海外レポート/エッセイ
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冷泉 彰彦(れいぜい あきひこ)   作家(米国ニュージャージー州在住)
1959年東京生まれ。東京大学文学部、コロンビア大学大学院(修士)卒。
著書に『911 セプテンバーイレブンス』『メジャーリーグの愛され方』。訳書に『チャター』がある。
最新刊『「関係の空気」「場の空気」』(講談社現代新書)
第278回 「アメリカの制度をマネするな」
配信日:2006-11-25
 今週のアメリカはいつになく浮ついた好況感の中で感謝祭を控え、どこか気分もゆるみがちなのですが、そんな中、TVではOJ・シンプソンの「告白(?)本」の問題が何度も取り上げられていて、イヤな気分にさせられました。1994年に起きた前妻(とその交際相手)の殺人に関して、刑事裁判では無罪、民事裁判では敗訴(つまり殺人への責任を認定)という異なる判決を受けたNFLの元スター選手に関してはFOXニュースで知られるニューズ社の企画として、本の出版とドキュメンタリー番組への出演が計画されていたのです。

 タイトルが『私ならこうやった "IF I Did It"』と実にセンセーショナルなばかりか、ニューズ社からは「この内容は彼なりの告白だと思う」というコメントが出て全米を驚愕させました。民事裁判の結果はともかく、刑事裁判では無罪、つまり「シロ」と認定されているシンプソンが「オレならこうやる」という表現で「殺人の真相を詳しく語る」というのです。これでは司法の権威もあったものではありません。結果的には本もTVもキャンセルになりました。

 このシンプソン事件に関して言えば、非常に疑わしいにも関わらず無罪になった、そのことよりもそのプロセスが問題です。最後には「疑わしきは罰せず」という原則が失態を続けた検察に勝ったのですが、そうしたドラマ風の解説では不十分なのです。何よりも、証拠認定にしても、証言の評価にしても、積み上がった判例をもとに論理的な判断のできる体制がなかった、そこに最大の問題があるのだと思います。

 日本の場合も裁判員制度の導入によって日本の司法が明治以来の「大陸法」の伝統として堅持してきた実定法に加えて判例を尊重する姿勢、それが大きく崩れていくとしたら問題です。アメリカの陪審員制度は、合意形成システムとしては見るべきところがあります。ですが、判例という客観的な事実を判断の根拠として据える、それを必要があれば変更しながら判断の一貫性を保つ、この部分においては明らかな脆弱性があります。何となく市民が参加しているからとか、判断のスピードを早めても異論が出なさそうだ、あるいは価値観や背景事情などの抽象的要素を判断に加えられるからといって、そうしたアメリカ司法のマネをするのは得策ではありません。

 アメリカのマネをしたほうが良い問題もないわけではありません。国会の審議における党議拘束の問題などがそうでしょう。日本では、任期中の国会議員は所属会派を変えない限り、党議に反して独自の投票行動はできません。これは自民党から共産党まで全く同じです。その結果として、選挙区の民意が党中央の決定とは違う場合は、民意は完全に無視されます。また選択肢が単純化されすぎることにもなります。

 例えば、ある政策に関して対立点がいろいろあり、選択肢が多くあったとします。自民党や民主党ではその中から党の方針を絞り込むわけですが、その党内プロセスは全く閉鎖的なのです。最近のメディアは「永田町の人間ドラマ」的な味付けで面白おかしく報道して、何となく世論も騙されてしまいますが、本来はそこで選挙区ごとの民意、地方ブロックごとの民意というものがオープンに出てきて、選挙民の代理としての議員の投票行動を縛るべきだと思うのです。

 そうでなくては、主権者として主権行使ができません。タウンミーティングなどという制度が機能しない背景には、そうした主権者の軽視があるのです。そもそも公共の場で、「愛国心教育に賛成か反対か」意見を求められても、積極的に発言する人はどうしても、どちらかの極端な信念の持ち主が主となるに違いありません。そうした発言がイヤだからといって、「やらせ」でごまかすという発想が出てくる背景には、どうせ各政策での民意は「聞くふり」だけでいいという発想があるのです。

