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第4部
 昭和が平成に変わる前後、西表島(沖縄)も第二の観光ブームと言われる程賑わったDIVINGブームに入り始めたと記憶しています。どこもかしこも我こそはダイバーだ!スタイル。道路、港、スーパーも湘南海岸のハダカスタイス若者が多かったです。どこのショップも次々と大型ボート(トイレ・シャワー付)を入れ、今では普通ですが、髪の塩焼けした金髪若者が出始めていました。ここ数年で西表近海に出没するマンタが少ない為、石垣島の川平湾までマンタツアーで出掛けますが、その頃(90年頃から数年)は西表←→鳩間島の間にあるカスミの根、又、鹿の川湾そしてダイバー憧れのマンタウェイヨナラ水道は毎日と言っても過言でない位潮止りを見てはボートが通ったのではないでしょうか。いるもて荘の庭から昼時バラス島を見るとボートラッシュ、白いバラス島も黒い人影が見える位でした。そのマンタも小浜←→西表間に橋をかける話が持ち上り、賛成・反対云々と騒ぎ出した頃より身の危険を感じたかの様、ヨナラ水道より姿を消し川平湾に移動(?)してしまいました。またある時、仲ノ神島帰りのボートではカツオやシーラを釣りながら帰って来た事も、もちろんその夜の夕食の一部、夜の宴会の酒盛用となりました。春の大潮には、モズクや赤貝、シャコ貝、マガキ貝、ハマグリ等々を採りに行き夜はエビやヤシガニ取り、ガサミの網かけ、朝一番に網を上げに行く楽しみなど沢山ありました。(今ではこんな大きなガサミもいなくなったのでは?)貝やモズクが採れた目の前のヒナイビーチ、今では多少のモズク、ハマグリがあっても食べるのが恐くなる程、海が汚れできました。
 DIVINGが盛んになり出してから、我家の西表横断もストップになり(原因は出発する10組中7組位1泊野宿横断が多くなり夜中雨が降れば家は心臓バクバクでした。)そんなこんなで横断の方はお断りというおふれもオーナーより出てしまいました。ちなみに現在の西表横断は警察、沖縄営林署に届出を出し、キャンプの道具を用意し、許可を貰いに行きます。
 いるもてバーベキューが始まった頃もこの90年過ぎからでお庭の芝生がそろい始めた頃でしょうか。ドラム缶を切りガスコンロを中に置き、今の様な炭、最初使っていなかった様な?思い出せませんが、そんなバーベキューでも遊び心一杯の大人が多く、ある時、その日に釣れたイカを食べているうちに、イカ墨を塗る会になってしまいました。(写真の如く)
 現在の西表観光と言えばカヌーが主役の様になり、ヒナイサーラ滝もカヌーラッシュ。早朝下り花カヌーツアーも水面に浮いている花も多いが、カヌーも多くて!の声が聞かれる程です。15〜6年前の頃はカヌーを持ってくる人なんて風変り者の様に言われていました。こんな所まで、こんな物を持って来て!!とズバリ一言。持って来た方は胸にグッサリだった事でしょう。手作りカヌーで西表の川という川を制覇し、海岸線を一周した者もいれば、Only oneカヌーでのんびり滝ツアーにもいける頃でした。
 開設20年を越える様になるとお客様の層も大分変化し、又求めているものも変り、と同時に社会の状況も変化し、観光の型自体も変って行く気配を感じました。(次回第5部にて最終章となります。)

1983年ビーチエントリー専門ダイバー軍団

1983か1984年頃、設備が整ってなく始めた頃の
Diving サービス

いかにもダイバーだ! のボートスタイル

Diving ボートも大きくなり IRUMOTE号('90年頃)、
ミスバラス号('93年頃)と、あった時代

いつの頃からか大学合宿も多くなり

お昼休み 人文字バラス(島)

毎日のように通ったヨナラ水道
マンタウェイー

鹿ノ川湾では砂風呂(?)

夜のおつまみは、こんな大きなガサミで舌打ち

今では考えられない位、
貝やモズクがとれたヒナイビーチ前(1986〜7年)

相も変わらず盛大な見送り
大漁旗まで持ち出し(平成元年頃)

浦内川→古見、大冨に抜ける日帰り横断も、
この頃(平成3〜4年頃)で終わる

朝日、夕日、夕焼けバーベキュー、星見会、夜の飲み会、
etc・・・・・。多目的テラスがありました。(1989〜90年頃)

あるバーベキュー風景

一人が二人、・・・連鎖して最後は全員イカ墨顔

ますますヒートアップというか
グレードアップ(?)というか

Diving が盛んな頃、西表一周カヌーを楽しむ二人(1990年)

ヒナイ川を楽しむ半分住み込み常連客とスタッフ
(1991〜2年頃)今の様にカヌーラッシュのない頃でのんびり行きました

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