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記者の目:殺人の公訴時効廃止、法改正の前に=石川淳一

 殺人など凶悪・重大事件の公訴時効見直しを議論した法相の勉強会が「殺人罪の時効廃止」の方針を表明した。勉強会を始めた当初から法務省内には消極論が少なくなかったため、明治期以来の時効制度改革に踏み込んだことに私は驚かされた。時効が迫る殺人事件の遺族らの悲痛な叫びが世論を突き動かした結果といえる。一方で、国が悲惨な殺人事件の遺族を救済しようとするあまり、殺人以外の事件の被害者施策や、犯罪抑止といった刑事政策のバランスに目が行き届いているのかどうかという点で疑問が残る。刑罰法制のバランスは、社会秩序を守る意味で非常に重要だと考えるからだ。

 時効廃止の方針が出た後、殺人事件の被害者遺族、小林賢二さん(63)に話を聞いた。上智大4年だった次女順子さん(当時21歳)は96年に命を奪われ、犯人は捕まっていない。事件当時、私は同じ大学の同じ学年で、面識はなかったが大きな衝撃を受けた。「法律だから(時効になると)あきらめないといけないのか。理屈抜きに何とかしなければ」。そう考えた小林さんは昨年9月、時効廃止に向け活動を始めた。その思いを聞き、遺族に時効という概念を押しつけるのは酷だと痛感した。被害者や遺族の苦しみは癒えることなどないのだ。

 英国には時効の概念がなく、米国もすべての州法で殺人に時効がない。殺人事件の時効廃止は決して特別なことではない。勉強会が結論を持ち越した、時効が進行中の事件でも廃止する「遡及(そきゅう)適用」も、実現しなければ今声を上げている被害者を救済できないため必要だと思う。

 それでも、バランスという視点に立てばどうか。今回の方針のポイントは、殺人罪を「例外視」したことにある。勉強会の報告書は「生命をあえて奪った犯罪は質的に異なるという国民の正義観念がある」と説明するが、殺人以外の罪については時効延長を検討しつつ「どこかで線を引く必要がある」との見解だ。

 07年に時効を迎えた強姦(ごうかん)被害を実名で告白する小林美佳さん(33)は「性犯罪被害者が、ますます被害者の中で置き去りにされる疎外感を覚えた」と感じている。美佳さんには同様の被害者からの相談メールが1年で1500件を超えたが、このうち警察に届けた人は10人ほど、裁判にたどりついたのはたった3人。あまりに多くの被害者が、被害を訴えられないまま一人、胸の中で時効を迎えている。こうした人たちには時効廃止とは全く別の施策も必要だ。

 一方で、交通事故の被害者団体は、交通死亡事件の時効廃止を訴えている。突然家族を失った悔しさや悲しみが根底にある。

 だが、人員や証拠保管の問題を背景に、事件が長期化するほど捜査態勢は縮小する傾向にある。日本弁護士連合会は「時効廃止で本当に被害者や遺族が期待する犯人検挙が可能となるのか」と疑問を投げる。04~07年に時効の成立した殺人事件は193件。この間、時効成立後に犯人が判明したのは3件に過ぎない。

 オウム真理教の事件を受けて被害者施策の重要性が叫ばれ、05年には犯罪被害者等基本法が施行され、改正刑事訴訟法施行で殺人罪が15年から25年に延長など公訴時効も見直された。刑事裁判への被害者参加や損害賠償命令、少年審判の傍聴なども法改正で制度化された。それまで被害者を「かやの外」に置いてきた司法を変えた意味で高く評価されるべきだが、これらの流れの中心にあるのはあくまで重大事件の被害者であり、必ずしもすべての被害者のために立法されたとは言い難い。

 被害者の声を受けた制度改正を、成城大の指宿信(いぶすきまこと)教授(刑事訴訟法)は「厳罰だけを是とする市民感情を取り入れた刑罰のポピュリズム」と指摘する。「被害者施策は『整った』のではなく『偏った』。一部の要求が実現したに過ぎない。施策が進んだというのは幻想」とも言う。

 厳罰化の流れの中で、市民の応報感情は立法作業に色濃く反映されつつある。それは国民の求めでもあり、自然な反応とも言える。私が指摘したいのは、被害者の声に押された形での立法を繰り返すのではなく、真に被害者全体を救済する広範な政策を進めてほしいということだ。

 声の上げられない被害者への対応。新たな事件発生を食い止めるための犯罪防止や、刑務所出所者の再犯防止を図る総合的な施策。迅速な検挙のための予算や法制度による捜査体制の強化。被害者への経済的、精神的ケアのさらなる充実--。法務省は早ければ今秋の法制審議会に刑訴法改正案などを諮問する。時効廃止という大転換を機に、こうした政策をはじめとする広範なテーマに視野を向けて議論を深め、あらゆる立場の国民に説得力の持てるバランスある制度を提示してほしい。(東京社会部)

毎日新聞 2009年8月21日 0時04分

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