 ですが、各選挙区の後援会の中では「前のセンセイ(主権者の代理人をセンセイと呼ぶのは醜悪な習慣ですが、その問題はさておくとして・・・)は違う言い方だったけど、今のセンセイとしては時代が変わったということですかねえ。オレはどうも納得できないんですがねえ」ぐらい誰でも言えるでしょう。そうした主権者の素朴な声を国会審議に反映するシステムを、日本ではどの政党も持ち合わせていないのです。首班指名を除く各法案審議などについては、基本的に党議拘束を外すべきだと思います。

 そうお話するとアメリカの議会制度はお手本になりそうに聞こえます、ただ、アメリカの民主主義の中でも単純な対立軸を設定しすぎる傾向はマネすべきではありません。「小さな政府か大きな政府か」あるいは「一国主義か国際協調か」というような単純な、そして時には有効でない二分法について大の大人が大まじめで選挙戦を繰り広げ、その結果で大きく国の政策にブレを生じるというのは粗雑にすぎる考え方です。

 どんな問題にも選択肢は三つ四つあるいは五つぐらいを検討対象として世論に問えるようでなくては、現実に対処できないのではないでしょうか。選択肢が二つであっても他の問題の選択肢との組み合わせでは、やはり四つとか六つから選ばねばならないこともあるように思うからです。

 さてアメリカの模倣が正しいかどうかということでは、もう一つ、大きな制度変更として、厚生労働省と日本経団連が積極的に導入を目指している「ホワイトカラーエグゼンプション」(自律的労働制度)の問題があります。一定の年収を保障した上で、時間外手当(残業代)の支払いを対象外とするこの制度は、提案者側からは「アメリカで既に導入されている」というのですが、この問題は裁判員制度どころではない大変な問題を抱えていると思います。

 というのは、政府ならびに日本経団連は、恐らくは半ば意図的にアメリカの実態を歪曲して伝えているからです。その第一点は、アメリカでのこの制度は「管理職・基幹事務職・専門職」への「残業手当の適用除外」を定義したものであって、「ホワイトカラー・エグゼンプション」とはいっても、全てのホワイトカラーが対象ではないという点です。

 とにかく管理職・基幹事務職・専門職の必要要件を満たしたケースだけに適用されるのです。確かに金額で示されている規準だけを見ると、週給455ドルというのは年収換算で23660ドル(約279万円)と低いのですが、この金額というのはあくまで一つの要素に過ぎません。その前に、厳しい規準に示された実態を満たしていなくてはならないのです。

 例えば、アメリカの管理職の場合は「二人以上の部下に関する、採用権限を含む管理監督」を行っているかどうかがポイントになります。また基幹事務職(総務、経理など)では「非定型業務、自由裁量、自主的な判断」が主要な業務であるか、更に専門職の場合ですと「明らかな専門的教育に裏付けられた専門性、もしくは独創的な技能の発揮」という要件があります。

 こうした要件について、例えば厚生労働省の労働政策審議会の議論などを見ていますと「アメリカでは金額で切っている」という前提で話が進んでいるようなのですが、これは事実の半分も語っていません。管理職であるか、専門職であるかの「要件」は非常に重視されていて、この要件を満たしていない場合に「お前はホワイトカラーだから」ということで残業代の支払いをしないということになると、これは訴訟などで大変なダメージを受けるようになっているのです。

 第二点は、この「要件」を受けて「エグゼンプト」の労働市場というものが確立しているという点です。管理職・専門職で残業のつかない職種の場合は、業種職種によって異なりますが、全国的に見て5万ドル弱あたりが最低だと思います。勿論例外はありますが、管理職の場合でもいわゆるマネージャー(課長さん)がその最低クラスになるのですが、基本的にはMBA(経営学修士)を取って(管理職にはMBAが要求されることが多いのです)の初任給はやはり6万から7万(あるいはそれ以上)です。結果で判断される、だから労働は自己裁量という分、まあ納得のできる給与水準が労働市場として存在しているのです。

