海外レポート/エッセイ
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冷泉 彰彦(れいぜい あきひこ)   作家(米国ニュージャージー州在住)
1959年東京生まれ。東京大学文学部、コロンビア大学大学院(修士)卒。
著書に『911 セプテンバーイレブンス』『メジャーリーグの愛され方』。訳書に『チャター』がある。
最新刊『「関係の空気」「場の空気」』(講談社現代新書)
第305回 「日本化するアメリカ」
配信日:2007-06-02
 先週から今週にかけても、ヤンキースの低迷は続いています。特に痛かったのは、先週末のエンゼルス戦に三連敗したことでした。実は、このエンゼルス、緻密な心理戦の司令塔であるマイク・ソーシャ監督がその三試合のうち、土曜日と日曜日の二試合は「欠勤」していたのです。監督の代行はレーニッケ・ベンチコーチが務めていました。知将を欠く相手にも負け続けたのですから、ヤンキースの不振はそれだけひどいということでしょう。

 さて、ソーシャ監督の欠勤の理由は全くの私用でした。ヤンキースのラジオ中継をしている名物アナの、ジョン・スターリングによれば、何でも息子さんが高校を卒業するので、その卒業式に出席するために遠征先からカリフォルニアに取って返したというのです。このように、重要な職にある人間でも、家庭内の私事を優先するというのはアメリカでは普通のことです。それは、家庭を仕事に優先する文化のためであり、有名人であればあるほど家庭人として立派な姿を見せなくてはならないという価値観のためでもあります。

 少々古い話になりますが、その昔に日本の阪神タイガースでプレーしたランディ・バース選手がお子さんの難病を理由に帰国し、そのまま解雇されるという事件がありました。解雇の背景には契約をめぐる問題があったようですが、あの当時の日本では「子供の病気を理由に職業という義務を放棄する」ことへの違和感が語られたものでしたが、アメリカの価値観からは全く当然のことだと思います。

 その意味で、ソーシャ監督の行動はアメリカでは自然だと思いますが、今回は少しニュアンスが違いました。ソーシャ監督は「家内からこの件だけは一切交渉の余地がないと言われた」というコメントを発表しています。これはソーシャ家の家庭内事情ということなのかもしれませんが、戦線離脱の言い訳に奥さんを使うというのは、こうした有名人の場合はあまり聞いたことはありません。「息子の卒業式に出ないと私が許さないわよ」という奥さんはアメリカでは多いと思いますが、少なくとも有名人であれば父親として「心から自発的に」行った行為として胸を張るのが普通であって、奥さんの強い姿勢を口実にするというのは少し妙です。

 またこのエピソードを紹介したスターリングのコメントも妙でした。「やっぱり、監督業とか、私のようなアナウンサーのような仕事だと、子供の卒業式への出席というのはなかなか大変ですよね、その意味で、マイク・ソーシャの判断というのはとても立派だと思います」というのは、良いコメントだと思いますが、何となく「自分の場合はダメかもしれない」と愚痴っているようにも聞こえました。

 小さなエピソードですが、仕事より家庭を大事に、立派な父親であることが決まったモデルだったアメリカ社会に変調が起きているのは事実です。忙しいストレス社会において、多くの人が「家庭よりも仕事を優先せざるをえない」という雰囲気が顔に出るようになってきている、そんな風に思います。これでは、まるでアメリカが日本のマネをしているようです。

 アメリカ人にとって、家庭を重視するのと同じように、自分の身体の健康を何よりも大事にするのは基本的な道徳とされています。風邪を引いたら周囲も上司も、とにかく休んで静養しなさいと言うでしょうし、本人も体調を崩してまで働こうという考えはあまりしません。ですが、例えば2004年のポストシーズンに「足のケガを応急手術で縫い合わせ」ただけのカート・シリング投手は「ソックスを血に染め」ながら投球して感動を呼びました。またつい先週ですが、松坂投手が体調不良をおして投球し続けたことにも、称賛の声が上がっています。そんな風に「健康を犠牲にして働く」姿が称賛されるということは、アメリカではあまりなかったことです。

 これは悪いことではないのですが、アメリカ人が「心から謝る」ことを始めたというのも、一種の社会の変調のように思います。例えば、ここニュージャージー州のジョン・コーザイン知事は、公用車で移動中に大事故にあって瀕死の重傷を負ったのですが、その際にシートベルトを着装していなかったことが明るみに出て非難を浴びました。

