時計の針は午前3時を回っている。東京都三鷹市に住むアニメーターの加藤弘樹さん(28)=仮名=は、15時間続いた仕事を終え自転車で家路に就いた。2週間以上休みはなくペダルを踏む足にも力が入らない。自宅近くの駅前に自転車を止めると、同僚の吉岡浩治さん(27)=同=と一緒に記者が待つ飲食店に入った。
「1200円のカットを描くのに2日かかったよ」。食事をしながら愚痴をこぼすと、吉岡さんが肩をすくめてこう応じた。「群衆が走ってくる2400円のカットに1週間。時給にしたらいくらだよ……」
衆院選から8日後の未明の情景。政権交代を決めた民主党が「国営漫画喫茶」「アニメの殿堂」などと皮肉った「国立メディア芸術総合センター」は建設凍結が確実視されるようになっていた。
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加藤さんは子供のころ、「機動戦士ガンダム」「風の谷のナウシカ」などの名作に夢中になった。大学サークルでもアニメを自作し、絵を描くことで稼げる仕事にあこがれ、05年、東京の私大を卒業して業界に入った。動画の元絵を描く「原画マン」として、1カ月のうち28日は鉛筆を握る。いつか自分の作品を世に出したい。そんな夢が自分を支えている。
だが、現実は厳しい。アニメ制作会社に机はあるが、正社員ではなく出来高制の個人事業者。年収わずか150万円程度の「ワーキングプア」だ。家賃6万円の木造アパートを仲間3人で借り、薄給をカバーする。職場にいる20人のアニメーター全員が独身という。
2人のように、技術のあるアニメーターに難しい仕事が回され、手間ひまがかかる分だけ収入が減る。単価の基準があいまいなため、こんな不条理がまかり通る。仮に制作費が3000万円あっても、広告代理店やテレビ局を経て仕事が下りてくる末端の現場では、数百万円まで目減りする。「『金が足りない』『時間が足りない』を人の努力でチャラにするんですよ、この業界は」。2人は割り切れない思いを抱いている。
職場では、センターのことなど話題にもならない。水を向けると加藤さんは「完成すれば、ついでに現場の苦労も知ってもらえるかもしれないけど、その日その日が精いっぱいの人間には関係ない」と、疲れ切った顔でつぶやいた。
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「余命二ケ月」。漫画家の卵のプジーリョータさん(25)=ペンネーム=は、深夜になると壁の張り紙を見ながら机に向かう。あと2カ月しか生きられないつもりになれば、早く作品を仕上げられる。著名な漫画家がそう言っていたと聞き、自分を奮い立たせるつもりで張った。
関東の国立大を卒業したが、漫画家のアシスタントとして働いても、稼ぎは月数万円しかない。イラスト描きや塾講師のアルバイトをこなして、月収はようやく13万円ほど。結婚など考えたこともない。
スーパーの総菜が割引される午後10時を狙って夜食を買い、古本屋や漫画喫茶で作品の構想を練る。雑誌で連載を持つことを夢見て六つの作品を仕上げ、あちこちの出版社に持ち込んだが、色よい返事はもらえなかった。
漫画界には、センターの必要性を訴える人もいる。プジーさんも、国際的な文化拠点にする狙いは理解できる気がした一人だ。だが、業界ではアシスタントの給料を漫画家が個人で負担することが多い。せっかく連載にこぎつけても、給料を払って100万円の借金を抱えた漫画家もいる。
民主党の公約通りセンターの建設が中止され、「子ども手当」や「高速無料化」が実現しても、漫画・アニメ業界を底辺で支える若者たちに恩恵はなさそうだ。
「業界の将来を考えるなら、センターの金で若い才能をサポートしてほしい」とプジーさんは願う。「クールジャパン」と呼ばれ、高く評価される日本のポップカルチャーの「殿堂」として構想されたセンター。その是非を巡る議論は続くが、底辺からの悲鳴は置き去りにされようとしている。【工藤哲、渡辺暢】
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■ことば
世界的に評価の高い日本のアニメや漫画、ゲームの収集、展示、情報発信などを行う拠点として、国が整備する文化施設。09年度補正予算に建設補助金117億円が計上され、今年8月に基本計画がまとめられた。民主党は「税金の無駄遣い」などと批判しているが、一部文化人らからは必要性を指摘する声もある。
毎日新聞 2009年9月13日 東京朝刊