 第三は、アメリカの労働省のガイドラインにもあるように「専門的な教育を受けた」という事実などの客観的な根拠が求められているということです。管理職にはMBA、経理専門職にはCPA(公認会計士資格)、法務部門の管理職にはバー(司法試験)などの公的な学位ないし資格が要求されますし、資格がない場合はそれ相応の職歴など、そして専門技術者の場合はそうした教育を受けたという事実が要求されます。逆に言えば、履歴書にはなんの根拠もない人間に「権限を与えているから」という理由で時間外手当を払わないのはダメということです。

 第四は、「エグゼンプトでない」つまり日本流に言うと「一般職社員」の労働市場が確立しているという点も重要です。この一般職は契約上「残業手当がつく」のですが、その代わり「まずほとんど残業をしない」し「出張も命じない」ことになっています。命令を受けて定型的業務はするが、その代わり家庭や地域活動との両立など「9時から5時まで」の人間的な生活が保障されているのです。年収としては2万ドルから5万ドルぐらいでしょう。この人達は組合と法律によって厳しく保護されており、本人の同意なく残業を強制することも不可能ですし、まして残業代を払わないということも不可能です。

 勿論、アメリカの労働事情にも深刻な問題があります。一般職の生産性が国際競争力を失う中で、現時点で言えば自動車産業などを中心にリストラが進み、実質的に落ち着いた一般職の雇用が減りつつあるという問題がまず第一点、逆に管理職の場合は成果要求が厳しくなっているために労働時間がどんどん長くなるという問題があります。この二番目の問題も深刻で、通勤電車の中でパソコンで仕事をしたり、休日でもメール端末(「ブラックベリー」など)をピコピコする風景、更にラッシュ時間が夜の九時台まで続くと、まるで日本のような様相を呈しているのです。

 ですが、さすがに残業のつく人と、つかない人のケジメは崩れてはいません。そして、それは単純な給与ベースでの規準ではないのです。もっと実態のある裁量性の問題なのです。こうしたアメリカの労働事情をほとんど伝えないままに、「アメリカで行われているホワイトカラーエグゼンプション」などとカタカナ言葉で煙に巻くのは不誠実な議論だと思うのです。

 日本の場合は、アメリカで厳格に運用されている「要件」について、そもそも確認のしようがありません。例えば、個別の管理職に採用権限はありませんし、そもそもホワイトカラーの場合は企業が大学教育における専門性を評価していないのですから、教育や資格によって人材の客観的な要件が把握できない体質にあります。また専門性と責任と職位もバラバラだったり、厳格に管理職や専門職は定義できないということになります。

 最大の問題は裁量性の問題です。日本経団連の資料によれば、日本のホワイトカラーは「頭脳労働」だから裁量性がある、とまあもっともらしいことが書いてあり、実際にこれまでの裁量労働制などもかなり拡大解釈して運用されてきています。ですが、日本のホワイトカラーで現在は残業手当の対象になっている人々の勤務実態には本当の裁量性はないのです。

 顧客からは名指しで問い合わせが来て不在だとクレームになる、突発的に資料作成を求める指示が入り自分の本来の仕事は後回しになる、他の同僚が忙しそうにしているので子供の病気でも早退できない・・・更に言えば、辞令一つで国内どころか海外にまで転勤を強制される、それを拒めば出世街道から「下りた」とみなされる。こうした非裁量性、それも激しいまでの「自己決定権の否定」があるのが日本の「ホワイトカラー」です。