 全身に骨折箇所があるので、鎮痛剤が使えず激痛に耐えての治療から生還した知事に、非難を浴びせる方も浴びせる方なのですが、こうした非難に対して知事は「徹底して謝罪する」という姿勢を貫いています。「私のようになってはいけません。車の後部座席に座るときも、皆さんシートベルトを締めましょう」というメッセージが州内のTVでは何度も放映されましたが、絶大な権限を誇る州知事が、そこまで謙虚に謝るというのは、アメリカの過去の文化にはあまりなかったことのように思います。
 その「知事の徹底謝罪作戦」が実際に好感されているという話もあります。そうなると政治とは、有権者の移り行く気分を捉えてゆかねばならないコミュニケーション技術に収斂されてしまって、政策とか理念は二の次という感じもしてきます。ここでも、アメリカが日本の後追いをしているのではないか、そんな印象があります。

 有権者に対するコミュニケーション技術ということでは、ここへ来てそうしたコミュニケーションのテクニックを持った「タレント政治家」への待望論が出ています。現時点では「リベラルに過ぎる」ジュリアーニ候補と、「宗教的に主流でない」ロムニー候補の二人では「帯に短しタスキに長し」ということで、南部出身の俳優フレッド・トンプソンという人物に共和党の大統領候補としての期待が高まっているのです。

 トンプソンは『ロー・アンド・オーダー』という検事の活躍を描いたTVドラマシリーズで人気を博した俳優で、日本では映画『レッドオクトーバーを追え』で空母エンタープライズに乗艦の提督として主人公のジャック・ライアンの能力を見抜くという渋い役の方が有名かもしれません。そのトンプソンは、役者になる前は本物の検事や弁護士であり、また一期半ほど連邦の上院議員だったキャリアもあるのですが、今回の待望論は「役者としてのコミュニケーション能力」が主ということで、要するに「タレント候補」という位置づけに他なりません。

 勿論、アメリカにはロナルド・レーガンという巨大なタレント政治家が登場した歴史があります。ただ、レーガン大統領の場合は話術も巧みだったのには違いないですが、俳優組合に関与していた時代からカリフォルニア州知事の時代まで「タカ派」で鳴らした政治的なポジションがあり、タレントとしてのコミュニケーション能力だけを買われて祭り上げられたわけではないと思います。

 その意味で、今回のトンプソン待望論というのは日本の「お笑い芸人から知事へ」という「タレント候補」に近いものがあるとも言えるでしょう。実際のトンプソン自身は法曹や政治の経験があり、内容のない候補ではありませんが、その主張は穏健保守であまり新味はなく、あくまでジュリアーニやロムニーという「変わり種」では納得できない党員の受け皿という見方が一般です。

 この欄でも何度かお伝えしたように、気がつくと「アメリカが日本化している」というような現象が多く見られます。「少しでもレベルの高い大学へ」という過熱した進学競争、拡大する労働時間、ケジメのなくなった小売店の祝日や深夜の営業、理念より時代の空気に左右される政治、結婚しない若者、カップル文化の弱体化……そうした現象は社会のあちこちで見られるようになりました。

 教育の関連で言えば、英単語のスペリングの暗記を競う「ビー」という子供のコンテストが流行しているのも象徴的です。この「ビー」というのは昔からあったのですが、これを題材とした映画が何本も作られ、多くの大会がTV中継されるというのは今までにはなかったことです。ある種、日本の「漢検」ブームと同じ現象です。言語というのはコミュニケーションのツールであって、その表記の正確性だけを取り出して競うというのは、言語の学習への興味を持たせる間接的効果以外には、言語本来の技能向上とはあまり関係はないのです。いかにも「教育熱心な親」が熱中しそうなこの手のコンテストが流行るというのは、本質的な意味でアメリカが「人を育てる」力を失いつつある証拠と言えるでしょう。

 文化の面でも、時代は変化しつつあります。子供向けアニメの老舗であるディズニーは、すでに「健全な家族向けのアニメ映画」を定期的に制作するのを止めています。その流れを作ったのは『シュレック』などの「価値破壊すれすれアニメ」を子供に見せたがる新しい世代の親の登場でしょう。善悪二元論が大人の社会からなくなったのは成熟かもしれませんが、幼い子供向けのアニメにも「価値の相対化」という複雑なメッセージを混ぜるのは、これもある種の「日本化」ではないでしょうか。その『シュレック』はパート3が公開されて大成功を収めているようです。

 芸能の関係でいえば、パリス・ヒルトン騒動にしても「アメリカン・アイドル」のブームにしても、芸能人として人気が出るためには、その時代の気分に乗ることが大切で、本当の実力は二の次になっています。元来はパフォーマンススクールなどで演技や歌唱の基礎を身に付けた人間だけで支えられてきたアメリカのエンターテインメント産業も、ここへ来て日本に似てきているようです。

 もしかすると、トンプソンが本格的な選挙運動を始めると意外な支持が集まるかもしれません。仮に共和党の大統領候補の座を射止めたとして、本選でも健闘するかもしれないのです。「言葉の巧みな穏健保守」の前では、女性や黒人という民主党候補を選ぶ気持が鈍る、そんな雰囲気が中道層には出てくるかもしれないからです。