TBS報道特集「カルデロンのり子さんは、今」
昨日書いた平沼さん記事の、「自民党再生へ」のコーナーの後、「心は日本人・強制送還の子供たち」という特集をTBS【報道特集NEXT】でやっていたので、記録しておきます。(青字はナレーション)
田丸氏「・・・続いては特集です。
親が不法滞在だった為に、フィリピンへ強制送還となった子供達を取り上げます。
日本に生まれ、心は日本人として育ちながら、見たことものない祖国に送られた子供が、その後どのように生きて、何を思っているのか、あまりこれまで伝えられてきませんでした。
また、両親と共に日本に残ることを望みながら今年の4月、両親が国外退去。一人だけ日本に残ることになったカルデロンのり子さんのその後も併せてご覧頂きたいと思います。」
-VTR-
フィリピンのルソン島の港町オリオン。海岸で地元の子供達が遊んでいた。
その中にタドタドしい日本語を話す少年がいた。名前はマヌエル(13)。弟のオーランド(12)。二人は3年前、日本から強制送還された。
マヌエルの一家は祖父母の住む小さな家に身を寄せている。ここに来た頃、マヌエル兄弟は日本語しか分からなかった。だが今はもう口をついて出る事もない。
すぐ近くの海で取れた魚。
手掴みで食べる。この地方ではよく見られる食事風景だ。
だが最初は手で食べることに抵抗を感じ、ほとんど何も食べられなかったと言う。
マヌエルは日本生まれ。横浜の幼稚園と小学校に通い、友達に囲まれて育った。
だが、小学5年生の12月、両親の不法滞在を理由に一家全員強制送還された。その時まで両親が不法滞在である事を知らなかったという。
マヌエル「学校でドッジボールしてたら、お母さんが来て『帰らなくてはいけない』とそのとき初めて知りました。。僕の中の日本や横浜が消えるようで、悲しかったです。(日本語吹き替え)」
マヌエルは家から歩いて5分程の小学校に通っている。
小さな子に混じって、一際背の高いマヌエルが目立つ。
日本にいれば中学2年生のマヌエルだが、今は小学3年生のクラスにいる。同級生は5つ年下だ。
この日は英語の授業が行われていた。フィリピンでは小学校から英語を学ぶ。マヌエルは英語やタガログ語が分からない為に、小学1年のクラスからやり直したという。
だが、算数の時間になると退屈そうな姿を見せた。13歳のマヌエルにとって3年生の授業内容は簡単すぎるのだ。
担任「授業中、退屈していることがあるので早く進級させる必要があるんですが・・」
学校から帰宅後、殻のペットボトルを持ち、兄弟揃って出かける。
家に水道が無い為、往復1時間かけて飲み水を汲みに行くと言う。
父親の現在の収入は1日200ペソ(約400円)、日本にいた時とは比べ物にならない。
マヌエルが突然、涙を見せた。
-CM-
3年前、日本からフィリピンに強制送還された13歳の少年、マヌエル。5つ下の同級生に囲まれて学校に通っている。
自宅でマヌエルが突然涙を見せた
母親がマニラに出稼ぎに行くと言う。
父親の収入だけでは食べていけないからだ。マニラまで車で4時間、母親と次に会えるのは何ヶ月先になるの分からない。
部屋の片隅に大切にしまっている物がある。
強制送還の直前、小学校の同級生から贈られた寄せ書きだった。
マヌエル「寂しくてたまらない時、これを見るんだ。これを見ると、これを見ると、元気がわいて、勇気が出てくる。(日本語吹き替え)」
首都マニラにも、日本から強制送還された子供がいる。日本の小学校の校歌をまだ覚えていると言う。(校歌を歌う)
10歳のアンマリ、フィリピンに来たのは2年前。まだ小学2年生だった。
彼女にとっては突然の強制送還。丁度夏休みのさ中だった為、同級生に別れの言葉も言えなかった。
アンマリ「忘れられなくて、みんなが忘れても、私は絶対に忘れなくて、忘れたくない、、」
日本への思いを胸に、強制送還された子供達。その数は明らかにされていない。
そうした存在に光が当たるきっかけとなったのが、
フィリピン少女、カルデロンのり子さんの問題だった。
在留資格を認めるべきか大きな議論となったが、今年4月両親だけが強制送還された。
のり子さんの生活の面倒は、日本人と結婚した在留資格のある、母親の妹がみることになった。
次に会える日はいつになるのか、約束も出来ないまま親子は別れた。
それから3ケ月経った今年7月、のり子さんは14歳になった。
友達に囲まれ笑顔を見せる姿は以前と変わらない。だが、寂しさに耐えかねて夜、親友の家に『泊めてほしい』とたずねて来たこともあったという。
親友「すぐにお腹を壊したりだとか、ずっと頭痛いとか言ってたりして、のり子ちゃんの中では、悲しいのとか苦しいのとかいっぱい詰まっていそうな感じでした。」
のり子さん「すごい寂しいけど、その寂しいっていう気持ちをがんばろうっていう気持ちに変えていましたね。つらいけど、でも、頑張らなくちゃいけないって思ってました。」