 とにかく会社にいなくてはいけないし、そうでなくても携帯やメールが追いかけてくる、しかもほとんどのケースでは即答を求められます。人間関係を維持しないと仕事が回らない独特の文化のために、そしてやや過度なまでに即対応の求められる文化のために、一人一人の日本のホワイトカラーは一日のほとんどの時間に関して裁量権のない息苦しさの中におり、しかも組織の心理的・政治的な「空気」を維持するための儀礼的・儀式的な会議や出張を強制される中で、絶望的なまでの生産性の低さに甘んじているのです。

 そう申し上げると課長クラスなどの中間管理職も同じではないか、そんな声も聞こえてきそうです。ですが中間管理職と「ヒラ」では意識の上で違いがあります。部下のいる人間は、その部下に対して多少なりとも裁量権を行使することができるのです。ですが、そうした息苦しいヒエラルキーの最下層の人々には、少なくとも時間外の業務命令に対しては割り増し手当を受け取ることが人間の尊厳になっているのです。実質的に裁量権のない人間の時間外手当を奪うというのは、その人間の尊厳を奪う、つまり他人の命令に翻弄されながら何の見返りもない、惨めな存在に貶めることになると言わざるを得ません。

 もっと具体的に申し上げましょう。日本のほとんどの「ホワイトカラー」は退社時刻の5時ないし5時半、(いや職場によっては夜の7時とか8時ということもあるでしょう)に上司に「この資料をまとめてくれよ。今日中に頼む」と言われても、断れないのです。そうしたケースにおいても時間外手当が契約上ないし制度上全く払われないとしたら、その業務命令は代償のない一方的な暴力であり、その暴力に対する支配は隷従にほかなりません。そんな社会は文明的な社会ではないのです。

 そう申し上げると、そのような「突発的な命令」にも従うような「モラルの高い」人間を日本経済は必要としているし、本人も「仕事のやりがい」を感じていればハッピーなはずだ、そんな声が聞こえてきそうです。ですが、本当にモラルも能力も高いのなら二十代でもどんどんホンモノの管理職にして600万とか700万を払うべきですし、モラルだけ高くて能力の低い人間を命令とマニュアルで管理した上での「生産性」ということでは全く国際競争力はないと思います。

 いや「裁量労働」なのだから、時間外労働の埋め合わせとして代休ないし、遅出を認めるから大丈夫・・・これも非現実的です。例えば顧客対応の仕事、会議が重要な要素を占めるチームワークの仕事など「相手のある仕事」ではフレキシブルな勤務はそうは簡単ではありません。確かに、現在でも時間外労働に関する支払いは相当の部分があいまいになっています。いわゆる「サービス残業」でも発覚するのは氷山の一角でしょう。ですが、実態が払わない方向になっているとしたら、その実態が問題なのです。

 いずれにしても、出生率が下降を辿る中、長時間労働の問題と対決することこそ、日本社会の緊急課題ではないでしょうか。とにかく日本人は働き方を変えなくてはならないのです。労働時間を短縮し、生産性を向上するだけでなく、宴会や出張など広い意味での拘束時間も見直してゆくべきです。地方公共団体の裏金が問題になっていますが、そもそも組織の内部での飲食による親睦などというのはライフスタイルの問題として最低限にする必要があるはずです。自腹を切らせれば良いのではありません。
徹底的に減らすべきでしょう。

 時短をしなくては少子化が進むだけではありません。そのような総合的時短の中で徹底的に生産性を上げて行かなくては、最終的にどんどん国際化してゆく労働市場の中で日本のホワイトカラーは戦って行けないことになるのです。現在提案されている「エグゼンプション」は労働者個々人だけでなく、日本の競争力という面からも問題です。ここでいう生産性というのは、企業としての業務効率だけではありません。個々人が努力に見合う幸福感を得て、次世代を育むという意味での生産性も考慮しなくては社会は続いていきません。この点に関しても、労働時間管理を外したら、より悪い方向へと歯止めがなくなる危険の方が大きいのです。

