麻生太郎首相は特別国会が召集される16日、役目を終えて官邸を去る。4度目の挑戦で首相の座を射止めた執念に加え、無類の漫画好き、明るいキャラクターで期待された「選挙の顔」は、失言や政策のぶれもあって失墜。先延ばしを続けた衆院選で歴史的惨敗を喫し、自民党長期政権の幕引き役をも務める無念の役回りとなった。
■太郎流 強気の船出
「きちんと政策についてメッセージを出し切ってきたか、真剣に反省せねばならない」
3日、最終号となった自身のメールマガジンで首相はこうつづった。国民への「発信力」を期待された存在だっただけに、皮肉な総括となった。
昨年9月の就任会見では、官房長官が発表するのが通例の閣僚名簿を自ら読み上げ、強力なリーダーシップを演出。〈私は決断した。国会の冒頭、堂々と私とわが自民党の政策を小沢代表にぶつけ、その賛否をただしたうえで国民に信を問おうと思う〉。同時期に月刊誌に寄稿した論文で、小沢一郎民主党代表(当時)に“宣戦布告”した。
就任直後の内閣支持率は48%。折からの世界的経済危機に直面し「政局より政策」と冒頭解散は見送ったが、得意分野と自負する外交と経済対策に政権浮揚をかけた。
11月の金融サミットでは各国首脳に国際通貨基金(IMF)への資金拠出を提案し「国際社会の流れをつくった」(外務省筋)。12月には地元福岡に中韓両国の首脳を招く。支持率低迷は続いたが「まだ戦える数字だ」(首相周辺)と強気を崩さなかった。
■上から目線で悪化
ただ、「持ち味」のはずだった毒舌が、徐々に影を落としていく。
就任から約1カ月。ほぼ連夜、側近と高級ホテルのバーに通っていることを、記者団の取材で指摘され、「ホテルのバーは安くて安全」「高級料亭、毎晩みたいな話で作り替えてますけど違うだろ」と気色ばんだ。
「たらたら飲んで食べて何もしない人の分の金(医療費)を、何で私が払うんだ」(11月20日、経済財政諮問会議)「目的意識がないと雇う方もその気にならない」(12月19日、ハローワークで職を探す若者に)
周辺は「首相は実は情が深い。弱者への目配りもする」とかばうが、度重なる失言は「上から目線」に映った。
加えて「未曾有」を「みぞゆう」と読むなど漢字誤読がメディアで何度も取り上げられ、イメージ悪化は加速する。
原稿にルビを振り、秘書官の前で音読するなど事前点検が図られた。官邸内では外部アドバイザーを雇ってメディア戦略を練り直す案も検討され、近い議員からは「記者とけんかしても仕方がない」と忠告された。
しかし、首相が耳を傾けたのは、総務相時代から信頼する側近官僚のこんな助言だった。「マスコミなんて勉強不足でいいかげん。相手にする必要はない」
■不祥事、内紛が痛撃
「選挙に勝てる時期」を探る中、要所要所で「盟友」の不祥事が打撃を与える不運も重なる。
今年2月、中川昭一財務相が先進7カ国財務相・中央銀行総裁会議の後、ろれつが回らない状態で記者会見に臨んだ。「もうろう会見」の映像は海外に波紋を広げた。
10%台に落ちた支持率は、3月に小沢氏の秘書が政治資金規正法違反容疑で逮捕されて一時回復したが、5月には鴻池祥肇官房副長官の女性問題が発覚。日本郵政社長人事をめぐる鳩山邦夫総務相更迭劇が続き、党内の「麻生降ろし」をしのいで踏み切った7月解散は最後の意地だった。
衆院選は、第一声を自ら「おわびの言葉」で始め、保守層に「政策を実行する責任力」を訴えたが、説得力を持ち得なかった。
「この1年、パジャマで過ごした休日は4日だけ」(周辺)。激務で体重も減った。通算7年間首相を務めた祖父・吉田茂氏を常に意識し、安倍晋三、福田康夫両氏のような「政権投げ出し」こそしなかったが、「果断さ」は示せなかった。
「昨年秋に衆院選をしていたら、こんなに負けていなかった」。9日、官邸を訪れた知人にそう語った首相。自らの判断に対する悔恨か、既に崩壊過程にあった自民党を背負った達観か‐。
11日夜、ひっそりと公邸から退去し“開城”準備を整えた。満たされぬ思いは、党再建に生かしてこそ果たされる。
=2009/09/14付 西日本新聞朝刊=