フィリピン・マニラのトンド地区、低所得者の多い地域で路上には仕事のない人達や、いわゆるストリートチルドレンが溢れる。
強制送還されたのり子さんの両親は、この町にいた。
母「ちょっと痩せたね。」
父「うーん、やせたね。」
預かってきたのり子さんの写真を見せた。父のアランさんは、すぐにでも娘に会いたいが、まだ仕事すら見つかっていないと話した。
父「だから、のり子にはそういう今のうちの状態は見せたくない。余計の心配がかかっちゃうから。」
貧しいフィリピンの現実も今は見せたくないという。
強制送還後、生活に困り、居場所を転々としている子供がいる。ルソン島中部、アンヘレス市。
路地裏の奥にある長屋から少年の顔が覗いた。
Q.この中でデニス君は?「おれ」
名前はデニス13歳。電灯が一つしかない薄暗い家に母親と兄弟5人で暮らしていた。日本から強制送還されて2年半、忘れかけていたという日本語でこう訴えた。
デニス「日本に戻りたい。あっちで学校したい。ここじゃない。ここやだ。」
デニスはフィリピンに来て何度も不登校になったという。言葉が出来ないために、小学1年生のクラスから、やり直しになり、年下の子にからかわれたからだ。
デニス「へたくそ、読めない、ハポン(日本人)。。。僕と同じように日本から来てタガログ語が出来ない子と一緒に学校に通えたらなぁ・・・」
フィリピンで自分の居場所を見つけられないデニス。しかし日本でも孤独だった。日本で生まれ、横浜で育ったが、不法滞在の発覚を恐れた母親はデニスが8歳になるまで学校に通わせず、出生届を出していなかった。
NPO「出生届を出さないということは、もちろん無国籍状態でしたから"存在しない"ですよね。つまり"存在しない"子供達だったわけです。」
外国籍の子供達を支援するNPOが、母親を説得し、デニスは小学3年生から初めて学校に入った。
ところが、わずか3ケ月ほどで不登校になってしまう。
日本語の日常会話は出来るが、読み書きができず、授業にもついていけない。同級生とケンカをしても上手く言い返す事が出来なかった。
そして遂にデニスの感情が爆発した。(NPOの人が、椅子を倒して、本を引っ張り出して、ゴミを撒いて"これが僕の気持ち"だとデ゙ニスが当時訴えたという話)
日本でも、そしてフィリピンでも言葉の壁にぶつかったデニス。部屋の奥に大切にしまい込んでいたのは、日本にいたとき履いていた靴。今はもう小さくなり履けなくなっている。
デニス「捨てない・・思い出。」
"いつか日本に戻ってサッカー選手になりたい"デニスはそう話した。
8月13日フィリピン、マニラの空港で足早に歩く、一人の少女の姿があった。
出迎えたのは、父・・・そして母。
強制送還から丁度4ケ月。カルデロンのり子さんは、両親と再会した。
(CMへ) つづく・・・
長くなったので、後半に持ち越しまーす。
のり子さん、フィリピンに夏休みに二週間行ってたんですねー
TBSは、特番やる気マンマンかな~・・・
私も一応、人の親なので、子供達は本当にかわいそうだと思いました。
ここまで見てて、疑問に思ったのは、不法滞在外国人の子供でも、普通に小学校に入れる事。
デニス君の件でNPOは、母親の不法滞在を知ってて、その子を小学校に行かせるようにしたのは一見、美談に思いますが、時が経てば経つほど、強制送還された子供達にフィリピンでの生活は、すごい酷だなぁと思いました。
| 固定リンク
「TBS関係」カテゴリの記事
- 平沼さんから見た、自民党の再生(2009.09.12)
- TBS報道特集「カルデロンのり子さんは、今」 その2(2009.09.14)
- TBS報道特集「カルデロンのり子さんは、今」 (2009.09.14)
- ニッポンの時期総理とファーストレディー 画像その2(2009.09.02)
- ニッポンの時期総理とファーストレディー 画像その1(2009.09.02)
コメント
ここで出てくる子供たちは親の犠牲者だと思います。子供たちに罪がないのも本当によく分かります。でも親が犯罪を犯していた。
コレを見逃してしまう日本にも問題があると思います。日本がとにかく法律の抜け道作りすぎ!!
投稿: とも | 2009年9月14日 (月) 10時37分
●とも 様
見てて、子供達がすごいかわいそうだったんだけど、
かわいそうだけじゃ済まない大問題だよね~
親が悪いんだけど、一番悪いのはフィリピンの貧困だ。
と言っているような番組でした。
まっ事実そうなんだけど、地球上のかわいそうな人達を全部助けてたら、日本がもたないです。
やはりここは、法律に厳格に、「早く」国外撤去しかないと思いました。
子供が大きくなると、順応性が低くなるから不幸すぎる・・
投稿: さくら | 2009年9月14日 (月) 11時12分