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第2部
 昭和53、54年頃になるとフリーター(その頃は無職と呼ぶ)に加え学生さんが増え始め、53年には東西の道路、白浜−南風見線(大原−白浜間)も開通、それまでの様に海が荒れたら一週間も閉じ込められることはなくなり、大原経由で石垣に行けるようになりました。それと共に浦内川から入り、当時古見に抜ける横断コースも平成1〜2年位まで続き、沢山の人が挑戦しました。(もちろん失敗し、引き返し組もいました。)港での飛び込み隊は相変わらずでしたが、大原から帰る人のバス停見送り隊もいました。その頃は今のいるもて荘と違い、ホステル内でもお酒はご法度で、ある日オーナーの怒りにふれ(?)、春の大アクシデントがありました。今は立入禁止になりましたが上原に鍾乳洞があり、その帰りは源食堂(現在の新八あたり)のオバーのかき氷を食べる事が探検隊のコースとか。
 学生以外の宿泊者では道路、港、建築工事、又当時中野にあったパイン工場で働いている人も多く、皆西表島に貢献してくれました。(土方部屋と呼ばれる部屋もありました。)
 当時の海は今よりサンゴ礁もきれいでした。又仲間川観光ボートも頻繁ではなく、ゴムボート、うき輪でイカダ(?)下り等、優雅な遊びでした。
 なんといっても一番は昭和52、53年の相次ぐ台風で、電気・水道が一週間も止まり、シャワーは大見謝川か裏の沢水。夜はロウソクか懐中電灯生活で大変でしたが、今では出来ない事ばかり、皆それなりに楽しみ、愚痴も言わず手伝ってくれ、帰りは宿泊代も戴き(苦笑)、今から思えば申し訳なく、楽しい時代でした。
 第3部はどんな西表島でしょう。

バス停
見送り隊

上原鍾乳洞帰り カキ氷班
(オバァーファンクラブ)

昭和53、4年頃の浦内川?
西表らしい船着場でした。

パイン出荷の様子

昭和53〜平成1、2年頃まで続いた西表横断

昭和53〜4年頃
リーフもきれいでした。

昭和53、4年?
春のアクシデント
お酒の失敗

仲間川イカダ下り

アクシデント不参加組
いるもてに残った人

台風にて大見謝川でお風呂

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