牧水には『櫻・酒・富士』といふ何とも長閑な題名の歌文集がありました。この三つのものが、彼が生前に深く愛した悦樂の對象なのですが、常然これが又多くの彼の短歌の傑作が生れた三つの主題でもありました。それに更に、生涯に亙つての痼疾であつた旅行癖と彼の歌人としての經歴の踏み出しを決定したものであつた不毛な戀と、この五つの主題以外は大凡彼の人生の餘白の樣なものだつたと言へさうです。尤も餘白には餘白なればこその貴重な味はひ(例へば靜かな家庭生活の安息を詠じた歌など)があることも又確かですが――。
『平成新選百人一首』では牧水については、その不幸な戀の記念である(白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ)を採りました。その同じ戀の體驗から、
    海哀し山またかなし醉ひ痴れし戀のひとみにあめつちもなし
    夜半の海汝はよく知るや魂一つここに生きゐて汝が聲を聽く
    かなしげに星は降るなり戀ふる子等こよひはじめて添ひ寢しにける
と歌はれてゐる、その連作を讀んでみると、作者は戀人と共に房州の海岸のとある村里に滯在して靜かな旦暮を過してゐるらしい、即ち戀は遂げられてゐると思はれるのに、何がそんなに哀しいのか、と不思議の樣な氣がします。
         中  略
 ただ普通に入手できる牧水の歌集の戀の歌だけを拾つてみても、大學卒業の前後數年間に亙つてゐた牧水の熱烈な初戀が甚だ痛ましい經過を辿つて終つたらしい樣子は大凡窺ひ見ることができ、讀者は或いはそこに踏み止まつてあとは想像に委ねる、といふのも一つの讀み方かもしれません。その戀の痛ましい末路は、例へば、
    見かへるな戀の世界のたふとさは揺れずしづかに遠ざかりゆく
    世に最もあさはかなればとりわけて女の泣くをあはれとぞ思ふ
    山奧にひとり獸の死ぬよりもさびしからずや戀の終りは
    女ひとり棄てしばかりの驚きに眼覺めてわれのさびしさを知る
といつた作に沁み出る樣に詠はれてをりまして、いはゆる若氣の至りの過ちといつた事情もいろいろとあつたらしいのですが、何とも痛ましい氣がします。ただこの戀の痛みから逃れようとして信州小諸の旅先で自らの傷心をいたはつてゐる時に、
    かたはらに秋ぐさの花かたるらくほろびしものはなつかしきかな
    白玉の齒にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飮むべかりけり
の如き不朽の名作が生れてをります。前者は〈小諸なる古城のほとり〉なる懷古園に戰前から歌碑に刻まれて親しまれてゐました。
 牧水の旅の歌で最も有名なのは、これも言ふまでもなく、
    幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ國ぞ今日も旅ゆく
であり、この歌は何となく中年期の諦觀と、從つて或る種の老成に近い歌柄を感じさせますが、實は出口の見えない戀の闇路に行き惱んでゐた時期のものでして、從つてこの〈寂しさ〉は決して芭蕉のそれの如くに「枯れた」旅情ではない、滿たされない戀の痛みからくるものなのです。ですからこの歌が生まれたのと同じ時の山陽道の旅路では、
    旅ゆけば瞳痩するかゆきずりの女みながらは美からぬはなし
と詠つたりもします。男ならばその氣持はよくわかるのですが、それを口に出すのは少々けしからぬ樣な氣もするのです。しかし一方やはりその時の旅で、
    白雲のかからぬはなし津の國の古塔に望む初秋の山
といつた爽やかな繪畫的秀作が生れてゐるのをみれば、牧水はやはり天成の歌人であつたと感嘆するより他ありません。