃金で。そうなれば、費用は10倍でも足りません。

多くの人は金銭の負担が出来ない、だけど、サービスに対する要求は増大する、そうなったとき、誰が費用を負担するのでしょうか。日本国政府にそのような余裕があるのですか?

投稿: 暇人28号 | 2007年6月26日 (火) 13時15分

>さらに突込んで云へば、介護士の業務をフィリピン人や中國人など外國人にもつと開放する事も必要でせう。彼らにとつては「時間給600円台」も十分魅力的な報酬なのです。


失礼ですが、もう少し実情を確認されることをお勧めします。せめて医療系ブログでもご覧ください。

全然、その値段では魅力的ではありません。そもそも、その様な評価をしたのはどなたですか?管理人様ご自身の推測ですか?

実際介護士・看護師を日本に呼ぼうとフィリピンで計画しましたが、実際には全く来ませんでした。一つは言葉の壁・もう一つは労働条件です。日本では、奴隷的仕事で、低賃金、ちょっとした事で刑事・民事の裁判、賠償が待っているような国には他国からはきません。(断言します)。

日本での職が魅力的だったのは一昔前、今は魅力なんてありません。特に医療・介護では顕著です。医療従事者にとって向かう先は今はアメリカです。イギリスならアメリカかフランスです。日本なんか眼中に全くありません。

ちなみに、フィリピンの医大を主席で卒業した医師が向かった先はアメリカでした。しかも、看護師となって働いているそうですよ。


自国民より低賃金で働かせるために外国人を呼び込もうなんて発想はやめるべきです。そんなことすれば、ヨーロッパ各国で発生しているような社会不安が増加します。

投稿: 暇人28号 | 2007年6月26日 (火) 12時58分

 貴重な御指摘有難う御座います。

 「医療・福祉の分野の仕事を実際に」見た事は一切ありませんが、介護士の報酬が「安い」と云はれてゐる事は知つてゐます。本文では書きませんでしたが、介護士の報酬は勞働時間によつて劃一的に規制されてをり、その爲、能力のある介護士が不眞面目な介護士と同じ報酬しか得られないと云つた矛盾が指摘されてゐる事も承知してをります。

 御指摘の通り、どんなに誠實な介護士でも、「過重労働、低賃金」が延々と續けば、「善意の気持ちも折れて」仕舞ふものです。これは人間の本性であり、私が本文で書いた事と一致します。私に云はせれば、このやうな矛盾は政府が介護報酬を規制してゐる爲に起こる現象です。「公」の介入が足りないからではなく、介入が存在するから生ずる問題なのです。

 介護報酬が介護會社と利用者との間で自由に決められるやうになれば、サーヴィス内容に應じて價格は樣々に變化し、それぞれほぼ妥當な水準に落着く筈です(「完全に妥當な水準に」とは書いてゐない點に御注意下さい。但し市場が完璧でないからと云つて、政府がそれより上手くやれる保證はありません。寧ろ事實はその逆です)。

 さらに突込んで云へば、介護士の業務をフィリピン人や中國人など外國人にもつと開放する事も必要でせう。彼らにとつては「時間給600円台」も十分魅力的な報酬なのです。ちやうど戰前の日本人にとつてブラジルでの重勞働と引換に得る報酬が魅力的であつたのと同じやうに。彼らが介護士の市場に參入して來れば、介護報酬はさらに安くなるかも知れません。日本人の介護士にとつてはある部分で打撃かも知れませんが、介護料を拂ふ側にとつては朗報でせう。

 介護が完全に自由化・民營化されれば、政府に介護保險料を納める必要がなくなり、家計はその分餘裕が出るでせう(ついでに他のわけのわからない保険料や税金も無くして貰ひたいものです)。それでもなほ、安い介護料も拂へないほど貧しい老人や家族もゐるかも知れません。しかしそれは介護制度全體の規制でなく、別の方法によつて對策を考へるべきです。

投稿: 木村貴 | 2007年6月25日 (月) 13時43分

私、ワーキングプアのアレな一閲覽者です。
>民間・役人云々の問題ではなく、介護給付費が異常に安すぎるのです。
たしかにこの手の御仕事、苦勞する割に御給料が安かつたり、問題が多い訣ですが、さうした問題の解決案を木村さんが提示されてゐる訣でない事に御注意願へればと。
即ち「高村氏の一つの文章の内部に矛盾する發言がある」と云ふ事を指摘するのが記事全體の意圖です。高村氏の發言の一部分に理があるにしても、發言全體に矛盾がある、と木村さんは指摘してをられるのでして、この記事で問題にされてゐるのは、「介護の問題」ではなく「文章の書き方の問題」である訣です。

福祉・醫療について、國が全面的に面倒を見る北歐諸國のやうな國で問題が起きてゐるのを我々は知つてゐますし、一方、アメリカのやうに自腹を切つて醫者にかからなければならない國も知つてゐます。單純に話は解決しない訣で、その點は木村さんだつて百も承知で話をされてゐる事と存じます。

投稿: n | 2007年6月25日 (月) 01時01分

初めて書き込みさせていただきます。
文章・文字がやや難解なので多少理解できていないかもしれませんが御容赦ください。


管理人様は医療・福祉の分野の仕事を実際にご覧になったことがあるのでしょうか。現状は、現場労働者の犠牲の上に成り立っているといっても過言ではないでしょう。

特に、介護士の給料なんて手取り10万円台前半。しかも、御老人を持ち上げるために腰痛持ちになる方が非常に多い。さらに、自分が目を話した隙に転倒、骨折などしようものなら数千万円の多額の損害賠償請求が待っており、場合によっては刑事訴追もありえる。

こんな現状どう思いますか?民間・役人云々の問題ではなく、介護給付費が異常に安すぎるのです。もしも管理人様が介護士だとして、このような御老人の介護を時間給600円台で行おうと思いますか?

普通はそんなことするぐらいならコンビニのバイトをするでしょう。現状ではお金もさることながら、現場の方々の善意の気持ちで成り立っているものと考えております。しかし、この低賃金ではその善意の気持ちも折れてきています。

実際に都会では介護士が不足しており、介護事業が成立しなくなってきていると聞きます。地方でも職員の過重労働、低賃金が問題になっています。


こういう状況で、完全に民営化したらどうなるでしょうか。採算を考えるなら、介護費用を数倍に増やす必要が出てきます。現状では時間1000円台だと思いますが、これが3000-4000円とならざるを得ません。反対にそこまで値上げしないと参入する企業・人はいないでしょう。介護保険が破綻し、自己負担でこれだけのお金を出せる人がどれだけいるでしょうか。また、それだけのお金を出すぐらいなら自分(障害者の家族)でするよ、と家族は思うでしょう。

私は高村先生の発言にも一理ある、と思います。家族であっても非常に大変な介護を他人にお願いするのにこの程度のお金でさせるというのは無理があったということだと思います。今後は数千万円払えるお金持ちでないとまともな介護は受けられないでしょうね。

投稿: 暇人28号 | 2007年6月24日 (日) 23時28分

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支離滅裂な 言論に 喝 ! 地獄の箴言: 介護と云ふ聖職 社保庁問題では  お役人まかせが どんなに ひどいことになる か わかっていながら 介護では  民間まかせは ダメ もっと お役人の監視を強化せよ と 叫んでいる その 矛盾に 気づいていないと まさに 正論... [続きを読む]

受信: 2007年6月24日 (日) 10時36分

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