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第3部
 昭和55年以降60年中頃迄いるもて荘も増築増築でいつも建物を建てていました。
 宿舎も少なかったせいか春夏秋迄は学生であふれ、ゴールデンウィークの頃は社会人と国家試験発表待ちのお医者さんの卵軍団。 (総合病院ができる位)、冬はやはり無職の人々でした。
 この頃から八重山観光の型が変わり始めたのでしょうか、月ヶ浜海開きが始まったり、60年に入るとマリンフェスティバル、夏の夜のロックフェスタ的なもの、 白浜ハーリーも盛大になり始めたと記憶しています。 そんなイベントの時は蛍光ブレスレットを腕につけ、顔にペインティングをして、どこかの部族の様に皆で帰って来ました。 (いるもて荘内でもクリスマスライトを天井につけ、ダンスパーティーも催されていましたからネ。)
 開所して8〜9年もたつと毎春、毎夏と訪れてくれる人も多くなり、今の様に観光ポイントも多くなかったからでしょうか、晴れた日は海や山、雨が降れば、宿の中で1日ゴロゴロか無料奉仕で掃除、洗濯、食器洗い、 夜は踊ったり、飲み会だったりと、それはそれは皆日夜楽しく過ごしていました。 (私から見ればよく毎日毎晩こんなにアイデアが浮かぶものだと感心しましたが・・・。)
 そして西表もこの頃から陸の観光やシュノーケリングボートから大きくマリンダイビングに変わっていく時代になったと思います。

ハーリー応援
チアーガール

S59年3月 竹富町海開き
行きはよいよい帰りは沈んだ

雨がふり続きか、台風か
晴天祈願踊り

庭の片隅で貝や魚を空き缶の上で
焼くのが楽しくて海に行った皆

皆ならんで食器洗い お助けヘルパー
(無料奉仕の人々)

S60年 月ヶ浜ハーリー
女性軍もビリを飾りました

昭和59年ハーリー
メンバー

屋上は遊びの場
イルモテダンシングチーム

ある日突然のダンスパーティー
(誰かの誕生日)

夏の夜はヤシガニ取りで賑わい
そして皆の口の中

S60年頃 船浦港もまだ砂浜が
残って小さなボートが主流でした

何年頃までこんなバイクの吊り上げ貨物だったのでしょう?
落とすことはなかったのかな?

初代の頃のいるもてダイビングボート
こんな小さなボートで仲ノ神島まで

今は無きこんなテラスで
お昼寝

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