 例えば「同一賃金同一労働」が叫ばれる背景に、正社員と非正社員の線引きがあいまいという問題があります。ですが、これが各職場レベルでは大きな問題になっていない背景には、暗黙のルールがあるのです。それは「正社員は宴会や儀礼的会議への出席が義務」であり「社内政治のコマとしての役割を期待される代わりに将来の管理職候補とされる」という「お約束」です。こうした企業文化こそ日本のホワイトカラーの生産性を先進国中恐らく最低の水準に低迷させているのですが、例えば「年収400万円以上は残業手当なし」というような制度ができれば、この状況を更に固定化するようなことにもなりかねません。

 この問題の大きな背景には「再チャレンジ」政策の一環としての「パートの正社員化」が絡んでいるようです。雇用の不安定なパート労働者が増えれば社会が落ち着かなくなる、だから正社員化をしよう、そこまでは結構な話です。ですが、その結果として人件費が高騰するのは何としても避けたい、それが産業界のホンネでしょう。そこをクリアするために、400万以上は残業手当なし、突発命令による時間外労働にも報酬なし、という制度で埋め合わせをしようとしている、そんな構図が見て取れます。

 何が最大の問題なのでしょう。第二次大戦で焼け野原になった日本経済が奇跡的な復興をしたのは、将来に希望があったからです。忙しくても一生懸命やれば自分も会社も社会も良くなる、そうした右肩上がりの希望が社会にあったからです。確かに現在の日本社会は、全体としての量的な希望については大きくは望めなくなりました。ですが、個々人の質的な希望はまだ残っています。努力をすれば何かが報われる、長生きをすれば少しでも幸福な社会を実感できる、そんな質的な希望があるから人々は真剣に仕事をし、製造業を中心にまだまだ競争力を保っているのです。

 考えてみれば20代から30代という「400万」の世代は、社会人としての経験と知識を学びながら、パートナーを探して家庭を育んでゆく重要な時期を生きているのです。そんな人生の時期に、歯止めのない労働時間、しかも時間管理のない中での一方的な服従の連続に心身を蝕まれてしまえば、人間としての質的な希望は吹っ飛んでしまいます。

 本当の裁量性のない、したがって自分で時間をコントロールできないポジションにある人々には、時間外手当という金銭でそのプライドを埋める、また会社側には歯止めをかける、そんな形で人間の尊厳を認めてゆくべきです。そうでなくては、質的な希望を抱いた人材が実現してきた高い生産性の神話は雲散霧消してしまうでしょう。このままカタカナの「エグゼンプション」という言葉に乗っかり、長時間労働という今日本が抱えている最も深刻な社会問題について逆行させるような制度導入がされるのは大変な問題だと思います。

 もう一度申し上げますが、アメリカの「ホワイトカラー・エグゼンプション」は日本で現在検討されている内容とは全く異なる制度です。「残業のつく人」と「残業のつかない人」を明確に区別するだけでなく、「残業のつく人」には残業をさせない、「残業のつかない人」には成果を求める代わりに裁量権を与える、これがアメリカの制度です。ブッシュ政権によって、経営側に有利な変更はされています。ですが、だからといって実質的な裁量権を与えず、時間のケジメもなく人を使っておいて残業手当も与えない、そんなムチャクチャはそこにはありません。

 小泉政権以来の日本には、アメリカ社会の模倣をすることが改革なのだという雰囲気が濃厚にあるようです。裁判員も、ホワイトカラーエグゼンプションもその流れに乗っていると思います。ですが、裁判員制度は判例の重視による判決の一貫性を(悪い意味で)破壊する危険がありますし、ホワイトカラーエグゼンプションの問題に至っては、アメリカの労働慣行や制度を歪曲した挙げ句に、まったく別の非人間的な提案に変えてしまっていると言えるでしょう。思えば、この二つの例が実に粗雑な提案であるのは、国会での党議拘束が多様な選択肢をオープンかつ実務的に協議する環境を奪っているからだとも言えるのです。一党支配と官僚制度の中から常に最適解が出てくる時代は終っているのです。