『定家』といふ能があります。金春禪竹作とされてゐるものですが、その中では(式子内親王始めは賀茂の齋きの院にそなはり給ひ、程なく下り居させ給ひしに定家の御忍び忍びのおん契り淺からず)といふことで、要するに『新古今集』の代表的撰者であつた定家と、集中女性では第一位、斷然多くの歌が入集してゐる式子内親王は戀人同士であつた、しかも比較的早く逝かれた(四十八歳くらゐ)内親王のお墓には、定家の執念が定家葛と呼ばれる蔓草となつてからみついてゐる、といふ如何にも夢幻能にふさはしい妄執物の一番なのですから讀者としては大いに氣になります。
式子内親王は後白河院の第三皇女で、賀茂の齋院として奉仕されてゐた高貴の御身分、且つ母方の血を引いて非常な美貌の持主であつたとされながら、世間的にはどうやら薄幸の生涯を送られたらしい。それでゐて、確かに鎌倉初期の第一級の女流歌人であつたことは後鳥羽院の口傳にも寸評ながら證言されてをります。濁身で終つたらしいのに、激しい情熱の迸る樣な戀の歌を遺してをられるので、その歌の師であつた俊成の子息定家との間の戀が後世人の想像によつて「ありうる話」として作られたのかもしれません。その戀に多少とも現實性があつたとすれば、十歳近く年下である定家の方が、身分と教養の點で仰ぎ見る樣な存在であつたこの年上の美女に慕ひ寄つたのが實體だつたのでせう。『平成百人一首』ではその纖細にして純眞な美の表現での代表作ともいふべき、
山深み春とも知らぬ松の戸にたえだえかかる雪の玉水
が採られましたが、内親王の歌には純眞な清潔さと同時に、それを裏切らない樣な形での或る種の微妙な官能性が漂つてゐるのが特徴なのです。例へば「夢」とか「うたたね」とか「枕」といつた詞をちりばめた歌の中に不思議にも讀む者の感覺にまとひついてくる樣な佳作が多いのです。例へば夏の歌には、
忘れめやあふひを草にひき結びかりねの野邊の露のあけぼの
といふ歌は内親王が齋院として賀茂神社に奉仕してをられた時の作ですから葵が詠みこまれるのは極く自然ですが、〈忘れめや〉といふ脈絡で用ゐられれば(よく使はれる些細な技巧ですが)やはり「逢ふ目」との二重の意味が含まれることになり、〈草にひき結び〉といふのも、在原業平の〈枕とて草ひき結ぶこともせじ……〉に連想が走りますから、これは艶なる舞臺装置を暗示するのです。そこに何か甘美な情緒が暗默のうちに漂ひ、まさしく定家好みの象徴詩風の効果が生じてきます。
中 略
秋の歌にはほんたうに美しい名吟が多々あります。
うたたねの朝けの袖にかはるなりならすあふぎの秋の初風
この〈うたたね〉しても〈秋の初風〉にしても、又、一夜にして風が變り、眼がさめてみれば今朝は秋、といつた發想にしても、いはば新古今風の常套句であり發想ではあるのですが、内親王の詩心にかかるこの組合せによつて他に類の無い名品と化してゐるのが不思議であります。なほ〈ならす〉ほ「馴らす」であり、使ひ馴れた、手馴れた、の意味ですが、自然「鳴らす」と懸けてよめますので、ここでは作者がなほ少し暑さの殘る秋の朝にゆつたりと扇を使つてゐる姿が想像されます。しかし、さうして煽いでみれば肌にふれる空氣の動きはもう秋の風だ、といふ季節のうつりの微妙な一瞬間をすばやく詠ひ留めた一首と見ることができます。
中 略
式子内親王の秋の歌をもう二首引きますと、
秋の色はまがきにうとくなりゆけど手枕馴るるねやの月かげ
千たびうつ砧のおとに夢さめて物おもふ袖の露ぞくだくる
といふので、ここでもやはり不思議なことに作者の手枕や夜更けの寝姿がそれとなく映し出されてゐることに注意が惹かれます。それは決して(和泉式部の如くに、と言つてしまつては式部に失禮でせうか)しどけない姿態といふわけではなく、むしろ何か淋しげな、品のよい女性の一人寝の姿に違ひないのですが、青年時代の定家卿ならずとも、忍んで訪れてみたい樣な、かすかに男の心を唆る艶の匂ひがあります。