「昭和の防人とその妻たち」から
齋藤茂吉が「戰場の短歌」「戰地の歌」「支那事變の歌」「事變短歌」等の時評文に抄出しておいてくれたものに據つて、昭和の防人達が詠んだ歌の(數量的にはほんの一斑ですが)いくらかを顧みておくことにします。
先づ戰闘現場の生々しさを、實體驗の嚴しさによつて如實に捉へ得た類の作、
敵の陣ま近に見えて彈著(着)のいささかの差異を惜しみつつをり
(篠原高三)
突撃令の瞬間に壕を躍り出づ生き死にはなきまさにうつつに(上稻吉)
馬倒れともに倒れし中隊長は起きあがり軍服の土を拂へり
(鈴村左兵衞)
かたはらに敵の砲彈の跡深し身をかたむけて走り入りたり(秋山正夫)
機關銃の吐く氣するどし麥の穂は切れて礫の如く飛ぶなり
(朝日奈儀一)
砂丘のかげに籠れる敵なれば姿は見えず身を過ぎる彈(酒井充實)
戰友は伏射壕より横伏せにゆばりして居り彈丸ふるなかに(菰淵正雄)
戰闘中に負傷して倒れた時の一瞬の記憶を素早く詠ひ留めた、といふ作もあります。
崩れたる城壁の上に日の丸をちらりと見しが擔がれてゆきぬ
(廣澤眞砂三)
「戰死」といふ事實を題材とした歌も、戰友の死を悼む立場と、明日の我身と覺悟する場合と、又ある客觀上の現象と見る心境と、視點は樣々ですが、當然多く詠まれてゐます。
戰死せし若びとたちの背嚢に土産の品も買ひためてあり(田中武彦)
壕のうちに蚊をころしつつ明日ありと思はぬために日記をしるす
(石毛源)
艦速のとどろくなかに銃劍を研ぎすますあり遺書を書くあり
(伊藤善吉)
このあした聲さへ立てず斃れたる戰友の頭の遺髪摘むなり(渡村三夫)
殪れたる戰友をまつりて泪は落つ晩香玉花の勾ふ夕ぐれ(神崎與三郎)
顔剃りて昨日たちゆきし戰友三人むくろとなりてここに葬る
(上原吉之助)
夕かげの木下に友を埋めしが夜半思ひつきて鐵帽を載す(青山星三)
夥しい死はもちろん皇軍を襲つただけではありませんでした。日本軍は局部戰闘の上では概して勝ち戰を闘つたのですから、敵方、中華民國軍の死の痕跡を目撃することも多かつたのです。日本人は支那人民に對する國民的憎惡に燃えて戰つたといふ樣なところは全く無く、東洋の平和を築く爲に、その理想を妨げる一部の惡意と戰ふのである、との教育を受けてをりましたから(大東亞戰争中の米軍の如くに一人でも多くの敵國民を「殺せ」といつた使嫉は受けたことがありませんでした)、敵味方を問はず、死者に對しては常に憐憫と哀悼の情を以て對してゐたのです。占領した敵陣での囑目、
照準つけしままの姿勢に息絶えし少年もありき敵陣の中に(渡邊直己)
辛苦に堪へ敵も戰ひ居りつらむ屍を見ればいづれも痩せたり(今村憲)
むくろ竝めここの守りに斃れしは學生隊か年まだ若き(美禰國樹)
少しく注目に値するのは次の如き目撃を詠じた作です。
塹壕に共産主義のビラのあり姑娘兵の屍生々しくて(加藤實雄)
女性兵士が塹壕戰にまで驅り出されて命を落す例もあるとは、日本兵の眼には確かに異樣に映つたでせうが、この作者はもう一つ、共産主義の宣傳ビラに眼を留めたのです。日本内地に居る限りその樣な認識を持つ機會などなかつたであらう素朴な兵士達も、大陸の前線に來て初めて、國民黨軍の背後に居る共産軍の禍々しい存在を知つたのでした。
部落の井戸ひとつ殘らず潰したる共産軍は何目論むか(村石波之助)
(著者が著者權所有。無斷轉載を禁じます)
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